2017年09月17日

自己に対する義務・カント=2017/11/4

 ヘアによれば、「普遍化可能性」とは、価値判断を同種な場合すべてに拡張できることであり、単に、論理的整合性・ないし無矛盾性を説くものではない。それは、以下を要諦とする。
それが普遍的法則であることを意志することは、関係者によって演じられている役割が逆転してもそれが適用されることを意志することを含んでいる。(ヘア著『自由と理性』311ページ)

役割の逆転は「他者の立脚点」へと自己を移し置くことではじめて可能である。
 これに対して、加藤泰史は1992で次のような、批判を加えている。そこで登場する他者は私によって創造された他者でしかなく、そうした他者でしかない、と。これを受け継ぐかたちで、「パースペクティブの転換」を独我論的限界を克服するべく、提出されたのが、「討議倫理学」ということになる。
 例えば、このことは、『判断力批判』の「常識の格率」の第二、「あらゆる他者の立場に自己自身を移し置いて考えること」によって裏付けられる。このパースペクティブの転換にあっては、他者のパースペクティブについての私の理解が、他者じしんの考えている内容と合致するかが、コミュニケーションによる吟味によって確かめられなくてはならないからである。
 「討議論理学」のプログラムにおいては、人格の相互承認という規範が、コミュ―ケーション的吟味において機能しなくてはならないとされる。すなわち、人格の相互承認の妥当することが有意味な論証の可能性の条件であり、規範定立主体は、必然的にその承認を認めてしまっている。いいかえるとコミュ―ケーションできるものは、人格の承認を前提にして、可能な規範の吟味・共有をすることができるのである。注:ともすればカント倫理学の普遍化可能性ということで「無矛盾性」なり、「原則への統合性」が基準とされる傾向にあったが、それに対する批判と見なしうる。・・・カントプロパーでは自己準拠で中央突破できると考える。これは疑問。
 しかるに加藤泰史の解釈によれば、こうした相互主観的な定位はカント哲学の原像を捉えていないとする。カントは、自己に対する義務を優位において考えたのであり、そのことは虚言禁止において顕著であるという。すなわち、虚言の禁止という自己に対する義務において、もしそれを侵すものは「自己」という場面において論理的な自己矛盾が見いだされるからである、と。
 加藤の引用するホッフェから引く。二○五-二○六ページ。
「約束をする人は自らに義務を課す人であり、利己的にあるいは功利主義的に抜け目のない思慮にもとづいて約束を守ることをそもそもしない人である。自己を義務づけることとしての約束は、・・・また約束という制度が一般に道徳的に擁護できるか、あるいはむしろ賭け事のようにみなされるべきかということにも関係しない。約束が自己を義務づけるということを意味するならば、故意に偽った約束は、義務を引き受けしかも請け負わないということを意味する。知りつつ意図して約束を守らないことの基礎には自己矛盾する格率があるのである。

・コメント 1)アンネを助けるため、嘘をつく人は、約束に関して守るべきことを知っていながら、守らないという自己矛盾がある。ただし、故意に偽った約束とはいえない側面もある。すなわち、約束に関して守るべき、という条件が、状況に即して、実質的な変更をともなっているときがある。そういう場合をおくのならば、功利主義と言えども、直観のレベル(ヘア)で嘘をつくべきではない。つまり社会的虚言の禁止が、コードとして教育を通して埋め込まれているときである。このときコードに反するということが、自己に対する矛盾ともなりうる。
2)意図の知として、虚言の禁止をいったん意図している限り・それを(コードの埋め込みにより)知っている限り、功利主義者と言えども嘘をつくべきではない。 
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2017年08月17日

論文・梗概

 カント倫理学の自己充足的要素は、その実、世界の厚生と無関与な非厚生的なものであること、それが自己充足にふさわしいwürdigものであるがゆえに、価値合理性を認めうる(この手続きを小谷英生発表のサーヴェイによって行う(1))。この価値合理的規矩(規範的な高さ)を押さえるとともに、自己投企に、誠実な心情という高貴な価値すら見届けることができる(2)。しかし、批判的見地から――「自己善」として、――果たしていかなる意味で他者を思いやったかという、目的がもつ高さの観点から批判ができよう。このことを功利主義との対比によって、追究してゆく(3)。最後にカント倫理学・功利主義・行為者相関的モラル・普遍的利己主義のマトリックスを提示し、Sen,A.K.の行為者相関的モラルの射程を、不変項の客観性と価値合理的卓越という点に見出すことで、現代倫理学の俯瞰にも寄与したいと考える(4)。
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2016年07月17日

新カント学派概説=2017/5/5=2017/6/1

 @まずヘーゲル的学知の再興を図るトレンデレンブルクは「論理学研究」を足場にして、  ヘーゲルからカントに遡行する足場を提供した。このヘーゲル主義の学的体系の構想を継ぐのがクーノー・フィッシャーであり、下ってはコーヘン/ヴィンデルバント/リッカート/カッシーラー(ニコライ・ハルトマン)に至る。A新カント学派と言えば認識論を活動領域として設定したと理解されがちである。そもそも近代哲学は、ロックを嚆矢として認識批判にかかわってきたと言えるが、取り分けてジークヴァルト/ユーベーヴェーク/ベネケのラインから心理学と、未分離のかたちで、擬-(pseud)論理主義的認識批判が勃興する。この流れはヘルムホルツ/ディルタイ/ラースに転形しながら受け継がれていく。それはヴィンデルバント/リッカートの前期に接続し、彼らの哲学の通奏低音となっている。裏返していえば、西南カント学派は心理主義=実証主義の鬼子であったとさえ言えよう。Bさらに、カント文献学の進捗を挙げておかなくてはならない。リープマンの「さればカントに帰らなくてはならない」という標語が象徴しているように、哲学史的には、プラトン/デカルト/ライプニッツ/ヘーゲル等が絡み合って、とくに新カント学派の汎論理主義に影響を与える(この射程は遠くラスク、ないしコーンにまで及ぶ)。この枢軸にコーヘン/ナトルプ/ヴィンデルバント/リッカートに影響を与えた後期観念論のフィヒテの主意主義・倫理思想が複雑に交差する。Cまたショーペンハウアー/エードゥアルト・フォン・ハルトマンの厭世主義者、ないしヘッケルのような自然主義者にして進化論者たちを、批判するかたちで新カント学派は成立した。特に厭世主義に対しては理想主義、自然主義に対しては観念論というスタンスを打ち出した。自然主義批判という意味では、ランゲの唯物論批判が一画期を与えたといえる。
 このように実証主義/観念論の諸契機を包摂するかたちで、はたまた、カント主義からの逸脱の可能性さえ孕んだ「ブリコラージュ」として、新カント学派は成立した。つまり経験の可能性からの越権さえ、新カント学派は厭わなかった。これらを踏まえて、新カント学派の評価として「肯定」「否定」「限定」の三つの答え方を検討したい。まず肯定から論じよう。それは新カント学派の共有された問題意識から出てくる評価である。
 鍵となる問題意識とは、現代の或るしゅの物理学至上主義にも見出せる「自然主義」との対決意識であり、勃興しつつあった諸学と整合的なかたちで、哲学の問題構制を新たに定式化しようとしたのである。そのため科学基礎論が主題的に論じられた。カントに拠れば魂について、合理的独断主義による誤った推論から不死性が導かれたものの、推論の内容としては正しく、魂は叡智界において不死なるものとされた。この科学基礎論の礎を定める側面が「理想主義/観念論(イデアリスムス)」の復権に棹差して説かれた。この点を肯定と見る捉え方が、新カント学派に対する第一の評価となる。というのもカントの「権利問題」というアプローチが十九世紀後半の自然科学の発達を迎えてなお、哲学的有効であると了解されたからである。たしかに十九世紀の新カント学派は、批判主義的精神を端緒としたものの(扇動的役割を果たしたリープマン)、生理学に諂ったり(カントの立場から唯物論を論評したランゲ)、心理主義に踏み込んだりして(ヘルムホルツ)、カント哲学の埒外に出るものが多かった。またたとえ批判主義と見なされるものでも、因果性のカテゴリーを以て触発に替え、批判主義的実在論(アロイス・リール)の域にとどまるものもいた。後者の場合、実在の世界がそのまま主観に与えられるのではなく,直接に知られる知覚与件から,私たちはそれに対応する実在物の存在を信仰するに至るという途をとる。これら弥縫を打破して、新カント学派がカントの論理主義的衣鉢を継ぐには、二○世紀前夜を待たねばならなかった。カントに従えば、科学的知識は「事実問題」としてはそのまま前提され、科学の可能性の条件のみを「権利問題」として基礎づけるのが科学である 。この着想を生かし、おもに自然科学の基礎づけから諸学の体系にかかわったのが、――コーヘンを始祖とし、ナトルプ/カッシーラー/ニコライ・ハルトマンが継ぐマールブルク学派である。
 また超越論的弁証論の理論的認識の越権 を明らかにするカント哲学の一面から、人間事象[=human affairs]をすべて自然科学モデルで説明することへの批判の視角が生まれた。事実判断と価値判断の区別を積極的に説き、前者のみに係わる自然科学に限定を及ぼしたのが――ヴィンデルバントからリッカートを経てヴェーバー/ラスク/コーンに至る――西南カント学派であった。その始祖ヴィンデルバントによる価値への定位は、『判断力批判』が幾分かの影響を及ぼしている。彼は普遍に対してかけがえのない個を重んじる反省的判断力による「趣味判断」に範をとり、個性記述学を構想した。とくにこの学派の学問分類論の特徴は、方法を重視し人文社会科学の基礎づけを行うところにあった。生と認識の関係を論じたラスクは、この問題を生/存在のカテゴリーに沈潜して考究した。
第二の評価は否定である。それは流布している科学分類論の誤解に端を発する。ヴィンデルバントに限っていえば、価値に関係してくるのは、主として個物である。歴史と自然科学の二元論に個物以外をも対象とする社会科学を正当に位置づけられない、といった否定的評価が導き出されるわけである。
 これは類型や反復といった論点を見逃し、狭い枠組みをヴィンデルバントに押し付ける誤解である。ましてやリッカートになると、対象としての価値関係的なものと価値無関係的なものの軸と、個別化的方法と普遍化的方法の軸を交差させているから、都合、中間領域を認める仕儀となり、普遍化的価値関係的手続きを認めることになる。この意想を受けついで現われたのが、マックス・ヴェーバーであり、自然科学至上主義に対する対抗軸を築きえた。新カント学派概説としてあと、検討の余地のある否定的評価は次の二点である。
 1900年代の新カント学派の台頭にさいして、導きとなったGeltungを導きとした傾向を退行として難ずるものである。ヘーゲルに対する傾きもあわせて、論者はロッツェを承けた西南ドイツ学派の妥当概念を見咎めている。形而上学的新カント学派への、ヴァーグナーの批判や、その展開をカント哲学の射程の衰徴と見なすケーンケのような解釈も生まれる。また第二に1910年代の新カント学派はSinn概念の発見にさいして、――とくに後期新カント学派特有の問題状況として――現象学的な対応説にどのように応接したのであろうか。とくにノエマ的Sinnを介して、経験的実在論への傾きがなかったろうか。
 このように見て来ると、科学分類論は実在の形式の問題であり、形式は1900年代の観念論的枠組みのなかでは主観に、1910年代の実在論的枠組みのなかでは客観の構造に組み入れられた。としてみれば学の妥当性(Geltung)の問題は、観念論と実在論をどう調停するかという、古典的(でいて脱形而上学後の)問題に回帰することが分かる。
 とするならば、ここで新たに限定的評価=観念論の正嫡を継ぎながら、実在論との折衷を図る途も拓けるはずである。すなわち、この超越論的観念論と経験的実在論の往還運動が、後期新カントの学派の枢軸を構成しているのであり、カントの遺産を受け継ぎながら、――科学分類論・経験的実在論との応接をはかりつつ、継承しているのだ、という限定的評価も生れうる。言いかえると形式の論理を客観化する方向に推転させながら、同時に(判断は現実的なものを集約するという)判断論を規範意識で説明するがごとき、西南ドイツ学派独自のスタンスを、限定的に評価しうるのである。
 マイモンをもじっていえば、超越的客観、つまり理念的次元の前提なしには、カント主義に入ることはできず、その前提とともにそこにとどまることもできない。かくのごときジレンマにさいなまれた、カント主義ゆえの限界、つまるところ観念論と実在論の調停にかかわる問題が、新カント学派の十字架となったのであり、その運命のもとでの知的格闘を、限定的に評価することができる。
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2013年07月27日

ディルタイ・アディケス往復書簡集

 底本は、レーマン(Gerhard Lehmann,1900-1987)「カント全集の歴史一八九六‐一九五五年に寄せて」『カント哲学の歴史と解釈への寄与論稿』(Gerhard Lehmann,”Zur Geshichte der Kantausgabe, 1896-1955”,in:Beiträge zur Geschichte und Interpretation der Philosophie Kants,Berlin,Walter de Gruyter&Co.,1969,S.3-26)の付録として収められたディルタイとアディケスのやりとりです。同論文はディルタイの『アカデミー版カント全集』のカント全集著作部門の編集規則(『アカデミー版全集』第一巻、一九〇二年、所収)・ディルタイの報告書(〇三年二月五日)も、付録として収録していますが、それらを含めて収録方法がちがう異本も存在します。〔p.12の後に書簡1ページ目に続きディルタイ文書を収めるバージョンと、ディルタイ文書の後に書簡1ページ目を配するバージョンがあります。〕同論文はDeutsche wissenschaften zu Berlin,1946-1956, Berlin,Akademie-Verlag, 1956,S.422-434が初出ですが、そのさいディルタイの著作部門の規則・報告書を欠き、アディケスの書簡を収録しないばかりか、再録された『カント哲学の歴史と解釈への寄与論稿』には付属する若干の注に言及しません。

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2012年01月01日

天界の自然史=2013/3/12


「天界の一般自然史と理論」 前批判期の自然哲学的諸著作中の代表作。ラプラス説に先立って、星雲説が述べられた著作としても有名。この著作において、物質が本質的に引力をそなえているところから、物体の球形になるための条件は何か、および円運動を引き起こすのには何が必要かに説き及び、宇宙システムの生成にカントは論を運びます。これにとどまらず、たとえとるに足らない植物や昆虫さえ、宇宙の全構造と相関的に解明していくことが、すなわち「物語」【ゲシヒテ】の内容となるのでしょう。「天界の一般自然史と理論」(一七五五年)『アカデミー版全集』第一巻、二二九-三○頁 (『カント全集』2、宮武昭訳、岩波書店、二○○○年、一八-二○頁)。ただし「物語」といった場合、時系列上の因果連関を含意する点で経験的な歴史記述(Historie)とはちがうものの、それとほぼ同義です。
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2011年11月15日

備忘録:啓蒙主義の哲学3=2012/9/12

 美の総体からなるこの組織は
単に概念のみにもとづいて作られてはならない。つまりそれは同時に、純粋な論理学それ自体によっては顧慮されなかった、あの概念以前の分野にも帰属する。論理学的見地からすれば、このような組織は「低次の」精神ないし認識能力に属すると考えられるけれども、この「低次」の認識能力もまたそれ自身の「ロゴス」をもっている。それ故にこれら認識能力についても同じく独自な認識論、つまり「低次の認識学」が要求される。エルンスト・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』下230ページ

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2011年11月06日

備忘録:カッシーラー啓蒙主義の哲学1=2013/3/14


(ちくま書房版、文庫、下225ページ)彼(バウムガルテン)はスコラ論理学のすべての分野を知悉し、その形式的完成を最高の域にまで高めた優秀な論理学的指導者の一人であったが、同時に彼の真の本来的な思想的事業は、彼が他ならぬこの通暁を通じてこの論理学の内容的・体系的な限界を最も強く意識した、という点にある。彼はこの限界の自覚を通じて、思想の歴史への彼独自の貢献というべき美学の哲学的基礎づけを達成した。

 美とロゴスの並行化戦略についてカッシーラーからの示唆を得たいと思います。

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2011年08月08日

カント論理学:備忘録=2013/1/19


論理学のメモは美学的【エステーティッシュ】主題に亘ること・・・下位認識能力を「感性的表象」と特色づけ(Baumgarten,1750,§17;1757,§521)、この領域の「論理学」として「美学」をバウムガルテンは構想しました(Baumgarten,1735,§115)。論理学は美学の「姉」であり(Baumgarten,1750,§13)、あるいは美学は「下位認識能力の論理学」(Meier,1748,§2)です。山本道雄『改訂増補 カントとその時代―ドイツ啓蒙思想の一潮流』、晃洋書房、2008年、39頁。
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