2019年07月15日

他者の系譜学(承前)・リッカートの問題圏=2019/7/21=2019/11/13=2019/11/15=2020/1/1=2020/1/13

「贈与」:誠実・超越的当為・認識の対象・妥当と認知主義に連なるもの・・・・・措定としての他者・極めて強い実在性
「承認」:隣人愛・アガベ―の超越・異定立・解釈主義・記憶・取り戻し・・・・・彼岸としての他者・強い実在性
「交換」:経済・新カント学派社会主義・フィヒテの他者・文明価値・怜悧・・・・定立としての他者・弱い実在性
「享受」:宗教的な次元・エロスの問題系・ファウスト・愛のタクソノミー・・・・仮設としての他者・極めて弱い実在性 

誠実に関連して・認識論の形而上学的地盤・価値実在のテクスト・カントの悪・義務論的認識論・同一説への逸脱  誠実性・述定>期成
隣人愛に関連して異なりの超越・強い強度の意味・措定の問題圏・自己了解の要請・ファウスト的な世俗内的超越  ロゴス・較認>照会
経済に関連して「哲学の根本問題」の文明価値・外在的価値・非我の定立・ホネットの問題系・手段的価値と信頼  作品化・照会>較認
性愛に関連して愛の学・完結的部分性・行為者相関性・ヘレナ/グレートヒェンの世俗内的歓待・サルトルの他者  パトス・期成>述定


・照会以前的に、選好の差はついている。普遍化された照会同士の選択で、較認が効いてくる。
・帰結主義的なものが概して実在の強度が強い。
・宗教的な次元は自己愛と隣接している。
経済的価値と審美的価値が癒着してしまっている。
・興発的価値判断は普遍性をもたぬより、価値判断から放擲される。情動の一種にすぎない。
・普遍化は個人で閉じている。
・述定的価値判断と道徳的価値判断は、再較正により、命題価値から分岐する。
・述定的価値は、すべての価値判断と情動をレジスターできる。



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2019年07月14日

他者性の系譜学=2019/11/13=2020/1/1

倫理という他者性への四つの経路 

非帰結主義は、価値観準拠によって、帰結主義は観察者中立的=幸福追求=財実現によって特徴づけられる。

「自己定位」は、〈自己拘泥〉によって、「世界志向」は「まったき利他」=自己から離れること=「主義」からの離脱によって特徴づけられる。

ここで「世界志向」が自己評価中立性(自己評価相関性の反対)を意味しているかは、興味ある問題である。

「自己善」=「自己定位」の価値観準拠=「最小倫理」である。

「世界の善」=「世界志向」の幸福追求=「隣人愛」である。「隣人愛」は功利主義的なもののほかに、「平等主義」的なものがあるかもしれない。(心情倫理は、非帰結主義より広袤をもち、「世界志向」の幸福追求としての「平等主義」を含みうるだろう。)

 ここで得た四類型をまとめると、自己定位的な「最小倫理」(非帰結主義)・「契約論的功利主義」(帰結主義)に対して、世界定位的な「義務論」(非帰結主義)・「隣人愛」(帰結主義)である。

 自己定位的であるとは、他から財を享けることであり、世界定位的であるとは、他から意味を付されることである。

 非帰結主義とは、自ら意味を付すことであり、帰結主義とは自ら財を与えることである。

 自己定位的な非帰結主義とは「享受」であり、自己定位的な帰結主義とは「交換」である・世界定位的な非帰結主義とは「承認」であり、世界定位的な帰結主義とは「贈与」である。

これをリッカートで言えば、

 「享受」:性愛・エロスの問題系・ゲーテのファウスト・・・・仮設としての他者 人格財の享受 期成>述定 聖 作品化 非帰結・中心

 「交換」:経済・新カント学派社会主義・フィヒテの他者・・・定立としての他者 物件財の交換 照会>較認 美 パトス 帰結・中心

 「承認」:隣人愛・アガベ―の問題系・異定立・・・・・・・・彼岸としての他者 人格財の承認 較認>照会 善 ロゴス 非帰結・中立

 「贈与」:誠実・超越的当為・認識の対象・・・・・・・・・・措定としての他者 物件財の贈与 述定>期成 真 誠実性 帰結・中立




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2019年06月30日

非利他主義/利他主義=2019/11/13=2020/1/1

 他者の「厚生的-帰結」を重視するならば、それは功利主義を促す。逆に人が非帰結主義をとるのは、以下のような選択肢の間の決定によっているものと考えられる。つまり兵器研究所への就職は、サボタージュによる兵器開発遅延をとおした負傷の軽減のような世界の「厚生的-帰結」(兵器開発遅延という「利他」への些少の寄与・世界の財実現)、就職をえられる自己の幸福(みずからの不遇の改善・自己の財実現)、ならびに非帰結主義的要素の無視(世界と自己における価値観無視)とをもたらす。他方、兵器研究所への就職の忌避は、兵器開発に反対しないという、世界の「厚生的-帰結」の断念(なおざりにされた些少な「利他」・世界の財断念)、就職できない自己の不幸(みずからの不遇・自己の財断念)、自己の価値観を尊重した非帰結主義的要素 (自己の価値観準拠)をもたらす。〔これらとは別途、兵器研究所の就職が、〈自己拘泥〉的要素を揚棄した義務の実現である場合もあろう・世界の価値観準拠。〕

 両選択肢は、その総和を計算できないとはいえ、それらにわたって選択の自由がある。このさい、社会全体の幸福の実現可能性が少なくても、ジョージのような「自己定位」は、意志貫徹をとおして戦争への抵抗のメッセージを発信しうる。その方が戦争という「状況」に対して、自己の「主義」を発信できる。つまり「自己定位」ならば、そこに通俗的に自己が措定する「主義」を見いだしうる。――かくて第二に、〔「自己善」に顕著な〕「自己定位」vs. 〔功利主義、とくにその「隣人愛」に典型的な〕「世界志向」という、非利他主義vs利他主義の対照がえられる。

 これに対し、安彦は、功利主義的な「世界の善」の倫理を「自己善」に正対せしめる。そもそも責任倫理は、彼の言う「世界の善」の倫理と、結果の善し悪しを問う点をとりだすだけなら似ており、重なる部分を追求してゆけるのではないか。「世界の善」とは、「或る行為が帰結する、その行為以降の世界の全状態の属性である。……功利主義における「動機」性とは、この全般的な「世界」事態の「最善」を目指そうというものである」(安彦一恵、二○一三年、一六五頁、傍点強調原文)。

 安彦は、この概念を彫琢するにあたり、とくにゴティエを議論の端緒としている(Cf.Gauthier, D.P., 1986, p.60.etc.)。例えばゴティエは、『合意による道徳』のなかで、「合理的選択理論」、ゲーム理論、バーゲン理論等を駆使し、「目的合理性」に沿った道徳を考えていた。すなわち「目的合理性」をお手本とした戦略的合理性が、道徳の基礎とされる。論点先取をはばからずに言えば、道徳的命題が普遍化される途として、「世界志向」と財実現という二つの経路が考えられる。そこで「世界志向」が「まったき利他」――そこには「自己にこだわる/自己満足的な」利己性の要素がない――をもっぱらとし、財実現が幸福追求をもっぱらとすると考えよう。とすれば、財実現の倫理(「世界の善」は、その「世界志向」形態に限定する)を説く契約論者ゴティエに、「世界の善」へと至る、移行段階を認めることができる。彼の「契約論的功利主義」が、財実現をとおした〈自己拘泥〉でしかないなら、通俗的「主義」に準拠する限り、「自己定位」を離れられないと言えよう(つまり「真正な利他主義」ではないこと)。したがって安彦と異なり、「契約論的功利主義」を、自己の(非帰結主義的な価値観ではなく)幸福にかかわる「自己定位」(それに対し「自己善」は、その価値観重視形態に限定する)と見なす。

 もとより「契約論的功利主義」を採用した結果の方が、個人にとって通時的に損ではなるかもしれない。他方、非合理的だが、頭から「世界の善」を信じた方が、〔厚生主義的に、総和主義的に〕「トータルには」善になるとする態度に、安彦は道徳的要素を見いだしている。これがゴティエには見られぬ安彦の「追加的修正」であり(安彦一恵、二○一三年、六八頁)、〔「契約論的功利主義」の域を超えた、不特定の人を均し並みに愛する〕「隣人愛」につうじる要素である(以下、「隣人愛」の論点は、安彦氏からの私信によって示唆を受けた)。

 ここで一定の自己利益を留保しつつも、協調的信頼のなかに身を置く、という倫理学固有の解釈が可能となる。その解釈では、総和的に見て、他者たちの状態が最善になるという理想すら、不要とされる。通俗的に理想とは、ほぼ定義的に一つの「主義」だからである(安彦の論点)。筆者の見るところ、安彦がゴティエを措いて、功利主義的な「隣人愛」に与する所以である。ひいては、それが自己の責任意識(責任感という自己のトポスの〈帰結〉) を伴わぬ限りで、「自己善」を敬遠して「世界の善」へと帰着する。かくて、他者たちの「厚生的-帰結」を志向することで、利己性が前面に出た経済的合理性を迂回して、安彦は「契約論的功利主義」を昇華し、「隣人愛」を「世界の善」として抽出しえた。Sitteという準拠枠をとるなら、「自己善」(さらには「契約論的功利主義」)に対して、当然、達人的な「世界の善」は倫理的により高いだろう。

 しかしながら、安彦の「まったき利他」〔の候補である功利主義的「隣人愛」〕という醒めた意識は、動機となりにくいのではないか。これから見れば、もっぱら自己の価値観準拠である「自己善」にも、合理性理論として広義の功利主義に劣らぬ意味があると考える。ただし〈善の自己拘泥〉について誤解なきように言っておけば、善が自己を起点としていること(「自己定位」)の謂いである。それは「主義」へのコミットであって、〈善への通路〉が他者に閉じられていることとはちがう。もとより「自己定位」の価値観に準拠するからと言って、誠実な関係を他者と築ける保証はない(たんなる同じ主義者同士の相互承認)。それゆえ、帰結の点から言えば、個人にとって「賭け」にとどまる。これは2016/12/24の科研費研究会にて加藤泰史が指摘した論点と重なる(「自己」から「他者」へと格率を解放する加藤に顕著な「自己に対する義務」の論点・九鬼2018年科研費報告書)。とはいえ、それでも「価値観的に」同形の他者を想像する余地は残る。したがって、そのなかに「賭け」に共鳴する他者存在の可能性が示唆される次第である。自己に定位したとしても、他者との関係を築く可能性に「賭け」るなら、他者への倫理的な〈通路〉を開きうるかもしれないのである。

☆契約論的功利主義は純粋な利他主義であるが、真正の利他主義でないことに鑑みて、非利他主義ととらえ、真正の利他主義・帰結主義であるところの隣人愛と区別する。そうすると自己善を契約論的功利主義と同レベルの倫理性にまで持ち上げることができる。ethics14.pdf

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2019年06月29日

自己善・・・非帰結主義かつ非利他主義=2019/11/13=2019/12/31

 大学紀要の出版がされたので、著作権的に問題ないかと思い、その一端を公表する。

「自己善」は、と言えば、「他者の」幸福追求を、相対的に重視することなく、心情倫理との重なりを追求してゆける。けだし倫理学は人間性についての「学」である以上、合理性に依拠し、合理性は、「学」に対して統合性・普遍性等を要求するであろう。実際、ヴェーバーの――価値合理的行為=「ある特定の行動がもつ無条件の固有価値についての、倫理的・芸術的・宗教的なその他の、純粋にそのものへの、あるいは、結果を度外視した、自覚的な信念にもとづいて、行為すること」(根本概念WG:S.12.傍点は原文ゲシュペルト)を倫理的に昇華すれば獲得できる――心情倫理は価値観を優先し、人の纏まりたる統合性を志向する。その価値観準拠は、自己という「トポス」の充実を意味しており、普遍性をいささか犠牲にする。しかし筆者は、そのなかで価値観準拠を説くものを、主観的合理性の範疇に収めることができると考える。したがって、自己にこだわる合理的言説を、「最小倫理」と認めたい。それにあっても、あくまで倫理だから、自分のためだけの利益に自足することはない。自分が道徳的に善いと考えるものを――対自的には利己性に傾くにせよ――撰取するのである。ここで先回りして、「自己善」すなわち「最小倫理」という図式を、一応仮設して、その構成要素を掲げておこう。

@非帰結主義(価値観準拠)
 導きの糸となるのは、ヴェーバーの心情倫理批判であろう。彼は『職業としての政治』(一九一七年一月二八日)で、とくに心情倫理に低い評価を与えた。もとより彼は、達人的とも言える責任倫理を高く評価したとはいえ、心情倫理を放擲してしまったのではない。すなわち個々の行為は、その結果のみが倫理的天秤にかけられるとは限らないし、人格という観点に立てば、帰結への配慮よりも、むしろ価値観が問われるとした。ここから私たちが「自己善」と目してえられるものは、幸福という帰結から消極的にえぐりだされる、――それ自身では、公共への帰結を禁欲する価値観の倫理、つまり非帰結主義の一類型である。もとよりそれが、社会全体の幸福追求を第一義とするなら帰結主義に移行するが、小集団の連帯感・「絆」を中心にするかぎりでは、非帰結主義の域にとどまる。
A非利他主義(「自己定位」)
 功利主義的な厚生主義は、Sen,A.K.,1997,p.278によると事態の善は、個人効用の集合の善によって判断されるべき( must)だとする。こうしたセンの規定を承けるなら、幸福は人の豊かな生を反映しているが、人はそれのみを、評価の尺度とすることはできない( Sen, A.K., 1987a,Chap.2,p.41. )、という見方も成り立つ。彼によると、私たちは、目標、責任、価値等を形成する人間の能力を尊重すべきである。――少なくとも私たちは、俗見たる、自己にこだわる「最小倫理」を受け入れている。そしてセンは、生き方に踏み込んで、「主体性」重視の議論を展開する。そのさい、彼は各人の倫理観の重要性を強調し、功利主義に対する批判を押し出している。つまり、私たちが「自己善」として出会うのは、「まったき利他」の「世界志向」(「世界の善」を「世界志向」より狭くとる。)と相並ぶものとして、積極的に浮かびあがる「自己定位」という要素である(「自己善」を「自己定位」より狭くとる)。この「まったき利他」の否定(つまり自己にこだわる倫理)を、暫定的に非利他主義と呼んでおく。
 したがって、低幸福条件のもとでの「最小倫理」は、非帰結主義であり、かつ非利他主義として、かたどることができるであろう。
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2019年04月14日

開店休業

 雑誌掲載論文の著作権の関係から、ブログに新しい考えを公表できませんでした。去年から書いている、現代哲学と価値論の話は整理し直す必要性を認めているのですが。
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2019年01月25日

これが「ひねり」だ。=2019/11/13=2019/12/31

 マンドリン事例には、さらに意図と言えるものがある。それは、作者エラリー・クイーンの意図である。彼にとってのマンドリンの機能・記述は何か。凶器?鈍器?いや「巧妙な凶器」と言うべきであろう。作中人物とは違う次元で、作者の意図は、読者との間に「重畳性」をもちうる。このフィクションにかかわる解釈の共有を「解釈性」と呼ぶことにする。

 ここで読み取るべきは次の点である。

 作中の凶器・鈍器・楽器という意図と、作者の意図が「逆立」するところに、「巧妙な凶器」の技巧性が生まれる。この内包に即した新しい価値の策出は、九鬼が「ひねり」と呼んだものと対応する。: 「ひねり」と呼んだのは、次のような例であった。いくつかの価値判断があるとする。イヌは噛むから、相対的に危険だ(a1(k1), K1)(a1(k1)は帰結k1の記述。K1 はk1を含む機会集合。以下同様)、転びやすい床は、相対的にあぶなっかしい(a2(k2), K2)、……を総合して、私たちは例えば、「身体的健康に配慮すべきである」Vaという類の一般的な価値判断を形成する。ただしここでは単純な一般化と言うより、一種の「技巧」が加わる。すなわち、バンジージャンプは危険だけれど、相対的にスリルがある(a3(k3), K3)、多量の飲酒は体を壊すかもしれないが、相対的に快楽を伴う(a4 (k4), K4)、といった(a1 (k1), K1), (a2 (k2), K2)と一見、整合的でない価値判断がある場合、「自己の身体は大切にするべきであっても、自由主義の享受を適度に実現する可能性がある分には、身体を危害にさらしてもかまわない」Vaという具合に、一見予想される「身体的健康に配慮すべきである」Vaより、技巧を経た《ひねった》「解釈」を個々の価値判断間につけるのである。その技巧性により、「ひねり」は、美的観点からだけではなく、高い価値をもちうる。

 審美的判断の照会>較認と倫理的判断の較認>照会を区別する必要があろう。N>DはNが当為的機能、Dが慾動的機能を果たすことを示す。

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2018年12月29日

記述と機能・マンドリン事例(3)=2019/11/13=2019/12/31

 マンドリン事例の意図の解釈性について。マンドリン事例には、まだ意図と言えるものがある。それは、作者エラリー・クイーンの意図である。彼にとってのマンドリンの機能・記述は何か。凶器?鈍器?いや「巧妙な凶器」と言うべきであろう。作中人物とは違う次元で成り立つこの意図は、読者との間で共有される。
 ここで読み取るべきは次の二点である。
@ 作中の凶器・鈍器・楽器という意図と、作者の意図が「逆立」するところに、「巧妙な凶器」の「技巧的」価値が生まれる。この内包に即した新しい価値の策出は、九鬼が「ひねり」と呼んだものと対応する。
A ティーパーティー事例における、後知恵でこしらえた、「無難さ」・「冒険」といった記述は、一応、現実のシミュレーションとして理解されうる。だがしかし、ティーパーティーの解釈の技巧性は、上の「解釈性」と類似してくるのではないか。つまり、虚構のフィクションをいかに解釈する問題と、現実をいかに解釈するか、という問題の類似性である。先に、解釈性とあえて虚構性という表現を使わなかった所以である。フィクションとシミュレーションに通底する解釈の要素を、「解釈性」とあらたに定義したい。つまり、フィクションとシミュレーションの未規定部分解釈問題を、「解釈性」という共通の発想で捉えたいのである。このように考えると、現実の未規定部分解釈問題、つまり意思決定問題は、フィクションとつうじる部分をもっていることが明らかになる。これを現実のフィクション化という反自然主義的構図によって収めたい。とくにその例示として、ティーパーティー事例のマンドリン事例化を掲げることにする。
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2018年12月20日

記述と機能・マンドリン事例(2)=2018/12/27=2019/11/13=2019/12/31

 Yの悲劇の場合、殺人立案者と、殺人者が違う。殺人立案者のシナリオに従って、殺人者はマンドリンで殴打して殺す。ただしそのさい、シナリオの「鈍器」を誤解して「楽器」を、マンドリンに当てはめている。
 このさい、三つの機能・それに対応した意図が考えられる。
 マンドリン製作者の楽器としての機能・記述は楽器になる。
 殺人立案者の鈍器としての機能・記述は鈍器となる。
 殺人者の凶器としての機能・記述は凶器となる。
 ここで解釈のもつれを逸脱性と呼ぶなら、殺人立案者は、殺人する意図はもたないが、マンドリンは凶器であり、鈍器である。殺人者は殺人する意図をもつが、マンドリンは凶器であり、楽器を誤解した意味において、鈍器である。
 では「意図によって、本来の機能が確定する」という立場に立つのなら、マンドリンは何と記述されるべきなのか。この殺人劇では、マンドリンは凶器であり、かつ、「不透明な意味」での鈍器というべきではないか。
 もし、逸脱を強調するなら、ここで、解釈の重畳性はなりたたない。しかるに逸脱のなかで共通性を探ってゆくなら、凶器かつ不透明な鈍器において、解釈の重畳性が成り立つのである。ただしこのような危うい一致が成り立たぬなら、一致なき逸脱性が、この場合で見られるということになる。
注意:Yの記述の偏見的表現に与するものではありません。
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2018年12月10日

記述と機能・ティーパーティー事例=2019/2/1=2019/11/13=2019/12/31

 記述を拡張された選択肢にもちこむと独立性が侵犯されることが知られている。記述を含んだ選好に、独立性を追求する試みを考えたい。これはあるていど、帰結に本来的な機能をもちこむ試みに一致する。
 センのティーパーティーの事例を状況的人工物の例に改作する。x;自宅の椅子 y;友人宅のティーパーティーの参加券 z;吸引するコカイン。
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではxが選ばれるとき、無難(y)=無難(x)という内包的に独立な選択が選ばれている(外延的には独立性は保たれない)。
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではzが選ばれるとき、遊興(y)=遊興(z)という内包的に独立な選択が選ばれている。
yに無難か遊興か、いずれかの記述を与えることは、選択者の意図に委ねられている。このように考えて、内包の整合性を追求すれば、ティーパーティー事例は、独立性への反例にはならない。
補足:
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではyが選ばれるとき、人を選ばぬ社交(y)=人を選ばぬ社交(y)という内包的に独立な選択が選ばれている
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではxが選ばれるとき、自閉(x)=自閉(x)という内包的に独立な選択が選ばれている
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではyが選ばれるとき、気まぐれ(x)=気まぐれ(y)という内包的に独立な選択が選ばれている(外延的には独立性は保たれない)
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではzが選ばれるとき、反社会社交性(x)=反社会社交性(z)という内包的に独立な選択が選ばれている

これらの照会的な記述のうちで、優劣ということを考えることができる。そのさい働くのは、選好充足的な考え方に、解釈学的(反照的均衡的)な循環を持ちこむ議論である。
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2018年10月20日

記述と選好=2019/2/1=2019/11/13=2019/12/31

 価値の高低を論ずるためには「修正された拡張された選択肢」を導入しなくてはならない(記述を視野に入れているので、厚生経済学の定式化と異なる)。相互に排他的で、結合すれば網羅的な帰結〔となる対象〕αに対して、その全体集合をXX∋α,β,γ, ……, n(X)をXの要素の数とすると、3≦n(X)<∞)、Xの非空な有限部分集合全体の集合族をKとする。Kの要素はA,B,C,……によって表わされて、それぞれ機会集合と呼ばれる。A,B,C,……には記述f(α) (α∈A),g(β) (β∈B),h(γ) (γ∈C), ……が対応しているものとする、ここで「拡張された選択肢」(鈴村興太郎,2009,310-311頁)を修正して、α∈Aで (f(α),A)(修正された拡張された選択肢)を「Aからf(α)を選ぶ」と理解すると、期待効用にもっぱら注目した選好、「iは(f(α),A)を(g(β),B)より選好する」がえられる((f(α),A)Ri(g(β),B))。
 見通し@鈴村興太郎の対象に関する選好の公理化に依拠すれば、帰結主義的/非帰結主義的選好を統一的に把握できる。すなわち独立性と単純な無差別性と単純な単調性を要求しさえすれば、体系を・・・少なくとも対象の選好についてかたちづくれる。これは外延的に有効である。
 見通しA記述と対象に関するテクニカルな問題。((f(α),A)Ri(g(α),B))・・・同じαを選ぶにしても、機会集合が違う場合、10品目の対象からαを選ぶ、5品目の対象からαを選ぶと記述が変わってくる。
 さらに悩ましいのは((f(α),A)Ri(g(α),A))の場合である。事後的に記述が与えられたら、記述・内包のレベルで独立性を追求できる。・・・これは響きをさせ、外延のみに訴えることができないことを示している。つまり響きとひねりの区別は、いっしゅ便法であり、この選好の段階では、ひねりの要素が浸潤してきているのである。両価値判断の区別があくまで、説明を単純化するための区別であることをテークノートしておきたい。
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2018年09月14日

自然のなかの情報・表象=2018/9/30=2019/2/1=2019/12/31

 戸田山和久『哲学入門』を読んで、いささか戸惑っている。機能の言及はあるのだが、循環的でないかたちで「本来の機能」が定義されているとは思えないのだ。それから、きゃっ、目的論のインフレーション。生物学へのアレルギーとあいまって、目的論をかくも正面から、論じることに懐疑をむけたくなる(目的論的偶然が進化論の真骨頂ではなかったのか・機能概念ということに、論点先取がもちこまれている気がする)。ということで不満やるかたないのだが、情報・表象の部分のサーベイをする。

 情報の数学的定義のところは、うさんくさい。情報エントロピー・確率エントロピーが、自覚的に区別されているのだろうか。このあたり大学で批判的な論文も読んだし、地学の浜田隆士先生の進化概念ともそりがあわない。
 すこしだけ共感をおぼえたのは「知識の定義:エージェントAがPということを知っている⇔AのPという信念がPという情報によって因果的に引き起こされた」というくだり。ふむふむ。価値判断も広い意味で知識なのだろう。Pという情報が客観的にあって、それが因果的に価値判断を引き起こした・少なくとも較認のレベルで・・・こんなことを言ったら、ヴィンデルバントは怒るだろうな。でも、新カント学派が自然化されてもいっこうにかまわない気もする。
補足:目的論より因果論の方が、ずっと外延の選好を考えるには有効である。「判断は何のためにあるのか」「真理という価値を承認するために判断をするのだ」これって、真理があとから判って、それから承認の意味付けを与えているのではないか。つまり承認されたものが真理であるということから遡って、その由来として価値があったという後知恵をつけているのに等しい。真理であることと独立に承認ということを言わないと、判断の目的が真理価値の承認にあったということは、トートロジカルになる。もとより、価値には自己解釈の文脈のコマ(そして整合性というかなめのピースを与えるのだが)にはなるが、価値と目的論の淫靡な結託には、反対したい。目的論なしの価値論にひかれるゆえんである。

 まあ、情報はこれぐらいにして、表象へ行こう。生き物に有用なのが「局地的情報」であるということはわかる。記号と記号が表わすものとの間のむすびつきが、確率的には蓋然性をもたなくてはならないことも。志向的表象は因果連鎖の途中をすっ飛ばして最も遠くにある因果的先行者を表象することができる・・・これは納得。

 どうも確率のところが浮いているような気がしてならない。確率が高いなら、情報がおいしそうという一方で、確率が低いからこそそれをありがたがる(自然にはみられにくい目的)ということもあるのではないか。つまりレアなおいしさというものも、あるはずだ。う〜ん、これはこれで悩ましい。
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2018年08月10日

現代価値論への警鐘=2018/9/22=2019/2/1=2019/12/31

 現代価値論は、すぐれて総体的で包括的な反省を迫る価値を、身体的な情動の構成に委ねてしまう。それは従来の「人間観」、ヒューマニティにラディカルな「思考法の革命」を及ぼしかねない(牧野英二,2013)。もとより科学的知見としての意義を、全面的に否定するものではないが、ともすれば、それがもたらしかねない「人間性」を解体/縮減する知的作業に警鐘を鳴らさんとするものである。こうした基本的立場に立ち、新カント学派の価値哲学を、現代価値論に対置せしめ、その可能性を再考したい。そのさい生の自己解釈を反省的判断力に即し、かつ情動の反省をベースに考える点では共通なディルタイを、現代価値論と新カント学派の中間に位置付け、両者の優劣を吟味する対照項として設定することにする。
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2018年06月18日

再較正=2018/9/18=2019/2/1=2019/12/31

 

 高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。身体的変化の知覚のなかに、高次認知的情動であるものがあるか否かは、高次認知的情動として何を認定することが先決要件となる。ここで身体性の評価は、判断が構成要素になって認知的に精緻化されるわけではない、とプリンツ は主張する。認知的状況が情動の種類を決めるのは「較正」(calibration)によっている。「較正」に応じて、或る「探知機」(プリンツ)に反応する情動について、「或る探知機で測ったらAだったのに別な探知機ではBになる」という不一致が生じないように、それぞれの探知機の追跡のずれを把握し、進化論的に適合した共通の探知の基盤を作る行為だからである。さらには進化論的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、同様な再較正によって説明されうる。 例えば通常の身体性の怒りは、或る種の判断の状況下では、不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬となる。このように別の原因、つまり認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではないが、「再較正」においては認知的状態が、身体性の評価がどの情動の種類に属するかを決めるものである。そうだとすれば、高次認知的情動の「ドクサ・思いなし」の独特性を認知は隈取り、「価値判断」の種差を規定するのである。あらかじめ見とおしを言えば、「ドクサ・思いなし」に対するメタ的な反省が、xする命題内容をかたちづくり、「価値判断」を成形してゆく。

・再較正によって、情動が照会的選好になったり、較認的撰取になったり、価値の様相を変えてゆく。価値の本性とは案外一元的で、映現する再較正によって種差が現われるだけではないだろうか。


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2018年06月16日

ディルタイの認知的契機の包摂=2018/9/18=2019/2/1=2019/12/31

 

 ディルタイ一九〇六-一九〇八年頃の全集24巻中講義Aでは価値とは「快ないし満足によって性格づけられる状態、この状態を惹き起こす対象、もしくは、欠如によって不快をもたらす対象」(Bd.24,A:S.33.)とされている (Vgl. Bd.24,C:S.213. =A.45.266.)。さらにディルタイは思考作用による統制を積極的に認める(Bd.24,A: S.20. Vgl. C:S.238.)。生のうちの「所与」が、価値判断においても重要なのはいうまでもない(Vgl.Bd.24,A:S.20-21.)が、思考は、感情や衝動に直接含まれる価値規定をたえず修正してゆく (Vgl Bd.24,A:S.19, S.22-23.)。ディルタイは価値判断/規則のGeltungを認め (Vgl.Bd.24, C:S.227,S.233,usw.)、〔現実判断ならざる〕価値判断は、現実の対象を前提にしつつ(Vgl.Bd.24,C:S.229,usw.)、相対的に生の連関から自由になってゆく。・・・ディルタイの思考は低次元レベルのそれである。述定的な高次のレジストリを行うわけでない。

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2018年06月14日

情動のモジュール性=2018/9/18=2019/2/1

 ミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように認知的契機を、知覚に委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるにこの偽ミュラー・リヤー図形がもつ錯視安定性から、もう一本に比べて短い錯視を抱くことも考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。このことは一、錯視のモジュール性が体系性を欠いていること、二、錯視と中立的な判断が変われば、見かけの内容も変化しうること(情動について言えば、飛行機恐怖症に安全性を教えると、自分の小心に自卑の情動を抱くように変わるかもしれない)で、錯視のモジュール性を反省的判断まで及ぼせないことを示唆する。

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2018年06月09日

存在と価値の二元論=2018/9/17=2019/1/31=2019/12/31

 

事実から価値を導けない、と言われることがある。どういうことだろうか。価値的性質は事実的性質に還元されない。もちろん或る性質が別の性質に還元されず、それに付随するだけであっても、多様な各分子の質量と速度のいずれからも、気体が平均分子エネルギーEをもつことが導ける。しかしこの場合、事実的性質に非経験的な法則を適用して事実的性質を導けたのだが、どんな論理的操作を加えても、認知的にすぎない事実的性質から、情動的指令を含む価値的性質は導けない。

新カント学派的な存在と価値との二元論は、この点に与するとはいえ、やや事情は込み入っている。もとより事実判断(一次的な判断レベルの表象結合の強調)と狭義の実践的評価(二次的な判断レベルの態度決定の強調)とのちがい、さらにはかけがいのない個体の価値付帯性(判断内容としての価値関係性)と法則論的事物性(判断内容としての価値無関係性)とのちがいをもうけているものの、事実判断や事物性は理論的価値の認知(一次的な判断レベルの表象結合+二次的な判断レベルの態度決定)をまってはじめて成立する。とくにリッカートの歴史哲学的論考では、論理的価値関係性の議論と、評価的価値づけの議論が整理されぬまま、接合されていると言っていい。仮に価値判断の認知説が事実判断を価値判断の基底におくものであるとしたら、そのままのかたちでは新カント学派に合致しない。というのも、事実判断が価値判断を前提している以上、一見、循環することになるからである。そこで判断内容としての事物的性質(内容としての価値無関係性)と、判断形式としての表象準拠性(一次的な判断レベルの表象結合)とを区別しよう。前者は、事実的性質と価値的性質の対に対応するものであり、事物性から価値関係は導きだせぬという定式化を得ることができる。新カント学派は、評価的/実践的に意義あるものとして価値的性質を撰取した。後者は、表象結合の強調と態度決定の強調の対に対応するものであり、結合するかたちにおいては、理論的価値の認知、分離するかたちにおいては、実践的評価の決定という、二様の映現をする。したがって認知的レベルの、二重判断の結合を強調すれば、新カント学派は認知説に傾き、評価的レベルの、二重判断の分離を強調すれば、それは情動説に傾くという次第になるのである。

一般に認知説といった場合、価値的性質(対象の価値付帯性)の認知にかかわり、それは理論的に措定される場合を念頭に置くから、――ここで先の選択肢を交叉させれば――価値判断の認知説は、価値的性質(判断内容)の二重判断的措定(判断形式)という新カント学派の立場と整合的に理解することが可能である。高次認知的情動は、認知的要素と情動的要素をもっている。前者は価値判断における二重判断の結合と、後者は二重判断における分離(評価の主題化)に足並みをそろえる。高次認知的情動の「命題的態度」は、言わば表象結合態として所与となり(Nonrepresentative-argument)、メタ的な反省として価値的性質を、妥当する命題内容としてかたちづくり、「価値判断」が構成される。


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2018年06月07日

認知的に精緻化された身体性の評価は、純粋に身体的である=2018/9/17=2019/1/31=2019/12/31=2020/2/10

較正をいれた訂正版。 

高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。さて認知的に精緻化された身体性の評価は、身体性の評価のみから出来上がっている、とプリンツは主張する。不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬は、別の原因、つまり別の認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。つまりもともとの表象とは異なった、別の使い方がされるように、身体性の評価と判断を結びつける「再較正」なされているのである。このさい認知的状況が、情動の種類を決めている。こうして較正に応じて本来の情動からの逸脱が説明されうる。これらを考えると、身体的メカニズムに高次認知的情動が対応すると思われる。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではない。だから価値判断と連続する情動として、高次認知的情動の「命題的態度」を位置づけよう。あらかじめ見とおしを言えば、「命題的態度」に対するメタ的な反省が、妥当する命題内容をかたちづくり、そうして「価値判断」というものを成形してゆく。///いや、身体的メカニズムに高次認知的情動はぴったり重ならない。とくに価値判断にいたるものとして、相在経由の動因的なものと、妥当経由の動機的なものがある。善や価値は一枚岩でない。

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2018年06月05日

高次認知的情動=2018/9/7=2019/1/31=2020/2/10

 

高次に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に愛情を感じていないのに、――世間体から悲しむそぶりをしていて、実際愛情ゆえ悲しんでいるかのように、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合、悲しみの感じ・振る舞いがともなうことがあろう。にもかかわらず、当人は愛していないのだから、悲しむべき理由を全く見いだせない。それは「自己演技的悲しみ」というべきである。この場合、モジュール性が維持しがたいのは、悲しみの背後の愛情の有無が問われているからである。

ポイントは高次認知的情動「愛情」の観点から、「悲しみ」のような感情プログラムが派生しうるという点である。情動の認知的契機としては、「愛していない」という「高次の判断」があって、見かけの「自己演技的悲しみ」は括弧入れされる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけという了解において、十円玉の見えは括弧に入れられ、「実際は巨大である」という判断を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、「悲しみの感じ」と「悲しくない=愛していないという認定=価値判断」とは同格でなく、後者の判断によって、「悲しみの感じ」が滅せられるのである。受け容れられているのは、「愛していないから悲しくない」という価値判断だけであり、見かけは阻却されるのである。身体的反応(ここでは脳状態)が情動と「密接に」連動しているわけではなかろう。


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2018年05月05日

情動の認知説18=2018/8/31=2019/1/31=2020/2/9

「はらわたが煮えくりかえる」邦訳p.10
ヌスバウムもストア派の考えにしたがい、情動を、「価値負荷的な見かけ」を承認する判断と定義している(Nussbaum,2001)。価値負荷的な見かけとは、出来事を価値づける解釈のようなものである。たとえば、家族の誰かが死ぬことは、繁栄が困難になる重大な損失とみなされるかもしれない。ここまでは通常の認知説だが、私が理解した限りでは、ヌスバウムはさらなる要件を加えている。その要件とは、見かけが価値負荷的なものであるためには、その見かけが正当化されているという趣旨の別の判断が形成される必要があるというものである。この主張のために、彼女の理論は単なる認知説ではなくメタ認知説になっている。つまり情動には判断についての判断が必要なのである。
同p.39
認知説はすべて、情動に含まれている認知的要素は身体変化と同一でないし、身体変化を記録する内的状態とも同一ではないと主張している。なかには、情動は何の身体的要素なしに生じうると主張する認知説もある(Nussbaum2001,Solomon1976)。
同p.58
彼女によれば、情動とは、〈われわれの評価的判断は正当化されている〉という判断である。例えば恐怖は、〈自分の福利を脅かしているものがあると信じることが正当化されている〉という判断になるかもしれない。
幼い子供や幼児が情動をもつためには、高度に洗練された認知の観点から、情動を定義できない・価値判断に到達できないことを示している。
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2018年04月28日

高度認知的情動=2018/8/29=2019/1/31=2020/2/9

 情動は事物の性質と呼応している、と言われることがある。すなわち身体的反応が対象の性質を表わし、脳がその反応を感受する、というわけである。論者は、情動は身体的変化の感受であるという仮説を支持すべく、情動と身体的な原因の間に相関を立証しようとする。その過程で高度認知的情動を「情感」(affection)として区別する。高度認知的情動とは、本来的に認知的と見える情動であり、洗練された認知能力を必要とする、嫉妬・罪悪感・恥・誇り・忠誠心・復讐心である(グリフィスの考え)。そうした情感にかかわる言葉として《響き》と《ひねり》という二種類のカテゴリーを呈示したい。果たして身体的反応を感受するレベルで、情感は説明しつくされるのだろうか。情感の基準は身体的にではなく、志向的な内容によって与えられるのではないだろうか。ここで論じるべき多くのことがら(価値実在論・美をモデルにした価値比較等、いずれも新カント学派と密接なトピックである)があるが、「情感」=命題的態度が安定した価値体系との接点であるという見地に立ち、情動のなかでも注目して、〔新カント学派の遺産たる〕価値妥当説との対話を再検討したい。

 信原の例で、イヌへの恐怖と、「怖くない」という、二つの契機が出てきているのに注意すべきである。ここで勝義の情感は後者の信念であると〔して、その上階に価値判断を措定し〕たい。@「怖くない」が恐怖を問題にしているかぎり、「否定」の情感であると考えられる。ということは、イヌの恐怖という情感と、イヌが「怖くない」という情感を、同時に感じていることになる。したがって、恐怖という情感と、「怖くない/怖い」という情感とを、矛盾を来たさない異種の情感と考えねばならぬ。仮に「怖くない」という情感が、知覚と直接的には関連しない種類の認知と考えるなら、次の説に接近する。A➀の間接性を認めて「怖くない」とは情感ではあるが、感受と直接関連しないとしよう。しかし「怖くない」が恐怖の否定であることをうまく処理できない。「怖くない」が恐怖という情感の否定であるなら、「怖くない」は、恐怖と同じく感受されると考えたほうが自然だからである。この隘路を避ける方法として、例えば「怖くない」という情感は認知的命題的態度とする、情感=命題的態度説が出てくる。

 ふつうの――グリフィスが言う――感情プログラムが機能する情動では、ミュラー・リヤー図形に類した安定性・モジュール性を認められる。ミュラー・リヤー図形は、判断とは一応独立して、ゲシュタルト的に安定した現われ方をする。同じ長さと判断しても、見えの長短にかんする見かけレベルの不均整は治らない。それは、知覚的な――判断ではなく感受レベルの――安定性を示している。もとより感情的プログラムに左右される部分の大きい恐怖はさておいて、ふつう基本的情動と見なされる悲しみについてもモジュール性は認められるだろうか。むしろ高度認知的な情動、つまり「情感」の一種ではないだろうか。たとえ修正された判断が悲しみを、阻却しようとしても、一定限抵抗が伴うという論点である。たしかに意識的推論の不在・強制性・自己中心的な定位(源河亨、2017、p.181.)等をミュラー・リヤー図形がもつように、情感にも一定限のしばりがあるように見える。しかしまさしく、そのミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように知覚に情感の認知を委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるに偽ミュラー・リヤー図形の安定性から、もう一本に比べて短いゲシュタルトを抱くことが考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。してみれば真に長さを認知しているのは、ものさしを当てた認知である、ということになる。と同様に高度に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に悲しみを志向的内容としてまったく感じていないのに、世間体から悲しむそぶりをしていたら、実際、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合でも、当人は悲しむべき理由を全く感じていないなら、悲しみの感じ・振る舞いがあろうと、それは偽善的悲しみというべきである。この場合はモジュール性が維持しがたいのではないか。ここでも「悲しくない」という認知と、悲しみの感じとしての失意という二要素が登場する。

 「悲しくない」が認知なら、悲しみの感じとしての失意も認知ということになり、またしても矛盾を避けえぬように思われる。これに対して、見かけ(視覚に限定せず現象=appearanceを指す)と、それから派生する命題的態度Bif(x) との区別を設けることで突破できるのだろう。認知される情感としては、「悲しくない」という信念があるだけで、その前に、漢字としての失意という見かけは括弧に入れられる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけをしているにもかかわらず、「実際は巨大である」という認知を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、失意と「悲しくない」とは同格でなく、「悲しくない」という認知によって、失意が滅せられることである。受け容れられているのは、「悲しくない」という事態だけであり、見かけは一定限阻却されるのである。

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