2020年03月24日

価値の普遍性-7

承前・the oxford handbook of value theoryより
三、行為主体非言及p.105~106
行為主体中立的理由を、その理由をもつ行為主体へ何らかの言及をもつ理由として考えよう。
対象OについてOに賛成することに適合した応対者に、Oが何の言及も行わない場合、かつそのときに限りOは中立的に善である。
この行為主体への非言及は、割合、意識一般の特徴を言い当てているように思われる。

内在的意味の統一が意識に現われるには、純粋意識の作用が意味的統一を賦与しなくてはならない。内在的意味とは、主観化の極限に立てられた「意識一般」の別名である(時期的には、中期の「哲学の概念について」(1910a)から、後期の『哲学体系第一部』のなかで説かれる)。個人主観的な存在・価値に対して、主観的の極となる項である。この「意識一般」とは、すぐ述べるように純粋な作用形式にほかならず、主観のレアールな心的作用に帰属する。それは現実的な心的内容のように客観化されえず、ごく主観的なものである。この領域が「第三領界」と呼ばれるのは、「現実」と「価値」に次ぐ三番目の独自な領域[1]だからである。というのも、「第三領界」は「現実」の世界と「価値」の世界とを結ぶ「世界の結節点」[=Weltknoten]という固有な役割を果たす(Rickert,H.,1921a,S.260.下線ゲシュペルト。)。すなわちundに模される結合作用[2]のことである。ただしそれは、一足す一の「足す」のように二つの〔結合されるものの〕区別を無にしてまとめあげるものではない。「結節点」においては、結合される「現実」と「価値」とが、それぞれの差異性を保ちつつ結びついている(Rickert,H.,1910,S.22.)。そのイミで「作用体験」(Rickert,H.,1921a, S.259.)「作用意味」(Rickert,H.,1921a, S.261.)と呼ばれたりする。結局、「作用の意味ないし評価の意味は、レアールな心的存在でも、妥当する価値でもない。そうではなくて、価値にとっては作用に内在する意義〔性〕[=Bedeutung]であり、このかぎりにおいて両領域の結合でありかつ統一である」(Rickert,H.,1921a, S.261.)。

ドラスティックに変化する射映を、一つの対象として把握するためには、作用の統一を必要とする。「思考する主観は……理論的認識が実現される作用を及ぼす」(Husserl,E.1975,Bd.XVIII/1.S.240.)。この点が、形式的論理学と超越論的論理学とにとって肝要である。つまり客観性(認識の客観的内容)は主観から迫られる(Krijnen,C.,2001,S.331.)。意味をとおして客観的内容、経験的対象が統握されるためには、主観がまとまっていなくてはならない。第二の主観もしくは「〔私の〕内在的世界」が、普遍的な作用たる第三の主観より〈範囲Umkreisが広い〉のは、第三の主観[3]、つまり「意識一般」が第二の主観をもとづける部分だからである(GE1,S.8/GE2,S.13.)。とすれば、フッサール流に[4]自我を構成する成素についてホーリズムを見出せる。


このように意識一般が自我という規定を捨象した主観極に考えられるのだから、当然、行為主体への非言及と言うことが出てくる。そうすれば、非人称的な理由は命題によって扱われることになる。それゆえ以下の定式化の方が優れている。

対象OについてOに適合的に賛成するのは、それに寄与する性質が、Oに賛成することに適合した応対者への言及なしに記述される場合、かつそのときに限り、Oは中立的に善である、と。




[1] 意味の第三領界(Krijnen,C.,2001,S.369-370.)がもつ存在様相の特異性が問題となる。「第三領界」はフレーゲ・ボルツァーノ・マイノング・チザム・ポパー・トゥーゲンハットに認められる。ところでフレーゲが「思想」を第三領界と言う場合、命題内容(もとよりリッカートの超越的意味は命題内容=文章の意味にほかならない。)に即している。しかるにリッカートのそれは、主観的な存在領域という含みがある。したがって意識に即して、存在(妥当)について判断する作用であることが、リッカート的「思想」の際立った特色である。

[2] クライネンの解釈は一貫して、思考と認識の対象との間にも、異定立の原理・相関関係を見て取る、極端に観念論に傾斜した解釈となっている(経験的実在論的読み替えがない)。しかるに「純粋に異質的な媒体」[=ein rein heterogenes Medium](Rickert,H.,1924a,S.59.下線ゲシュペルト。)としてのSinnの第三領界のみが、「共相関」と呼ばれてしかるべきである。「認識主観と客観の認識統一体の契機として、交互的含意関係は「認識作用と対象との論理的な根源的相関関係」をかたちづくる」(GE6,S.362.Vgl.1929,S.689.)。認識作用は、認識された【客体】と、認識する主観を必然的に含意している。そこで認識を遂行する契機が認識主観である(Krijnen,C.,2001,S.310.)。

[3] この箇所は、第三の主観「私の〈意識作用〉」を抽出する第一段階の文脈だが、それを前提にするときだけ、第二段階の純化された第三の主観、「意識一般」について語りうる。客観的価値と対峙するこの「意識一般」よりは、中期・後期のリッカートにおいて主観〔側〕の極、つまり「内在的意味のあの領界」[=jenes Reich des immanenten Sinnes](Rickert,H.,1909,S.220.)に読みかえられる。こうした現象学的「後退」によって、客観側に「存在」と「価値」が並立することになる (九鬼一人,2014(←1989),78ページ参照)。現象学的「後退」についてはhttp://www.

systemicsarchive.com/ja/b/ethische_aesthetik.html,2013年12月11日閲覧,参照。

 向井守,1997,151ページの「認識論的主観」の解釈は、それが認識の論理的前提であることを、無視した議論である。また認識論的主観は心的な「意識の成立[=Entstehung]」に依存しない (GE1,S.36.)のであって、それが――向井守,1997,152ページが誤って言うがごとく――「表象的」主観を指していないことは明らかである。

[4] かつて「意義[=Bedeutung]のカテゴリーは全体に対する生の諸部分の関係を示していて、この関係は生の本質にもとづいている」(Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.233.=4:258ページ。Vgl. Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.243-244.=4:271ページ。)というディルタイの文言に引きつけ、この箇所を解していた。当時はノエマにのみ注意がいき、ノエシスの問題には思いいたらなかった。ディルタイ論中の、「具体的な現実のなかでの体験の連関は、意義のカテゴリーにもとづいている。……これらの〔体験や追体験の〕連関を構成するものとしての体験作用[=Erlebnis]のなかに、意義が含まれている」(Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.237=4:263ページ。全体と部分の関係についてはVgl. Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII. S.195=4:215ページ。Dilthey,W. 1979(←ca.1910),Bd.VII.S.197=4:218ページ。)という箇所にいささか性急であるが、リッカート/フッサールとの接点を見出そうとした(九鬼一人,2007/2008,29ページ。連関の客観的観念論的含意についてはDilthey,W. 1968(←1906/他),Bd.IV.S.177.=8:532ページ。)。またディルタイの真意を知るには、「意義は特殊な種類の関係であり、これは、生の内部でその部分が全体に対してもっている関係である」(Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.233-234.=4:259ページ。)を十分理解しておく必要がある。

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2020年03月14日

価値の普遍性-6

承前・the oxford handbook of value theoryより
二、普遍化可能性
Oが中立的に善なのは、∀x「Oが善いx」の場合であり、その時に限る。
つまりOが中立的に善なのは、Oが、いかなる人によっても相応しく賛成される場である。帰結主義をとる限りにおいては、いかなる人ということは、道徳的行為者=主体に限定される。
このさいs3はs1やs2より行為者中立的に善い、ということは、s3が私にとってより善いことを含意する。しかしこのように考えると、性格的な特徴に拘束されてより悪くなることが、行為者中立的である可能性を排除できなくなる。そうすると行為者中立的により悪い状態が、行為者相関的により善い、と言っていることの記述として受け取るしかない。行為者中立的に悪いとは、行為者相関的に悪いことをつねに伴っている。p.104〜105
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価値の普遍性-5

oxfordのthe oxford handbook of value theory からの引用にしたがう。
一、非インデックス化
対象が三座の適合関係(対象、応対内容?、応対者)に参与するとき、それは相関的な善をもつ。しかしその適合関係において、応対者を欠くとき中立的な善をもつと言われる。例えば賞賛に値することを考えてみよう。牡蠣の料理は、人によって望ましさは違うかもしれない。しかし賞賛に値することは、応対する評価者のインデックスなく決まってくる。ちょうどネルソン・マンデラの偉業のように。
 事態s1がs2より私に善いということは、s1が私によって選好されているということである。
 s1として:私がAを拷問しない・BとCが拷問されている・あなたは私がAを拷問することをやめさせる。
 s2として:私がAを拷問する・BとCが拷問されていない・あなたは私がを拷問することをやめさせない。
ここでs3を考える。
 s3として:私がAを拷問しない・BとCが拷問されていない。
s3はs1やs2より善いだろう。そのさいs3はインデックスなしで善いということになる。それは選好されている好ましいものであり、応対者の座に何ももたない関係である。
 だがここで、インデックスの悩み深きパズルに落ち込む。インデックスなしにs3はs1やs2より善いかもしれないが、実はそれはs3はs1やs2より私にとって善いとは限らない。ここでs3に正しさというものを要求すると、結局、中立的価値の解釈ということになる。
 こうしたところから、非インデックス化の追求は、誰が理由をもっているかと、理由の内容は何かという観点の分離を要求されることになる。例えば約束順守が約束に敬意をもって行われる(理由の内容は何か)ということが、人の約束を守る理由である。しかし、約束を人によって破るということは、応対者相関的な理由に拠っている。このように相関性をどの次元で考えるのか、という難問に突き当たるのである。
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2020年03月12日

価値の普遍性-4

価値が一般に成り立つことを解くために、以下のロジックが提出される。
・インデックスを欠いたこと・レファランスのなさ(意識一般)・普遍化可能性・公平性
いずれゆっくり見てゆくが、注目したいのは第二のレファランスのなさである。このことを評価者相関性と言うことで考えれば、倫理的な一般性は、自己評価中立性を目しているものと考えられる。
妥当が依存する「意識一般」(主体agentへの非言及)の僭称によって、理想的な条件のもとでの制約のない意識に近づく。主体=応対者の非言及とは、以下の事態にほかならない。「Oが中立的に善であるのは、以下の場合かつそのときに限られる。Oに適合して賛成する所以の性質がOの賛成に適合するところの応対者に何ら言及することなく記述可能な場合である」。命題価値が態度決定をつうじ、他方で情動関与的に再較正されて、あたかも普遍的な価値判断のなかに結実してゆく。そもそも価値は「少なくとも個人のイマジネールな立場変更によって主観的に普遍化可能でなくてはならない」。というのも、価値は「公の言論にかかわり、理想の生き方にコミットする」からである。
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2020年03月10日

価値の普遍性-3

O君のこと。
O君は倫理学が嫌いである。二十近くなったのだから、人生の問題は自分で考えてゆく問題であると考えている。そして、人生観に関する問題は、畢竟、個人に集約されるのであるから、教壇から説教じみた価値観を聴くことを毛嫌いしている。たしかに人生観のグラウンドは、個人によってプレーする場所が相違しているから、そこに箍を求めるのは場違いのようにも思える。しかし、価値観にもいろいろな観点から、尺度が決まることはあるのだ。実在に関する価値観は、科学の掣肘を受けざるをえない。倫理的な価値観が法と言う、あまりにも正直すぎる社会の道具とかかわらざるをえないところから、社会との対話ということも出てくる。その対話は、基本的にはロゴスに依拠したものであるが、不整合が生じたときなどは、言説の物語としての巧みさ・技巧性という尺度からもはかられる。美と言う新奇さと隣り合わせでもあるような価値でさえ、新奇性ということがら自体が、あらかじめ成り立っている美的尺度との緊張関係のなかから生まれてくる。このように考えるならば、価値ということがら、それを拡げて人生論的な問題は、価値の尺度という普遍性の密輸入を経ることなくして、論じえない。論じえないというのも、論理的な問題なのではなく・・・個人のレベルでの合理性というものも考えられるのだから・・・実践的・言語論的な論じえなさである。言いかえれば、共同体に片足をかけているのなら、社会的な価値尺度に敬礼しなくてはいけない、という類の問題である。
O君にしてみれば、こういう教師は「生意気に」映るらしい。そこでO君は論争する。だが、O君よ、論争と言うことは、なんらかの構えでの終点(決着ではないにしろ)を予想しているのではないか。討議倫理学というような野暮なことは言わない。いずれにせよ、論争は実践的に・言語的に、終わらざるをえないのだ。いつか論争を終えて、休まざるをえないように。その終点が、なにかの暫定的・究極的かたちをとる以上、そのかたちは社会の尺度の上に引き直され、何らかの評価を受けざるをえないのだ。O君の論争は、論争と言うかたちをとってしまった以上、片足を社会にかけているのであり、社会のコードがそこに埋め込められる運命にある。
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2020年03月03日

価値の普遍性-2

人の考えはわからないか。
 価値の対立と言うことで、人はしばしば他人の考えなど分かりようがないとうそぶく。社会の気の遠くなるような意見の対立ということを前提するなら、そういう感慨もやむを得ないのかもしれない。その反対に、自分の考え方は、まったく公に開かれていて、その中立性を疑わないという、社会学者がいたことには、反吐が出そうになった。まあこれは感情的な反発だが、まんざら、その社会学者が常軌を逸しているとも思われない。自分が正しいと考えているとき、何らかの意味での普遍性を密輸入していることはままあり、そのこと自体不健全とは言えないからである。自分が5+7=12と考えているとき、それ以外には考えられない。殺人が悪いと考えているとき、それを社会の理のレベルに定位しているのなら、たしかに悪いだろう。吉高由里子が美人と考えているとき、他人にもそのことを認めてもらいたく思っているだろう。もちろんラオスの首長美人を美しいとは思えないのだが、美という範疇で捉えているとき、当人にしてみれば、何らかの普遍性を要求しているということである。議論はもうカントの美学の主観的普遍性の域に踏み込んでいる。また、死んだら無である・・・どのような意味かはわからないが、幽霊を認めている人でも、それが生きている人から何かを欠いている・無がそこに忍び寄っていることを認めるだろう。このように一致していることがらは、少なく見えても、一致を要求しているとか、一致を案外、持ち込んでいるとか・・・哲学の戦場は案外、アナーキーではない。たまたま、密やかな戦いを挑む人はいるが、それはある意味で、戦場を私という拠点から繰り広げているからである。しかし、社会の視点が勝つことは、プラグマティカルに約束済みである。というのは、こういうことである。対話なり、戦争なり、他者との接点を設定するとき、言語論的に他者を前提せずにはいられぬ。これは論理的と言うより、実践的・人生論的な意味においてそうである。つまり、他人のことがわかるという、至極当たり前な前提が生きているうえでは作動してしまっているからである。これは論理的問題ではない。たとえ、精神病者が、自分の考えと他人の考えを区別できない、もしくはそれが災いして、他人の理解ができないと言っても、その人がたまたま、病気であることに目覚めるなら、他人が自分の考えを盗み取っている等々の病的指標が自覚されるはずである。その指標が自覚された時点で、その人が正しい思考ができるかできないかにかかわらず、病というかたちで、他者が正常状態に設定される。精神病者は結局、いつも他者に負ける。いつも社会に負けるのである。もしくは他者のことがわかるということがらが、事実可能ではなくても、正常状態の理想となることである。だから、人の考えがわからないと孤塁を守るより、そうしない方が、実践的・人生論的にいいのである。人の考えはわかるはず、というカノンが価値の普遍性をひらく。
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価値の普遍性-1

 哲学、とくに価値に関わる授業をやっていると、学生諸君の相対主義に出逢う。人それぞれ価値に関する意見は違うのだから、とくに価値とかかわりの深い哲学の問題には答えがないとか、価値観を反映する社会的問題には、解決などありえないという反応である。とくに後者の傾向は、判断の停止を学生諸君にもたらしているようだ。
 かくゆう私も中学生のころ、太平洋戦争について、判断中止の状態にあった。日本人の意識が目覚めていなかった、もしくは未成熟であったとするなら、戦争の悪さについての判断ができないと考えたのである。ヒロシマの「あやまちはくりかえせませんから」という碑文に反発を覚えたものである。「あやまち」と捉える道徳意識が発達していなければ、責任を問うことができない、という感慨を抱いたからである。
 先の戦争が成熟した意識にとってさえ、「あやまち」であったかどうかについては、異論が百出するであろうが、ここで思い出すのは高校での社会で教わったことである。教師は太平洋戦争を@植民地に対する侵略戦争A列強間の帝国主義戦争B民主主義国家と独裁国家との戦争・・・という三つの側面に分け解説してくれた。このことは@かAかBかという排他的選択肢の間で選ぶことではない。また@も正しいAも正しいBも正しい、ゆえに帝国主義戦争という弱肉強食の事態のためには、戦争は正当化されてもよいという相対主義を意味するものではない。@とAとBは言わば次元が違うのである。ただしだからと言って総括的な評定を怠っていいわけではなく、@・A・Bで組み立てられた「多面体」全体を複合的に評価する必要でてくると思うのである。神々の戦いという言葉は、あたりがよすぎて、弊害が多い。次元の違いに目を向けよう。そして総体的な把握を心掛けよう。
 以下での論調は、あらたな次元の知見を付加することにより、より普遍的な価値評定を生みだしてゆく可能性を探ることである。このような話をすると、本当に人それぞれさまざまな評価ができるのですね、という感想がでてきて辟易する。目指すのはむしろ、価値的なものの一致点である。
(承前)人の考えはわからないか。
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宮沢賢治論・冒頭

プレアデスへの序奏・科学と宗教のあいだ
* * 研究史
 プレシオスの鎖Jがプレアデスを意味することの根拠に、『旧約聖書』ヨブ記三八:三一を引証できる。「汝昴宿の鏈索(くさり)を結び得るや。参宿の繋縄(つなぎ)を解き得るや」。当該箇所は、全体で「プレアデスの星のつながりを人の手で見えなくさせようと思っても、見えなくさせられない。オリオンの綱を解こうと思っても解くことはできない(4)」である。つまり「そのような勝手なことはできないのである。神がお作りになった、天の秩序は堅牢である」ということになる。
異説として鎖を因果連鎖(5)、食物連鎖(6) 、大いなる生命の連鎖と取る論者もいるが、ミスリーディングである。さらにプレシオスを、プレアデス星団とペルセウス星団からの造語と解する古東哲明のそれもある(7)。いずれにせよ鎖は、人の手によって自由にならない「鎖」である。
そして前後の文脈からは、くだんの「プレシオスの鎖を解く」という文言が、「ほんたうの考とうその考」を見分ける実験の結果と「重なる」ことが分かる。例えばネットでは、散開星団のガスの混沌にダブらせて〔解くを「切り分け」と解し〕「混沌としている事実と虚構とをしっかりと切り分けること」http://www. astron.pref.gunma.jp/ inpaku/galexp/ pleiades.html(2020/1/14閲覧・部分後述*)と解釈する者も存在する。
また斎藤文一は、次のように解釈する。
 「あらゆる人のいちばんの幸福を求めて、「プレシオスの鎖を解かなければならない」という言葉が書かれた。プレシオスはプレアデスに他ならない。ではその意味は何か。これは単純に星団の統合力(重力場)からの解放脱出ではない。より普遍的に銀河系全体で、新しい諸天体との連帯を求めて進み出ることを意味するであろう(8)。」プレアデスの鎖を、天体を結びつける「力」=重力に注目して、「さらに正にこの「力」から「解放されねばならぬ」(9)」と解している。人間の連帯の歩みにおいて、「「プレシオスの鎖」から解かれるようにそれ自体の生命力を宇宙的に開花させる」と、連帯が導く「幸福」への途上に位置づけられるわけである(10)。この〈解放連帯説〉解釈では、プレアデス星団の星々が、散開星団の重力による収縮で新しく誕生してきたことを踏まえて、重力場・新しい諸天体と言っているように読めるが、旧約の文脈から離陸しすぎている。むしろ酌みとるべきは、鎖を解くことによって、連帯をはぐくむという点であることは、後に述べるとおりである。
さてこのプレアデス解釈の前梯として、「ほんたうの考とうその考」C(ほんたうのたった一人の神B)が見分けることができるという論点がある。
一、考えられている真理観はいかなるものか、
二、どうして科学と宗教とが一体化するCのかである。
三、そのさい、実験(*サイトの言う検証)Cということがいかに関わるか。
一はおそらく、非相対主義的な真理ということが問題であり、その背後に客観視する視線を彷彿させるとともに、二として近代的な理神論を思い起こさせる。そして三として、実験的経験科学の実証性が関係してくる。
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2020年03月02日

つれづれなるままに

@価値の普遍性とは・・・インデックスを欠いたこと・レファランスのなさ(意識一般)・普遍化可能性・公平性
A価値と評価 ヴェーバーの価値の洞察は浅薄である。価値判断論争は不毛。評価と情動。
Bプリンツの方が偉い? 認知主義の迷路
C価値判断は相対的でない。 可謬的だが、相対性の消尽点を哲学は目指す。死の問題・愛の問題・人生の意味・倫理的問い
D価値判断は評価と区別すべきである。 引用符つきの価値判断
E選好を左右するもの。 独立性。好奇心。非帰結主義。
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2020年02月09日

遡及入力

 書き散らかした部分の改訂を行います。
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再較正・認知主義

 認知は表象を媒介する。そうである以上、たとえ妥当の「かかわり」と言うことがあり、さらに「迎い入れ」のフィルターが効くとしても、結局のところ、内在的表象の操作から、外界の状況をシミュレートして、認知的状況を較正してゆくと言うことになろう。直観的受動-理性的能動の折合わせで営まれるシミュレーションを、認知的感応と把握し直すというイミで、先の情緒的決断主義と非自然主義的認知主義とのバイメタルを、シミュレート感応説と名づけておこう。これに関連して「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを内在的領域に形成しつつ、シミュレーションを行うところに、ポパー型生物の特徴がある ( 戸田山和久、二〇一四、二六四頁 ) 。それに引きつけて、合理的認知たる当為 ( 妥当の派生態 ) の「迎い入れ」を考えてみたい。加藤泰史の言い方をもじれば ( 加藤泰史、二〇一四、一五二頁 ) 、当為の次元を開示することで規範的次元を切りひらき、――妥当という超感覚的存在 (「かかわり」を呼びかける価値 ) を介して、――第一次的な「相在」からはもとより、第二の自然という「作為」[=Faktum] からも、効力をもたらす規範にしたがうことが、狭義の価値判断 (「道徳判断」・「述定的な価値判断」) ということになる。

 この認知主義的構図が成り立つためには、命題価値が、認識を担う状態と動機づけを担うふたつの状態に働きかけることを要する[1]

 ここでは、いかに価値合理性に見合った再解釈として再較正が成り立つのか、素描しよう。高次認知的情動それぞれに、はたまた認知的信念に、特有の身体的反応が伴いうるか、と問うてみよう。このことに関連して、身体性の反応によっては、認知的構成要素が一義的に精緻化されるわけではない、という論点がある。認知的状況が「再較正」( recalibration )によって、情動・信念の種類が決まってくる、というわけである。較正とは、或る「探知器」に反応する情動について、「或る探知器で測ったらAだったのに別な探知器ではBになる」という外見上の不一致を避けるよう、共通の基盤を探し、それぞれの探知器の追跡を把握することである。例えばネズミは過去の状況によって、餌を得るよう因果的に条件づけられているが、そのために餌の場所まで泳ぐというようには、条件づけられていないとする。後者の認知的条件下では、例えば「餌を得よう」とする情動が、「泳ぎ」を促す情動として修正をこうむる。例えば通常の身体性の「怒り」は、或る種の認知的判断の状況下では、「不貞」に関する判断への反応として生じた「嫉妬」となる。例えば通常の身体性の「快感」は、反省を潜り抜けることによって、「幸福感」として再較正される。このように別の認知的状態のもとでは、別の情動・認知を構成する。判断の例にひきつければ、何度も出した、「金が100gある」という命題価値の認知が、傾向性をつうじて因果的に動機づけられる ( 傾向性経路 ) のに対し、同じ因果的メカニズムとの規約的結びつきによって再較正され、「この金は60万円である」という価値判断の理由となる ( 理由づけ経路 ) 。こうして因果的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、さらなる再較正によって――場合の拠っては理由を交え――説明されうる。認知的状態による決定は、再較正を積み重ねて、身体性の評価が帰属する情動・価値判断の種類にまで及ぶ。そうだとすれば、「ドクサ」は、認知をとおして、おのおのの特色をもつことになろう。それによって、過去の経験に拘束されずに、――例えば餌の場所まで泳ごうという具合に、――新奇性に感応した選好をする、というわけである。ここでは詳論しないが、非帰結主義や探索概念といった新しい価値判断形成の要素を考えることができる( F.・ドレツキ、二〇〇五、第六章2 .)。


[1] 詳しい分析は、信原幸弘、二〇一六、三○四-三○五頁に委ねる。認知機能の分化ということは、ヴェーバー的な合理化と並行している。

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2020年01月04日

リッカートの事実判断(価値判断)-3シミュレート感応説

 高次認知的情動それぞれに、はたまた認知的信念に、特有の身体的反応が伴いうるか、と問うてみよう。このことに関連して、身体性の反応によっては、認知的構成要素が一義的に精緻化されるわけではない、という説がある。認知的状況が「再較正」(recalibration)によって決めるのは、たかだか情動・信念の種類にすぎない、というわけである。較正とは、或る「探知器」に反応する情動について、「或る探知器で測ったらAだったのに別な探知器ではBになる」という外見上の不一致を避けるよう、共通の基盤を探し、それぞれの探知器の追跡を把握することである。例えばネズミは過去の状況によって、餌を得るよう因果的に条件づけられているが、そのために餌の場所まで泳ぐというようには、条件づけられていないとする。後者の認知的条件下では、例えば餌を得ようとする情動が、「泳ぎ」を促すものとして修正をこうむる。こうして因果的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、さらなる再較正によって説明されうる。例えば通常の身体性の「怒り」は、或る種の認知的判断の状況下では、「不貞」に関する判断への反応として生じた「嫉妬」となる。例えば通常の身体性の「快感」は、反省を潜り抜けることによって、「幸福」として再較正される。このように別の認知的状態のもとでは、別の情動・認知を構成する。もとより個々の高次認知的情動に対応する「原」情動・「原」信念は共通なのだから、身体的反応はもとの情動から派生したとしてもよい。とはいうものの認知的状態による決定は、再較正を積み重ねて、身体性の評価が帰属する情動の種類にまで及ぶ。そうだとすれば、「ドクサ・思いなし」たる高次認知的情動は、認知をとおして、おのおのの特色をもつことになろう。それは、過去の経験に拘束されない、新奇性に感応した選好に応接する、というわけである(ドレツキ,F.,2005,第六章2.)。

 このように再較正によって、妥当からのかかわりを再解釈することで、認知の種差・情動の種差が生まれてくる。そのなかで普遍化的経路によって、勝義の価値判断として、述定的価値判断を含んだ様々なそれが立ち上がる。つまり@再較正とA普遍化ということが、認知主義的・合理主義的な価値判断のベースである。

 かようにも、価値判断は妥当の(準)価値的かかわり(それが情動にかかわるかぎり、価値判断に上昇しえない)を迎い入れて成立する、非自然主義的な業である。認知的な核は、妥当という客観軸が用意し、価値判断の種差の成形、ひいては普遍化的な構成は、迎い入れる態度決定が主導権を揮う。この妥当機軸のモデルにおいては、事実判断も価値判断の一種とみなしうるという長所があるのである。

 ところで真であるとはスピノザにあって、現実性の必然的な概念的総体を意味していたのである。すなわちスピノザ的に、永遠の相のもとの真理に住まうことは、有限者と神の思惟が一致する水準を考えることである。ただしリッカートから見れば、人間主体にとって、思惟と延長の同一性が成り立たないとする(BL.22)。すでに見たように、スピノザ的永遠には、自由の余地がない(リッカートはそれを緩和すべく、必然性概念を穏やかなものに解する(BL.24.))。

 こうしたスピノザ的自体的境地と掠るかたちで、リッカートの妥当(なかでも論理的妥当)ということから、認知主義が切り開かれる。それは個性主義的「価値多神教」と結びついた、真なる知(Gnosis)の探求であった(S. Griffoen, 1998, S.70.)。ここでリッカート的合理性を、異端的ではあるが、「主意主義的認知主義」と呼びたい。

 これに関連して「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを内在的領域に形成しつつ、シミュレーションを行うところに、ポパー型生物の特徴がある(戸田山和久、二〇一四、二六四頁)。それに引きつけて、合理的認知たる当為(妥当の派生態)の選択を考えてみたい。加藤泰史の言い方をもじれば(加藤泰史、二〇一四、一五二頁)、当為の次元を開示することで規範的次元を切り開き、――妥当という超感覚的存在(かかわりを呼びかける実在)を介して、――規範的観点から、判断行為に理由を付与する「作為」(Faktum)が、本来の価値判断ということになる。それは「意識一般」が認識論的内在を守りつつも、シミュレートによって手を伸ばす「超越の境界」である。

「主意主義的認知主義」は、リッカートの有限者認識に拠って立つ、ひとつの認知主義である。それはあくまでも、内在にとどまりつつ、或る種の価値との隔たりを予期しながら、認知的レジスターに即したシミュレートを駆使する認知主義である。もちろん、傾向性のそれ、のみならず理由性の合理化も、シミュレーションはかかわりうる。あくまで自体的なザッヘにしたがうとき、主観の迎い入れは当為的な導出に携わると言う意識をもちうる。誤解なきように付言すれば、価値判断は、妥当をベースにした、普遍化のブリコラージュ的寄せ集めである。そこには再較正と普遍化という、主観の側からの介入が必要なのであり、それによって価値判断たりうる。価値判断が「作為」たる所以である。・未完・ラスク論で完成させる予定。

(注)スピノザ、バールーフ・デ、『知性改善論』から、当為と必然の交わるところを、最後に押さえておきたい。事柄を自体的に見れば、「真理であることが確かになるためには、真の観念をもつ以外何ら他の標識を必要としない」(35、以下括弧中の数字はブルーダー版の番号)、つまり□Aである。しかし懐疑論者のように心を盲目にされてしまった人もいるから(47)、「真の観念の当為にしたがって他の諸観念を適当な秩序で獲得してゆけば、真理は、前述のように、自己自身を明らかにする」(44)。だからObAが要請される。認識必然公準□A→ObAを説くスピノザには、真理との隔たりはなかったのだろうか。スピノザにおいても、真理が流れこむことは、稀以外ではないのだから(44)、リッカートと同床で、〈価値との隔たり〉という異なる夢を見ていた。スピノザも私たちも、認識必然公準、さらには当為を無視しえない所以は、ここに慥かに存しているのである。

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2020年01月03日

リッカートの事実判断(価値判断)-2非自然主義的認知主義

 非自然主義的認知主義的側面へと移る。リッカートの場合、事実判断が原基的に価値判断ということになるから、話が錯綜する。だがしかし妥当という(準)価値に定位することは、価値判断一般の理論をつくりあげるうえで、大きな強みを発揮すると思われる。

㈠、悩ましいが、――今述べたように――認識が係る論理的(logisch)事実判断が、実践が係る倫理的(ethisch)価値判断と同じ構造で論じられる。認識論的二元性、つまり存在(現実性)と価値(妥当)の区別が設けられる。そこで前者は畢竟、後者に依存するがゆえに、現実性の概念と価値概念は交互概念となる。しいて言えば、真理価値を前提にした事実判断と、事実判断から遊離した価値判断、〔つまり評価との〕区別がしつらえられている。後者は、学的吟味の後景に退く。

㈡、およそ価値判断に関して言えば、構造としては、@客観的価値に対するA「振る舞い」ということになろう。個人的な評価がどのように絡まってくるのか、明確ではない。@を強調すれば、――かかわりを呼びかける妥当を、実在として据える――非自然主義的認知主義ということになり、Aを強調すれば、決断主義的情緒主義ということになる。暫定的に言えば、非自然主義的認知主義(「主意主義的認知主義」)の契機が認められるということである。

 さて、妥当に関する真理同一説的境地(上の一、で述べた、非自然主義的認知主義を、とくに真理価値に適用した形態のもの)は、カントの〈真理とは何か〉という問いかけを踏まえている (G. Gabriel.&,S.Schlotter,2013,S.25)。もとよりカント解釈では、模写説を公認されるわけではなく、一致という形式的一般的基準が指摘されるにすぎない(認識と悟性/理性の原則の一致)。やや広い文脈から見て、G. Gabriel.&,S.Schlotter, 2013,S.31のフレーゲのように、一致ということがらがありうべきだとしても、それは真理の定義に与りえぬ。というのも真理の具体的確定作業は、なお一致のうちに訴えなくてはならぬからである。思えばスピノザに関連して、「真なる観念はその観念対象と一致しなければならない」(『エチカ』第一部公理六)のである 。およそ一致ということを離れると、真理を確定しえない。スピノザは、対象との一致を観念が真であるための、「外的標識」と名づける。一致をリッカートと共有するフレーゲを参照すれば、フレーゲ自身、さまざまなところで、何か現実性について言明する思想の承認のために、意味[Sinn]表現にすがるよう配向されると示唆している(G. Gabriel.&,S.Schlotter, ,2013,S.31.)。

 ここにリッカートとの実在論的接点が存する。リッカート哲学では、認識にあたって、妥当という(準)価値へと差し向けられる。もちろん基本的に価値実在論の枠に収まるという意味では、実在論の結構をとっているが、価値は同時に、超越論的な含意(客観を成立せしめる超越論的条件という含意)をもつ。(1)ではリールの実在論に接近したリッカート哲学の〈超越的観念論=経験的実在論〉的相貌を描き出すことにより、T文に依拠する同一説をリッカートに認め、同一説へとアプローチする。

 さて、リッカート哲学を同一説として跡づけるにあたり、Meerbote,R.,1995,S.351-356の形式論理的分析を援用しよう。まず価値尺度「超越的当為」[1]に「一致」することで、構成される「経験的実在」の階梯を追跡する。そして科学分類論系列[2]の所知構成論は、前科学的世界に横たわる経験の沃野[3]を、視野に入れているとして、積極的に評価したい(以下の議論は「リッカート解釈の冒険」と重なるところがあるが、〈現実〉=「知覚」という論点が明確ではなかったので書き直した)。

 [直観の多様]リッカートの分析の端緒を、個々の具体的な主観iによる、直観の多様aについての肯定判断(1)Ui(Fa)によって表わすとする。リッカートにならうなら、主観iaperceptio知得する。このレベルでは、〈多様〉は、たんに「与えられたもの」として措定されているにすぎぬ。リッカートは、意識内容中、原初的な〈現実〉として〈多様〉を考えているのである。この「知覚」(もしくは直観)に即した〈現実〉は模写によってくみ尽くせない(Rickert,H.,1910(←1899), Kap.V. 内容が〈現実〉的なものとされる。Vgl.GE3,S.209.)。学問分類論にわたる批判に言及しつつ、ディルタイは、次のように生の前科学的〈現実〉を高く評価していた。「リッカートの現実科学とは歴史学のことであって(Dilthey,W.,2004(←nach1904),S.286:Gr.1,S.327からの引用)、それは、普遍的概念を扱う自然科学とちがっている。それゆえリッカートは自然科学を勝義の学問とはしなかった」。ここで、

(1)Ui(∃y)(y=a)

(1)が真のとき、aの存在を表示すれば、(2)が成り立つ。

(2)(∃x){(x=a)&Ui(∃y)(y=x)}

(1)と(2)の双方は、aという直観の多様が、存在判断(とはいえ、それは知覚判断にも及ばない判断以前形象である)の要素となることを表現している。

 [異質的連続]以下は「異質性と連続性との結合」を説く、リッカートの『文化科学と自然科学』第二版のくだりである(Vgl.Gr1,S.34/Gr2,S.32.)。「連続は、それが同質なら即座に概念によって支配されうるし、異質なものは、私たちがそれを截り出すとき、つまりその連続性を非連続性へと変化させるとき、理解されうる。こうして学問には、その途として二つの概念構成もまた、明らかとなる。私たちは、〈現実〉すべてに挿し込まれている異質的連続を、同質的連続か、もしくは異質的非連続に変形するのである」(Rickert,H.,1910(←1899),S.33.)。〔この箇所は――アヴェナリウスを承け――「模写説」に引き摺る『限界』第一版には見られない。構成を予期する『限界』第二版の論点である。〕
 [構成の主観性]かくて構成の主観性が問われる。さらにFyで規定される概念Fが述語として入ってくるならば、ごく単純な形でも次の知覚判断[4]の形式をとる。

(3)UA(∃y)(y=a&Fy)

この判断が真である時、aが感覚的な与件である道理によって、

(4)(∃x){(x=a)&Fx&Ui(∃y)(y=x&Fy)}

が成立する。(4)は、知覚判断を示している。知覚判断といえども(カントのそれを思い浮かべればよいように)内在的【客観】を目指すのである。この関係をメアボーテにならって、たんに「指示的関係」と名づけたい。この「関係」では判断者iに言及しており、iという条件のもとでのみ、たとえばaが青い、たとえ(漆黒の)暗闇において見えなくても青い、と判断(4)を下す。

(1)(2)が直観の多様にしか言及しないばかりか、 (3)(4)のごとき知覚判断の域にとどまる。さらに進んで、これは青いものである、という青い【このもの】に関する判断は、

(5)Ui(∃y)(y=dies Blaue)

となる。このさい、判断はまだ「知覚判断」の域で推移しており、普遍妥当的判断を懐胎しえていない。

 [普遍妥当的判断への移り行き]「現実」存在の〔判断の〕形式は、となる。これを【このもの】ではなく、価値と一致した「である存在」に当てはめるのなら、「青いもの」という「現実」存在の判断は、となる。これは(3)の個体定項を個体変項に変え、青さという本質?にも言及している。つまり、「前科学的個体」概念を介して、「現実」存在の構成に関与している。〔直観の多様を〈現実〉と見なせる文脈も存在しうるが、物心に対応する水準に「現実」存在を位置づけたいと考える。〕(6)Ui(∃y)(y=dies)
 翻って最も単純な「指示的関係」は、以下の判断形式
(7)Ui(∃y)(y ist blau)
(8)Ui(∃y)Fy

によって示される。そして知覚ならざるαについて語る命題

(9)(∃x)(x=α)

へと引き継がれてゆく。この生の経験的所与にわたる議論は、以下の引用を参照されたい(Vgl. Rickert,H.,1901, Gr1,S.354-355: 1913b, Gr2,S.316-317.)。

「私たちは、それゆえ、いかなる任意の事物ないし過程それぞれに相応しい個性は、その内容が現実と合致したかたちでは、その認識にも到達できないし獲得にも値しない。かくのごとき個性は、十全に規定された諸契機のなかから顔を出すものであるし、私たちにとって意義[=Bedeutung]に溢れた〔科学的〕個体とは峻別する必要がある。この通俗的に考えられたものでしかない狭義の個体〔つまり「前科学的個体」〕を、普遍的類概念がそうでないがごとく〈現実〉ではなきこと、のみならず私たちの現実把捉ないし前科学的概念構成の産物であることを、明確にしておかなくてはならない」。すなわちそれは〈現実〉ではなく、「現実」存在の構成契機となる「所与」である*(Rickert,H.,1905,S.63. 前科学的概念構成については、Gr1,S.379:Gr.2,S.342.)。こうして「直観の多様」=〈現実〉を最基底に置き、「前科学的個体」を所与として構成が進む。勝義の普遍妥当的判断へと上昇することで、相在たる「現実」存在が規定される。

 まとめれば「科学が研究にたずさわる以前に、むしろ至るところで、すでに概念構成が生じており、把捉と疎遠な〈現実〉ではなく、前科学的個体という産物を、科学は質料〔=本稿の言う所与〕として見いだすのである」(Rickert,H.,1905,S.62.傍点ゲシュペルト)。学的概念αは、iによる「知覚」=〈現実〉からは制作できぬ概念である。

 学的概念αに関連して、コウモリがソナーによって「かたちを聞く」ことは、逸脱現象なのだろうか。いや、私もそのことを、生態学的な説明の比喩によって、理解することが可能である。つまり比喩が「文法補完的」?に用いられているにすぎない。その意味で「世界をわれわれとは全く異なった仕方で経験しているものの可能性」(村田純一,1988,47ページ)さえ認めうる。つまり「私の直接的経験から」の回り道した経験も想像できる。突拍子もつかない命題内容があるときでさえ、「私」による判断は下されること、つまり、「私」以上のものに〔実際、なることは不可能としても〕扮したとき、「私」の判断は真であると言われる。「私」には、あたかも「意識一般」を扮した命題内容の「承認」[5]が要請されるのである。そのさい「前科学的個体」は、*で見たように、一般化的方法/個別化的方法という学的概念構成の「所与」となる。学的概念構成は、そこで特殊な事物、出来事に普遍的価値を結合して(Rickert, H.,1905,S.80.) 、学的個体概念を構成する。繰り返せば、「前科学的個体」は「所与」である。この「所与」は、学的「問いかけ」の第一次的対象である。とはいえ「所与」は、概念構成を介して形式とかかわっている。けだしディルタイにおいても、「所与」とは「連関」に媒介されていたことと足並みをそろえているのだろう。すなわちリッカートの場合、「前科学的個体」の水準で、同一説が成立するのである。

 Gabriel,G.&Schlotter,S.,2013,S.31によれば、「真理の模写説を拒絶する点で、フレーゲと新カント主義者は帰一する。この立場に関連して、もちろんフレーゲの批判が一致説すべてに向けられたものでなかったことに、留意しておく必要がある。一致説は、それが定義的要求と結びついているかぎりでのみ、非難される。とはいえ、それが真理の確定作業にかかわる場合には、正当性をもっている。フレーゲ(フレーゲの文脈ではSinnに意義を当て、Bedeutungに意味を当てる。リッカートの文脈ではSinnに意味を当て、Bedeutungに意義を当てる)じしんは、さまざまなところで、なにか「現実」存在について言明する思想の承認のために、意義[=Sinn]表現にすがるよう配向されることを示唆している。この見地にリッカートとの接点が存する。つまり一致の解釈は、それじたい存立する現物との摸写として論じるときにかぎって、リッカートの批判が映えるという論点である。リッカートの超越論的観念論は一致説に抗するものではなく、ただ模写説に異を唱えているだけなのである(Vgl.Krijnen,Ch,2001,S.218.)」となる。

[1] 原型はフィヒテであろう。湯浅正彦からの引用を引いておく。「他方「現象」は、……作用を自己遂行する「根源的な自由」でもあって、この「自由」にとっては「現象」の〈一〉なる〈存在〉(=「神の映像」)は、「当為」としての「法則」として現象する」(湯浅正彦,2016,107ページ)。

[2] 『認識の対象』系列での、以下の「所知構成の階梯」と比較参照せよ。

1.経験的に与えられた直観の多様(「知覚」)が有る。知覚表象〔の断片〕に「承認」を及ぼして、「所与性の範疇」を帰属させ、個々の【このもの】が成立する段階(GE2,Kap.5,II.)。リッカートの場合、非論理的質料〔本稿の言う所与ではない〕が想定されていたとも言われる(「純粋内容」Rickert,H.,1921,S.53;1924(←1912),S.13.)。判断によって形式を与えることで、【このもの】が構成される。

2.【このもの】に「構成的範疇」(因果のカテゴリーはこの次元で働く)が帰属し、「現実」存在が構成される(『認識の対象』第二版(1904年),Rickert,H.,1904,GE2,Kap.5,III.)。GE2,Kap.5,

II/III.(第二版以降の諸版でも同様)では【このもの】以後的に「現実」存在を置いている。つまり【このもの】に「現実」(性)という形式、ならびに「構成的範疇」〔時間、空間、個別的因果性の形式〕とが結合して、「現実」存在が構成される。「所与に客観的現実性の形式を与え、そうして客観的現実を構成する諸カテゴリーを、構成的範疇と名づける」(GE2,

S.211.)。

3.「現実」存在に普遍的価値が関係して、特定の観点から内在的【客観】(因果的法則性による前科学的個体の制限は、限定的である)を概念媒介的に抽出する。「現実」存在から内在的【客観】が成立する段階(GE2,Kap.5, IV.)である。認識がなされるなら、多様からの改変[=Umbildung] (GE2,S225-.226.)をこうむることになり、「現実」存在から離れる。「或るしかじかの法則に従っていること」は、認識のあり方に対応したものである。それゆえ、この認識のあり方の形式は「構成的範疇」と区別して「方法論的形式」と呼ばれる。

[3] アヴェナリウスの影響については、Kraus,Ch.R.,2016,S.63-72を見よ。とくにその精神物理学的投影概念について、『認識の対象』第一版(1892年GE1)で批判が向けられた。

[4]ただ主観的に妥当的である経験的判断は、これを私は単なる知覚判断と称する。知覚判断は、いかなる純粋悟性概念をも必要とせず、思惟する主観における諸知覚の論理的連結を必要とするにすぎない」(Kant,I.,Bd.IV,S.298.=6:250ページ。下線はゲシュペルトでない強調、ボールド体はゲシュペルト)。

[5] 「私」が「私以上の役割」を扮するrole-takingを、ここでは「承認」と呼んでいる。

[6] こうした所知は「意識一般」に現出するのではないか。認識主観というものは、他者の判断意識を通じて思考可能なものに限られる(Dilthey,W., 2004(←nach1904), S.272.)。ところで内在的【客観】つまり自己の意識内容は、主観によって思考されうる。言い換えれば、それらはすべて、「意識」に対する内在的【客観】になる。この第三の主客対立での能知、「意識」は、第二の「主観〔心的主観=自己の意識内容を含む〕を、なおもう一度主観と客観とに分解」(GE1,S.8/GE2,S.13.)し、より狭くとったものである。第三の主観項、〈意識作用〉を指示するのに、リッカートは第二の主観と紛らわしい「意識」[=Bewusstsein] (GE1,S.8/GE2,S.13,usw.)という語を用いる。ここに、〈ディルタイ的「覚知」が作用と対象内容とを区別しなかったこと〉との、対比を見出せる。

 さらに限定して、判断主観を考えうる。この判断意識たる「意識一般」は、内在的【客観】になりうる表象主観と区別される。それは、個人的理論的自我をまるきり内在的【客観】だと考えたとしても、主観として残る (Dilthey,W., 2004(←nach1904),S.274.GE2,S.144.)。フレーゲの一致説は一見、リッカートのそれと趣を異にしているかのようである。ウィットゲンシュタインの「論考」との関係で言えば、フレーゲはタルスキのT文を真理の基準とする一致説をとっていた。しかしフレーゲ-リッカート間の対立は、リッカート的主観とすることで、超越論的観念論=経験的実在論的に解決できる。

 以上のことを大枠で捉えるなら、リッカートの超越論的観念論は、同一説を御払い箱にするのではなく(Vgl.NMS,S.218.)、ただ模写説に異を唱えているだけなのである(G. Gabriel.&,S.Schlotter, ,2013,S.31.)。というのも模写を言いだすと、循環もしくは無限後退に(G. Gabriel.&,S.Schlotter, 2013,S.27.)帰着するからであって、独立自存する原物は、ポイントを失わざるをえない(G. Gabriel.&,S.Schlotter,2013, S.31.)。ことがらに即して考えるなら、例えば「ソクラテスは賢明である」という事実と、「ソクラテスは賢明である」という命題には、言語的なちがいはない。むしろ事実と命題の間で成り立つと言われる、対応という関係が不分明なのである。「対応が実際に完全でありうるのは、対応づけられるべき諸物が一致し、したがって別物では決してない」 (G.Frege,1918-19,S.60.=四:二○五頁)ケースであるが、そのようなことなど、よもやありうるだろうか。いったいこの関係を、どのように考えればいいのだろう。約めて言えば、模写は認識の論理的特徴の誤認であり、認識の基準問題を解くことができない(Ch. Krijnen, 2013,S.51.)。――ちなみに村田純一氏からの私信によれば、現象学に同一説の徴を認められるとの由。――そうしたアポリアを自覚して、現象学では、明証経験は、経験以外の何か他のものによって、特徴づけられないとする。畢竟、現象学は、その経験のうちの内的要素をつうじて、対象自体が現われるという同一説的構えに近づいている。

 リッカートは、認識の主観的要素と客観的要素とをいずれも斥け、フレーゲ(Ch.Krijnen, 2013,S.45.)とともに、同一説、もしくは対応項を廃棄する余剰説に近いスタンスをとったのであろう。そうしたフレーゲ=リッカートラインの真理論の射程を一瞥しよう。フレーゲ的に言うのなら、「思想」は意味[Sinn]のレベルで事実と合致[coincide]する。ここでの「思想」は、真である意味的項「思想」を、事実そのものと考えるのである(もとより、フレーゲの「思想」をレファランスの項とする異説を知っている。それでは、フレーゲ的な同一性を誤解しているという誹りはまぬがれない)。片やリッカートは次のように説いていた。「一致を認識するのは、相変わらず主観が必要であり、この認識はもはや表象ではありえぬ。なぜなら表象なら、新たな一致が認されねばならず、無限後退に逢着せざるをえまい」(GE1,S.44.)。模写は――表象と知覚との関係にとどまり、必然的に現物・コピーの対応にもちこまれる以上、――無効なのだ。けだし知覚される元来の客観と、表象によって模写された客観という、二つの項に分裂しかねないから。こうして認識主観のなかに、主観列の無限系列を抱え込んでしまうことを、リッカートは指摘したのである一致はあくまで外面的な基準であって、真であると本当に言えるためには、思惟そのものの内に、その根拠をもたなくてはならない。真なる観念を偽なる観念から区別する何かリアルなもの。そうしたリアルな(準)価値が、相在を組み立てる。

 このようにして構想された妥当領域は、第一に可謬性を保証するものであり、第二に価値判断の傾向性的基盤・合理論的理由となる。妥当それ自体は価値そのものでないとしても・・・それは事実判断との接合が見られるゆえに、(準)価値的な相在の構成契機にすぎないのである。ここでいう相在が、価値そのものではないとしても、動因的・動機的に価値とかかわりうる。それは、主観にかかわりを呼びかけ、主観は決断をもって迎い入れる。注意すべきは、妥当は、事実の存在根拠であると同時に、価値の存在根拠であるという点である。もとより、独断的な思い込みをいかに排してゆくか、という問題は残るものの、具体的問いかけをつうじて答えられるべき問題であって、模範解答的な解決を与えることはできないであろう。けだし、同一を保証する「かかわり-迎い入れ」関係を説くためには、シミュレート論を視野に入れた、理論拡充が必要である。

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2020年01月02日

リッカートの事実判断(価値判断)-1情緒主義的決断主義

「リッカートの義務論的認識論

―誠実性と自己決定の狭間から見えてくるもの―」・・・既発表論文を改作

 学知の自律に関連して、理性の本性から〈自由に真理を語る哲学部〉を要請した、カントの言が思い出される。「学者公共体のためには、大学にどうしてももう一つ〔下級〕学部がなければならない。それは、みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由はもたないが、すべての命令を判定する(beurteilen)自由をもつような学部である」(Kant,I.,1917/1968(←1798),Bd.VII.S.19-20.=18:27ページ)。すなわち哲学=学知は命令について価値判断することによって、みずからの自由、自律を獲得できるのである。そこに、価値判断を理性へと遡及する、西南ドイツ学派の原像を見出すことができる。


 西南ドイツ学派の認識論は、社会的実践に焦点を結ぶゆえ、しばしばフィヒテ主義と呼ばれる。とくにフィヒテの社会的見地(同に対する異、自に対する他、おのおのは他に対してのみ立てられ、他において規定される)からの触発を受けて、共同体的視角(例えばリッカートの倫理思想、社会民主主義とのかかわりを見よ[1])をとったことが、その裏づけとなる。またマリオン・ハインツに依拠すれば、フィヒテが西南ドイツ学派(なかんずくヴィンデルバント)に与えた影響としては、

 1.批判的方法が判断と価値判断とについて、構成的区別をしたこと

 2.批判的方法の目的論的性格

 3.規範意識と経験的現実のかかわりによって規定〔される扱い方〕

が挙げられる(Vgl.Heinz,M.,2002,S.135.←Krijnen,Ch.,2001,100ff.)。とくにその容認/拒斥の感情についての着想は、フィヒテの道徳論をお手本にしている。例えばフィヒテにおいては義務に即して容認/拒斥が語られる(Fichte,J.G.,1977(←1798-1799),GAI/5.S.155.)。この両感情は二元対立性を示す(Fichte,J.G.,1977(←1798-1799),GAI/5.S.137.)。いわく、西南ドイツ学派、なかんずくリッカートの認識論は、こうした基幹構図を下絵にしている、と。例えばリッカートの、当時の心理学につうじる「明証感情」[2]は、『判断力批判』の影響下、フィヒテにならった情意的媒介を承けていると考えられる(Vgl.Heinz,M.,1995,S.109-129.)。

 とはいうものの〔Krijnen,Ch,2001,S.324.の述べるごとく〕、西南ドイツ学派は上記カントのように、価値判断(Beurteilen)を重視し、理性の実践的自律を説く。「〔妥当=真理価値の自律を意志は要求するが〕このように、みずから命じる意志は、自律的と解される」(Rickert,H.,1921,S.128-129.)。そればかりか判断を主観的恣意に任せるのではなく、いやしくもそれを認識と呼ぶならば、客体の「統一性」が認識の課題になるとした。つまり「現実」の超越論的なまとまり、ひいては真理に関する誠実性というカント的課題を、リッカート認識論はとどめている。―〔ヘルマン・ロッツェ流の〕妥当する「超越的価値」[3]が、判断の則るべき規矩となっている。例えば「雪は白い」という判断を促す、「雪は白くあるべし」のような「超越的当為」(transcendentes Sollen,Gr1, S.682;GE1,Kap.XV;GE2,Kap.IV,§.I.usw.)が主観に顕われる。ただし主観は、すべての意識内容を捨象した判断作用たる「意識一般」である。判断、つまり勝義の認識は、「超越的当為」に応じて、問いに模しうる〈主語表象と述語表象の表象結合態〉に答えることである。こうして「意識一般」は「雪ハ白イコト」という相在を構成し、ひいては「白い雪」という「現実」を内在的領域に抱え込む。そのためには、第二に「現実」の構成にさいし、価値に対する〈決断/決定〉、つまり態度「決定」(問い=表象結合、と答え=態度決定という二段階を考えると、「二重作用説」:廣松渉,1971,210-214ページとも呼べる)が、必要条件となっている。以下では、リッカートの態度決定説のうちに見出される、「誠実な」態度「決定」という契機(1)と、そのための「自己決定」(2)の関係について、考えを深めよう。

一、誠実性

 カントのごとく、超越論的対象X[4]は多様なアスペクトに対応して、「本」「一枚一枚の紙」「文字というもの」のようにまとめられるといえども(中島義道,2008,90-91ページ)、リッカートはそれらを、Xによって「まとめられた」膨大な可能性として、考えている。

 例えばリッカート自身の例ではないが、上記をフィヒテ流に読み替えれば――判断「雪は白い」は、「これは白い雪です」とも、「ここでは白い雪でスキーができます」とも、言いかえることができる。目の前(vorhanden)という条件では「これは白い雪です」、手の元(zuhanden)という条件では「ここでは白い雪でスキーができます」等々のそれぞれを、リッカートは膨大な条件の一部分をみたすものとして考えた。つまりリッカートは、既知を自覚しつつも、他の条件を除外して截り取ることによって、もしくはその背景に、匿名の私ならざるものの視点と向き合いながら、認識は成り立つ、というフィヒテの構図をお手本にしている(ただし、その匿名の視点は「非我」ではなく、むしろ「意識一般」に即している)。

 さまざまな認識の可能性に拓かれたリッカートと、カントをここで対比してみよう。『諸学部の争い』のなかでカントは言っている。イサクを殺すべし、という神の命令に対峙するアブラハムの振る舞いを、カントは非難がましく扱った。「……アブラハムは、この神の声らしきものに対して、次のように答えねばならなかったであろう。「私が私の善い息子を殺すべきでないことはまったく、たしかですが、私に現われているあなたが神であることについては、たしかではなく、またこれからもたしかになりえないでしょう」、と」(Kant, I.,1917/1968(←1798),Bd.VII.S.63.Anm.=18:89ページ) 。カントは、もし神が人間に語りかけたとしても、その語りかけている「呼びかけ」が神のものであるかは、人間には分からないと言う。つまり@理性への「呼びかけ」は有無を言わさないにもかかわらず、Aその「呼びかけ」がどういう根拠をもつかについては迷うことになる。Bしかも事実、理性に呼びかけているのだから、それに背くことは、自然必然性に従うときよりなお悪い。

 リッカート認識論に即した場合、「超越的当為」の「声」は、カント的「呼びかけ」に比べて判然としているにもかかわらず、難局に立たされる。「超越的当為」の「声」は判然としている@。ただしそれはカント的構図のなかに、実質的「対象」をもち込むようでもあるが、他律的に「認識」を提示することとはちがっている(「知的良心」GE2,S.223,S.224.に関連して理論的自律が念頭におかれていた)[5]。カントと同様、「私は信ずる」credoが理性的「判定」の審級である(Vgl.Kant,I.,1917/1968(←1798),Bd.VII.S.20=18:27ページ)。先のように、さまざまな認識の可能性に拓かれている帰結として、判断は、無限のアスペクトのなかから截り取ることになる[6]。可感界中、かように無限の(多様な)真理に向かって啓かれていることは、有限の/限界をもった人格の態度「決定」の裏返しなのである。

 このことは、ちょうどカントの場合、可感界に理性の越権が適用されるなら、そこに無限を見出す誤りを抱え込むことと照応している。この着想は、そもそも『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」[7]に由来する。「世界はいかなる始まりももたず、空間におけるいかなる限界ももたない、むしろ世界は時間に関しても空間に関しても無限である」(KrV,A427/B455.=5:142ページ)。例えば空間の無限性について見てみよう。仮にその反対に、世界は空間に関して限界づけられているとすれば、世界の外に空虚な空間を想定せざるをえなくなる。としてみれば、その空虚な空間と世界とのあいだに、関係はないゆえ、世界はいかなる対象とも関係していない。ということは、世界は空間に関して無限であると考えざるをえない(Vgl.KrV,A433/B461.=5:147ページ。時間については同様なので省略)。つまり世界の分割の系列には究極の不可分の単位は見出しえないので、「……分割において停止するべき、経験的根拠はどこにもないのみならず、続行されるべき分割のより先の諸項そのものはこの進行する分割に先立って経験的に与えられている、すなわち、分割は無限に進行する」 (KrV,A513/B541.=5:217ページ) 。現象は有限の感性に制約されている。しかしながら理性の働きはそれを超えて――みずからを弁えず無限に進行する(フィヒテにならうなら、自我は無限の努力である)。

 リッカートにはカントが残したアポリアたる、不透明的要素が残留している。どの判断を下すかの段で、リッカートは、ビュリダンのロバのごとき逡巡に至る。「迫害者から匿われている友人がいます」と当の迫害者へと、彼から匿われた者を差し出す代わりに、「身の上のかわいそうな友人がいます」と迫害者に言うのは、端的に「嘘」ではないのかA。そうしたイマジネールな――「嘘」・饒舌・逡巡を呑み込んで、ひとつの「声」に従うさい、態度「決定」に迫られるB。

 たとえリッカートが真なる文章の意味をasozial(Rickert,H,1913,S.307; Rickert,H.,1921,S.S.332-333,S.370-371.)と特徴づけるとしても、――「私」ではなく――「私たち」は価値とmitlebenしなくてはならない。つまり「真理はただ(ダー)あるのではなく、私たちに関心を抱かせる」(Rickert,H.,1921,S.114.)。認識という営為は、そうしたかかわりのなかでの(絶対に自発的であり自由な)「創造的活動」[=Tathandlung](GE2,S.233.)なのである。だから知的良心に従う義務意識(GE2,S.234.)が機縁となって、「私たち」の「見地」が構成される。「……「私たち」は、非人格的意識の見地に立って考えよう。この見地から「私たち」は、そのなかにいる判断する「私」にしても、個別的な客体と考えることになろう」(GE2,S.146.)。

 フィヒテが実践的に自己を啓いてゆく「倫理」を先取りしたように、リッカートの論じるところでは、義務に従う認識の営みのなかでも、実践的態度「決定」が要求される。つまりリッカートは「判断が〔心理状態として〕何であるのか、という観点からではなく、判断が何を遂行するのか」 (Rickert,H.,1904,S.88.下線ゲシュペルト)という実践的見地に立つべきとした。例えばフィヒテの実践的「決定」にあたるものを、リッカートが考えていたとき、私と他者とに通底する、反省的な暴露機能が想定されていなかったか。とくにフィヒテ-リッカート-ヴェーバーにつらなる主意主義の系譜では、理論と実践との壁を超えるべく、自己みずからが責任を引き受けると考えられた。すなわちカントの困惑、「物自体の不可知ゆえの表象の戯れ」(廣松渉,1990,56ページ)に直面して、新たな知の基盤として非知的な生、実践的基盤へと私たちは配向される。私たち「人間存在は、生において通常の経験とは別のところで付随的に知を有し、当の経験を説明したり基礎づけたりといった仕方で知に(ママ)わっているのでは」ない。より根源的には私たち「人間自身が知なのである」(廣松渉、同箇所)。

 かくてリッカートの場合、倫理的態度として「誠実な」態度をとらざるをえない。そうした義務意識は、対他的には誠実性というかたちで現われるであろう。他者に対して認識が啓かれているということで、誠実な関係としての〈妥当が成り立っている状況〉[8]を考えていこう。つまり第一に真理は、自己/他者に対しても啓かれうる=(1)

 もとよりその「自己決定」は、「誠実性」の必要条件にすぎないとはいえ、次に、「誠実性」に関して、どのような示唆が得られるか、考察したい。

二、自己決定

 「誠実性」の必要条件となる、「決定」ということに関連して、理論理性的に捉え返せば、「無底」という他ない。つまり義務論的認識論が妥当することは、「深淵/無底」を跳び越す一つの「決定」に依拠している。例えばハバーマスによるポパー批判を見てみよう。エンドクサたる基礎命題は「私たちに直観的かつ無媒介的に、明証的に与えられていると〔ポパーは〕する」。ポパーによれば全称命題を反証する、「一つの観察結果を表現するこのような基礎命題に対しては、にもかかわらず間主観的承認は強制されない。すなわちこの命題そのものが、その経験的吟味のためにこの命題が役立つべき法則仮説とまったく同じように」 (ハバーマス・J著,城塚登/遠藤克彦訳,1979,181ページ) 無根拠である。ゆえに「ある基礎命題の容認が経験にあっても、十分に動機づけられているか否かについての決定が表明されねばならぬ」(ハバーマス・J著,城塚登/遠藤克彦訳,1979,183ページ) 。ハバーマスが言うように、根拠なき「決定」ではあるものの、むしろ積極的にポパーの言う無根拠を認めたら、どうであろうか。事実判断も価値判断の一種である、つまり判断は一種、エンドクサに対する「決定」 である、と見なしたらどうだろう。そのさい、判断の理由が主体にとって無根拠であるがゆえに、一種の「決定」に委ねられる、と。この「決定」という言葉は多義的であるが、さしずめ以下の《決定》[10]と区別されねばなるまい。

 「決断主義」ということで、ポパー的な非反省的意識としてのシュミット的《決定》が思い出される。それは、ハバーマスの批判するがごとき、非批判的意識であって、政治的に素朴な意識である。ハイデッガー的主体の《決定》につらなるそれは、賢しらへと配向される。

 循環はどこか自分の「決定」によって断ち切らなくてはならない。それも《決定》を回避したかたちで。裏返せばリッカートの場合、思い切った判断行為が、営まれるべきなのである。言いかえればこのことは、「私」を起点にして「決定」ということを考えることである。したがってリッカートの判断行為には、第二に、イマジネールには違背しうるにもかかわらず、あえて振る舞う[=Verhalten]という「自己決定」の「ふり」をかたどることができる=(2)

 理性的存在者たる人格が、自分のなした行為に対して責任を負うのは、他人の追及や強制によってではない。責任があるのは、当人が理性により適法的行為(義務に適った行為)をなすように命じられており、他人の権利行使の自由を侵害せぬように、みずから強制していたとき、つまり「自己決定」していたときである。「深淵/無底」の前で振る舞う〔自己みずからに対する〕促しは、理論的理性を越えた「自己決定」の「ふり」に接続するのである

 カント中、「自己評価中立的な」「自己決定」は、合理性の指標と見なせる。例えば『人倫の形而上学の基礎づけ』第二章[11]は、何を立てるか(普遍的法則を[12])、何に対して立てるか(目的自体としてのすべての理性的存在者に対して[13])を引き継いで、誰が立てるかを問題とし、第三の原理[14]として以下を要求する。「それぞれの理性的存在者の意志は普遍的に法則を立法する意志である」(Kant,I.,1911(←1785),Bd.IV,S.431.=7:69ページ。下線ゲシュペルト)、と。「自己決定」という形式は、道徳法則を迎え入れる理性的存在者にとっての必要条件となる所以である。

 加藤泰史氏のご教示[19]によれば、ノーマン・Rの批判は、自律を「自己決定」に矮小化しているとの由。「自己決定」はたかだか、自律のある種の形式しか配視していないからである。さらに氏によれば、「もとより自律にしろ、いわんや自己決定にしろ、誠実性が他者によって相互に担保される〔=誠実性が実現する〕保証はない。帰結の点から言えば、個人にとって「賭け」にとどまる。だが「価値観的に」同形の他者に思いを託せるのである」とされる。これを引き継いで言えば――たとえ「自己評価中立性」にとどまる「自己決定」にしても、「私」を起点とする(安彦一恵の言う「自己善」,2013,159ページ以下)ことは、「私」で閉じるということではない、つまり「私」から他者へ至る回路を遮蔽するものではないのである

 はたまた「自己評価中立性」の形式を取り出すことに意味は、見出せない、という批判もあろう。しかしこのように帰結に結びつく保証がない「形式」に注目することは、価値観的に同形の他者を思念することである。「賭け」(デリダなら「郵便的」と形容するところだろう)に共鳴する他者が存在する可能性を示唆する点で、規範の「形式」を考えることは無意味でない。もとより、この「自己決定」の形式は、自律の必要条件にすぎない。むろん自律の十分条件ではありえない。その意味で「自己評価中立的」な認識論は、他者へと開かれる途に可能性を託す。もしくは他者への回路の論理的可能性を考量している点で、十分、有意でありうる。換言すれば、そうした内省は、他者をいかなる意味で信ずるべきかへと考えを促す。おそらく、「誠実な」認識と「自己決定」をつなぐ項は、リッカートの場合、「意識一般」である。 

 しかし、本稿ではその架橋は理論的見地ではなく、実践的見地に拠るとして判断を留保した。というのも「現実」と「妥当」との間には、理論理性では解決のつかないアンチノミーが介入するからである。私たちは「内容的には非合理的な〔つまり一義的解釈を強いない〕現実」に正対しながらも、両者を橋渡しする、「神性」に依拠した信仰に賭けて(Vgl.GE3,S.448.)、かろうじて認識の根底をすえる。そのことが義務論的認識論の精髄をなし、それをつうじてのみ、「妥当」に至る通路が拓ける。つまりリッカートの論理的「無底」を支えるのは、「宗教的実践」である(Vgl.Hessen,J.,2015(←1919),S.34-35.)。

まとめ

 カントを支持するリッカートに戻れば、「超越的当為」とは、他者に対する誠実性へと向きながら、イマジネールには「自己決定」の「ふり」をして――「嘘」・饒舌・逡巡の可能性に拓かれながらも――「深淵/無底」の前で態度を迫る価値である。つまり普遍的主観性に対する「超越的当為」の妥当に「誠実に」与りながら、他人と誠実な関係性を結べないという可能性を孕んでいる。リッカートは、その「超越的当為」(後の文脈では「超越的意味」)を、価値実体の主観的な側面、もしくはその主観へのかかわりとして規定しつつ、カントの炯眼を配慮して、それを超越論的条件として位置づけた。「超越論哲学は妥当問題を思惟の外部に横たわるメタ-経験的な存在に訴えることなく、そもそも思惟の妥当機能的分析〔意味分析〕をとおして遂行/成就する。……したがって理論的に対象となる意味は、判断によって組織化された意味、――つまり判断が構成的に成り立つことによって原理が得られる意味なのである」(Krijnen,Ch,2001,S.345.Vgl.S.105.)。

 西南ドイツ学派は、排中律にしたがう客観的判断を認めつつも、同時に主観的な価値の現われをイマジネールな踏み台とする(これを先に述べたように「ふり」と呼ぼう)。義務論的認識論は、他者に対しても「誠実な」認識を啓くとはいえ、客観的判断への背馳の危険を犯して、つまりさまざまな認識の可能性のなかから截り取る、「自己決定」の「ふり」をする。それゆえに「超越的当為」が促す、誠実性への啓けと、「自己決定」の「ふり」は、リッカートの〈決断/決定主義〉を規定しているのである。

補足 情緒主義的決断主義に傾くなら、間主観的な一致が不可能になりかねない。また非合理的決断という要素を抱えてしまう。問題は、明証性という感情を、他に対する規範的情緒と考えることである。それとともに記述的に自分の振る舞いといったものをこめることができよう(説得型情緒主義への蝉脱)。しかし振る舞いに重心を、置くことによって、対象(情緒ではなくて)に関する記述が宙ぶらりんになってしまう。これに対して、振る舞いを誘導する、対象=道徳的事実からのかかわり(傾向性経路と理由付け経路がある)を考えることによって、記述との接合性を考えてゆけるのではあるまいか。価値とは成り立ち的には、共変群概念である。しかしメカニズムになお、統一的観点を持ちこむことができる。

追記:本論文は、JSPS科研費15K02024の助成を受けたものである。

2016/12/24科研費研究会の諸先生の御発表に多くを負っている(共同執筆者として連名にするべきか、とも迷ったが、論文の表現は、ひとえに九鬼の責任に帰すべきものであることを明記しておく)。発表及び資料提供を賜ったのは、廳茂先生/加藤泰史先生/高橋文博先生/香月恵里先生である。取り分け、本論文の「決定主義」の誤解は廳茂先生によって正されたし、「自己決定」に関する解釈は加藤泰史先生から、基本的アイデアをお借りしている。あらためてお礼を申し上げたい。

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[1] Willey,T.E., 1978,の伝記。Rickert,H.,1923をリッカートの社会民主主義との結びつきの証左として挙げられる。フィヒテ/西南ドイツ学派研究に立脚した、南原繁の超国家主義(国体主義・ナチズムの対決)を想起せよ。南原繁,1959,『フィヒテの政治哲学』岩波書店。フィヒテには、大きく言って道徳的な自律に基礎を置く自由主義から、国家の教育的統制に顕著な社会主義への移行が見られる。とくに後期、フィヒテは、道徳性の有無や程度の選択にあたり、無際限な自由を許容するということをまさに背景として、〈すべからく道徳的裏付けがなくなったときでさえ、善意志なしで実現されるべき〉鉄の掟としての法を強要した。彼によれば、「機械的必然性をもって実効的に働く手立て」を講ずることが、「自我の自由な道徳行為の余地」を、現実のなかで永遠とする手引きとして解されたのである(瀬戸一夫,2001,235ページ)。

こうしたフィヒテの態度を、リッカートは受け継ぐ。すなわち「社会的世界がいかに構成され、それがまさしくこの世界の認識にどのように帰結するか」(Krijnen,Ch.,2016,S.75.)を問い、「社会的現実」を問題にしたのである。そのさい導きの糸としたのが「価値の理論、ひいては本性的に社会的なものの理論」(Krijnen,Ch.,2016,S.78.)であった。それ(価値の体系)はリッカートの哲学で「社会的なものの原理論」(Krijnen,Ch.,2016,S.80.)の役割を果たす(彼の倫理学・愛の学・社会的宗教学を想起されたい)。フィヒテと歩調を合わせるかたちで、リッカートは価値の体系中で、「人格は文化的財の成り立ちにとって、実在的条件として欠くべからざる前提である」と見なした(Krijnen,Ch.,2016,S.84.)。

[2] 「当為の感情」とも呼ばれる。GE2,S.119.Vgl.GE2,S.115のブレンターノのごとき、明証性と感情の結びつきを想起せよ。判断必然性の感情も参照のこと。Vgl.GE2,S.126.

意欲する人間にとっての義務意識の妥当は意志の決断による、と言える。真理への意志(ヴィンデルバント)が知的良心の承認にとって、同様に必要となる所以である。すなわち認識は「創造的活動」[=Tathandlung]にもとづく。論理的自律の概念が道徳的自律の概念と同様に、成立する (Dilthy,W.,2004(←nach 1904) ,S.297.)。

[3] リッカートの場合、論理的には排中律が成り立つことを前提するものである。「約めて言えば、いかなる判断の論理的意味にも肯定もしくは否定のいずれかが含まれていなくてはならない」(GE2,S.97.)。それゆえ、価値に関する実在論的了解が入ってくるだろう。結局それは、認識論的主観と存在論的には独立な規矩となるだろう。〔内在主義の域内で推移するラース的な相関主義ではなく、価値実体主義的な枠組みに収まる。〕

[4] 超越論的対象によって、可感界と可想界とを架橋する試みが、成功しているか否かは棚上げにして、議論を進める。

[5] クライネンによるリッカートの自由論の紹介を見よ。自由論を基本的に「世界全体論」のなかに位置づけたうえで(Rickert,H.,1921,S.298-300.もしくは全体的人間論,Rickert,H.,1934,

S.226,230-232.)、その基本視座を批判的主観主義(実践的に自由な態度「決定」による、実践的領域への移り行き。したがって自由は特殊実践的な概念ではない)に求めることによって、根源的自由の発動を担保しようとする。もしくは方法論的形式に比べてより基本的に働く構成的形式(態度「決定」の作用は基本的に自由Vgl.Rickert,H.,1921,S.298-300.)に、自由のありかを探ろうとするものである。そのさい、リッカートは以下の三つを区別する(GE6,S.447.)。

➀自然因果性からの人間の自由。つまり「自然の自由」。A「歴史の自由」。B構成的現実範疇たる因果性の原理からの自由。

 およそ、因果性のカテゴリーは現実範疇として妥当するが、方法論的形式としての因果的法則は、個別の事象には妥当しないとするものである。むしろ「価値規定性」こそ「実在規定性」と区別されるべきであり、すべてのものは「原因」をもっていないにしても、価値的根拠をもっているとでも言うべきか。それゆえ態度「決定」の能作に自由の根源を遡及できる(Krijnen,Ch.,2001,7.2.3.3.)。

[6] 前批判期のカントなら、無限の概念と神の遍在性を結びつけるだろう。「それなら私はさしあたり、永遠に続く未来は真に無限の多様性や変化を含まないのだろうか、そして、この無限の系列は、すべていまでも神の知性に一挙に現前していないだろうか、と問うことにしたい」(Kant,I.,1902(←1755),Bd.I.S.309-310.Anm.=2:110ページ、原注)。

[7] 「宗教的に信じているものの知があたかも可能であるかの幻想」を知の領域から峻拒し、他方、「非理論的生に、その生が必要とする自由が賦与されるのである」。かくのごとき理論外の価値領域が配慮され、「超越論的弁証論」の問題圏に至る。Vgl.Rickert,H.,1924,S.193-194.

[8] 当為は純粋に客観主義的に考えられていたわけではなく、ロッツェにおいては「普遍的主観性」に依拠しながら構想されていた(Baumberger,F.,1924,S.78.)。ただし理論的形象にとって「社会的連関は等閑視される」(Rickert,H.,1921,S.371.)ものの、「普遍的主観性」の証左として、学知の定義においては、確定した概念構成は、多様な個人的意見を超え出るための手段と考えられていた。Vgl.Rickert, H.,1924,S.43.妥当と妥当性のちがいに実質的に触れている箇所としては、Vgl.Rickert,H.,1924,S.102-103.

[9] 加藤泰史,1992,82-85ページ。「強制」という観点が出てくるのは「感性に対する理性の制約」という見地に因るのであって、理性それ自身としては、「強制ならぬ本来的なあり方」に即しているとのご指摘を、高橋文博氏(2016/12/24科研費研究会にて)から賜った。「可感界に対する可想界」の制約を強調しすぎたが、むろん両者が二様の視方(遠近法主義)であるという見地に立てば、制約は存在論的には解消される、ということになる。

[10] 廳茂氏(2016/12/24科研費研究会にて)から、シュミットとの決断主義との異同を明確にするよう、ご忠告を賜った。

[11] 佐藤労,1992,44-45ページ。第一方式の解釈には幅がある。以下の記述は佐藤論文に拠る。

[12] 第一方式とは「自分の行為の格率が自分の意志によって普遍的自然法則になるべきであるかのように行為しなさい」(Kant,I.,1911(←1785),Bd.IV,S.431.=7:53-54ページ,下線ゲシュペルト太字ボールド体)。

[13] 第二方式とは「自分の人格のうちにも他のなんぴとの人格のうちにもある人間性を、いつでも同時に目的として必要とし、決してただ手段としてだけ必要としないように、行為しなさい」(Kant,I.,1911(←1785),Bd.IV,S.431.=7:65ページ,下線ゲシュペルト)。

[14] カントの論証は、ここまででは立法行為のうちの矛盾を解消しえていない。さしあたって「自己決定」という暫定的名称に対応させておく。

[15] センの想定する義務論的制約では、価値観の共有が前提されている。それゆえ、カントから見れば「自己の価値観や理想を身につけたままで他者の立場に身を置いたとしても、それはあくまで他者の立場に置いた自己(私)であるにすぎない」(新田孝彦,1987,5ページ)という批判がありうるが、ここでの議論では、カント的自律の必要条件で推移しているので、強いイミの「普遍化可能性」を要求せずともよい。

[16] 「観察者相関性」(VR)は「帰結主義者」として捉えないさい、ポイントとなる。「観察者中立性」が成り立つと、当該行為者は「帰結主義者」になってしまう。対照例として、センの言う「連帯尊重」を分析してみれば、「連帯に直接応接する行為の価値づけを重んじる点では誰もが同じ目的をもつこと、例えば各人の子どもたちの手助けをする分には、その行為を重んじる」(Sen, A.K., 1982, p.27.)という帰結にかんする中立性(VN)を認められる。功利主義ならずとも、「連帯尊重」のごとく、「帰結主義」では一般に「観察者中立性」(VN)が成り立つ(ref.Sen, A.K., 1982, p.31.)。

[17] とはいえ、カントにせよ自分に対する救助を止めない、というわけでない。「というのも、他人の愛や同情を必要とする場合が幾らでも生じるかもしれないのに、そのようなことが自分自身の意志によって自然法則となっていれば、自分が願う援助の希望をすべて(みずか)ら失うはめになる」(Kant,I.,1911(←1785),Bd.IV,S.423.=7:57ページ)。「私たちの耐える他のすべての災いは、これ(不正)に比べれば無である。自己保存が種の保存とともに成り立つかぎり、責務はただ必要な自己保存にのみかかわり、その他のものは恩顧と好意である。しかし私はまた、私が穴に落ちてもがいているのを見ながら、冷たく通りすぎて行くすべての人を憎むであろう」(Kant,I.,1991(←1764/1765?),なおAkademie版,1942ではBd.XX,S.36.=18:

179-180ページ)。

[18]ここでアイヒマンの場合の、「自律」を見てみよう。彼は、ユダヤ人虐殺をカント倫理学によって正当化しようとした、と言われる。つまり熟慮を重ね、カントの定言命法を適用したうえで、ユダヤ人を絶滅すべきだ、という結論を得たと言うのである。彼はたんに上部から命令に従ったのではない。内なる呼びかけに従って、悪への積極的コミットに、(道徳的愛という)傾向性にあらがってまで、忠実たらんとしていたと言う(Arendt,H.,1977(←1963),p.150.)。このことは、ある信念を抱いたとき、それを普遍化することは、形式的/論理的には可能という義務論の限界を指し示しているのかもしれない。アイヒマンはたしかに「誠実」であった。もとより彼は、「ヒトラーへの盲従」という他律的な要素を、社会で共有していたかもしれない(香月恵里論文http://www.osu.ac.jp/~kazuto/eri_katsuki_version2.pdfのsowohl als auch論を参照)が、ヒトラーの指示に、みずからの定言命法が則したものを発見していたのだろう。これは定言命法には、良心の「呼びかけ」に真摯に耳を傾ければ、道徳的正邪の判別が可能であるということが含まれていないことを意味している。つまりアイヒマンに「自己決定」を見出す可能性は完全には否定できない(例えば牧野義彦,2015,51-54ページ参照)。

[19] 2016/12/24科研費研究会にて。

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2019年12月05日

認知主義 非自然主義的認知主義の擁護のために-2

 因果的で規範的でないつながりとして、倫理的判断・審美的判断・宗教的判断と述定的判断のつながりがある。これらのつながりは三前者を後者が記録するところにある。おそらく神命説的統括は、これとは逆の、因果的でない統合の方向によるものであると思われる。宗教的な性質が、シミュレートに対するフィクション優位の観点から正当化されることになる。人はそれほど、虚構に依拠した存在なのである。
 非自然主義であるからこそ、何かを善いものにするものから、何かを善いものと見なす道徳的根拠を区別することができるのだ。照会的な次元で非自然主義的に、善いものが撰取されているからこそ、道徳的較認的普遍化が可能なのである。この次元が、道徳的ならざる理由の次元を排除する役割を果たす。続く
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2019年11月26日

認知主義 非自然主義的認知主義の擁護のために-1(改稿)=2020/1/13

 以下ではメタ倫理学として、非自然主義的認知主義を扱う。非実在論に抗して考察してゆきたい。
 非自然主義的実在として、〔判断をつうじて現われる〕相在に対応する準価値的妥当を考えたい。光の波長じたいが色ではないように、準価値的妥当自体、純粋な価値的性質ではないとしてみたら、非自然的な存在のなかに妥当をくくることが容易になるのではないか。これはリッカートからの逸脱であるが、論理的妥当をひながたとした妥当解釈のための、一候補となり得よう。
 妥当は当為の存在根拠であり、当為は妥当の認識根拠である。これらは非自然主義的に現われる。
 関与をよびかけてくる妥当に基づいて、選好は、理解・再解釈によって順位を変える。他方、相在は因果的に情動たる選好を惹起する。この二つの経路によって、対象に帰属される効用的な選好認知がされる。前者が目的合理的選好・後者が価値合理的選好となる(というより、選好のなかに、この二要素がある)。いずれも準価値的対象からの作用である。効用自体は、価値的な解釈をし直すか、価値を与えるかという、いずれも合理的営為にかかわる。
 準価値的実在に比べて、価値的性質自体は、帰結主義的には受け手によって変るし、非帰結主義的には構成されるべきものであるから、価値的性質は本来の意味では実在しない。実在的準価値的性質(命題価値)には、通常の意味での認知はありうるが、実在的準価値的性質としては構成され/作為としてのみ存在しうる。およそ認知があるとしても、合理的手続きという特異な認知のかたちをとる(感受性理論の知得作用という特異な認知を想起せよ)。ここで選好を産む候補として、アポステリオリな、傾向性やアフォーダンスを考えることもできる。だがしかし、あくまで非自然主義的現象に定位して、準価値的妥当に限定したい。理由の責任転嫁理論とちがうのは、妥当の側からの、価値合理的な関与を認める点である。理由の実在論とちがって、自己評価中立性のみを普遍性の要件とするので、場合によっては、非普遍的な様相を示すことがある。しかし、それは帰結に焦点を絞ったことによる狭い普遍性のせいであって、選好の解釈という見地に立てば、自己評価中立性が成り立っている。
 解釈的・因果的経路を経た価値的性質は、基本的に共変群概念である。
 道徳全廃主義は、共変群としての様々な善さ/多元的価値の観点から、道徳が劣位に置かれる場合に対応している。ここで述定的判断・理論的価値判断として価値判断を考えた場合、酒や好色が尤度優先で上位に来るかもしれない。道徳虚構主義も述定レベルで考えた時、シュミレーションにまさるフィクション的要素をもつことに、文脈によっては対応しうる。動機づけられた価値判断/価値的性質ゆえにこそ、道徳的価値は時間推転的な活動的意義をもち、そこから道徳の至高性が紡がれる。
 効用、もしくは幸福がアプリオリに/総合的還元主義的に善であるのは、合理的観点からである。これらの性質は、選好が当為によってコントロールされた時、対象に投射される。これは準価値的意味、記述的意味の「引用符付きの用法」に、規範性が与えられ(つまり「であるから、べきである」が推論され)るのであるが、これにより自然主義的非還元主義(自然主義的実在論の外在主義)のなかに包摂されうる。(伊勢田哲治のアイデアの拝借)
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2019年11月15日

スピノザとリッカート-2

Rickert, Heinrich, Spinozas Lehre vom Parallelismus der Attribute

 リッカートのスピノザ論が書かれた背景は、今一つ明らかでない。出所はシュトラスブルク大学図書館である。

 このなかで、スピノザ解釈の整合性より、むしろ一と多の矛盾、神的主観と人間的主観の両義性等の、問題が指摘されている。論調としては、物心の並行論的解釈から、両者の同位的相関に話が及ぶ。スピノザ解釈としては、エルトマン・フィッシャ―・トレンデレンブルク・ブラトゥシェックに追随しており、トマス的個体主義への特色はあるものの、出色の出来ではない。

 リッカートは神=実体を、論理的前提とするエルトマン、因果的原因とするフィッシャーを解説し、両者の限界を指摘して、属性をそれぞれ実体の本質とする解釈を指し示す。そして神の知性を規定力とするトレンデレンブルクを承けつつ、二元論的解釈を斥ける。ならば基体と様態の「一と多」の問題がここで出来することになる。途中、観念の観念(ブラトゥシェック)を、思惟・延長とは異なる属性とする解釈を検討し、それが無限後退になることを指摘する。畢竟、スピノザにおいてはごく内的な「敬虔」の問題として解決されるから、神秘主義の傾きをもたざるをえない。これには、人間の思惟を念頭に置く錯視が絡まってくるが、忘れてはならないのは、「(ゼーレ)」ということで無限知性の一部分(?)を考えるべきである、という点である。その錯視を回避しながら、自我の観念に相関的な延長たる身体、さらには自然という個体、誤った思惟の可能性等々の論点が検討される。因果的な人間の思惟への働きかけというアポリアに触れつつも、身心の根本的関係は、神について成り立つのであって、それゆえ人間には理解できぬのか、――そこに死の問題もかかわってくる――という有限主体と神の隔たりというリッカート的な問いかけで結ばれている。

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2019年11月09日

認知主義 彷徨=2020/1/13

 

「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを認知的内在領域に形成しシミュレーションをおこなうところに、ポパー型生物の特徴がある(戸田山和久、二〇一四、二六四頁)。それに引きつけて、いかなる認知的状態に準拠すべきかがはじめから決まっていないさいの、認知的規矩の選択を考えてみたい。

加藤泰史の言い方をもじれば(加藤泰史、二〇一四、一五二頁)、当為を開示することで規範的次元を切り開き、規範的観点から、判断行為に理由を付与する「仮説」(Faktum)が、超越論的?当為ということになる。それは内在的な意識一般が、そこにとどまりつつもシミュレートによって手を伸ばす「超越の境界」である。

意識の内在的相関の根拠が、価値概念であるとしても、そもそも有限者のシミュレートの結果は、あらかじめ決まっていないのだから、認知的規矩は宙刷りにされる。仮に実体的認知主義ならば、まず「従うべき規矩」が定まっている。それを(理性の検討を経ずに)そのまま判断行為に及び、実践に移せばよい。だが、自由に対峙する――現象の認識論的内在に即した認知主義的主意主義の場合、どう判断を決定すべきかは、決まっていない(というより、常に反照的均衡に晒される仮説である)。われわれはみずから問うことによって、認知的状況をいかに設定するか、はたまた、さらに進んでいかなる実践に移すかを決定しなくてはならないのである。
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2019年11月03日

スピノザとリッカート-1

スピノザの並行論解釈にリッカートの相関主義がどのような翳を落としているのかを見よう。Korrelat(Correlat)を造語成分として含む単語が出てくるのは、文中五箇所である。幾分の齟齬も見えるので概括的なまとめで禁欲しなくてはならない。一、スピノザが並行論を首尾よく完遂したかという問いを承けて言う、「延長という属性の様態各々に対して精神的なものに相関項が存し、反対に観念各々(jedrのe欠)に、それに対応するにちがいない何か物体的なものが存するということである。私たちはそこで物体各々は観念に、つまり一個の観念に対応し、観念各々は物体に、つまりふたたび一個の物体に対応することが明らかにされるなら、私たちのスピノザの成就の首尾という問いに肯定的に答えられる」。しかし観念の観念という二つの観念が対応する「相関者」、様態が一つしかないので並行論はとん挫するかに見える。この文脈で観念の観念を第三の属性と見なす解釈が検討され棄却される。二、また物と心の対応が難しいことが示されるのは、スピノザが自己意識に無頓着であるかに見えるくだりである。いったいスピノザは無限に多くの無意識的心的状態を認めるよう強いられたのであろうか。「自己意識に対して、思考の様態は決め事としてあえて意識的と認めよう。まさにこの意識ということにこそ、自己意識の固有の本質が成立する」。さりとて「自己の表象は、たしかに「純粋精神的な」何かとはいえ、それに対応する相関様態を延長のなかで選り分けることはできないであろう」。

このようにスピノザ解釈における相関関係は対立概念の相補性という骨格を残している。とはいうものの、並行的・相即的(もとより実体的に一なので当然であるが)性格を示している。

こうした第一領域レベルで物と心が相関するにあたり、その関係の導きとなるのが価値である。リッカートは次のように説いていた。「一致を認識するのは、相変わらず主観が必要であり、この認識はもはや表象ではありえぬ。なぜなら表象なら、新たな一致が認されねばならず、無限後退に逢着せざるをえまい」(GE1,S.44.)。模写は――表象と知覚との関係にとどまり、必然的に現物・コピーの対応にもちこまれる以上、――無効なのだ。けだし知覚される元来の客観と、表象によって模写された客観という、二重化は避けなくてはならぬ。こうして認識主観のなかに、表象系列という主観列の無限系列を抱え込んでしまうことを、リッカートは批判したのである(T.,Kubalica, 2012, S.108-109.)。一致はあくまで外面的な基準であって、真であると本当に言えるためには、思惟そのものの内に、その根拠をもたなくてはならない。思えば、リッカートでは価値とは、一致を名乗る思惟そのものの次元であり、この価値自身において真理が問われた。それをスピノザ風に言いかえれば、〈おのれと同一な観念〉の次元と言えるだろう。真なる思考は、ほかの思考に関係なく、それ自身で自らが真であることを知悉しているのである。

価値という根拠をリッカートに設けるなら、それからurteilenして出てくる物と心は、非実体性=現象の分轄、したがって物と心が相関する意識というかたちをとるであろう。それに対してスピノザの並行論は、根拠を神の実体性に置く。とすれば神の内在的領域にものと心の並行的・相即的関係として相関が成り立つだろう。見方を変えれば、神の存在論的内在(スピノザ)が個人に投影されて、現象の認識論的内在(リッカート)が生成するのだ。しかも後者、意識の内在的レベルの根拠が、価値概念であるなら、前者、神の内在的レベル(属性)の根拠が、実体概念ということになる。

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2019年08月22日

価値論としての解釈主義=2019/11/13=2019/11/15

 あえて解釈学というタームを使わずに、解釈主義というのは、その広袤を目してのことである。措定の哲学としてのカント哲学(シェーンリッヒによる賦活・パースの超越的記号論との対話)を中核にすえ、新カント学派・解釈学・現象学をその周囲に配する。
 新カント学派としてはリッカート・ラスク。リッカートは価値の非身体性に即した形で、価値の多元性を説く。つまり解釈仮説としての価値である。ラスクは認知主義的・理性主義的妥当理論の極限を示している。
 解釈学は生のカテゴリーに依拠することで、他者性の超越を、その媒体たる価値にとどめる。だから価値論としての解釈主義はすぐれて、存在論的/倫理学的地平に定位しているのである。もとより、実体的/無謬的な価値を措定するものではなく、理論仮説としての価値概念を探究できる。
 現象学はとくに、シェーラーに顕著なように、価値の位階をとく。このことは、必然的に価値アンチノミーを招き込むように思われる。そうしたアンチノミーを価値の淀みと呼ぶならば、淀みは多元的価値の自己解釈のために価値仮説を必要とするだろう。

 カント哲学の「承認」・記憶・取り戻し・隣人愛・ロゴス(普遍化)の問題系・・・彼岸としての他者
 新カント学派の「享受」・宗教的な次元で出会う他者・身体性の迷路・作品化・・仮説としての他者
 解釈学の「贈与」・誠実・自己/他者に対する義務・自己評価中立的な帰結・・・措定としての他者
 現象学の「交換」・現象学的社会学・文明価値と怜悧・合理性・パトス・・・・・定立としての他者

それぞれ、理論的要素と慾動的要素(情動)の双極的構造をなしている(理論的要素は情動の認知的反省をつうじて体系化されている)。この認知双極(ジェミニと呼ぼう)は強さをもっている。「承認」「交換」にあっては、情動的要素として動機がかかわる。「享受」「贈与」は情動もかかわるが、動機という情動がかかわらない。
理論的要素が価値判断である。
現実的な動機がかかわる場合、親近性・新奇性といった時間推転的様相を示す。それに対して時間固定的な内容をもつ/動機がかかわらないとき、時間的推転は仮想的シミュレーションのなかに折りたたまれる。
動機がかかわるとき、非帰結主義・帰結主義の二相が出てくるのに対し、動機がかかわらないとき、非帰結主義のみである。
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