2017年07月20日

自由・両立論・実践的推論

 野矢茂樹編「自由と行為の哲学」より・・・サーヴェイの必要性を感じたので。
 まず基本的タームを導入しておけば「決定論と自由論の両立を主張するこうした考え方は、「両立論」と呼ばれる。それに対して、決定論と自由論は両立しないと考える立場は「非両立論」と呼ばれる」(野矢茂樹編,2010b,5ページ)。ただし、非両立論に立つ論者たちは、「選択可能性なき自由」(フランクファートのごとく、選択可能性を認めず、道徳的責任を説くような立場)にあえて甘んじないだろう。しかし「そうするしかない」のであれば、「自由にそうした」とは言えないから、フランクファートの議論は、自由の核心は選択可能性にあるという直観に、十全に抗しうるほど強いものではない (野矢茂樹編,2010b,11-12ページ参照)。ただし、フランクファートが機縁となって、自由の主戦場は、行為者性にかかわる領域へと転換し、或る種の「両立論」(カント的な「柔らかい決定論」を含む)の道が開けた。そのさい問題となるのが、動因性の概念としての意志のとらえ方である。
 人間の行為にある独特な原因は意志と呼ばれるが、ヴィトゲンシュタインの議論を待つまでもなく、ただ意志だけを取り上げる試みには困惑するしかない。だから行為を込みにして考えなくてはならない。ただし行為の理由こそが原因である、しかもその基本的理由を欲求・信念と考えるデイヴィドソンについて、私が語るべきことがらは少ない。人間が行為にもっている秩序を「実践的秩序」と呼ぶとすれば、「実践的秩序が因果的秩序に服さねばならないと考えた」デイヴィドソンには、与しえない。
 それに対して、アンスコムによれば、実践的秩序は因果的秩序とは別ものに類す、と考えられた。アンスコムの議論は、意志を行為の原因とする考え方とは異なっている。アンスコムの戦略の中心をなすのは、原因と理由の区別である。つまり「行為を引き起こす原因たる何ものかではなく、行為そのもののあり方、行為の意味を問うのである」(野矢茂樹編, 2010b,16ページ)。この見通しのもとでアンスコムは『インテンション』以後、実践的推論の彫琢に従事した。
 「まず私は目的を設定する。「目的―約束の時間(十二時)に遅刻しないこと」。そしてそのためにはどうすればよいかを考える。「目的地まで電車を利用して一時間かかる。十一時発の電車がある。だから、それに乗れば十二時に目的地に着く」。そこで私は十一時発の電車に乗る。ここにおいて、目的を掲げることは推論の前提と同じ身分をもたないとアンスコムは指摘する。こうした考慮において「推論」と呼ぶべきステップは、「目的地まで電車を利用して一時間かかるのであれば、十一時発の電車に乗ると十二時に目的地につくことになる」という部分である。つまり、設定された目的とそこへ向けての具体的な実行を橋渡しするものが、実践的推論なのである」(野矢茂樹編, 2010b,20ページ)。
 かくのごとく、実践的推論が理論的推論と同じ構造をもっているとすれば、デイヴィドソンの推論が欲求と信念から構成されている(欲求と信念が行為を因果的に引き起こす)のに対し、アンスコムの推論は、命題から構成されていることになる。つまり後者においては、設定された目的に向けての論理的推論が実践的推論ということになる。(ブラッドマンのように二階の欲求の統制的機能を認める)反因果論の立場では、実践的秩序を因果的なパターンとして捉えることを拒否し、それからは捉えられない秩序を探求するものと言えよう。
要するにここで問題なのは、「一方で意図的行為の評価、他方で意図的行為の説明」の区別である。「評価的関心が支配的な論考では、理由は非-心理学的に、かつ事実的に理解される」。

 D’oro,G.&Sandis,C.,2013,pp.1-6,cf.p.4..メレが指摘するように基本的理由は原因ではない以上、合理化は、因果的説明の一種ではないと考える。〔基本的理由は状態だから、原因とすることはためらわれるし、傾向性であるとしても因果的説明の媒介項にすぎない。〕「…の折には〜ところである-関係」はBedeutung=因果的基盤を基礎としてSinn=後知恵的傾向的性質の秩序を築きあげる。
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2014年02月18日

Krijnen考究:52=2015/3/23=2017/8/7

 
Krijnen,C.,2001,333 新たな哲学的人間学は人間への問いかけを中央に押し出し、哲学的人間学を哲学的根本学として、断然と仕立て上げた。

 かく考えることによって妥当ノエシス学と妥当ノエマ学との関与が明らかになるとクライネンはしています。主観的なノエシスの分析はその根を、ノエマにもっていたのです
 妥当ノエシス学は、その流れに棹さしていたのです。しかしこの文脈で、Heidegger,1927,Sein und Zeitに言及するのは、文献学的に問題はありませんか。たしかに存在を大文字の価値と捉えれば、その痕跡は認められますが。

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2013年04月17日

ディルタイとリッカートのまじわるところ=2014/6/3

ディルタイの精神科学の基礎づけの、こうした試みは、心理的レベルから生物学的ルへと拡大してゆきます(ディルタイ全集第二巻、480-481ページ) 。牧野論文参照 。つまりディルタイは、意識の現実的条件を生き生きとしたプロセス (自然誌=自然史)に求めたのでした。彼において、たとえばカテゴリーの基礎は〔カントのように、〕硬直した理論理性ないしは悟性のうちにではなく、生の連関自身のうちに追求されることを思い出しましょう。そのことは、カテゴリーの超越論的(アプリオリな)演繹には幾多のアポリアが待ち構えているのに即応しています。つまりディルタイは、リッカートが重視する「現象性の命題」をふまえ、意識の事実の学として精神科学を構想したのです。
他方リッカートといえば、定立された「現実」を通して価値対象に対峙していました。とするなら「現実」の定立は、その奥により根源的な価値を措定することを含意します。すなわち「現実」の定立とは価値の化肉(九鬼一人、2007/2008)に他なりません。リッカート超越論哲学は、自然、つまり経験的現実を介して価値に対峙しています 。フッサールの「実在論的」現象学運動とも呼応する、――リッカート哲学において、カントがいう「超越論的観念論者は、経験的実在論者」(Kant,I., A371.)という構図が維持されていることを、忘れてはならないのです。〔このさい、経験的実在とはリッカートの「現実」のことである。〕この価値が化肉した「現実」として、世界観望の担い手が生まれます。


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2013年03月20日

剰余としての意味=2015/4/26

 「「幸福」の現実のもとでは「意味」は基本的に剰余である。その場合「意味」は、「観念」へと存在化されぬものとして一つの「フィクション」である。それは、必ずしも対象の様態としてではなく、意識のいわばノエシス的様態としてのフィクションである。そこにあるのは一種「遊び」の精神である」(安彦一恵、二○○五、二一○頁)。〔フッサール的に言えばノエシスよりノエマが表現として適切。〕この文に、保守派にとっては、「遊び」の精神のもとに「歴史」が置かれる……という文章が続いてゆく。
 「幸福」でなくても意味は剰余である。

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2013年02月11日

モラリスト:備忘録


辞書からモラリストの規定を拾うことから始めましょう。
 中島義道、一九九七、『カントの人間学』講談社現代新書、二二一頁はモラリストの定義として「ある時代の習俗や情念を観察し叙述し分析する著述家」と引用しています。それが依拠するTresor de la Langue Francaiseによると、ラ・ロシュフコーがモラリストの代表です。
 たとえば塩川徹也、一九九九、「ラ・ロシュフコー、フランソワ・ド」小林道夫他編『フランス哲学・思想事典』弘文堂、九四頁を見てみましょう。
「「われわれの美徳はたいていの場合、偽装した悪徳にすぎない」という巻頭の銘句に示されるように、ラ・ロシュフコーは、人間心理の鋭利な解剖を通じて、人間の高貴な感情と行動の大半が、非合理的な「情念(passions)」、あるいは各人の性格とその基盤にある「気質(humeur)」、そして境遇つまりは「運勢(fortune)」に支配されていることを容赦なく暴き出す。だがそれらの隠れた動機の中核にあるのは、「自己愛(amour-propre)」である。それは、もちろん自我への執着であるが、単なるエゴイズムに留まらず、「あらゆるものを己のために愛する」愛であり、無欲や謙遜(けんそん)でさえも、他者に対して己をよく見せようとする媚態と結びついている限りにおいて、自己愛の圏内にある」。
 かくも人間の常態が倒錯に充ちているため、古来、それは別世界物語という諷刺(ふうし)の形で描かれるのが常だったのです。モアの『ユートピア』では黄金の便器を使うとか、結婚するまえに裸の下見をするとか、異世界譚(たん)のかたちをとって皮肉たっぷりに描かれている。またモンテスキューの『ペルシャ人の手紙』ではペルシャ人の故国への報告という形で、キリスト教社会の顛倒(てんとう)が取り上げられている。この種の異世界譚的諷刺はスウィフトの『ガリヴァー旅行記』がとどめを刺します。

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2012年06月18日

経験的心理学・美学=2014/4/23


  現在のところ、「カント「人間学」はヴォルフ流の経験的心理学に由来する」という、例えばヒンスケに代表される(Vgl. Hinske, Norbert, Kants Idee der Anthropologie, Freiburg u.München,Verlag Karl Alber,1966, in: H. Rombach (Hrsg.), Die Frage nach dem Menschen. Aufriß einer philosophischen Anthropologie. Festschrift für Max Müller zum 60. Geburtstag, S. 410-427.)説が有力です。そうした説に沿いながら、キムは「カントの人間学の成立と、そのヴォルフ学派経験心理学との関係」(Kim,Soo Bae, Die Entstehung der Kantischen Anthropologie und ihre Beziehung zur empirischen Psychologie der Wolffschen Schule, Frankfurt am Mein,Peter Lang GmbH,Europäischer Verlag der Wissenschaften,1994.)の中なかで、「熟考」【レフレクシオ】と学的性格をメルクマールとすることによって、「経験心理学」との接点を人間学の「観察」【ベオバッハトゥング】概念や能力心理学説に見いだしています。バウムガルテンは下位認識能力を「感性的表象」と特色づけていた(バウムガルテン『美学』一七節。Baumgarten, A. G.: Metaphysica, Editio IIII, 1757, § 521)、この領域の〈論理学〉として、美学を構想しました(ders.: Meditationes philosophicae de nonnullis ad poema pertinentibus,1735, § 115)。論理学を美学の「姉」であり(バウムガルテン『美学』一三節)、あるいは「下位認識能力の論理学」(Meier, G. Fr.: Aufangsgründe allgemeine Künst und Wissenschaften, 1748-50, § 2)です。すなわち美学を「感性的認識」の教説と見なすことによって、純粋認識に対置される不分明な観念領域を扱う学としました。とはいえ、それについての認識であることには変わりなく、バウムガルテンは感性に新しい「現象的な完全性」を認めたのです。その意味において、バウムガルテンは――コーラー『趣味判断と美的体験、カントの「美的判断力批判」注解への寄与論考』(Kohler, G.: Geschmacksurteil und ästhetische Erfahrung. Beiträge zur Auslegung von Kants „Kritik der ästhetischen Urteilskraft“,Berlin/New York 1980, S. 100)の言葉を借りれば、――ロゴスと美の「並行化戦略」をとったのです。エルンスト・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』中野好之訳、紀伊国屋書店、一九六二年、/改訂版ちくま学芸文庫、二○○三年(改訂版)、特とくに下、二二五頁以下を参照せよ。
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2012年06月16日

経験的心理学=2013/4/4

 経験的心理学は、英国経験論ではアプリオリな内容が否定され知識は経験から得られるとします。この流れでは連合心理学が隆盛をきわめました。
 それに対し、大陸合理論では能力心理学というかたちをとります。つまり、むしろ内省的に能力を分析する学です。
http://plato.stanford.edu/entries/aesthetics-18th-german/
上記HPより
Before we can turn to the Aesthetica, however, we must look at some of the key definitions Baumgarten lays down in the chapter on “Empirical Psychology” in his Metaphysics. )(だがわれわれは美学に戻る前に、彼の形而上学の「経験的心理学」章で与えられている鍵定義のいくつかを見ておかなくてはならない)Baumgarten begins by defining the “inferior” or “lower faculty of cognition” as that which works with sensible representations, which are in turn “indistinct, that is, obscure or confused” (Metaphysik, §§382-3, pp. 115-16)(バウムガルテンは可感的表象とともに働くものとして、「下位の」「認識的低次能力」を定義することから始める) .Sensible representations can be developed in either of two ways, however: either with increasing clarity of their component “marks,” in which case they acquire “greater clarity (claritas intensive maior),” or with increasing “multitude of marks,” in which case they acquire ”liveliness (vividitas, claritas extensive maior, cogitationum nitor)” (Nitor means brightness or splendor).”(可感的表象はふたつのうちいずれかの方法によって展開される。一つ
は要素「徴表」の明晰さを増すことによってであり、この場合はより大いなる明晰さを獲得できる。もう一つは「徴表のおびただしさ」を増すことによってであり、この場合は「生気さ」を獲得できる。) The former development of cognition leads to proofs, while what makes a perception lively is a “painterly” form of clarity (eine malende), thus one that consists in richness of imagery rather than analytical clarity (Metaphysik, §393, p. 119). (前者の認識の展開は証明に導き、他方、知覚を生気づけるものは明晰さという「分明な」形式であり、したがって分析的明晰さよりもむしろ想像力の豊富さのうちに存している。)It is this liveliness rather than probative clarity which is the basis of aesthetic experience.(産出的な明晰さというより、この分析的な生気づけが美学的経験の根拠である。)
Baumgarten then defines judgment as the representation of the perfection or imperfection of things. (バウムガルテンはそして、判断を完全・不完全の表象として定義する) Judgment is initially divided into “practical” judgment, the object of which is “things foreseen,” and “theoretical judgment,” which concerns everything else (Metaphysik, §451, p. 139).(判断はもともと実践的判断、つまり予見される物事を対象とするものと、理論的な判断、その他すべてに関わるそれに分類される。)
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2012年04月16日

リッカート=ディルタイ=カントの位相2012/9/13

 カントをお手本にした世界観の経験的考察がディルタイのカント解釈の中心にあります。彼はタート(わざ)を強調し、ゲーテに見られる活動の精神にカント的実践理性の優越を見ます。そうした彼のファウスト論は、トータルな世界観による個人の統一を指し示しています。
 そこでの横溢する生価値は経験的に培われてゆきます。
 この、世界をトータルに観望するというリッカートの世界観統一の問題と、ディルタイの世界観学は交わりを見いだせます。つまり経験的な主観の見地から、宇宙/世界に臨む態度は統括されているのです(リッカートの生の哲学)。「一切の真に包括的な哲学は、われわれのすべてを包括する生の哲学でなければならない」(Rickert,H.,1922,S.181)。片やディルタイによれば「世界観の究極の根底は生である」が、生は歴史的存在であるから「比較歴史的方法のみが〔世界観の〕類型の定立、その変化、発展、交錯に近づきうる」。そこで彼はトータルな世界観学の樹立を企てたのです。すなわちカント・リッカート・ディルタイ三者の問いは「宇宙における人間の地位」(もとより、この書名で知られるシェーラーの問いは形而上学的超越の問いへと連続しているが)に焦点が結ばれている。

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2012年01月02日

人間学補足=2013/3/15=2015/4/13

 ディルタイは人間学の位置づけでアディケスと対立しました。彼はカント哲学の中で人間学を広義の自然科学、例えば「天界の一般自然史と理論」(一七五五年)『アカデミー版全集』第一巻、二一五-三六八頁(『カント全集』2、宮武昭訳、岩波書店、二○○○年、一-一七二頁)等の著作との連関において体系中の枢要な導入部とします。原則として、カント晩年のアプリオリ・アポステリオリの区別を守るディルタイは、『純粋理性批判』A849/B877(『カント全集』6、岩波書店、下一二五頁)における、「人間学が自然学の応用哲学たる経験的心理学の付属物である」という記述に倣って、自然の形而上学の第二部門とすることを提案しています。そうした理由もあって印刷されている〔人間学を含めた〕自然科学関係文献の比重を多く見積もっています。このように自然地理学と人間学の連関を強調する点で、ディルタイはエルトマンの見解(アルノールトが異を唱えたことで知られている) に近いといえましょう。すなわちカントの「自然地理学講義」から分離されて、「人間学講義」が開始されたと考えるエルトマンは、人間学的関心と自然科学的研究の、若い頃からの関わりが有意義であるからこそ、例えば天界の自然史の付録として述べられた「自然の類推にもとづいて様々な植生の住民を比較する試み」に、彼の生理学的人間学的探究へのコミットメントを認めます。ディルタイと同じくエルトマンによれば、カントの自然科学的研究は、つねに宇宙生成論的問題から地理学的研究へと確たるかたちで結実したのです。すなわちカント地理学研究の初期の源は、やはり人間学的関心が関係しているとします(Arnorldt,Emil,Gesammelte Schriften, Bd.IV,Kritische Excuse im Gebiete der Kantforshung Teil.I.,Berlin,Cassirer,1908,S.348-355.)。しかしながらアディケスは、カント哲学に占めるそれら経験科学に対して消極的評価をします。

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2011年11月22日

転喩の心理学(経験的心理学、あるいは人間学)=2014/4/1

哲学的でない授業がしたい。授業は非哲学的なものの提示によって進行する。
例えば次のような述懐を持ったKは非哲学的である。
Kの世界
・ベルリオーズの幻想交響曲を聞いて、人間が地上につなぎとめられてあることと、天上への志向を理解したつもりになっているK。

・倉多江美の「体積」を読んで、人間のエゴの実相を見出したつもりになっているK。
・リッケルトの『自然科学的概念構成の限界』に、民衆の歴史への視線をとらえたつもりになっているK。

いずれにせよ・・・Kにはロゴスがない。論理がない。情動によって、あるものを他のものに取り違えている。こうした非哲学的と哲学的のはざまに目を向けてみたいのである。(けだし池田亜希子のエッセイの大部分もこの意味で非哲学的である。)
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2011年11月13日

箴言集6


 
ラ・ロシュフコー箴言集40ページ。
 女を愛せば愛すほど憎むのと紙一重になる。


補足:ヒュームの情念論を思い出させる。でも女を愛さなくなったら、顕著な憎悪が疎ましさと隣り合わせになる、というのもまた真理である。

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2011年11月01日

羨望/自足

 しょうがいを語るとき、負を意識させてはいけない、と出​生前診断による人工妊娠中絶を論じたさい学生から諭され​ました。たしかに。でもしょうがいが発動する​場はあるのです。
 羨やましがるという視点だけが重要なのではない。しょうがいのなかにも、「自足」があることを知らない偏見は、だいたい健常者に限られています。

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2011年10月31日

中島義道 カントの人間学1

中島義道著、18-19ページ。
 人間嫌いとは自覚的には他人が嫌いであるように自分が嫌いな人です。しかし、無自覚のその底では、自分が嫌いであるように他人が嫌いな人なのです・・・。彼はいわば「マイナスのナルシスだからであり、自分という全速力で回転する輪の中で眩暈を起こしているにすぎないからである」。
 しかるに論理的エゴイストは「むしろ語の普通の意味で、彼は他人が嫌いではなく自分も嫌いではない。彼の異常なほどの強靭さの秘密は、他人が気にかからないことである。他人によって傷つきえないことである」。彼には悲壮な人間不信はない。「彼はむしろ他人をふつう程度には信頼する」。ただむやみに動かされないだけです。「そこには、人間嫌いとは正反対に、肌のように身についた自己肯定の姿勢がある。そして、その姿勢に嫌悪を感じる(過敏な)他人の思惑をいっさい意に介さないほど都合よく鈍感である」。
 おそらくこの中間にマニアという人間が存在します。マニアも他人が嫌いなのだが、人間嫌いのように孤塁を守ることなく、自分可愛さの中に他を囲い込む傾向を持つのです。人は論理的エゴイストの都合のよさに対してと同様、他者との共存を嫌がるマニアに対して嫌悪を抱く。そう、彼は論理的エゴイストになるだけの才知を持たない、正のナルシスなのです。
PICT3453.jpg
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2011年10月26日

箴言集5=2016/3/14

ラ・ロシュフコー箴言集より
 
平生から策を弄するのは小才のしるしであって、あるところで策を講じて自分を糊塗しても、別のところでぼろを出すようなことが、ほとんど必ず起きるものである。


補足:短期的な利益追求は小才のなせる業である。最も利口な人たちは、出し抜くことがあっても、それを最後まで大事にとっておくものだ。箴言124も参照。


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2011年10月23日

羨望・所有=2013/2/18=2014/3/27=2015/4/13点検

立岩真也著『希望について』29頁。
 「格差を生じさせる規則が正当な規則であり、ゆえに格差があることが当然のことと認められるなら、「羨ましい」は「卑しい」ことになるかもしれないが、しかし、この規則それ自体が当然のことではないから、羨ましさが動機になっていようといまいと、分配がなされてしかるべきだと主張することはできる」。
 なぜ分配に駆り立てられるのでしょうか・・・格差を生じさせる規則が当然のものではないのなら、ルサンチマンからその規則が正当化されるわけではない、と言います。要するに格差を生じさせる規則があるから、羨ましさという機制が成立してしまうのだ、と。格差を生じさせる規則は自明でないから、分配へ、と立岩は論を運ぶのです。
 でも思うのです。格差を生じさせる規則にせよ分配ということにせよ、いずれにしても規則とならない、と。規則に格上げしようとする強迫観念が、いずれにせよ滑稽です。おそらく規則が論じたてない、倫理の彼方に、分配や格差はあるのでしょう。羨ましさが格差の原動力でないという論点は、たしかに規則でないという意味において正しいにせよ。が、それがエゴイズムにとっての心性であるという意味では、れっきとした心理的動因です(つまり格差の原動力である)。その機微を正視しない思考は、とりすました空論でしかない、と思います。他人の不幸の希求と自己の所有の囲い込みはしばしば、心理的にリンクしているのです。たとえ制度論に載せられる前の問題としても事実、そうした羨望とのリンクが存在します。

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2011年10月18日

箴言集3=2013/2/11=2014/3/26

ラ・ロシュフコー箴言集より。
死刑に処せられる人が、時として不動心と死への軽侮を粧うことがあるが、あれは実は死を正視するすることへの恐れにほかならない。だからあの不動心と軽侮は、彼らの精神にとって、彼らの目に当てる目かくし布と同じものだ、と言うことができる。

 補足:死を正視できるほど死刑囚は鈍感でない。にもかかわらず、死刑になるような罪を犯したのか。要するに彼は自分の死に対する恐怖を察知できないほど、短慮でありすぎたということである。

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2011年10月16日

箴言集2

ラ・ロシュフコー箴言集より。
われわれの情熱がどれほど長続きするかは、われわれの寿命の長さと同じく、自分の力ではどうにもならない。

熱情はひとたび鷲掴みすると、われわれをどれほど高く跳躍させることだろう。しかし、と同時に、その跳躍の距離は、いとも短いものでありうる。
 逆に尊敬ほど息の続く脚力をもったものを知らない。
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2011年10月12日

ひさしぶりのブログ・箴言=2012/9/10点検=2013/1/25

 ラ・ロシュフコー箴言集より。
 自己愛こそはあらゆる阿諛追従の輩の中の最たるものです。

追補:すべてが金色のねっとりした雲に隠れて見えなくなります。逆光の自我にあなたはなにを見、あなたはなににほくそ笑むのか。


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