2020年03月03日

価値の普遍性-2

人の考えはわからないか。
 価値の対立と言うことで、人はしばしば他人の考えなど分かりようがないとうそぶく。社会の気の遠くなるような意見の対立ということを前提するなら、そういう感慨もやむを得ないのかもしれない。その反対に、自分の考え方は、まったく公に開かれていて、その中立性を疑わないという、社会学者がいたことには、反吐が出そうになった。まあこれは感情的な反発だが、まんざら、その社会学者が常軌を逸しているとも思われない。自分が正しいと考えているとき、何らかの意味での普遍性を密輸入していることはままあり、そのこと自体不健全とは言えないからである。自分が5+7=12と考えているとき、それ以外には考えられない。殺人が悪いと考えているとき、それを社会の理のレベルに定位しているのなら、たしかに悪いだろう。吉高由里子が美人と考えているとき、他人にもそのことを認めてもらいたく思っているだろう。もちろんラオスの首長美人を美しいとは思えないのだが、美という範疇で捉えているとき、当人にしてみれば、何らかの普遍性を要求しているということである。議論はもうカントの美学の主観的普遍性の域に踏み込んでいる。また、死んだら無である・・・どのような意味かはわからないが、幽霊を認めている人でも、それが生きている人から何かを欠いている・無がそこに忍び寄っていることを認めるだろう。このように一致していることがらは、少なく見えても、一致を要求しているとか、一致を案外、持ち込んでいるとか・・・哲学の戦場は案外、アナーキーではない。たまたま、密やかな戦いを挑む人はいるが、それはある意味で、戦場を私という拠点から繰り広げているからである。しかし、社会の視点が勝つことは、プラグマティカルに約束済みである。というのは、こういうことである。対話なり、戦争なり、他者との接点を設定するとき、言語論的に他者を前提せずにはいられぬ。これは論理的と言うより、実践的・人生論的な意味においてそうである。つまり、他人のことがわかるという、至極当たり前な前提が生きているうえでは作動してしまっているからである。これは論理的問題ではない。たとえ、精神病者が、自分の考えと他人の考えを区別できない、もしくはそれが災いして、他人の理解ができないと言っても、その人がたまたま、病気であることに目覚めるなら、他人が自分の考えを盗み取っている等々の病的指標が自覚されるはずである。その指標が自覚された時点で、その人が正しい思考ができるかできないかにかかわらず、病というかたちで、他者が正常状態に設定される。精神病者は結局、いつも他者に負ける。いつも社会に負けるのである。もしくは他者のことがわかるということがらが、事実可能ではなくても、正常状態の理想となることである。だから、人の考えがわからないと孤塁を守るより、そうしない方が、実践的・人生論的にいいのである。人の考えはわかるはず、というカノンが価値の普遍性をひらく。
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2017年07月25日

非哲学的断章(続く)=2017/7/25

 
死を前にして、すべてが虚無に化してしまう、という感慨には根強いものがある。もしくは、死とは一個の謎である、という念が強く意識される。いずれにせよ、もし私の死とともに、世界のなかのすべての存在が無に帰するのなら、存在というものは、私の意識と独立には存在しない、という考え、つまり存在するのは意識だけであるという、観念論に誘われる。
 観念論が自殺に至るみちすじを描くことは、それはそれで簡単ではないが、私の意識とは独立に実在というものがある、と思う。例えば、ヒュームの追跡において、印象の分解の極限に、単純印象を想定したが、何かが所与としてあるのである。もちろん物的なものとも言えないにしても、モリヌークス問題の「かたち」に対応するような、経験にとってxがある。それらは感情的な確信にぴったり寄り添って、私たちの日常生活の地盤となっている。おそらく、私に先立つそのxは死後も、理想的な世界のなかに論理的には保存されるのであろう。それが私たち?の生き方の態度と即している。
 おそらく意識が、実在に「依拠」していない、という観念論は正しくない。されば実在するxが、物・心のいずれの身分をもつかは、事実探求の「科学の問い」ということにならないだろうか。すなわち、ヒュームを乗り越えるかたちで視野に入れてきた、記憶や知識の直接性(印象に対する観念に訴えても、基礎づけ不能である ことは幾度か示唆してきた)に裏づけられたxとして、まさにそれらの所与がある限りで、何か端的な実在を指し示している。つまり原物に対するコピーという了解を維持しえないのである。しかもそうした実在は、情念や生き方の態度に裏打ちされているので、生半可な懐疑では根扱ぎにしえないものなのである。宗教が断定の繰り返しであったように、実在の信も断定で打ち切られる。
 かくして経験論の準拠枠であった観念論の彼方、言い換えれば実在論の極北が拓けるように思われる。これは、哲学的問題の終着点ではなく、問題の乗り換え点である。幾度か示唆してきたように、言語は実在に係留するばかりか、私たちにとって余所余所しい、可能なタイプとでもいうべき、存在の「かたち」を提示する。こうした「かけがえのある個体」とも言うべきものは、公共の言語空間のなかに位置しているように思われるかもしれない 。はたまた、情念なり、道徳なり、私は、公共の場が接していることを示唆するごとき、事象に出会わざるを得なかった(ようである)。だがしかしこの他者という磁場は、私にとっての些末なエピソードに過ぎないのではないのだろうか。果たして、言語という媒体は、私のこの経験の場を溢れ出て、他者へと浸潤してゆくのだろうか。
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2017年05月30日

フィヒテの多様性/差異=2017/5/30=2017/6/6=2017/10/30=2017/11/2

 もとより権利問題においては、自己の自立性と異他的な強制とは調和しています(「……自我が自己を自由な者として思惟するとき、反省においてばかりでなく、行為においても自由でなければならないという強制を、自我は自立性という自らに固有の概念に依拠しつつ優先的に受容する……」中川明才,2016,52ページ。GA,I/5,S.63. )が、顕現は、他の媒介により逸脱を可能性として含んでいます。
 『知識学の諸原理による道徳論の体系』における感性界中の、自由への系列を想起せよ(GA,I/5,S.141.)。理性的存在者に内在し、彼を一定の行為へと規範的に方向づける道徳的なものは、その発現が必然的であるがゆえに自然的なのです(GA,I/5,S.33.)。続きを読む
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2016年10月31日

転移するロゴス:改訂版目次=2017/10/26

目次
はじめに 前期新カント学派と射程
第一章、唯心論/観念論(1900年代以前)
   第一節、マールブルク学派の幟
    思考的産出による実在
    感性的極小の問いかけ
    非在の諸相・理の要求
   第二節、西南ドイツ学派の胎動
    真理から多元的価値へ
     ・現実性と規範・理の現実化
     ・哲学知の復権・絶対的精神
     ・観念論の意想・判断の判断
    形而上学後に残る妥当
    個性記述学と生の価値
第二章、超越論的観念論(1900年代)
    ヘーゲル主義と価値論
    内在主義と現実の化肉
    価値関係と形式の論理
第三章、現象学/実在論(1910年代)
    内在的意味と批判哲学
    超越論的価値論の行方
    問題・決定主義的転移
neukantianismus_versin4.pdf
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2016年07月28日

ジンメル承前=2017/5/7=2017/6/1

 人格は相互作用の織合わせとしてあり、感覚の流れを超えた人格的同一性を成しています(Fellmann,F.,S.311.)。心理的な相互関係をとおして産み出されてきた人格的統一は、理論的・実践的世界の客観的契機となることでしょう(6.Aufl.,S.79.)。こうした相互作用は、実用的なものから、超越論的なものの次元へと分岐してゆきます 。……実用的な次元に属するジンメルの経験的主観はカントと異なり、彼は「自己貫徹性・機能的同化作用・感化・自己関係・あらゆる表象内容の範囲内での自己溶融」に人格性を見出しています(Philosophischer Kultur,Postdam, 3.Aufl.,1923,S.204.)。それは対象を取りまとめるカント的総合とは相違する働きです。
 ここから分岐してくる超越論的次元は、同一化と差異化という象徴的機能として理解されえます。いずれにしても相互作用から主観的に演繹することによって、ジンメルの人格性はカントのそれと様変わりしているのです。ジンメルは全認識形式を相互作用の変容によって捉えようとします。カテゴリーが棄却され、それに代わって、いまや生の形式が歴史的アプリオリとなることでしょう(Fellmann,F.,S.S.313.)
 ジンメルの芸術の自律という考えは、新しい人格性の捉え方を可能にしました。この考えは歴史概念に移行します。人格の統一は、ここでも歴史的現実の関係にとって指導的カテゴリーとなるのです(Fellmann,F., 1994,S.317.『歴史哲学の諸問題』第二版,1905)。これにさいして、ジンメルは歴史的客観化をとおして、現代人の「支配」に終結をもたらすという目標を立てていました(loc.cit.)。
 「自然と歴史は、認識対象である人間を作りだす。だが認識主体である人間は、自然と歴史を作りだす」。つまり歴史家=認識主体の自由は、決定された歴史的現実という認識対象と結びつきうるかという案件とかかわるのです(loc.cit.)。つまり歴史解釈の自由はいかに保証されるか、という問題です。このさい、ジンメルでは、人格性というアプリオリは歴史家の役割を特徴づけるのみならず、歴史的現実の構造はじしんに拘束されてはいない(loc.cit.)。統一的に構成する人格像は、自己像によってその行為が動機づけられているかぎりでのみ、歴史的諸主体に当てはまります(loc.cit.)。彼らは歴史的現実を、まず何はさておき象徴的に媒介された現実性あるものとして把握します(Fellmann,F., 1994,S.317-318.)。人間は現実的な人格像を濃密にするかぎりにおいて、歴史的現実へとなりうる、という仕儀なのです(Fellmann,F., 1994,S.318.)。
 ジンメルじしんは人格的アプリオリのユートピー的次元を社会や歴史の方向にのみ展開するのではなくて、個人的主観の方向にも引き戻したのでした(Fellmann,F.,S.321)。ここでユートピー的なものは「当為の形而上学」として機能し、そのなかで相互作用の原則は、きわめて純粋なかたちで展開してゆきます(loc.cit.)。その意義は人格のアプリオリが、自己意識から道徳的義務づけの現象を理解せしめる思考形式を準備する点に存しています(loc.cit.)。
 「当為とはいやしくも生を陵駕したり、もしくは生に対立したりするものではない。むしろ生が生自身に意識されるところの、現実的なもののあり方そのものに他ならない」、この意味で当為は「生の直観」(1918,S.156)と呼ばれるのです(loc.cit.)。当為は定在と等根源的な所与であるとして、デカルト的cogitoを跨ぎ越しているでしょう。なぜなら他者が私たちをどう見るか、ということを私たちが欲する=他者の評価に沿った自己像を、私たちは形成しているからです(loc.cit.)。したがって、サルトルのごとき実存主義的な主観主義とはおよそ異なった様相を呈してきます。つまりジンメルは人格構成的機能を社会的視点に帰すのです。「私たちはことごとく、断片である。一般的人間の断片であるのみならず、私たちじしんの断片でもある。私たちは――原理的に名づけられない――私たちじしんの個体性と唯一性の端緒であり、イデールな線で描写されているがごとき、私たちの知覚可能な現実を取り巻いている。この断片を、とはいえ、私たちが決して純粋でなく、まったきものではないことに対して他者の視線が補完として働く」(Soziologie,2.Aufl.,1922,S.25.) (Fellmann,F.,S.321-322)。個体性とイデアリテートは分離できません。普遍的なものは経験的現存外部の超世界的絶対としてではなく、象徴的相互作用が閉じていないことの帰結として、現われるのです(Fellmann,F.,S.322)。されば自己像と他者像はたがいに支え合い、イデールな人格は「主観がじしん、ないし対峙して認めるさい包摂する」カテゴリーを形成してゆきます(loc.cit.)。ここで類型的な把握が生まれ、それが規範的機能を獲得するでしょう。当為とは形而上学的な叡智的性格ではなく、象徴的な私を徴づけるのでした(loc.cit.)。そうして道徳的義務づけを理想主義的・功利主義的道徳基礎から疎遠な仕方でもとづけることを、ジンメルは試みます。自己像は内的形式の法則を意欲に服従させるかぎりにおいて、自己像による義務づけの基礎づけは象徴的性格をもっています(loc.cit.)。この個人的道徳法則をめぐり、叙述倫理と態度倫理が、心情倫理に代わって現われるのです(Fellmann,F.,S.323) 。道徳はあらゆる行為や言表で「私たちの歴史に対する責任」を経験的主観に課する象徴的形式として現われるのです(loc.cit.)。
 ヒューム的「ふり」は、いっしゅイデールな次元の役割存在と、経験的存在との分岐を前提していました。人格はあまたに放散する契機の束であり、その含意として他者からの捉え返しを要求します。この多元的構図が、位置相関的客観性のアプリオリに応じた、有限責任論的な役割存在です。それは擬-心理的次元に属す、認識を他者との相関で引き受ける責任ある人格に他なりません。
 翻って、リッカートが歴史的認識の定礎を実践的評価においたことが思い出されましょう。認識も価値判断の一種である、つまり判断は一種の態度決定である、と見なしてはどうでしょうか。実際、文化科学の価値関係的手続きでは、対象のどの面を重視するかは、(超越論的主観を包摂した)個々の認識主観に任せられます。主観に視点の自律性があるということは、歴史記述が価値評価に委ねられているということです。すなわち部分的にせよ、「行為者相関的」(DR)な判断の責任が、人格的決断に委ねられている、ということを意味します。歴史家は、価値関係的手続きにおいて「少なくとも彼が個別化的に対象に結びつけた一般的価値に対して、一定の態度をとる」(Rickert,H.,1905,S.83-84)。つまり例えば政治史を書く歴史家は、政治という価値に一定の意味を認めているがゆえに、政治史を書くのです。よって、「歴史はただ評価するものに対してのみ存在する」(Rickert,H.,1905,S.84) 。このように、歴史学を取り上げてみれば、学知の根底に相対的な価値判断=歴史的アプリオリが食い込んでいます。このことはジンメルの人格が鍵となって、認識の自由が保証されていた/裏返せば認識を引き受けていたことと符合します。
 繰り返しになるが、人格という束は他者から挿入される自己像でありえます。この象徴的に徴づけられた人格のなかに、心理的な役割が棲み込んでいます。束をなす当為の徴は、――イデールな次元に言及しているものの――アプリオリの歴史的刻印、つまり心理的負荷以上を出ません。とするなら、個々の状況に放散して叙述や態度のかたちで統制される倫理は、心情倫理の域を脱するものの、勝義の責任倫理ではありえないでしょう。それは個々の状況の他者との心理的相互作用による網の目であり、行為者相関的なさまを示しています。
 ジンメルの倫理は純粋な心情倫理ではありえず、責任倫理から蝉脱しています。このことが成り立ちえたのは、相互関係において行為を承認するという、ジンメルの擬-心理主義がその下地にあったからです。人格がかく、いっしゅの対他的反照性において成り立つ心理的現象であるのならば、ジンメルの倫理に役割存在に定位した有限責任論を見出せましょう。それは責任倫理の枠を離れて、セン的な「行為者相関モラル」に則すことを意味するのです。
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2016年04月09日

SinnとBedeutung=2017/4/11

 リッカートのSinnとBedeutungをフレーゲに引き付ける観点から、意義と意味と訳していたのですが、ディルタイとの連関では意味と意義と訳した方が良いので、順次改訂しています。
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2014年11月01日

Grenzen,1/2.Aufl.価値関係的概念構成(12)(続く)=2016/5/29=2017/2/18=2017/8/20=2018/1/13

Grenzen1.Aufl.S.378f.,2.Aufl.S.341f.斜体第一般のみ、太字第二版のみ、下線ゲシュペルト。
いまや、われわれは歴史的目的論的概念構成の特性をさらにいくらか詳らかに規定することが可能であり、しかも、なかんずく自然科学的概念構成の関係を(1.Aufl.,S.379)はっきり際立たせるというとき、そのさい区別可能ならば、その完備性をもつ種々の段階と連携する、・・・これである。経験的な普遍性、規定性、ないしは無条件的な普遍的妥当を、その三つの側面として知ってきた次第であるし、だからこそ(2.Aufl.,S.342)歴史的概念構成に対応する問題がどれほどあるか、さても注意せんとするのである。
 さしあたり経験的な普遍性にかかわることとして、銘記しておくべきなのは、現実の単純化ができるためには、すなわち自然科学的概念構成は確たる〔=非恣意的〕な始点をとる前科学的出発点が〔ことによると〕必要となること、すなわちそれは前科学的概念構成の意識的で体系的なさらなる構成と理解されなくてはならず、その帰結を日常言語のいわゆる普遍的語義(2.Aufl.のみゲシュペルト)に見いだすことができるのである。普遍的語義は、日常言語では概念要素と、考察手段に限れば、歴史的記述に現われず、むしろすでに諸事物に共通な多数の、すなわち論理的意味では普遍的内容をもった自然科学的概念があるのであり、それだけでは、学的正当化がなお欠けている。(1.Aufl.のみ改行)さて歴史的概念構成にこの自然科学的概念の端緒の類比物を求めれば、普遍的な意義をもつ言葉ではなく、反対に個別的で、一度しかない個性的対象とかかわる固有名(2.Aufl.のみゲシュペルト)に留意しなくてはならない。すでにそれ〔対象〕のもつ固有名のような呼称によって、つまり見とおせない諸物の外延的多様において、その独特さによって重要であり、それゆえ狭義の個体である(1.Aufl.,S.380)ごとき特定数〔の個体〕が区別されるのである。それらの個体では固有名によって残りのものから個性的対象が際立せるために[=derentwegen]メルクマール構成要素は、それの見とおせないかたちだが、内包的に多様なものから多少なりとも鮮明になる。しかし、このことが根底としうるのは、まさしく、その個性故に価値と関係する特定の個体であり、固有名の呼称で表現されて、前科学的生では一義的に〔=非恣意的に〕その本質的なものを非本質的なものを区別されることが開始されるのだから、われわれは最広義の歴史的非-分割者構成歴史的個体構成の端緒的なかたちを認めうるだろう。

 ★科学的概念構成は、前科学的個体(この場合も概念化をこうむっている。)から出発すること(自然科学は現実から離れている)。前科学的には価値との関係が見られること。続きを読む
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2009年03月05日

備忘録:ハイデッガー拾い読み=2013/12/31=2016/3/7

 
Aがある、Aが存在する(例えばここに机がある)という命題において「がある」「が存在する」は、主語概念A=机の事象内容を示す実在的な述語(『純粋理性批判・弁証論』がある存在)でなく、その主語概念に対応する対象について判断主体がおこなう定立作用、言い換えれば判断主体の認識作用と、その対象との間にどういう関係があるかを示しているだけである(である存在)、
と。
 これを肝に銘じておかなくてはなりません。(引用箇所文言若干修正)
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