2018年04月22日

新カント学派の逆襲=2018/8/28=2019/1/31=2020/2/9

 情動であるかどうかの基準は、身体的にではなく、心的な志向的内容によって与えられるのではないだろうか。つまり見かけと判断とを区別するなら、判断が価値判断情動の正体である、と。ここで論じるべき多くのことがらがある。

 見かけを正当化する判断とは、ヌスバウムのメタ認知説の謂いであるが、判断が見かけ-表象結合態とすると、西南ドイツ学派(ヴィンデルバント)の「判断についての判断」説に接近する。注意:さらなる価値体系を構築するのは、較認を前提とした、より技巧的な統括=照会である。

 そうしたところから、価値を妥当(認知モデル)で扱う理路も見えてくる。これらの論点は、ロッツェの内在的検討・ジークヴァルトへの継承・リッカートの妥当概念(自己決定による命題内容の賦活)を先決問題とする。


価値実在論はアフォーダンスや、傾向的性質を橋渡しにして力を盛り返しつつある。しかし、問題のポイント(例えば道徳的実在論なら内在主義との関係等)を論じなくては、堂々巡りになってしまう。この点について迂路をとることをもって次善としたい。 

  美と愛をモデルにした価値論・・・・文献的に確認の必要は選好(経済・愛=文明価値)の理論を照会(美)の理論に橋渡しすることができる。ただし新カント学派の理路として、価値の目的論から実在論への転回ということが認められる。

私たちの思考の歩みは、自然科学の概念限界から漸次的限定を及ぼし、歴史科学の概念を獲得する目的をもつしてゆくであろうが、さても言及できることとして、個性的現実自体は、歴史的対象(1・2Aufl.のゲシュペルト)の比べようもなく普遍的な概念と等置すべきであるにせよ、「歴史的な」ものが単に比類なきもの[=einmalige]、特殊なもの、個性的なものに鑑みた現実性のみを意味するなら、実践的生の個性化的現実把握は、このうえなく根元的で、最高に包括的な歴史把握(1・2.Aufl.のゲシュペルト)とも呼ばれなくてはならない。この意味で歴史的関心S.3551を個性的なものへの関心と等置したのであって、意欲し評価する人間にとって、不可―分割者である諸個体を、それゆえ比類なきものならびに個性的なものの概念として、歴史的なものについてのそれのみを考慮するかぎり、私たちはそれを歴史的個体(1.Aufl.のみゲシュペルト)と名づけることができる。


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2018年04月19日

情動の認知説14=2018/8/28=2019/1/31

プリンツの「はらわたが煮えくりかえる」勁草書房の邦訳入手。まとめながら、新カント学派の態度決定説(というより価値妥当説)の復権を目指そう。

 ジェイムズ=ランゲの身体感受説によれば、「身体的な感受がなくなってしまえば、情動経験には何も残っていないように思われるというのだ」(邦訳4ページ)。

 近年のダマシオの感受説によれば、「身体変化はなくとも、身体変化に通常関わっている脳中枢が活動すれば、情動反応が生じうること」(邦訳5ページ)が強調されている。「この点は、網膜が刺激されていなくても、赤いリンゴの視覚イメージが形成できるという考えと類比的である」(邦訳5ページ、あたかもループ)。「ダマシオは、身体を経由せずに情動が生じることはよくあると考えているのだ」。

情動を情感(affection)、身体状態への神経反応、認知的操作への影響と同一視する理論のほかに、情動には或る種の思考が伴う場合が多いことがわかる。こうした考えとして「純粋な認知説」がある。ref.クリュシッポス(ストア派)の認知説

 邦訳10ページ。「ヌスバウムもストア派の考えにしたがい、情動を、価値負荷的な見かけ」を承認する判断と定義している(Nussbaum2001)。「価値負荷的な見かけとは、出来事を価値づける解釈のようなものである」。解釈と価値判断の結びつき。「・・・私が理解した限りでは、ヌスバウムはさらなる要件をくわえている。その要件とは、見かけが価値負荷的なものであるためには、その見かけが正当化されているという趣旨の別の判断が形成される必要があるというものである。この主張のために、彼女の理論は単なる認知説ではなくメタ認知説になっている。つまり、情動には判断についての判断が必要である」。

 新カント学派の態度決定説との親近性。とくにロッツェ・ジークヴァルト・ヴィンデルバント・リッカートのライン。判断についての判断は、まさに西南ドイツ学派的であるかのよう。ただし、ヌスバウムはこれを情動と考えるが、私としては価値判断に類するものとして、情動とは区別したい。

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2018年02月27日

情動の認知説13~ジェームズ・ランゲ説を視野に入れて=2018/5/31=2019/1/31

PE:p.161プリンツからの引用「身体的変化が十分であることを示しても、身体理論を確立することにならない。それに対し、身体的変化が情動にとって必要であることも示す必要があろう。ジェームズとランゲは、必要性要求を内観的直観に訴えることで防圧した。ジェームズは問う。「恐れのいかなる種類が一体次のような場合残るだろうか。速度の増した拍動、息の浅いこと、唇を震わせること、手先の弱体化、鳥肌、はらわたの掻き乱れ等のいずれもがないとき、そんなことは、まったく考えもつかない」(1884,193ff.)。またランゲは、ジェームズの著作に気をとめることなく、呼応している。「もし恐怖の人から、随伴する身体的兆候が取り除かれたら、つまり、素早く拍動が認められる心拍、固定した視線、顔色が生のままで、動きが俊敏で断固としており、口調が力強く、考えが明晰である、これらをおいて彼の恐怖として何が残るだろう?」(1885,675)著者たちは私たちに精神的に、想像される情動的状態からすべての身体的兆候を差し引いたとき、何が残るか理解しようとしている。ジェームズは「私たちが残すものは何もない、情動を構成する心的動因はない」ことを私たちが発見すると言っている」。

★意識内容として、何を考えているかによって、身体的反応に、特定の情動を帰すというのが実態であるように思われる。感じとして、さらに身体的反応として、何も伴っていない場合の悲しみというものがあるだろう。逆に言えば、感じを伴っていても、偽の悲しみというものもあるだろう。愛情に由来する悲しみ・愛情に由来しない偽の悲しみというものは、そういうものではないだろうか。
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2018年02月25日

情動の認知説12~ジェームズ・ランゲ説を視野に入れて=2018/6/12=2019/1/31

PE:p.160-p.161「相関的な証拠に加えて、身体的変化が情動を誘発しうるという証拠も存在する。このことはそうした証拠の十分性に言及するものである。とくにその証拠は情動が評価判断のようなものを媒介せず喚起されうることを示唆する。このことを証拠立てて述べるさい、ランゲは情感がアルコールの摂取によって変わりうるという事実に感銘を受けたとされている。より近時の著者は、顔つきのフィードバックからの証拠を強調してきている(Zalonc,Murphy,Inglehart1989)。顔の筋肉がただ変化するだけで、情動の反応に十分であるように見える。それはたとえ、私たちが情動的表現をしていると認識していないときでさえ、そうである。視床まくらと上丘のような初期視覚器官から扁桃核、これは他の器官に身体を混乱させるように命じる・・・への回り道を経て情動が誘発されうるという、解剖的証拠も存在する(Ledoux1996,Morris,Oehman,Dolan1999)。この回り道が引き金となって、判断のような種類のものの媒介を経ることなく、身体が情動的に反応する。関連する知覚中枢は、範疇的な対象認知を支持しないし、ずっと素朴な評価を支持するのみで、扁桃核対は評価によるのではなく、連合作用で肉体的な反応を入力するのである。人はこの回り道によって誘発された身体的状態が、評価判断によって補完されるのではなくても、情動の身分をもたないと論じることも試みられるとしても、その方途は絶望的である。当該の身体的変化は情動のように感受するのであり、それは評価が起こることを要求しない」。

ディルタイの獲得連関のように、無意識のうちに認知的内容?が左右する場合もあるのではないか。
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2018年02月22日

情動の認知説11~ジェームズ・ランゲ説を視野に入れて=2018/5/5=2019/1/30

PE:p.88-89ヌスバウムからの引用。「より説得性があるのは、けだし或る感情が特徴的に情動と連合しているだろうという見解である。しかしこのさい、二種類の「感情」を区別すべきである。一方では、豊富な志向的内容をもった感情がある、またある特定の個人がいない人生の空虚さの感情、その人に対する報酬を求めぬ愛情の感情、その他の感情がある。そのような感情はある情動の同一性条件を受け入れるかもしれない。しかし感情という言葉は、さても知覚判断といった認知的用語と対比されているわけではない。それは単に用語的なヴァリアントに過ぎない。すでに述べたように判断はそれじしん「感情」なら恐らく意図的に説明される動的性質の多くを具えている。他方で、例えば疲労や過剰な昂揚の感情のような豊富な志向性・認知的内容を欠いた感情がある。身体的状態にかんしては、それらが情動を伴うにせよ伴わないにせよ、その状態は、情動にとっての必要条件ではない。(後略)」

PE:p.159以下:Jesse Prinz,Embodied emotions,p.160より「ジェームズ・ランゲ説を支持する議論」

「ジェームズとランゲは、情動は身体的変化の知覚であるという仮説を支持する考察をいくらか提示している。近年の情動研究の業績は、さらなる支持を獲得している。その仮説の決定打となる議論は出てきていないが、いくつかの考察の説得力を集めると、かなりのもっともらしさが加わるのである。

 考察する最初の諸検討事項は、情動と身体的な〔動揺の〕原因の間にリンクないし相関を確立する目的に限って役立つだろう。情動と身体のリンクはきわめて明白である。どの文化においても、情動の状態ついて語る身体的表現が、私たちの文化の「傷心」からタヒチの「はらわたの調子が悪い」(Heelas1986参照)まで存在している。これらの表現は明らかに換喩的であるか、卑俗なフォークセオリーの副産物であるが、情動的性質と身体の変化との間の相関について、経験的証拠となっている」。

★ここにコップがあると認知するならば、コップを手でつかむ、コップを倒さないように肘を引っ込める、飲み物が入っていると認知すれば喉を潤そうとする、というわけで、身体的な実践知と認知的な要素は結びついている。しかし、それとは別経路で、一旦、価値判断の貯水池に評価をくみ上げて、評価の準備とする場合もあろう。こうした間接的な結びつきを重視したのが、新カント学派であった。このイミで、身体性は二次的であり、ヌスバウムの発想とつながる。(新カント学派の場合、単純な認知説ではないが)
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2018年02月16日

情動の認知説10=2018/4/25=2019/1/29

PE1:p.88ヌスバウムからの引用「それ自体判断の部分ではない悲しみの構成要素は、他にあるのか?如何なる特定の悲しみの事例でも、悲しみの事例と判断の事例の間に存する、トークン的同一性のレヴェルにとどまるなら、どんなに進展しても、この問いに答えることは大変困難である。私たちにはより強力な議論があり――しかも現象のより深遠な理解をもちうる。それは、代わりに悲しみの一般的同定条件について探究する場合であり、判断の要素でない悲しみ一般の必須要素があるかどうか、探究する場合である。言い換えれば、そうした要素がないなら、悲しみであると帰属させることを引っ込めるだろうか? 私の信ずるところでは、答えはそのような要素はないというものである。たいてい悲しみには身体的感覚・変化が含まれているものであるが、私たちは全エピソードを通じて自分の血圧が極めて低く、心拍数が決して60台を超えなくても、考えるに、私が悲しんでいないと結論するに足る理由はいささかも存在しない。私の手足が体温にも、湿り気にも関係せず、こうしたことがらは、相も変わらず何ら重大な価値をもたないのである。心理学者は、脳活動に基づく洗練された尺度を開発してきたが、それらを情動の状態の定義的指標として用いるのは、恐らく直観的にも誤っているだろう。私たちは主体の脳状態が特定のものでないと発見するなら、他の仕方で根拠づけられた情動帰属を引っ込めたりしないのである。(実際、脳状態に一見した重要性を想定するような唯一の方法は、他の根拠によって同定される情動の事例との推定された相関性に依拠しているのである。)」https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000884782016.html
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2018年02月15日

情動の認知説9=2018/4/24=2019/1/28

PE:p.87ヌスバウムからの引用「敵対意見は、するとこれでは分明ではないと反対するかもしれない。たとえ情動の位置が多くの認知的機能を果たすことができるにちがいないと、譲歩するとしても、判断もしくはその部分とは見なされない情動の動的・情感的側面があるように見えるかもしれないからである。痛みや激情の迅速な〔心の〕動きや感情がある。私たちは実際これらを、しかじかの事実であると判断することの或る部分と等置すべきなのだろうか? なぜ判断は情動の原因とせず、情動とは、こうした〔心の〕動きであると同定すべきなのだろうか? さもなくば、私たちは判断が情動の構成的要素である、そして構成的要素として他の要素の十分な原因でもある、とさえ認めてよいかもしれない、しかし判断の部分でない他の要素、つまり感情や心の動きがあると主張できるかもしれない。この点に応接するにさいして、判断することを動的で、静的ならざるものと考えている事実を強調することをもって、話の端緒とした。理性がここで、〔心の〕動きとなり、抱懐し、拒絶するのである。それは迅速にせよゆっくりにせよ、また確然としてにせよためらいがちであるにせよ、〔心の〕動きとなる。私は理性を私の母の死という見かけを湛えるものとして想像してきた。言わばそれへと突進し、吸い込まれるようにそれを啓いたのである。それならば、そうした動的な能力が、また悲しみの乱れた動きを抱擁しえないことがどうしてあろうか?」https://www.amazon.co.jp/Upheavals-Thought-Intelligence-Martha-Nussbaum/dp/0521531829
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2018年02月14日

情動の認知説8=2018/4/24=2019/1/28=2020/5/25

 信原幸弘、2017、『情動の哲学入門』10-12ページ。

「身体的反応とその感受はどのようにして価値的性質の感受を可能にするのだろうか。この問題を考察するうえで注目すべきなのは身体的反応のあり方である。イヌに恐怖を覚えるとき、身体が震え、冷や汗をかく。日本選手の活躍に喜びを感じるとき、全身に血が駆けめぐり、身体が興奮する。恋人の死に悲しみを抱くとき、身体から力が抜け、全身の活動が低下する。このようにそれぞれの情動には、それに特有の身体的反応が生じるということである。イヌの怖さ、日本選手の活躍の喜ばしさ、恋人の死の悲しさに応じて、それぞれ特有の身体的反応が生じるのである。

 そうだとすれば、身体的反応はそれぞれに対応する価値的性質を表していると言えるのではないだろうか。・・・/身体的反応が事物の価値的性質を表すとすると、脳による身体的反応を感じ取るだけではなく、それを通じて事物の価値的性質をも感じ取ると言えるように思われる。・・・望遠鏡で対象を見るとき、私たちは対物レンズによる対象の実像を接眼レンズで見るわけだが、たんに実像を見るのではなく、それを通して対象そのものを見るのである。これと同様に、脳による身体的反応の感受は身体的反応を感じ取ることを通して、事物の価値的性質を感じ取るのである」。

 情動特有の身体的反応は生じるか。異なる情動が同じ身体的反応をもつことに対して、ブリンツは反論している。見かけの情動が、かくあるべしという身体的反応と対応しているとは限らない。ただし理想的な状況では規範的な力をもつと言われるかもしれない。しかしながら、もしそうした理想を考えるとしても、逸脱的なケースが出てくるであろう。運動を応援したさい、イヌにかまれた記憶があったとして、イヌに恐怖を抱くとき、記憶がトラウマになって、応援と同じような身体的反応が訪れるかもしれない。

 これらを考えると、情動に対応する身体的メカニズムだけによって情動を説明しつくすのは困難だと思われる。情動=ドクサという見方をとった方がナチュラルではないか。つまり見かけと、判断としての情動を規範的に区別しうる。判断として適合的である条件が(判断の複合からなる条件が)情動の必要条件を与えるのである。
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2018年02月13日

情動の認知説7=2018/4/15=2019/1/25=2019/9/7=2020/5/25

 ちょっと方向を変えて、信原幸弘の『情動の哲学入門』より。

 「信原8ページ。・・・私たちは歯を剥き出しにしたイヌに恐怖を覚えつつも、そのイヌが檻のなかに入っているので、本当は怖くない(=危険でない)と判断することがある。つまり、イヌに恐怖を抱きつつも、イヌを怖くないと判断するのである。イヌへの恐怖が、イヌは怖いという判断なら、ここでは矛盾した判断が生じていることになる。すなわち、イヌを怖いと判断しつつ、同時に怖くないと判断していることになる。しかし、こんな明々白々の矛盾が生じているとは考えがたい。いくらなんでも私たちはそこまで愚かではない。そうだとすれば、イヌへの恐怖はやはり判断ではなく、感じであろう。イヌに恐怖を抱くとき、私たちはイヌをまさに怖いと感じているのである」。

 このさい、二つの構成契機が出てきていることに、注意すべきである。appearenceとしてのイヌへの恐怖と、怖くないという判断と。問題なのは後者である。怖くない、ということは、情動なのか、判断なのか。@怖くない、というのは、恐怖を問題にしている限り、情動の一種であると考えられる。ということは、イヌの恐怖という情動と、イヌが怖くないという情動を、同時に感じていることになる。恐怖と、怖くないという否定の情動を、カテゴリー的に異種の情動と考えぬかぎり、矛盾が生じる。仮に怖くないという情動が、判断に似た、知覚と直接的には関連しないと考えるなら、次の説に接近する。A怖くない、とは情動ではなく、判断である。というのも、怖くないが恐怖という情動の否定であるなら、怖くないも情動でなくてはならないから。この隘路を避ける方法として、怖くないという情動が、すなわち判断とする説が出てくる。

 しかし、怖くないが判断なら、恐怖も判断ということになり、矛盾を避けえぬように思われる。これに対して、是正された情動(もはやそれは情動ではない)を判断に限定するなら、見かけと判断の区別を設けうるだろう。恐怖というのは、見かけにすぎず、それを受け入れぬところから、怖くないという判断が生じるのである。認知のカテゴリーに属すものとしては、怖くないという判断があるだけで、その前の、イヌへの恐怖という見かけは括弧に入れられる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけをしているにもかかわらず、実際は巨大であるという判断を受け入れるのと同様に。ここでのポイントは、恐怖と怖くないが同格ではないということである。
というより怖くないという判断とは、端的に言って、危険ではないという価値判断である。
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2018年02月12日

情動の認知説6=2018/4/12=2019/1/24=2019/8/28=2020/5/24

PE1:p.84-85ヌスバウムからの引用「私は判断について何事かを言って、新―ストア派を十分丹念に説明し弁護することから始めなくてはならない。情動とは判断であるという見解の正しさを理解するには、ストア論者が、直観的に魅力ある描画、しかも行為の説明として、(つまるところは)なじみのある信念-欲求図式の批判をするために、価値ある基礎を発見したと思うと言うとき、ストア論者が何を意味しているのか、正確に理解することが必要である。ストア派によれば、したがって、判断は見かけに対する同意である。言いかえれば、それは二つのステージをもつ過程である。第一に、しかじかのことが問題になっているということを、気づいたり思いつく。(ストア派の見かけはたいてい命題的である。とはいえ、その見解のこの側面が或る修正を要することを後に論じなくてはならないが。)私にはしかじかに見え、私はしかじかの仕方で事態を理解する。だがこのかぎりでは、私はそれを受け容れてはいない。そこで三つの可能性が〔第二段階として〕控えている。私はその見かけを受容・抱懐しうるし、それを事態がそうであるがごとく自分に受容することもできる。この場合は見かけが私の判断となり、見かけに対する行為は、判断することにある。〔また〕そのような仕方ではないと否認することもできる。その場合は、私は矛盾していると判断を下しているのである。もしくは、あれやこれやの仕方でコミットすることなく、そのまま放置することもできる。その場合は、事態があれやこれやの仕方になっていることについて、何の信念も判断も抱かない。アリストテレスによって導入された、単純な知覚の場合を考えて見よ。〔・・・太陽の見かけの大きさと実際の大きさの問題〕世界の見方に同意し、抱懐すること、つまり真理であると認知することは、認知の分別能力を必要とするのである」。

是認・否認・放置の三つの対応。
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情動の認知説5=2018/4/12=2019/1/23=2019/8/19=2020/5/24

PE1:p.83-84ヌスバウムからの引用「私たちは今まで、敵対意見に答えるべく、長い道のりを歩んできた。というのも、敵対意見は、リアルで重要な情動的生の或る特徴をピックアップするものの、同じく重要で、まさるとも劣らない他の特徴、それは、情動を同定し、一つの情動を他の情動から区別するのに、中心的であるにもかかわらず、それらをカットする見解を打ち立ててきたのである。:その他の特徴とは、「ついて」性、志向性、信念に基礎を置くこと、評価との結びつきである。これら一切によって、結局、情動を思考と大変よく似たものにされ、認知説が、敵対者のポイントとするいくつかの現象をいかに説明できるかが、分かりはじめてきた。そのポイントとは、自己との親密な関係、つまり促迫(喫緊)性である。しかし当該説は、情動が或る種のタイプの価値判断にすぎないとする、ネオ―ストア主義的見解からきわめてかけ離れている。私たちが提出する考察は、信念と知覚が情動において大きな役割を演ずるが、それらと情動は同一ではないとする、より弱い・雑種混合の見解によって、満足できるだろう。

 私たちは、実際、三つのより弱い見解、おのおのが歴史的な後継者をもつ見解を想定することができる。

1 適切な信念と知覚は、情動の必要条件である。

2 適切な信念と知覚は、(非信念的部分ももつ)情動の構成部分である。

3 適切な信念と知覚は、情動の十分条件であり、情動はそれらと同一視できない。

〔中略〕私たちは(1)(3)の外延的-原因をしめだすべく、ここまで長い道のりだった。というのも認知的要素は、情動の同一性や、他の情動との区別にとって、本質的な部分であると論じてきたからである。一見、私たちは(2)を放擲したかのように見える。信念部分は、他の部分の存在にとって十分であるというかたちで、もしくは、他の部分の存在にとって単に必要にすぎないというかたちで。その他の部分とは何だろうか。敵対意見では、より退却した答えを用意している。或る種の非-思考的運動、またはけだし(経験をどうみるかという論点について見解を変えることで)痛みと/または快についての対象なき感情をもって答えるのである。あまたの問いがただちに、これらの感情について、思い浮かぶ。それらは何かについての感情でないなら、どのようなものなのだろうか。何快楽、何痛みなのだろうか。よしんば、それらじしん思考や認知を含まぬのなら、信念といかに結合しうるのだろうか。これらの問いについて、簡単に振り返る」。
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2018年02月11日

情動の認知説4=2018/4/2=2019/1/23=2019/8/19=2020/4/25

PE1:p.83ヌスバウムからの引用「このポイントを別の仕方で表現すると、情動は幸福主義的に立ち現われるということである。すなわち、行為主体の(繁栄/)成功とかかわるのである。しかも古代ギリシャの幸福主義的道徳理論のことを考えれば、情動的生の地理学についての考察に手を付ける手助けとなる。幸福主義的倫理理論では、個人が問う中心的問題は、「いかに生きるべきか」ということである。その答えは、幸福(エウダイモニア)、もしくは人間的(繁栄/)成功の概念をいかにつかむかということに存している。エウダイモニアの概念は、本質的(内在的)価値を行為主体が帰属させる一切を包摂している。例えば、人の生がそれなくしては完全にならないような、何かが欠けていることを示すことができるのなら、エウダイモニアに含まれるのは何かという議論にとって十分である。重要な点は以下である。エウダイモニアの理論では、その概念に含まれる行為、関係、人格というものは、行為主体の満足との道具的関係で説明されることによってのみ、評価されるとはかぎらないのである。そのような説明に依拠するのは、功利主義の影響のもとにある理論、ないしエウダイモニアの翻訳として誤って幸福を使用することについて、なされる通俗的な誤りである。行為ばかりではなく市民相互の関係、ないし友愛(フィリア)も、そこでは対象が愛され、彼女/彼のために対象が役立つので、エウダイモニアの構成要素の資格をもちうる。他方、それらは、他人の生ではなく、ほかならぬ私の生の構成要素として、ないしは私の行為、私に関係のある人間として評価される。見るところ、これが情動の一類であり、消極的な場合には、自我を引き裂くように感じさせる原因(why)である。というのも、それらは、私に対して、私じしんに対して、私の計画や目標に対して、私の生活が安寧となると理解するにさしして喫緊の(urgent)ものに対して、ダメージとなるものとかかわっているからである」。
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2018年02月09日

情動の認知説3=2018/4/2=2019/1/23=2019/8/17=2020/4/13

PE1:p.82ヌスバウムからの引用「第三に、これらの情動は単に対象を視認する仕方で身体化する[=embody]のではなくて、対象についての、―しばしばきわめて複雑である―信念という仕方で身体化する。すでに記したxをyとして見る例[注:身体化なのだ]と、であるという信念とを区別するのは、必ずしも容易でないが、それは望ましいとさえ言える。アリストテレスがすでに認めているように、恐怖を抱くためには、悪い出来事が切迫していると信じなくてはならない。しかも些末ではなく、重大さをともなって悪いのだと。私はそれを差し迫っていると信じる一方で、自分の運命が決定的でなく、何がおこりうるかについてまだいくらか、不確実とでも信じていなくてはならない。怒りを抱くためのは、より複雑な信念の集合をもっていなくてはならない。いくらかのダメージが自分にあるか、自分に近しい、もの・人に対するダメージがあったと信じ、それが些末なものではなく重大なものであり、誰か他人によってなされ、その行為は積極的で、ダメージの加害者には、罰が与えられるのが正当のように信じられていなくてはならない。納得のゆく仮定として、信念のこの集合の要素がおのおの、怒りが現に存するためには必要とされる。万が一、xではなくyがダメージをもたらしたとか、その行為が積極的でないとか、深刻なものでないとかの場合は、自分の怒りはしたがって修正され、減退しうるであろう。・・・後略」。
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情動の認知説2=2018/4/1=2019/1/21=2019/8/16=2020/4/12

PE1:p79ヌスバウムからの引用。「これらの特徴の見地から、情動が判断の形式をとると示唆するのは、非常に奇妙であると思われるかもしれない。だが、私が守らんとしているのは、このテーゼなのである。これらの特徴は、古代ギリシアのストア主義説のバージョンと矛盾しないばかりか、実際、それによって最善のかたちで説明される。そのバージョンによると、情動はままならぬ事物や個人に大きな重要性を帰属させる評価的判断の形式をとるのである。したがって情動は、つまるところ必要としていることの認知であり、自己充足性の欠如である(Lyons1980,Solomon1993,Gordon1987,de Sousa MIT1987)。・・・しかるにこの領域でのいかなる適切な説明がじしんの経験によるデータ、他人の経験するストーリーに依拠しているのみならず、心理学、人間学の情動経験について、体系化・説明する著作にも依拠するので、私はこれらの諸学科にも頼ることにする。新ストア的見解は、近年、心理学では、どうにもならないことや統制についての著作、生物の「開花」に付随するものについての「査定」たる情動についての著作、人間学では、評価の「社会的構成物」たる情動に関する著作に、後継者を獲得してきている」。

PE1:p.80「情動のストア的見解にはライヴァルセオリーがある。すなわち、情動は、単に個人を急かして、意識的な知覚とは無関係なエネルギーを無思慮においたままの、「非推論的動き」であるという見解である。一陣の風や海の流れも、動くように、個人も動く。鈍感で、対象の視認やそれについての信念を伴わない動きである。・・・ときにまた、ライヴァルセオリーは、情動は、「精神的」というよりむしろ「身体的」で、あたかも、情動を知性的よりむしろ非知性的するだけで十分であるかのごとき考えと、結合している」。
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2018年02月08日

情動の認知説1=2018/4/1=2019/1/8=2019/8/8=2020/4/5

Philosophy of Emotion,2018,Routledgeより。以下PEと略す。(vol.1はPE1、vol.4はPE4)

PE1:p.1-2「認知理論は、情動を複雑な思考、ないし思考類似過程から主になるとみなしている。・・・情動の認知概念は、〔情動のスペクトルの〕上端、とくに情動のうちの評価的判断の役割を強調する。それに対して情動の感情概念は、下端、とくに身体的感情の役割に力点を置く」。

PE1:p.3「情動に対する主流のアプローチは、認知主義的評価アプローチであり、アリストテレス、ストア学派に淵源をもつ。・・・評価理論としても知られる、このアプローチのさまざまなヴァージョンが、ロバートM.ゴードン、マーサ・ヌスバウム、ロバートC.ロバーツ、ロバートC.ソロモン、チャールズ・テイラー、アーロン・ベンゼヴの論文に見いだされうる。動機説はニコH.フリーダ、ジャン-ポール・サルトル、ルードウィッヒ・ウィットゲンシュタインらによって代表される」。「情動について近年流行りの説は価値知覚説であり、クリスティーヌ・タッポレット、ロバートC.ロバーツによって推し進められたが、認知主義的理論におそらく分類されうるだろう。なぜなら、知覚は基本的に情報をえる認知的能力であるからである」。

PE1:7-8「ヌスバウムは、彼女の2004年の論文「価値ないし重要性にかんする判断としての情動」を、彼女の母の死に直面した感情の説明の揺れ動きをもって、筆を起こしている。ソロモンやテイラーのように、ヌスバウムは、情動の対象が自分じしんの生にとって重要にちがいないことを論じながら、個人的意義を強調している。情動のストーリーは、論じられるところでは、重要なものごとについての判断からなるストーリーである。

 ヌスバウムは情動の主要特徴を五つ挙げている。

1.情動は何かを主題にしていること。それは対象をもつこと。

2.対象は志向的対象であること。すなわち、情動への現われは、情動をもつ個人によって視認され、解釈される。

3.この情動は、単に対象を視認するという単純な仕方で具現されるのではなく、対象に関する信念、それもしばしば非常に複雑なそれに具現される。

4.情動はすべて価値と関係していること。情動はその対象を個人的重要性を負荷して視認する。情動は行為主体の栄えにかかわる点で、幸福主義的である。

5.情動は知覚であるのみならず、価値判断であること。それはものごとの現われ方に対してスタンスをとる。
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2018年02月05日

かなり厳しい=2018/4/1=2019/1/7=2019/7/21=2020/3/28

・そもそも柏端達也氏の価値の定義では、価値の高さを説けないことから考え始めたのだった。しかし、較認的価値の優劣はψ(態度)、S(主体)、x(対象)、U(状況)と相関的である。また選好は二項関係。主体をいれると三項関係。傾向性で選好は処理できないことが分かってきた。ウリクトで言うと、準目的論的・準因果的である・・・・動因としての価値観が必要になる。(アフォーダンスもみかけほど、実在論的ではない)

・情動のふるさとを判断と考える。fS(x,U)を記述と考え、xをyより選好するをfS1(x,U1)RgS2(y,U2)とする。選好Rとは態度決定因子Vψである。fS1(x,U1)=fS1(x,A)という具合に状況U1を込みにした主体S1の対象の記述は、機会集合Aのもとでの主体S1の拡張された選択肢(x,A)の記述に対応する。
Vψに対応するものとして、照会的価値を考える。

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2018年01月14日

科学哲学と価値・帰結性(親近性)14=2018/3/31=2019/1/7=2019/7/21=2020/3/28

 柏端達也、前掲書、192ページ。


選択肢の良し悪しは、結局のところ、それがもたらす諸結果の価値や良し悪しによって定義できるのではないか。

 帰結性は、親近性感応的な情動のメルクマールである。もしくは述定的価値に親和的な、価値体系に即している。これをもとに考えてゆけば、価値の推移性を一定限度まで説明できる。ただし船酔いや、ふしだらさにも負の価値を認めうるか、という問題は、形而上学的必然性がかかわるデリケートな問題である。

 注意:書名・宣誓というより後なるものは、芸術的価値のコンセプト的部分にコミットする要素である。こうした外在的要素でさえ、――貨幣の基盤と同様、記憶にレジスターされうる。・・・これは外在的価値の些末な例。撤回。

帰結主義的に振る舞っているつまりでも、解釈のちがい・価値の文脈依存性という事柄が出てきた場合、いったん未確定領域と同様の扱いがされるのではないか。功利主義はそうした新しい局面に有効とは思えない。
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2018年01月04日

科学哲学と価値・妥当性10=2018/1/13=2019/1/3=2019/5/29=2019/7/21=2020/3/24

 シェーンリッヒからの引用。シェーンリッヒ・G、2017、「哲学的価値理論のオプション」加藤泰史編『尊厳概念のダイナミズム』法政大学出版局、21-64ページ。


41ページ。さきに述べたとおり、価値の自立性は、価値が価値評価者S(厳密には、Sの或る特定の役割)に依存していると考えることを排除しない[シェーンリッヒの原文脈では自立性は、非依存性を含意しない。]。xの価値としての妥当性はそもそも価値評価に関係づけられることによってのみ定義されうるという主張は、xの価値は価値評価者の態度によって定義されるという価値主観主義の主張よりは弱い。しかし、前者の主張は、それでも強い。というのも、そこで是とされる依存性によって、価値が評価者Sの現実的態度に依存しているとは考えられぬからである。〔中略・価値評価者の態度を持ち出さず価値評価に関係づけられるなら、現実の態度に依存することになる。しかしここでもちだされるべき依存性は、現実の態度に依存して価値が妥当しなくなったりするようなものではない。〕
 それゆえ、「xが価値としては妥当するのは・・・」という表現は、次のように条件法で表現しなおされなくてはならない。
xが価値として妥当するのは、Sが内容xに関して賛成的態度ψをもつであろう、まさにそのときである

 中略・・・客観に根拠を認める傾向性理論のヴァージョンはみずからに対して、価値という性質の内在性に固執できる利点を要求する。なぜなら、xの傾向性は内在的性質と見なされるからである。xが価値をもつことは基本的にxの性質しだいである。それは、一個の砂糖が水の中に入れられると溶けることが砂糖の分子の性質によるのと同じである。水は砂糖の傾向性にとって誘発因にすぎない。この外在的な関係は、水溶性という砂糖の傾向性の内在性(注記:傾向性、すなわち価値的性質とは限らぬ)を疑わしくはしない。それと同様のことが〔対象の〕価値評価者Sへの外在的関係にもあてはまる。
 ・・・自発的に発生する価値表明・高次の傾向性による積み重なり・隠れたメカニズム・逸脱したプロセス・隠れた傾向性といったシナリオが考えられる。これらのシナリオにおいて傾向性に「正しい」価値表明が対応しないのは、価値評価者Sがある価値に反対態度で応答したり、あるいは反対に、無価値に賛成的態度で答えたり、あるいはそもそも無関心に振舞ったりすることがおこるからである。・・・目下、傾向性には加担できない。
傾向性理論は、それがどのようなヴァージョンであろうとも、価値に対して根拠に依拠して自由に振舞うという想定と一致させるのが難しい。[妥当せしめるのは遡言的解釈によって可能である。]しかし、とくに傾向性理論は誤った価値判断の問題に直面する。[因果的な語り口のみを許せば難問に直面する・・・解釈として遡言を認めれば、遡言の不滑によって、誤った?価値判断を除外できる。]
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2017年12月31日

科学哲学と価値・新奇性9=2018/1/3=2019/1/2=2019/5/29=2019/7/21=2020/3/14

 例えば「こちらの顔がより好き」と本人が自覚するよりも先に、眼球運動のパターンの予兆が認められることは、無自覚的な選好があることを示唆している(下條信輔、2008、『サブリミナル・インパクト』ちくま新書、25ページ以下)。ただし、因果帰属が明確になされず、遡及して因果帰属が為される場合がある。・・・その遡及が、意味適合的に、価値がコミットしている場合もある。とはいえ、外延の選好レベルの傾向性は、内包と相対的に独立である。

 ところで選好は、新奇性と親近性に大きく左右されると言う。また顕在的情動が新奇性にかかわるのに対し、潜在的情動が、親近性にかかわるとも。これは新奇性感応的な顕在的情動と、親近性感応的な潜在的情動(後者は情動をはみ出して価値に寄り添うことになる)とに分岐するわけである。下條からの引用をもって語らしめる。

さて、音楽のような聴覚刺激の場合、赤ちゃんの視覚やクロスモダル(感覚間)の場合、おとなの視覚の場合と、いろいろ見てきました。共通しているのは、古い覚えのある刺激の方が魅力的になるという主張(親近性原理と呼びましょう)と、新しい刺激の方が魅力的という主張(新奇性原理)とが、両方あるということです。言うまでもなくこの両者は論理的な意味ではもろに対立しているのに、です。
 前掲書89-90ページ
 要するに、新奇性を好奇心によって「探索」するわけである。そのことの妥当性は、認知科学によって証拠立てられている。
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