2017年10月20日

ヘアの流用=2017/11/11

 『人倫形而上学の基礎づけ』中の行文「目的を遂げようと意志する者は(理性が彼の行為に決定的影響を及ぼすかぎり)、おのれの意のままになるなら、目的の達成に必要欠くべからざる手段をも欲する。この命題は、行為者の意欲にかんしては、分析命題である」(『人倫形而上学の基礎づけ』AA.4,S.417.=七:四八頁)に注目しよう。幸福は「すべての人間がもつ自然目的」から、道徳法則との並立の可能性を追求してゆける。〔なおその文脈で『実践理性批判』の「理性的自愛」/『宗教論』の「道徳的自愛」を媒介にして、道徳法則下の幸福に定位できるであろう。〕例えば幸福追求の自明なことは、「思慮の命法」弁護[=Verteidigung]上に見られる、 〈神聖なる意志の論理〉ということになる。仮に神聖なる意志が動因化の原理だとしたら、それをもった完全な理性的存在者は、必然的に善い行為を行うから、命法の問題とはかかわりをもたない。「神聖な意志には、命法というものが妥当しない。つまり、するべきという言葉はここでは場違いなのである」(『人倫の形而上学の基礎づけ』AA,4,S.414.=七:四三頁)。ここで論じられるべきは、動機が原則と必ずしも一致しない人間にとっての道徳の問題である。選択意志においては、原則に背きうるにもかかわらず、否それゆえにこそ、人間にとって意味をもつ原則が、問題とされなくてはならない。それは、道徳教育や人格形成において役立つのであり、そのためには直観的な簡明さを維持していなくてはならないが、より豊かな熟慮をくぐりぬけて、陶冶されなくてはならないのである。ヘアを流用すれば、
「これで、なぜ他のものが一見自明な〔直観的な〕原則より優越する〔その原則が他のものに屈服する〕可能性がなければならないのか――つまり、ある特殊な事例ではその原則に従(ママ)わないにもかかわらず、なぜその原則を持ち続けることが可能なのか――という理由が十分に説明される」 (ヘア.R.M.著/内井惣七+山内友三郎監訳,一九九四年,八九-九○頁)。

だから、最善の欲求・意図にとって汎通的な〔それが熟慮を経るということである〕直観より有利に立つ原則が選択される。かくて統合性をみたしつつ、反省的な原則は「優越」しうる。
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2017年10月15日

予定

10月は出張準備。
11月は報告書執筆。
12月は非常勤の予習。
1月は宮澤賢治論。・・・トンネルは長い。
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2017年09月30日

倫理・落穂ひろい=2011/11/7

・倫理学会発表前・落穂ひろい
・非快楽的-帰結というものはありうる・・・しかしながらそうした帰結が、動因化されていない場合、帰結主義と呼びうるだろうか。人倫の形而上学の基礎づけにおける、傾向性・傾向性の動因からの排除。もとより動因化される帰結をカント主義以外の場合、理想として認めうる。もしくは三重の普遍性。??
・自分の喜びをもとめない利他主義、これは理想を有意化しない利他主義と理解しうるが、自分を含めた財の最善の状態の実現を動因とするものである。あくまで隣人愛的に理解することも可能だが、人間学的にはそこに自己愛が介入せざるを得ないのではないだろうか。シュタルク〜ロールズ路線。
・真正に利他的ではなくても、純粋な利他主義というものは存立しうる。たとえそれが自己満足から推移するものであっても、不純な利他主義の純粋形態と重なることはまれである(単なる自己満足には留まらない。人倫の形而上学・岩波11巻、257ページ)。むしろ特定性をつうじて、純粋な利他主義に接合しうる。
・カントの観念性は、財定位の帰結の排除としては至言である。しかし、理想定位の帰結に定位していることにはならない。ちなみに自由という可能性は、理想という帰結を自己のトポスでエスカレイトさせることによって、自律を「動機」づける。
・センは広い帰結主義を、むしろ推奨しているのではないか。行為者相関的モラルの可能的判断(中立性をもたない)にしろ、帰結・不変項を想定することで、帰結主義に統合されているのではないか。要検討。
・ジムの例は、生死の人数だけを捨象している。記述の貫世界的同一性を論じなくてはならない。当然、機会集合の話が入ってくる。
・自己善とは、理想という帰結を、厚生主義的見地と関わりなく、推奨する立場である。平等主義は功利主義的厚生主義とそりが合わないので、自己善のなかに収められる。自己利益性と同時に、整合性を含む。規範的な正当化。
・自己善は俗人道徳である。相の転位。統合性は、純粋な利他主義が、やむをえなく認める要素である。
・ウィリアムズの例の行為主体相関性は、ポジション依存的客観性に包摂できる。普遍化が可能な所以である。
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2017年09月17日

自己に対する義務・カント=2017/11/4

 ヘアによれば、「普遍化可能性」とは、価値判断を同種な場合すべてに拡張できることであり、単に、論理的整合性・ないし無矛盾性を説くものではない。それは、以下を要諦とする。
それが普遍的法則であることを意志することは、関係者によって演じられている役割が逆転してもそれが適用されることを意志することを含んでいる。(ヘア著『自由と理性』311ページ)

役割の逆転は「他者の立脚点」へと自己を移し置くことではじめて可能である。
 これに対して、加藤泰史は1992で次のような、批判を加えている。そこで登場する他者は私によって創造された他者でしかなく、そうした他者でしかない、と。これを受け継ぐかたちで、「パースペクティブの転換」を独我論的限界を克服するべく、提出されたのが、「討議倫理学」ということになる。
 例えば、このことは、『判断力批判』の「常識の格率」の第二、「あらゆる他者の立場に自己自身を移し置いて考えること」によって裏付けられる。このパースペクティブの転換にあっては、他者のパースペクティブについての私の理解が、他者じしんの考えている内容と合致するかが、コミュニケーションによる吟味によって確かめられなくてはならないからである。
 「討議論理学」のプログラムにおいては、人格の相互承認という規範が、コミュ―ケーション的吟味において機能しなくてはならないとされる。すなわち、人格の相互承認の妥当することが有意味な論証の可能性の条件であり、規範定立主体は、必然的にその承認を認めてしまっている。いいかえるとコミュ―ケーションできるものは、人格の承認を前提にして、可能な規範の吟味・共有をすることができるのである。注:ともすればカント倫理学の普遍化可能性ということで「無矛盾性」なり、「原則への統合性」が基準とされる傾向にあったが、それに対する批判と見なしうる。・・・カントプロパーでは自己準拠で中央突破できると考える。これは疑問。
 しかるに加藤泰史の解釈によれば、こうした相互主観的な定位はカント哲学の原像を捉えていないとする。カントは、自己に対する義務を優位において考えたのであり、そのことは虚言禁止において顕著であるという。すなわち、虚言の禁止という自己に対する義務において、もしそれを侵すものは「自己」という場面において論理的な自己矛盾が見いだされるからである、と。
 加藤の引用するホッフェから引く。二○五-二○六ページ。
「約束をする人は自らに義務を課す人であり、利己的にあるいは功利主義的に抜け目のない思慮にもとづいて約束を守ることをそもそもしない人である。自己を義務づけることとしての約束は、・・・また約束という制度が一般に道徳的に擁護できるか、あるいはむしろ賭け事のようにみなされるべきかということにも関係しない。約束が自己を義務づけるということを意味するならば、故意に偽った約束は、義務を引き受けしかも請け負わないということを意味する。知りつつ意図して約束を守らないことの基礎には自己矛盾する格率があるのである。

・コメント 1)アンネを助けるため、嘘をつく人は、約束に関して守るべきことを知っていながら、守らないという自己矛盾がある。ただし、故意に偽った約束とはいえない側面もある。すなわち、約束に関して守るべき、という条件が、状況に即して、実質的な変更をともなっているときがある。そういう場合をおくのならば、功利主義と言えども、直観のレベル(ヘア)で嘘をつくべきではない。つまり社会的虚言の禁止が、コードとして教育を通して埋め込まれているときである。このときコードに反するということが、自己に対する矛盾ともなりうる。
2)意図の知として、虚言の禁止をいったん意図している限り・それを(コードの埋め込みにより)知っている限り、功利主義者と言えども嘘をつくべきではない。 
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2017年09月11日

賢治・フロイト

http://www.konan-wu.ac.jp/~nobutoki/papers/kenjiellis.html
 精神分析と賢治への影響については、上記HP参照。
フロイト「自我とエス」邦訳16頁。「内的知覚は、心の装置のきわめて深い層も含めてきわめて多様な諸層で生じた出来事について、さまざまな感覚を生み出す。それらの感覚についてはよくわかっておらず、その雛型といえるのは、一連の快・不快の感覚くらいのものである。それらは外部に由来する感覚よりもいっそう本源的で荒々しく、しかも、混濁した意識状態においても、感覚として成立することができる」。

 奔馬の比喩を参照せよ。リビドーはエスから供給される(力動論的構造=マグマと修羅)。
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2017年09月09日

岩手山・メモ

宮澤賢治・詩集「春と修羅」
 きたなくしろく澱むもの・・・とはなにか。雪ではない(賢治にとって雪は清浄)。おそらく気層の逆転により生じたコロイド状(?)の濃密な雲である。濃密は他との浸潤的共扼を意味しうるが、えぐられた火口との対比で言えば、微塵に散在しえない自我のネガが投影されている。負としての抉れ。ラツィオの欠損体。
 一つのイド=es。賢治とフロイト。
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2017年09月04日

新たな文献=2017/11/7

http://sougannosumeru.seesaa.net/article/411226998.html?1504472184
若干、pdfのリンクを貼り直しました。
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2017年08月31日

リッカートの因果帰属(承前)=2017/11/4

 Gr1:S.430-432の当該箇所についての補足。S,Σが佐藤の場合、歴史的個体であること〔Sは絶対的歴史的概念〕が確認されていない。また一般的要素が個別因果にとって本質的なものであることも見逃されている。〔S.432の言葉でいえば、論理的に偶然な資料欠損は反論とはならない。〕
 ただし、リッカートの定式化が完全と言うわけではない。α→aという図式は単純化しすぎている。ここで二つの解釈がありうる。@適切な十分条件、適切な必要条件のえり分けとしてピックアップを考えること。この場合、〔マッキーの〕原因とは結果にとって「十分だが必要でない条件の、必要だが十分でない条件」を、不完全ながら表現として理解しうる。信原幸弘、事典哲学の木の例では、マッチを擦ること、マッチが湿っていないこと、酸素が十分にあること等々は、火がつくことにとって十分だが必要不可欠ではなく、そのうちのマッチを擦ることは必要だが十分ではない部分と説明されている。このさいいくつかの原因要素の蓮言と、結果要素の蓮言との間に因果が成り立つのであり、α→aは「マッチを擦れば火がつく」という単純な場合しか妥当するまい。とすればAとしてS,Σとして、例えばS=フランス革命、Σ=バスチーユ陥落を考え、その中での火をつけたことにかかる因果連関、壁を壊したことにかかる因果連関それぞれをa→α,b→βとして考えるべきかもしれない。連言の構造は見えにくくなるが、民主的運動U→抑圧装置の解放Wという一般的概念に置換したときの図式となる。リッカートが考えていたものとしては、こちらが近いだろう。続きを読む
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2017年08月29日

リッカートの因果帰属=2017/11/3

 佐藤俊樹,2015,「十九世紀/二○世紀の転換と社会の科学―「社会学の誕生」をめぐって」内田隆三編『現代社会と人間への問い』せりか書房,328ページによるとリッカートの因果帰属が以下のようにまとめられている。
「結果にあたる歴史的な事象Wが個別的な概念Sにあてはまり、Sがa,b,c,d,eという一般的な要素から構成される、とする。また原因になりうる歴史的事象Uは個別的な概念Σにあてはまり、Σがα,β,γ,δ,εという一般的な要素から構成される、とする。このときα→a,β→b,γ→c,δ→d,ε→eという要素間の因果的対応があれば、UとWの間に因果関係が認められる(Gr1:S.430-432)。
 リッカートはこれを「個別的因果関係」と呼び、法則科学である自然科学とは異なる文化科学独自の因果概念だと主張した(Gr1:S.109)。
 結論からいえば、現在の社会科学で彼の主張が受け入れられることはない。この定義だとUとWの因果関係の成立/不成立は、α→a,β→b,γ→c,δ→d,ε→eという五つの一般的な変数間の因果の同時成立である」。(書誌は、原著に照らして改変。佐藤の指摘するリッカートの「不備」はSimmel,1905/07:S.314-315でも指摘されているという。)
 くわしくは、信原幸弘の因果関係(事典哲学の木)にゆずるが、佐藤はなぜa,b,c,d,eが抽出されなければならなかったのか、理解していない。原因はけだし、最小限の十分条件を〔第一次的な〕近似概念とするはずであり、その観点から言えば、因果関係が抽出されるのは当然だからである。(マッチに火が付いた原因は、ふつうマッチを擦ったこと、もしくは湿っていなかった、であって、風が吹いていなかった、よもや室温が絶対零度ではなかった、等々以下続くではない。佐藤が注の(6)で述べるような、条件が非限定的に開かれているという理解は、原因概念のポイントを失している。原因と言われるさい、最小限の要素が抽出されているのである。・・・このアポリアはヴェーバー解釈に共有されているものと言える。
 ここでの誤解は、リッカートの因果連関が価値関係的に構成された個体について成り立つ、という基本的理解を怠っているからである。個体を構成する要素は価値的に重みをつけられた要素であり、佐藤の言うように、無限の多様を想定するものでない。いいかえれば、価値関係ということで、最小限の十分条件がピックアップされているのである。佐藤は、リッカートとヴェーバーとの対比をつけることに急ぎすぎで、@裏条件法、さらにはcsqn的なピックアップ(歴史的個体の構成)の論理を、クリースから当然うけついでいるヴェーバーに明確に認めていない。Aまた客観性論文を貶価するあまり、文化的意義による重みづけ(リッカートの価値関係に重なる)を不当ににも考えに入れず理解しようとしているのである。
http://www.utp.or.jp/book/b306021.html続きを読む
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2017年08月18日

倫理の指標=2017/11/2

 
小谷は二つの前提「判断者にとって妥当する道徳的命題pは必然的である」(a)かつ「命題pが幸福を目的としているとき、それpをいかなる場合でも目的としないのは、幸福が欲求の対象とすることに反する」(b)を想定する。その上でpの内実として反道徳的なものを仮定すれば背理に陥るとしている。それについては別の機会に述べことにする。
 (b)は言い換えれば「幸福が欲求の対象とするかぎり、命題pが幸福を目的としているとき、それpを目的とすることがありうる」(いかなる場合でも目的としないことはない、ということは、ある場合には目的とすることがありうる)。このさい欲求の対象のほかに、意図の対象が考えられる。ここは野矢茂樹1999の意図概念の規範性に即して論じたいところである。

 カントの意志と意図の違いで迷っている。
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2017年08月17日

論文・梗概

 カント倫理学の自己充足的要素は、その実、世界の厚生と無関与な非厚生的なものであること、それが自己充足にふさわしいwürdigものであるがゆえに、価値合理性を認めうる(この手続きを小谷英生発表のサーヴェイによって行う(1))。この価値合理的規矩(規範的な高さ)を押さえるとともに、自己投企に、誠実な心情という高貴な価値すら見届けることができる(2)。しかし、批判的見地から――「自己善」として、――果たしていかなる意味で他者を思いやったかという、目的がもつ高さの観点から批判ができよう。このことを功利主義との対比によって、追究してゆく(3)。最後にカント倫理学・功利主義・行為者相関的モラル・普遍的利己主義のマトリックスを提示し、Sen,A.K.の行為者相関的モラルの射程を、不変項の客観性と価値合理的卓越という点に見出すことで、現代倫理学の俯瞰にも寄与したいと考える(4)。
moralmatrix.jpg
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2017年08月07日

遡及

 Grenzenの訳が、ちらほら誤訳のようなので、改訂作業を行います。
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2017年08月02日

価値escalation

 (再)記述によって行為の価値がエスカレートすることを価値エスカレーションと呼ぶ。一つには、確率の低下を補う象徴的効用(非厚生主義的価値)が増えること・また、価値の低下を補って価値が増えることを指している。
★泥の皿を食べることの低価値が、アートのパフォーマンスとして記述されることでエスカレートされる例を想像せよ。
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2017年07月29日

あしたはカント研究会

 小谷氏と湯浅氏の発表を聴きに、日帰りで東京に行ってきます。行き帰りでは、オニールのagencyの論文を読む予定。
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2017年07月25日

非哲学的断章(続く)=2017/7/25

 
死を前にして、すべてが虚無に化してしまう、という感慨には根強いものがある。もしくは、死とは一個の謎である、という念が強く意識される。いずれにせよ、もし私の死とともに、世界のなかのすべての存在が無に帰するのなら、存在というものは、私の意識と独立には存在しない、という考え、つまり存在するのは意識だけであるという、観念論に誘われる。
 観念論が自殺に至るみちすじを描くことは、それはそれで簡単ではないが、私の意識とは独立に実在というものがある、と思う。例えば、ヒュームの追跡において、印象の分解の極限に、単純印象を想定したが、何かが所与としてあるのである。もちろん物的なものとも言えないにしても、モリヌークス問題の「かたち」に対応するような、経験にとってxがある。それらは感情的な確信にぴったり寄り添って、私たちの日常生活の地盤となっている。おそらく、私に先立つそのxは死後も、理想的な世界のなかに論理的には保存されるのであろう。それが私たち?の生き方の態度と即している。
 おそらく意識が、実在に「依拠」していない、という観念論は正しくない。されば実在するxが、物・心のいずれの身分をもつかは、事実探求の「科学の問い」ということにならないだろうか。すなわち、ヒュームを乗り越えるかたちで視野に入れてきた、記憶や知識の直接性(印象に対する観念に訴えても、基礎づけ不能である ことは幾度か示唆してきた)に裏づけられたxとして、まさにそれらの所与がある限りで、何か端的な実在を指し示している。つまり原物に対するコピーという了解を維持しえないのである。しかもそうした実在は、情念や生き方の態度に裏打ちされているので、生半可な懐疑では根扱ぎにしえないものなのである。宗教が断定の繰り返しであったように、実在の信も断定で打ち切られる。
 かくして経験論の準拠枠であった観念論の彼方、言い換えれば実在論の極北が拓けるように思われる。これは、哲学的問題の終着点ではなく、問題の乗り換え点である。幾度か示唆してきたように、言語は実在に係留するばかりか、私たちにとって余所余所しい、可能なタイプとでもいうべき、存在の「かたち」を提示する。こうした「かけがえのある個体」とも言うべきものは、公共の言語空間のなかに位置しているように思われるかもしれない 。はたまた、情念なり、道徳なり、私は、公共の場が接していることを示唆するごとき、事象に出会わざるを得なかった(ようである)。だがしかしこの他者という磁場は、私にとっての些末なエピソードに過ぎないのではないのだろうか。果たして、言語という媒体は、私のこの経験の場を溢れ出て、他者へと浸潤してゆくのだろうか。
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2017年07月20日

自由・両立論・実践的推論

 野矢茂樹編「自由と行為の哲学」より・・・サーヴェイの必要性を感じたので。
 まず基本的タームを導入しておけば「決定論と自由論の両立を主張するこうした考え方は、「両立論」と呼ばれる。それに対して、決定論と自由論は両立しないと考える立場は「非両立論」と呼ばれる」(野矢茂樹編,2010b,5ページ)。ただし、非両立論に立つ論者たちは、「選択可能性なき自由」(フランクファートのごとく、選択可能性を認めず、道徳的責任を説くような立場)にあえて甘んじないだろう。しかし「そうするしかない」のであれば、「自由にそうした」とは言えないから、フランクファートの議論は、自由の核心は選択可能性にあるという直観に、十全に抗しうるほど強いものではない (野矢茂樹編,2010b,11-12ページ参照)。ただし、フランクファートが機縁となって、自由の主戦場は、行為者性にかかわる領域へと転換し、或る種の「両立論」(カント的な「柔らかい決定論」を含む)の道が開けた。そのさい問題となるのが、動因性の概念としての意志のとらえ方である。
 人間の行為にある独特な原因は意志と呼ばれるが、ヴィトゲンシュタインの議論を待つまでもなく、ただ意志だけを取り上げる試みには困惑するしかない。だから行為を込みにして考えなくてはならない。ただし行為の理由こそが原因である、しかもその基本的理由を欲求・信念と考えるデイヴィドソンについて、私が語るべきことがらは少ない。人間が行為にもっている秩序を「実践的秩序」と呼ぶとすれば、「実践的秩序が因果的秩序に服さねばならないと考えた」デイヴィドソンには、与しえない。
 それに対して、アンスコムによれば、実践的秩序は因果的秩序とは別ものに類す、と考えられた。アンスコムの議論は、意志を行為の原因とする考え方とは異なっている。アンスコムの戦略の中心をなすのは、原因と理由の区別である。つまり「行為を引き起こす原因たる何ものかではなく、行為そのもののあり方、行為の意味を問うのである」(野矢茂樹編, 2010b,16ページ)。この見通しのもとでアンスコムは『インテンション』以後、実践的推論の彫琢に従事した。
 「まず私は目的を設定する。「目的―約束の時間(十二時)に遅刻しないこと」。そしてそのためにはどうすればよいかを考える。「目的地まで電車を利用して一時間かかる。十一時発の電車がある。だから、それに乗れば十二時に目的地に着く」。そこで私は十一時発の電車に乗る。ここにおいて、目的を掲げることは推論の前提と同じ身分をもたないとアンスコムは指摘する。こうした考慮において「推論」と呼ぶべきステップは、「目的地まで電車を利用して一時間かかるのであれば、十一時発の電車に乗ると十二時に目的地につくことになる」という部分である。つまり、設定された目的とそこへ向けての具体的な実行を橋渡しするものが、実践的推論なのである」(野矢茂樹編, 2010b,20ページ)。
 かくのごとく、実践的推論が理論的推論と同じ構造をもっているとすれば、デイヴィドソンの推論が欲求と信念から構成されている(欲求と信念が行為を因果的に引き起こす)のに対し、アンスコムの推論は、命題から構成されていることになる。つまり後者においては、設定された目的に向けての論理的推論が実践的推論ということになる。(ブラッドマンのように二階の欲求の統制的機能を認める)反因果論の立場では、実践的秩序を因果的なパターンとして捉えることを拒否し、それからは捉えられない秩序を探求するものと言えよう。
要するにここで問題なのは、「一方で意図的行為の評価、他方で意図的行為の説明」の区別である。「評価的関心が支配的な論考では、理由は非-心理学的に、かつ事実的に理解される」。

 D’oro,G.&Sandis,C.,2013,pp.1-6,cf.p.4..メレが指摘するように基本的理由は原因ではない以上、合理化は、因果的説明の一種ではないと考える。〔基本的理由は状態だから、原因とすることはためらわれるし、傾向性であるとしても因果的説明の媒介項にすぎない。〕「…の折には〜ところである-関係」はBedeutung=因果的基盤を基礎としてSinn=後知恵的傾向的性質の秩序を築きあげる。
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2017年07月17日

サディコ-マゾヒズム(主と奴)=2017/11/2

 私が他者とかかわるさい、必然的に相手を奴隷にするような、主と奴*の関係が成り立ってしまう。そうしたことを、愛と憎の類似性は思い起こさせます。例えばサルトルの「羞恥」を見てみましょう。
 「意識(対自)の内発性が、絶対的な能動性であるとき、対自と対自の関係はどのようになるでしょう。私にとっての他我の存在は、私の存在といかにかかわるのでしょうか。サルトルは卑近な例で説明しています。
 「私が嫉妬にかられて、興味にさそわれて、あるいは悪癖にそそのかされて、扉とぴったりと耳を当てがい、鍵穴から中を覗(のぞ)いている場面を想像してみよう。……私は私の諸行為を何ものかに帰し、それによって私の諸行為を性質づけるということはできない。私の諸行為は決して認識されるのではない。反対に私は私の諸行為である」(『存在と無』三-一-四)。
 私は耳になり切っている。私は私の行為の主人である。「ところが突然、廊下で足音のするのが聞こえた。誰かが私にまなざしを向けている。……私は突然、私の存在において、襲われる。本質的な変容が私の構造にあらわれる」(同)。血の気がひいて、見る私は、見られる私に変容する。私はもう私の行為の主人でない。他人もまなざしの奴隷である。まるで私自身が風呂の水であったところへ、突然、誰かが、風呂の栓を抜いたかのように、私は「存在の減圧」をこうむる。私と他者との関係は、認識の関係でない。存在の関係である。私の存在減圧を代償としてしか、他者にとっての私の存在はない。「私の存在の無とは、他者の自由である」(同)」(加藤尚武、一九八三、二三六頁)。
 見る側が主人であり、見られる側が奴隷である。鍵穴から盗み見る私は、相手をあたかも観賞対象よろしく、〈凝固した石像〉として所有するのです(私の視線はメディウサの視線になぞらえることができよう)。たとえ他者と合一するような愛の体験においてすら、その根本には相手の存在を否定する要素が含まれています。言わば、サディコ=マゾヒズム(視線で石化される者が奴隷である)の関係が成り立ち、その関係は可変的です(廊下からの監視者によって私もまた石化されてしまう)。かようにも、愛と憎悪は、やすやすと逆転しうるものなのです。
Medousa.jpg
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2017年07月10日

ウィットゲンシュタインの共感できる点・非哲学的雑感=2017/11/2

 およそ、宗教というものは科学以前の実践によって先取りされるものである。そうした宗教に強みがあるとすれば、どのような点か。
〔解〕循環構造が宗教の弱みであり、また強みである。次のようなケースを考えてみよう。イエスは神の子である←なぜか・聖書でそう述べてあるから正しい←なぜか・聖書は神の子イエスがそう述べているから正しい。というなら、結局「イエスは神の子である」を繰り返し述べていることになる。つまり、論理的正当化以前に、「イエスは神の子である」を先取りしている。その意味で帰納の手続きと似ている。宗教についてはむしろ、論理による正当化を語る前にこう述べればよい。「宗教的な真理が存在する。ピリオド」。
 この独断で居直ることは宗教の非合理性でしょう。もう少し回りくどい表現を使えば、観念形態として完結しているということです。たしかに「語りえないことには、沈黙せねばならない」(『論理哲学論考』7)というウィットゲンシュタインの言葉に相違して、語りえぬ(論理的に正当化しえない)ことについてあえて宗教は言及する。しかし宗教は、科学では表立たないことについて敢えて示唆している。こうして考えてみると、信仰の強みは端的にある種のことがらを、敢えて説諭するところにある。このように信仰の強みを解釈することについて、考えることを補ってみよう(数十億回、生まれ変わったとしても、記憶が断絶していたら、一回の生を生きるに等しい。裏返せば、一回の生が、無限億の生まれ変わりと等しい重さをもつということである。ニーチェの永劫回帰〔「おまえが現に生きており、また生きてきたその生を、おまえはもう一度、いやさらに無限回にわたって、生きねばならぬ。そこには何ひとつとして新しいことはなく、あらゆる苦痛とあらゆる快楽、あらゆる思いとあらゆるため息、おまえの生の言い尽くせぬ大小すべてのことが、おまえに回帰して来ねばならぬ(後略)」(『悦ばしき知識』三四一。生の永劫回帰という究極的で永遠的なもの以外で足りると納得するためには、生というものを限りなく愛おしまなくてはならない。〕wittgenstein.jpg
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2017年06月27日

著作権

 二重投稿の注意に考えが及びました。少々、その点がラフだったので、自粛してブログ活動を行おうかと思います。
 価値のタイポロジー―超越的当為の定位:商大論叢に掲載されました。
 リッカートの真理論:商大論叢に掲載予定です。
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2017年06月13日

転喩の心理学から読み取っていただきたいこと=2017/10/31

 ――観念が印象のコピーである、これを「知覚モデルの哲学」と呼んでいる。哲学史的には、観念論に親近性をもった考えである。しかし印象が原物であるとして、そのコピーである観念と、比較する術はあるのだろうか。定義的に、そうした比較は不可能であろう。(たとえいま見ている赤といま思い描いている赤〔の心像〕の比較であっても、不可能である)とするなら、「知覚モデルの哲学」には、破産が予告済みなのではなかろうか。
 本書が観念論から実在論へとゆるい意味で転換するのは、こうした観念論の破産宣告見通しにもとづいている。おそらく観念が印象のコピーであるというのは正しくなく、心に浮かんでいるもの(観念)は、印象どころか実在にすら係留されているのだろう。そうしないと、不可知論的な原物を設定せざるをえないという、困難が待ち受けている。観念論から撤退し、実在論へと押し出される所以である。ただしその実在は、他人と共有されるかどうかということは、いまのところペンディングにしておく。安易に公的「知覚」(現象学)・公的「言語」(分析哲学)によって、実在と結びつけることを急いではならない。その前に多くの哲学的問題が横たわっているように思われる。

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