2018年08月10日

現代価値論への警鐘=2018/9/22=2019/2/1=2019/12/31

 現代価値論は、すぐれて総体的で包括的な反省を迫る価値を、身体的な情動の構成に委ねてしまう。それは従来の「人間観」、ヒューマニティにラディカルな「思考法の革命」を及ぼしかねない(牧野英二,2013)。もとより科学的知見としての意義を、全面的に否定するものではないが、ともすれば、それがもたらしかねない「人間性」を解体/縮減する知的作業に警鐘を鳴らさんとするものである。こうした基本的立場に立ち、新カント学派の価値哲学を、現代価値論に対置せしめ、その可能性を再考したい。そのさい生の自己解釈を反省的判断力に即し、かつ情動の反省をベースに考える点では共通なディルタイを、現代価値論と新カント学派の中間に位置付け、両者の優劣を吟味する対照項として設定することにする。
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2018年06月18日

再較正=2018/9/18=2019/2/1=2019/12/31

 

 高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。身体的変化の知覚のなかに、高次認知的情動であるものがあるか否かは、高次認知的情動として何を認定することが先決要件となる。ここで身体性の評価は、判断が構成要素になって認知的に精緻化されるわけではない、とプリンツ は主張する。認知的状況が情動の種類を決めるのは「較正」(calibration)によっている。「較正」に応じて、或る「探知機」(プリンツ)に反応する情動について、「或る探知機で測ったらAだったのに別な探知機ではBになる」という不一致が生じないように、それぞれの探知機の追跡のずれを把握し、進化論的に適合した共通の探知の基盤を作る行為だからである。さらには進化論的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、同様な再較正によって説明されうる。 例えば通常の身体性の怒りは、或る種の判断の状況下では、不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬となる。このように別の原因、つまり認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではないが、「再較正」においては認知的状態が、身体性の評価がどの情動の種類に属するかを決めるものである。そうだとすれば、高次認知的情動の「ドクサ・思いなし」の独特性を認知は隈取り、「価値判断」の種差を規定するのである。あらかじめ見とおしを言えば、「ドクサ・思いなし」に対するメタ的な反省が、xする命題内容をかたちづくり、「価値判断」を成形してゆく。

・再較正によって、情動が照会的選好になったり、較認的撰取になったり、価値の様相を変えてゆく。価値の本性とは案外一元的で、映現する再較正によって種差が現われるだけではないだろうか。


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2018年06月16日

ディルタイの認知的契機の包摂=2018/9/18=2019/2/1=2019/12/31

 

 ディルタイ一九〇六-一九〇八年頃の全集24巻中講義Aでは価値とは「快ないし満足によって性格づけられる状態、この状態を惹き起こす対象、もしくは、欠如によって不快をもたらす対象」(Bd.24,A:S.33.)とされている (Vgl. Bd.24,C:S.213. =A.45.266.)。さらにディルタイは思考作用による統制を積極的に認める(Bd.24,A: S.20. Vgl. C:S.238.)。生のうちの「所与」が、価値判断においても重要なのはいうまでもない(Vgl.Bd.24,A:S.20-21.)が、思考は、感情や衝動に直接含まれる価値規定をたえず修正してゆく (Vgl Bd.24,A:S.19, S.22-23.)。ディルタイは価値判断/規則のGeltungを認め (Vgl.Bd.24, C:S.227,S.233,usw.)、〔現実判断ならざる〕価値判断は、現実の対象を前提にしつつ(Vgl.Bd.24,C:S.229,usw.)、相対的に生の連関から自由になってゆく。・・・ディルタイの思考は低次元レベルのそれである。述定的な高次のレジストリを行うわけでない。

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2018年06月14日

情動のモジュール性=2018/9/18=2019/2/1

 ミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように認知的契機を、知覚に委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるにこの偽ミュラー・リヤー図形がもつ錯視安定性から、もう一本に比べて短い錯視を抱くことも考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。このことは一、錯視のモジュール性が体系性を欠いていること、二、錯視と中立的な判断が変われば、見かけの内容も変化しうること(情動について言えば、飛行機恐怖症に安全性を教えると、自分の小心に自卑の情動を抱くように変わるかもしれない)で、錯視のモジュール性を反省的判断まで及ぼせないことを示唆する。

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2018年06月09日

存在と価値の二元論=2018/9/17=2019/1/31=2019/12/31

 

事実から価値を導けない、と言われることがある。どういうことだろうか。価値的性質は事実的性質に還元されない。もちろん或る性質が別の性質に還元されず、それに付随するだけであっても、多様な各分子の質量と速度のいずれからも、気体が平均分子エネルギーEをもつことが導ける。しかしこの場合、事実的性質に非経験的な法則を適用して事実的性質を導けたのだが、どんな論理的操作を加えても、認知的にすぎない事実的性質から、情動的指令を含む価値的性質は導けない。

新カント学派的な存在と価値との二元論は、この点に与するとはいえ、やや事情は込み入っている。もとより事実判断(一次的な判断レベルの表象結合の強調)と狭義の実践的評価(二次的な判断レベルの態度決定の強調)とのちがい、さらにはかけがいのない個体の価値付帯性(判断内容としての価値関係性)と法則論的事物性(判断内容としての価値無関係性)とのちがいをもうけているものの、事実判断や事物性は理論的価値の認知(一次的な判断レベルの表象結合+二次的な判断レベルの態度決定)をまってはじめて成立する。とくにリッカートの歴史哲学的論考では、論理的価値関係性の議論と、評価的価値づけの議論が整理されぬまま、接合されていると言っていい。仮に価値判断の認知説が事実判断を価値判断の基底におくものであるとしたら、そのままのかたちでは新カント学派に合致しない。というのも、事実判断が価値判断を前提している以上、一見、循環することになるからである。そこで判断内容としての事物的性質(内容としての価値無関係性)と、判断形式としての表象準拠性(一次的な判断レベルの表象結合)とを区別しよう。前者は、事実的性質と価値的性質の対に対応するものであり、事物性から価値関係は導きだせぬという定式化を得ることができる。新カント学派は、評価的/実践的に意義あるものとして価値的性質を撰取した。後者は、表象結合の強調と態度決定の強調の対に対応するものであり、結合するかたちにおいては、理論的価値の認知、分離するかたちにおいては、実践的評価の決定という、二様の映現をする。したがって認知的レベルの、二重判断の結合を強調すれば、新カント学派は認知説に傾き、評価的レベルの、二重判断の分離を強調すれば、それは情動説に傾くという次第になるのである。

一般に認知説といった場合、価値的性質(対象の価値付帯性)の認知にかかわり、それは理論的に措定される場合を念頭に置くから、――ここで先の選択肢を交叉させれば――価値判断の認知説は、価値的性質(判断内容)の二重判断的措定(判断形式)という新カント学派の立場と整合的に理解することが可能である。高次認知的情動は、認知的要素と情動的要素をもっている。前者は価値判断における二重判断の結合と、後者は二重判断における分離(評価の主題化)に足並みをそろえる。高次認知的情動の「命題的態度」は、言わば表象結合態として所与となり(Nonrepresentative-argument)、メタ的な反省として価値的性質を、妥当する命題内容としてかたちづくり、「価値判断」が構成される。


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2018年06月07日

認知的に精緻化された身体性の評価は、純粋に身体的である=2018/9/17=2019/1/31=2019/12/31=2020/2/10

較正をいれた訂正版。 

高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。さて認知的に精緻化された身体性の評価は、身体性の評価のみから出来上がっている、とプリンツは主張する。不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬は、別の原因、つまり別の認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。つまりもともとの表象とは異なった、別の使い方がされるように、身体性の評価と判断を結びつける「再較正」なされているのである。このさい認知的状況が、情動の種類を決めている。こうして較正に応じて本来の情動からの逸脱が説明されうる。これらを考えると、身体的メカニズムに高次認知的情動が対応すると思われる。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではない。だから価値判断と連続する情動として、高次認知的情動の「命題的態度」を位置づけよう。あらかじめ見とおしを言えば、「命題的態度」に対するメタ的な反省が、妥当する命題内容をかたちづくり、そうして「価値判断」というものを成形してゆく。///いや、身体的メカニズムに高次認知的情動はぴったり重ならない。とくに価値判断にいたるものとして、相在経由の動因的なものと、妥当経由の動機的なものがある。善や価値は一枚岩でない。

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2018年06月05日

高次認知的情動=2018/9/7=2019/1/31=2020/2/10

 

高次に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に愛情を感じていないのに、――世間体から悲しむそぶりをしていて、実際愛情ゆえ悲しんでいるかのように、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合、悲しみの感じ・振る舞いがともなうことがあろう。にもかかわらず、当人は愛していないのだから、悲しむべき理由を全く見いだせない。それは「自己演技的悲しみ」というべきである。この場合、モジュール性が維持しがたいのは、悲しみの背後の愛情の有無が問われているからである。

ポイントは高次認知的情動「愛情」の観点から、「悲しみ」のような感情プログラムが派生しうるという点である。情動の認知的契機としては、「愛していない」という「高次の判断」があって、見かけの「自己演技的悲しみ」は括弧入れされる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけという了解において、十円玉の見えは括弧に入れられ、「実際は巨大である」という判断を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、「悲しみの感じ」と「悲しくない=愛していないという認定=価値判断」とは同格でなく、後者の判断によって、「悲しみの感じ」が滅せられるのである。受け容れられているのは、「愛していないから悲しくない」という価値判断だけであり、見かけは阻却されるのである。身体的反応(ここでは脳状態)が情動と「密接に」連動しているわけではなかろう。


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2018年05月05日

情動の認知説18=2018/8/31=2019/1/31=2020/2/9

「はらわたが煮えくりかえる」邦訳p.10
ヌスバウムもストア派の考えにしたがい、情動を、「価値負荷的な見かけ」を承認する判断と定義している(Nussbaum,2001)。価値負荷的な見かけとは、出来事を価値づける解釈のようなものである。たとえば、家族の誰かが死ぬことは、繁栄が困難になる重大な損失とみなされるかもしれない。ここまでは通常の認知説だが、私が理解した限りでは、ヌスバウムはさらなる要件を加えている。その要件とは、見かけが価値負荷的なものであるためには、その見かけが正当化されているという趣旨の別の判断が形成される必要があるというものである。この主張のために、彼女の理論は単なる認知説ではなくメタ認知説になっている。つまり情動には判断についての判断が必要なのである。
同p.39
認知説はすべて、情動に含まれている認知的要素は身体変化と同一でないし、身体変化を記録する内的状態とも同一ではないと主張している。なかには、情動は何の身体的要素なしに生じうると主張する認知説もある(Nussbaum2001,Solomon1976)。
同p.58
彼女によれば、情動とは、〈われわれの評価的判断は正当化されている〉という判断である。例えば恐怖は、〈自分の福利を脅かしているものがあると信じることが正当化されている〉という判断になるかもしれない。
幼い子供や幼児が情動をもつためには、高度に洗練された認知の観点から、情動を定義できない・価値判断に到達できないことを示している。
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2018年04月28日

高度認知的情動=2018/8/29=2019/1/31=2020/2/9

 情動は事物の性質と呼応している、と言われることがある。すなわち身体的反応が対象の性質を表わし、脳がその反応を感受する、というわけである。論者は、情動は身体的変化の感受であるという仮説を支持すべく、情動と身体的な原因の間に相関を立証しようとする。その過程で高度認知的情動を「情感」(affection)として区別する。高度認知的情動とは、本来的に認知的と見える情動であり、洗練された認知能力を必要とする、嫉妬・罪悪感・恥・誇り・忠誠心・復讐心である(グリフィスの考え)。そうした情感にかかわる言葉として《響き》と《ひねり》という二種類のカテゴリーを呈示したい。果たして身体的反応を感受するレベルで、情感は説明しつくされるのだろうか。情感の基準は身体的にではなく、志向的な内容によって与えられるのではないだろうか。ここで論じるべき多くのことがら(価値実在論・美をモデルにした価値比較等、いずれも新カント学派と密接なトピックである)があるが、「情感」=命題的態度が安定した価値体系との接点であるという見地に立ち、情動のなかでも注目して、〔新カント学派の遺産たる〕価値妥当説との対話を再検討したい。

 信原の例で、イヌへの恐怖と、「怖くない」という、二つの契機が出てきているのに注意すべきである。ここで勝義の情感は後者の信念であると〔して、その上階に価値判断を措定し〕たい。@「怖くない」が恐怖を問題にしているかぎり、「否定」の情感であると考えられる。ということは、イヌの恐怖という情感と、イヌが「怖くない」という情感を、同時に感じていることになる。したがって、恐怖という情感と、「怖くない/怖い」という情感とを、矛盾を来たさない異種の情感と考えねばならぬ。仮に「怖くない」という情感が、知覚と直接的には関連しない種類の認知と考えるなら、次の説に接近する。A➀の間接性を認めて「怖くない」とは情感ではあるが、感受と直接関連しないとしよう。しかし「怖くない」が恐怖の否定であることをうまく処理できない。「怖くない」が恐怖という情感の否定であるなら、「怖くない」は、恐怖と同じく感受されると考えたほうが自然だからである。この隘路を避ける方法として、例えば「怖くない」という情感は認知的命題的態度とする、情感=命題的態度説が出てくる。

 ふつうの――グリフィスが言う――感情プログラムが機能する情動では、ミュラー・リヤー図形に類した安定性・モジュール性を認められる。ミュラー・リヤー図形は、判断とは一応独立して、ゲシュタルト的に安定した現われ方をする。同じ長さと判断しても、見えの長短にかんする見かけレベルの不均整は治らない。それは、知覚的な――判断ではなく感受レベルの――安定性を示している。もとより感情的プログラムに左右される部分の大きい恐怖はさておいて、ふつう基本的情動と見なされる悲しみについてもモジュール性は認められるだろうか。むしろ高度認知的な情動、つまり「情感」の一種ではないだろうか。たとえ修正された判断が悲しみを、阻却しようとしても、一定限抵抗が伴うという論点である。たしかに意識的推論の不在・強制性・自己中心的な定位(源河亨、2017、p.181.)等をミュラー・リヤー図形がもつように、情感にも一定限のしばりがあるように見える。しかしまさしく、そのミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように知覚に情感の認知を委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるに偽ミュラー・リヤー図形の安定性から、もう一本に比べて短いゲシュタルトを抱くことが考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。してみれば真に長さを認知しているのは、ものさしを当てた認知である、ということになる。と同様に高度に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に悲しみを志向的内容としてまったく感じていないのに、世間体から悲しむそぶりをしていたら、実際、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合でも、当人は悲しむべき理由を全く感じていないなら、悲しみの感じ・振る舞いがあろうと、それは偽善的悲しみというべきである。この場合はモジュール性が維持しがたいのではないか。ここでも「悲しくない」という認知と、悲しみの感じとしての失意という二要素が登場する。

 「悲しくない」が認知なら、悲しみの感じとしての失意も認知ということになり、またしても矛盾を避けえぬように思われる。これに対して、見かけ(視覚に限定せず現象=appearanceを指す)と、それから派生する命題的態度Bif(x) との区別を設けることで突破できるのだろう。認知される情感としては、「悲しくない」という信念があるだけで、その前に、漢字としての失意という見かけは括弧に入れられる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけをしているにもかかわらず、「実際は巨大である」という認知を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、失意と「悲しくない」とは同格でなく、「悲しくない」という認知によって、失意が滅せられることである。受け容れられているのは、「悲しくない」という事態だけであり、見かけは一定限阻却されるのである。

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2018年04月22日

新カント学派の逆襲=2018/8/28=2019/1/31=2020/2/9

 情動であるかどうかの基準は、身体的にではなく、心的な志向的内容によって与えられるのではないだろうか。つまり見かけと判断とを区別するなら、判断が価値判断情動の正体である、と。ここで論じるべき多くのことがらがある。

 見かけを正当化する判断とは、ヌスバウムのメタ認知説の謂いであるが、判断が見かけ-表象結合態とすると、西南ドイツ学派(ヴィンデルバント)の「判断についての判断」説に接近する。注意:さらなる価値体系を構築するのは、較認を前提とした、より技巧的な統括=照会である。

 そうしたところから、価値を妥当(認知モデル)で扱う理路も見えてくる。これらの論点は、ロッツェの内在的検討・ジークヴァルトへの継承・リッカートの妥当概念(自己決定による命題内容の賦活)を先決問題とする。


価値実在論はアフォーダンスや、傾向的性質を橋渡しにして力を盛り返しつつある。しかし、問題のポイント(例えば道徳的実在論なら内在主義との関係等)を論じなくては、堂々巡りになってしまう。この点について迂路をとることをもって次善としたい。 

  美と愛をモデルにした価値論・・・・文献的に確認の必要は選好(経済・愛=文明価値)の理論を照会(美)の理論に橋渡しすることができる。ただし新カント学派の理路として、価値の目的論から実在論への転回ということが認められる。

私たちの思考の歩みは、自然科学の概念限界から漸次的限定を及ぼし、歴史科学の概念を獲得する目的をもつしてゆくであろうが、さても言及できることとして、個性的現実自体は、歴史的対象(1・2Aufl.のゲシュペルト)の比べようもなく普遍的な概念と等置すべきであるにせよ、「歴史的な」ものが単に比類なきもの[=einmalige]、特殊なもの、個性的なものに鑑みた現実性のみを意味するなら、実践的生の個性化的現実把握は、このうえなく根元的で、最高に包括的な歴史把握(1・2.Aufl.のゲシュペルト)とも呼ばれなくてはならない。この意味で歴史的関心S.3551を個性的なものへの関心と等置したのであって、意欲し評価する人間にとって、不可―分割者である諸個体を、それゆえ比類なきものならびに個性的なものの概念として、歴史的なものについてのそれのみを考慮するかぎり、私たちはそれを歴史的個体(1.Aufl.のみゲシュペルト)と名づけることができる。


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2018年04月19日

情動の認知説14=2018/8/28=2019/1/31

プリンツの「はらわたが煮えくりかえる」勁草書房の邦訳入手。まとめながら、新カント学派の態度決定説(というより価値妥当説)の復権を目指そう。

 ジェイムズ=ランゲの身体感受説によれば、「身体的な感受がなくなってしまえば、情動経験には何も残っていないように思われるというのだ」(邦訳4ページ)。

 近年のダマシオの感受説によれば、「身体変化はなくとも、身体変化に通常関わっている脳中枢が活動すれば、情動反応が生じうること」(邦訳5ページ)が強調されている。「この点は、網膜が刺激されていなくても、赤いリンゴの視覚イメージが形成できるという考えと類比的である」(邦訳5ページ、あたかもループ)。「ダマシオは、身体を経由せずに情動が生じることはよくあると考えているのだ」。

情動を情感(affection)、身体状態への神経反応、認知的操作への影響と同一視する理論のほかに、情動には或る種の思考が伴う場合が多いことがわかる。こうした考えとして「純粋な認知説」がある。ref.クリュシッポス(ストア派)の認知説

 邦訳10ページ。「ヌスバウムもストア派の考えにしたがい、情動を、価値負荷的な見かけ」を承認する判断と定義している(Nussbaum2001)。「価値負荷的な見かけとは、出来事を価値づける解釈のようなものである」。解釈と価値判断の結びつき。「・・・私が理解した限りでは、ヌスバウムはさらなる要件をくわえている。その要件とは、見かけが価値負荷的なものであるためには、その見かけが正当化されているという趣旨の別の判断が形成される必要があるというものである。この主張のために、彼女の理論は単なる認知説ではなくメタ認知説になっている。つまり、情動には判断についての判断が必要である」。

 新カント学派の態度決定説との親近性。とくにロッツェ・ジークヴァルト・ヴィンデルバント・リッカートのライン。判断についての判断は、まさに西南ドイツ学派的であるかのよう。ただし、ヌスバウムはこれを情動と考えるが、私としては価値判断に類するものとして、情動とは区別したい。

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2018年02月27日

情動の認知説13~ジェームズ・ランゲ説を視野に入れて=2018/5/31=2019/1/31

PE:p.161プリンツからの引用「身体的変化が十分であることを示しても、身体理論を確立することにならない。それに対し、身体的変化が情動にとって必要であることも示す必要があろう。ジェームズとランゲは、必要性要求を内観的直観に訴えることで防圧した。ジェームズは問う。「恐れのいかなる種類が一体次のような場合残るだろうか。速度の増した拍動、息の浅いこと、唇を震わせること、手先の弱体化、鳥肌、はらわたの掻き乱れ等のいずれもがないとき、そんなことは、まったく考えもつかない」(1884,193ff.)。またランゲは、ジェームズの著作に気をとめることなく、呼応している。「もし恐怖の人から、随伴する身体的兆候が取り除かれたら、つまり、素早く拍動が認められる心拍、固定した視線、顔色が生のままで、動きが俊敏で断固としており、口調が力強く、考えが明晰である、これらをおいて彼の恐怖として何が残るだろう?」(1885,675)著者たちは私たちに精神的に、想像される情動的状態からすべての身体的兆候を差し引いたとき、何が残るか理解しようとしている。ジェームズは「私たちが残すものは何もない、情動を構成する心的動因はない」ことを私たちが発見すると言っている」。

★意識内容として、何を考えているかによって、身体的反応に、特定の情動を帰すというのが実態であるように思われる。感じとして、さらに身体的反応として、何も伴っていない場合の悲しみというものがあるだろう。逆に言えば、感じを伴っていても、偽の悲しみというものもあるだろう。愛情に由来する悲しみ・愛情に由来しない偽の悲しみというものは、そういうものではないだろうか。
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2018年02月25日

情動の認知説12~ジェームズ・ランゲ説を視野に入れて=2018/6/12=2019/1/31

PE:p.160-p.161「相関的な証拠に加えて、身体的変化が情動を誘発しうるという証拠も存在する。このことはそうした証拠の十分性に言及するものである。とくにその証拠は情動が評価判断のようなものを媒介せず喚起されうることを示唆する。このことを証拠立てて述べるさい、ランゲは情感がアルコールの摂取によって変わりうるという事実に感銘を受けたとされている。より近時の著者は、顔つきのフィードバックからの証拠を強調してきている(Zalonc,Murphy,Inglehart1989)。顔の筋肉がただ変化するだけで、情動の反応に十分であるように見える。それはたとえ、私たちが情動的表現をしていると認識していないときでさえ、そうである。視床まくらと上丘のような初期視覚器官から扁桃核、これは他の器官に身体を混乱させるように命じる・・・への回り道を経て情動が誘発されうるという、解剖的証拠も存在する(Ledoux1996,Morris,Oehman,Dolan1999)。この回り道が引き金となって、判断のような種類のものの媒介を経ることなく、身体が情動的に反応する。関連する知覚中枢は、範疇的な対象認知を支持しないし、ずっと素朴な評価を支持するのみで、扁桃核対は評価によるのではなく、連合作用で肉体的な反応を入力するのである。人はこの回り道によって誘発された身体的状態が、評価判断によって補完されるのではなくても、情動の身分をもたないと論じることも試みられるとしても、その方途は絶望的である。当該の身体的変化は情動のように感受するのであり、それは評価が起こることを要求しない」。

ディルタイの獲得連関のように、無意識のうちに認知的内容?が左右する場合もあるのではないか。
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2018年02月22日

情動の認知説11~ジェームズ・ランゲ説を視野に入れて=2018/5/5=2019/1/30

PE:p.88-89ヌスバウムからの引用。「より説得性があるのは、けだし或る感情が特徴的に情動と連合しているだろうという見解である。しかしこのさい、二種類の「感情」を区別すべきである。一方では、豊富な志向的内容をもった感情がある、またある特定の個人がいない人生の空虚さの感情、その人に対する報酬を求めぬ愛情の感情、その他の感情がある。そのような感情はある情動の同一性条件を受け入れるかもしれない。しかし感情という言葉は、さても知覚判断といった認知的用語と対比されているわけではない。それは単に用語的なヴァリアントに過ぎない。すでに述べたように判断はそれじしん「感情」なら恐らく意図的に説明される動的性質の多くを具えている。他方で、例えば疲労や過剰な昂揚の感情のような豊富な志向性・認知的内容を欠いた感情がある。身体的状態にかんしては、それらが情動を伴うにせよ伴わないにせよ、その状態は、情動にとっての必要条件ではない。(後略)」

PE:p.159以下:Jesse Prinz,Embodied emotions,p.160より「ジェームズ・ランゲ説を支持する議論」

「ジェームズとランゲは、情動は身体的変化の知覚であるという仮説を支持する考察をいくらか提示している。近年の情動研究の業績は、さらなる支持を獲得している。その仮説の決定打となる議論は出てきていないが、いくつかの考察の説得力を集めると、かなりのもっともらしさが加わるのである。

 考察する最初の諸検討事項は、情動と身体的な〔動揺の〕原因の間にリンクないし相関を確立する目的に限って役立つだろう。情動と身体のリンクはきわめて明白である。どの文化においても、情動の状態ついて語る身体的表現が、私たちの文化の「傷心」からタヒチの「はらわたの調子が悪い」(Heelas1986参照)まで存在している。これらの表現は明らかに換喩的であるか、卑俗なフォークセオリーの副産物であるが、情動的性質と身体の変化との間の相関について、経験的証拠となっている」。

★ここにコップがあると認知するならば、コップを手でつかむ、コップを倒さないように肘を引っ込める、飲み物が入っていると認知すれば喉を潤そうとする、というわけで、身体的な実践知と認知的な要素は結びついている。しかし、それとは別経路で、一旦、価値判断の貯水池に評価をくみ上げて、評価の準備とする場合もあろう。こうした間接的な結びつきを重視したのが、新カント学派であった。このイミで、身体性は二次的であり、ヌスバウムの発想とつながる。(新カント学派の場合、単純な認知説ではないが)
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2018年02月16日

情動の認知説10=2018/4/25=2019/1/29

PE1:p.88ヌスバウムからの引用「それ自体判断の部分ではない悲しみの構成要素は、他にあるのか?如何なる特定の悲しみの事例でも、悲しみの事例と判断の事例の間に存する、トークン的同一性のレヴェルにとどまるなら、どんなに進展しても、この問いに答えることは大変困難である。私たちにはより強力な議論があり――しかも現象のより深遠な理解をもちうる。それは、代わりに悲しみの一般的同定条件について探究する場合であり、判断の要素でない悲しみ一般の必須要素があるかどうか、探究する場合である。言い換えれば、そうした要素がないなら、悲しみであると帰属させることを引っ込めるだろうか? 私の信ずるところでは、答えはそのような要素はないというものである。たいてい悲しみには身体的感覚・変化が含まれているものであるが、私たちは全エピソードを通じて自分の血圧が極めて低く、心拍数が決して60台を超えなくても、考えるに、私が悲しんでいないと結論するに足る理由はいささかも存在しない。私の手足が体温にも、湿り気にも関係せず、こうしたことがらは、相も変わらず何ら重大な価値をもたないのである。心理学者は、脳活動に基づく洗練された尺度を開発してきたが、それらを情動の状態の定義的指標として用いるのは、恐らく直観的にも誤っているだろう。私たちは主体の脳状態が特定のものでないと発見するなら、他の仕方で根拠づけられた情動帰属を引っ込めたりしないのである。(実際、脳状態に一見した重要性を想定するような唯一の方法は、他の根拠によって同定される情動の事例との推定された相関性に依拠しているのである。)」https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000884782016.html
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2018年02月15日

情動の認知説9=2018/4/24=2019/1/28

PE:p.87ヌスバウムからの引用「敵対意見は、するとこれでは分明ではないと反対するかもしれない。たとえ情動の位置が多くの認知的機能を果たすことができるにちがいないと、譲歩するとしても、判断もしくはその部分とは見なされない情動の動的・情感的側面があるように見えるかもしれないからである。痛みや激情の迅速な〔心の〕動きや感情がある。私たちは実際これらを、しかじかの事実であると判断することの或る部分と等置すべきなのだろうか? なぜ判断は情動の原因とせず、情動とは、こうした〔心の〕動きであると同定すべきなのだろうか? さもなくば、私たちは判断が情動の構成的要素である、そして構成的要素として他の要素の十分な原因でもある、とさえ認めてよいかもしれない、しかし判断の部分でない他の要素、つまり感情や心の動きがあると主張できるかもしれない。この点に応接するにさいして、判断することを動的で、静的ならざるものと考えている事実を強調することをもって、話の端緒とした。理性がここで、〔心の〕動きとなり、抱懐し、拒絶するのである。それは迅速にせよゆっくりにせよ、また確然としてにせよためらいがちであるにせよ、〔心の〕動きとなる。私は理性を私の母の死という見かけを湛えるものとして想像してきた。言わばそれへと突進し、吸い込まれるようにそれを啓いたのである。それならば、そうした動的な能力が、また悲しみの乱れた動きを抱擁しえないことがどうしてあろうか?」https://www.amazon.co.jp/Upheavals-Thought-Intelligence-Martha-Nussbaum/dp/0521531829
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2018年02月14日

情動の認知説8=2018/4/24=2019/1/28

 信原幸弘、2017、『情動の哲学入門』10-12ページ。

「身体的反応とその感受はどのようにして価値的性質の感受を可能にするのだろうか。この問題を考察するうえで注目すべきなのは身体的反応のあり方である。イヌに恐怖を覚えるとき、身体が震え、冷や汗をかく。日本選手の活躍に喜びを感じるとき、全身に血が駆けめぐり、身体が興奮する。恋人の死に悲しみを抱くとき、身体から力が抜け、全身の活動が低下する。このようにそれぞれの情動には、それに特有の身体的反応が生じるということである。イヌの怖さ、日本選手の活躍の喜ばしさ、恋人の死の悲しさに応じて、それぞれ特有の身体的反応が生じるのである。

 そうだとすれば、身体的反応はそれぞれに対応する価値的性質を表していると言えるのではないだろうか。・・・/身体的反応が事物の価値的性質を表すとすると、脳による身体的反応を感じ取るだけではなく、それを通じて事物の価値的性質をも感じ取ると言えるように思われる。・・・望遠鏡で対象を見るとき、私たちは対物レンズによる対象の実像を接眼レンズで見るわけだが、たんに実像を見るのではなく、それを通して対象そのものを見るのである。これと同様に、脳による身体的反応の感受は身体的反応を感じ取ることを通して、事物の価値的性質を感じ取るのである」。

 情動特有の身体的反応は生じるか。異なる情動が同じ身体的反応をもつことに対して、ブリンツは反論している。見かけの情動が、かくあるべしという身体的反応と対応しているとは限らない。ただし理想的な状況では規範的な力をもつと言われるかもしれない。しかしながら、もしそうした理想を考えるとしても、逸脱的なケースが出てくるであろう。運動を応援したさい、イヌにかまれた記憶があったとして、イヌに恐怖を抱くとき、記憶がトラウマになって、応援と同じような身体的反応が訪れるかもしれない。

イヌに噛まれた記憶があったとして、イヌに恐怖を抱くとき、〔運動競技の〕応援と同じような身体的興奮が訪れるかもしれない。「怖い」の十分条件となりうるのは、イヌに噛まれた記憶であって、応援と同じような「感受としての興奮」ではないし、そのときの興奮は「怖い」の必要条件でもない。

 これらを考えると、情動に対応する身体的メカニズムだけによって情動を説明しつくすのは困難だと思われる。情動=ドクサという見方をとった方がナチュラルではないか。つまり見かけと、判断としての情動を規範的に区別しうる。判断として適合的である条件が(判断の複合からなる条件が)情動の必要条件を与えるのである。
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2018年02月13日

情動の認知説7=2018/4/15=2019/1/25=2019/9/7

 ちょっと方向を変えて、信原幸弘の『情動の哲学入門』より。

 「信原8ページ。・・・私たちは歯を剥き出しにしたイヌに恐怖を覚えつつも、そのイヌが檻のなかに入っているので、本当は怖くない(=危険でない)と判断することがある。つまり、イヌに恐怖を抱きつつも、イヌを怖くないと判断するのである。イヌへの恐怖が、イヌは怖いという判断なら、ここでは矛盾した判断が生じていることになる。すなわち、イヌを怖いと判断しつつ、同時に怖くないと判断していることになる。しかし、こんな明々白々の矛盾が生じているとは考えがたい。いくらなんでも私たちはそこまで愚かではない。そうだとすれば、イヌへの恐怖はやはり判断ではなく、感じであろう。イヌに恐怖を抱くとき、私たちはイヌをまさに怖いと感じているのである」。

 このさい、二つの構成契機が出てきていることに、注意すべきである。appearenceとしてのイヌへの恐怖と、怖くないという判断と。問題なのは後者である。怖くない、ということは、情動なのか、判断なのか。@怖くない、というのは、恐怖を問題にしている限り、情動の一種であると考えられる。ということは、イヌの恐怖という情動と、イヌが怖くないという情動を、同時に感じていることになる。恐怖と、怖くないという否定の情動を、カテゴリー的に異種の情動と考えぬかぎり、矛盾が生じる。仮に怖くないという情動が、判断に似た、知覚と直接的には関連しないと考えるなら、次の説に接近する。A怖くない、とは情動ではなく、判断である。というのも、怖くないが恐怖という情動の否定であるなら、怖くないも情動でなくてはならないから。この隘路を避ける方法として、怖くないという情動が、すなわち判断とする説が出てくる。

 しかし、怖くないが判断なら、恐怖も判断ということになり、矛盾を避けえぬように思われる。これに対して、是正された情動(もはやそれは情動ではない)を判断に限定するなら、見かけと判断の区別を設けうるだろう。恐怖というのは、見かけにすぎず、それを受け入れぬところから、怖くないという判断が生じるのである。認知のカテゴリーに属すものとしては、怖くないという判断があるだけで、その前の、イヌへの恐怖という見かけは括弧に入れられる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけをしているにもかかわらず、実際は巨大であるという判断を受け入れるのと同様に。ここでのポイントは、恐怖と怖くないが同格ではないということである。
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2018年02月12日

情動の認知説6=2018/4/12=2019/1/24=2019/8/28

PE1:p.84-85ヌスバウムからの引用「私は判断について何事かを言って、新―ストア派を十分丹念に説明し弁護することから始めなくてはならない。情動とは判断であるという見解の正しさを理解するには、ストア論者が、直観的に魅力ある描画、しかも行為の説明として、(つまるところ)なじみある信念-欲求図式の批判をするために価値ある基礎を発見したと思う、と言うとき、ストア論者が何を意味しているのか、正確に理解することが必要である。ストア派によれば、したがって、判断は見かけに対する同意である。言いかえれば、それは二つのステージをもつ過程である。第一に、しかじかのことが問題になっているということを、気づいたり思いつく。(ストア派の見かけはたいてい命題的である。とはいえ、その見解のこの側面が或る修正を要することを後に論じなくてはならないが。)私にはしかじかに見え、私はしかじかの仕方で事態を理解する。だがこのかぎりでは、私はそれを受け容れてはいない。そこで三つの可能性が〔第二段階として〕控えている。私はその見かけを受容・抱懐しうるし、それを事態がそうであるがごとく自分に受け容れることもできる。この場合は見かけが私の判断となり、見かけに対する行為は、判断することにある。〔また〕そのような仕方ではないと否認することもできる。その場合は、私は矛盾していると判断を下しているのである。もしくは、あれやこれやの仕方でコミットすることなく、そのまま放置することもできる。その場合は、事態があれやこれやの仕方になっていることについて、何の信念も判断も抱かない。アリストテレスによって導入された、単純な知覚の場合を考えて見よ。〔・・・太陽の見かけの大きさと実際の大きさの問題〕世界の見方に同意し、抱懐すること、つまり真理であると認知することは、認知の分別能力を必要とするのである」。
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情動の認知説5=2018/4/12=2019/1/23=2019/8/19

PE1:p.83-84ヌスバウムからの引用「私たちは今や、敵対意見に答えるべく、長い道のりを歩んできた。というのも、敵対意見は、リアルで重要な情動的生の或る特徴をピックアップするものの、同じく重要で、まさるとも劣らない他の特徴、それは、情動を同定し、一つの情動を他の情動から区別するのに、中心的であるにもかかわらず、それらを割愛する見解を打ち立ててきたのである。:その他の特徴とは、「ついて」性、志向性、信念に基礎を置くこと、評価との結びつきである。これら一切によって、結局、情動を思考と大変よく似たものにされ、認知説が、敵対者のポイントとするいくつかの現象をいかに説明できるかが、分かりはじめてきた。そのポイントとは、自己との親密な関係、つまり促迫(喫緊)性である。しかし当該説は、情動が或る種のタイプの価値判断にすぎないとする、ネオ―ストア主義的見解からきわめてかけ離れている。私たちが提出する考察は、信念と知覚が情動において大きな役割を演ずるが、それらと情動は同一ではないとする、より弱い・雑種混合の見解によって、満足できるだろう。

 私たちは、実際、三つのより弱い見解、おのおのが歴史的な後継者をもつ見解を想定することができる。

1 適切な信念と知覚は、情動の必要条件である。

2 適切な信念と知覚は、(非信念的部分ももつ)情動の構成部分である。

3 適切な信念と知覚は、情動の十分条件であり、情動はそれらと同一視できない。

〔中略〕私たちは(1)(3)の外延的-原因をしめだすべく、ここまでの長い道のりを歩んできた。というのも認知的要素は、情動の同一性や、他の情動との区別にとって、本質的な部分であると論じてきたからである。一見、私たちは(2)を放擲したかのように見える。信念部分は、他の部分の存在にとって十分であるというかたちで、もしくは、他の部分の存在にとって単に必要にすぎないというかたちで。その他の部分とは何だろうか。敵対意見では、より退却した答えを用意している。或る種の非-思考的運動、またはけだし(経験をどうみるかという論点について見解を変えることで)痛みと/または快についての対象なき感情をもって答えるのである。あまたの問いがただちに、これらの感情について、思い浮かぶ。それらは何かについての感情でないなら、どのようなものなのだろうか。何快楽、何痛みなのだろうか。よしんば、それらじしん思考や認知を含まぬのなら、信念といかに結合しうるのだろうか。これらの問いについて、簡単に振り返る」。
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