2019年11月15日

スピノザとリッカート-2

Rickert, Heinrich, Spinozas Lehre vom Parallelismus der Attribute

 リッカートのスピノザ論が書かれた背景は、今一つ明らかでない。出所はシュトラスブルク大学図書館である。

 このなかで、スピノザ解釈の整合性より、むしろ一と多の矛盾、神的主観と人間的主観の両義性等の、問題が指摘されている。論調としては、物心の並行論的解釈から、両者の同位的相関に話が及ぶ。スピノザ解釈としては、エルトマン・フィッシャ―・トレンデレンブルク・ブラトゥシェックに追随しており、トマス的個体主義への特色はあるものの、出色の出来ではない。

 リッカートは神=実体を、論理的前提とするエルトマン、因果的原因とするフィッシャーを解説し、両者の限界を指摘して、属性をそれぞれ実体の本質とする解釈を指し示す。そして神の知性を規定力とするトレンデレンブルクを承けつつ、二元論的解釈を斥ける。ならば基体と様態の「一と多」の問題がここで出来することになる。途中、観念の観念(ブラトゥシェック)を、思惟・延長とは異なる属性とする解釈を検討し、それが無限後退になることを指摘する。畢竟、スピノザにおいてはごく内的な「敬虔」の問題として解決されるから、神秘主義の傾きをもたざるをえない。これには、人間の思惟を念頭に置く錯視が絡まってくるが、忘れてはならないのは、「(ゼーレ)」ということで無限知性の一部分(?)を考えるべきである、という点である。その錯視を回避しながら、自我の観念に相関的な延長たる身体、さらには自然という個体、誤った思惟の可能性等々の論点が検討される。因果的な人間の思惟への働きかけというアポリアに触れつつも、身心の根本的関係は、神について成り立つのであって、それゆえ人間には理解できぬのか、――そこに死の問題もかかわってくる――という有限主体と神の隔たりというリッカート的な問いかけで結ばれている。

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2018年12月29日

記述と機能・マンドリン事例(3)=2019/11/13=2019/12/31

 マンドリン事例の意図の解釈性について。マンドリン事例には、まだ意図と言えるものがある。それは、作者エラリー・クイーンの意図である。彼にとってのマンドリンの機能・記述は何か。凶器?鈍器?いや「巧妙な凶器」と言うべきであろう。作中人物とは違う次元で成り立つこの意図は、読者との間で共有される。
 ここで読み取るべきは次の二点である。
@ 作中の凶器・鈍器・楽器という意図と、作者の意図が「逆立」するところに、「巧妙な凶器」の「技巧的」価値が生まれる。この内包に即した新しい価値の策出は、九鬼が「ひねり」と呼んだものと対応する。
A ティーパーティー事例における、後知恵でこしらえた、「無難さ」・「冒険」といった記述は、一応、現実のシミュレーションとして理解されうる。だがしかし、ティーパーティーの解釈の技巧性は、上の「解釈性」と類似してくるのではないか。つまり、虚構のフィクションをいかに解釈する問題と、現実をいかに解釈するか、という問題の類似性である。先に、解釈性とあえて虚構性という表現を使わなかった所以である。フィクションとシミュレーションに通底する解釈の要素を、「解釈性」とあらたに定義したい。つまり、フィクションとシミュレーションの未規定部分解釈問題を、「解釈性」という共通の発想で捉えたいのである。このように考えると、現実の未規定部分解釈問題、つまり意思決定問題は、フィクションとつうじる部分をもっていることが明らかになる。これを現実のフィクション化という反自然主義的構図によって収めたい。とくにその例示として、ティーパーティー事例のマンドリン事例化を掲げることにする。
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2017年08月31日

リッカートの因果帰属(承前)=2017/11/4

 Gr1:S.430-432の当該箇所についての補足。S,Σが佐藤の場合、歴史的個体であること〔Sは絶対的歴史的概念〕が確認されていない。また一般的要素が個別因果にとって本質的なものであることも見逃されている。〔S.432の言葉でいえば、論理的に偶然な資料欠損は反論とはならない。〕
 ただし、リッカートの定式化が完全と言うわけではない。α→aという図式は単純化しすぎている。ここで二つの解釈がありうる。@適切な十分条件、適切な必要条件のえり分けとしてピックアップを考えること。この場合、〔マッキーの〕原因とは結果にとって「十分だが必要でない条件の、必要だが十分でない条件」を、不完全ながら表現として理解しうる。信原幸弘、事典哲学の木の例では、マッチを擦ること、マッチが湿っていないこと、酸素が十分にあること等々は、火がつくことにとって十分だが必要不可欠ではなく、そのうちのマッチを擦ることは必要だが十分ではない部分と説明されている。このさいいくつかの原因要素の蓮言と、結果要素の蓮言との間に因果が成り立つのであり、α→aは「マッチを擦れば火がつく」という単純な場合しか妥当するまい。とすればAとしてS,Σとして、例えばS=フランス革命、Σ=バスチーユ陥落を考え、その中での火をつけたことにかかる因果連関、壁を壊したことにかかる因果連関それぞれをa→α,b→βとして考えるべきかもしれない。連言の構造は見えにくくなるが、民主的運動U→抑圧装置の解放Wという一般的概念に置換したときの図式となる。リッカートが考えていたものとしては、こちらが近いだろう。続きを読む
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2017年08月29日

リッカートの因果帰属=2017/11/3

 佐藤俊樹,2015,「十九世紀/二○世紀の転換と社会の科学―「社会学の誕生」をめぐって」内田隆三編『現代社会と人間への問い』せりか書房,328ページによるとリッカートの因果帰属が以下のようにまとめられている。
「結果にあたる歴史的な事象Wが個別的な概念Sにあてはまり、Sがa,b,c,d,eという一般的な要素から構成される、とする。また原因になりうる歴史的事象Uは個別的な概念Σにあてはまり、Σがα,β,γ,δ,εという一般的な要素から構成される、とする。このときα→a,β→b,γ→c,δ→d,ε→eという要素間の因果的対応があれば、UとWの間に因果関係が認められる(Gr1:S.430-432)。
 リッカートはこれを「個別的因果関係」と呼び、法則科学である自然科学とは異なる文化科学独自の因果概念だと主張した(Gr1:S.109)。
 結論からいえば、現在の社会科学で彼の主張が受け入れられることはない。この定義だとUとWの因果関係の成立/不成立は、α→a,β→b,γ→c,δ→d,ε→eという五つの一般的な変数間の因果の同時成立である」。(書誌は、原著に照らして改変。佐藤の指摘するリッカートの「不備」はSimmel,1905/07:S.314-315でも指摘されているという。)
 くわしくは、信原幸弘の因果関係(事典哲学の木)にゆずるが、佐藤はなぜa,b,c,d,eが抽出されなければならなかったのか、理解していない。原因はけだし、最小限の十分条件を〔第一次的な〕近似概念とするはずであり、その観点から言えば、因果関係が抽出されるのは当然だからである。(マッチに火が付いた原因は、ふつうマッチを擦ったこと、もしくは湿っていなかった、であって、風が吹いていなかった、よもや室温が絶対零度ではなかった、等々以下続くではない。佐藤が注の(6)で述べるような、条件が非限定的に開かれているという理解は、原因概念のポイントを失している。原因と言われるさい、最小限の要素が抽出されているのである。・・・このアポリアはヴェーバー解釈に共有されているものと言える。
 ここでの誤解は、リッカートの因果連関が価値関係的に構成された個体について成り立つ、という基本的理解を怠っているからである。個体を構成する要素は価値的に重みをつけられた要素であり、佐藤の言うように、無限の多様を想定するものでない。いいかえれば、価値関係ということで、最小限の十分条件がピックアップされているのである。佐藤は、リッカートとヴェーバーとの対比をつけることに急ぎすぎで、@裏条件法、さらにはcsqn的なピックアップ(歴史的個体の構成)の論理を、クリースから当然うけついでいるヴェーバーに明確に認めていない。Aまた客観性論文を貶価するあまり、文化的意義による重みづけ(リッカートの価値関係に重なる)を不当ににも考えに入れず理解しようとしているのである。
http://www.utp.or.jp/book/b306021.html続きを読む
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2017年04月20日

余剰説と承認説

 内在的意味に支えられた態度決定(承認)では、言わばフッサールの「原信念」に「下線を引い」たり「棒線を引い」たりしているにすぎません。つまり所与たる「前科学的個体」としての「原信念」は、フレーゲの言うGedankeに似てきます。そうしたGedanke,Sinnに一致を云々するさい、真理の余剰説 的な (?)が側面が押し出されて来るでしょう(Gabriel,G.& Schlotter,S.,2013, S.23-39.)。余剰説と承認説の等価性によりP= UR (p) となります。すなわち承認概念からの引用符除去Gabriel,G.&Schlotter,S.,2013,S.23-39-362.ということです。ところでラムジーの定式化のままでは、真理性質、さらにはそれが付帯する命題が存在論的に拒否されます。しかしながら「真である」とは一種の強調以外の何物でもないとする余剰説に、言語論的説得性を賦与するためには、真理値付帯者がどうしても必要になってくるでしょう。この点、フレーゲ的な意義(味)の構成物を考えれば、余剰説の言語的アポリアを回避することができます。・・・・橋本康二氏の論文を見よ。続きを読む
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2017年04月03日

Krijnen,Ch.,2013の思考それじたいとの一致としての概念との対応=2017/5/30=2017/6/6

 クライネンはリッカートの理説を、思考それ自体との一致というかたちで、超越論的観念論を描き出し、フィヒテ・ヘーゲルとの類比で説いています。
 そのさい真理のわれわれの思考との独立が前提されますが、その真理と言えども、包括的には、超越論的主観にかかわるかたちでしかありえません。妥当原理と言えども、形而上学的な含みをもちえず、たかだか経験的に確定されるものです。ここで認識論的相関に即して確定することが問題になってきます(クライネンの相関概念の不当な拡張については何度も語ってきました)。認識尺度という論点から価値にアプローチするのは、是としえますが、はたしてそのことが、存在論的相関を含意するかどうかについては、ペンディングにせざるをえません。
(要するにGedanke・超越論的意識内部の一致ということ・・・それがラース的な相関主義ではないか)
・主観-客観の相関関係を想定したのは、新ヒューム主義のエルンスト・ラース(1837-1885)である。ところで新ヒューム主義は前期新カント学派を特徴づける。そのさいラースに遠由する内在説を想起せよ。ラースの共相関論は、意識のうちにとどまることを要求する。そのイミで一種の観念論である。「〔デカルト-バークリィの〕これら認識論はもはや「主観主義」ではなく、むしろ「主観-客観主義」である。それは正確に解すれば、相対主義ではなく共相関主義[=Korrelativismus]である」(Laas,E.,1879,S.182.下線ゲシュペルト。)。ケーンケの記述(Köhnke, K.C., 1986,S.386.)によると、――ラースは『カントの経験の類推』で経験とその対象(つまり世界の経験的表象像)とが主観的意識のうちで成立するとした。しかし彼は、主観とは主観的知覚の客観的秩序である(ただし主観は主客の系列を区別できる)として、カント学徒が勢いを盛り返すよう働きかけた(オットー・リープマンの指摘)。つまり内在的領域での対応説的了解を取り出すことができる。この構図を超越論的観念論/経験的実在論的に反転すれば、現象学の志向的内在との距離はわずかである。
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2017年04月02日

一致説と摸写説:Gabriel&Scholotterの備忘録3

 承前・G&S,S.33以下。フレーゲは余剰説の一類型でした。その先駆者として、真理基準についてなんら言明することなく、真という言葉への移行についての言明を行うのです。フレーゲの承認説は正確に解せば、判断の承認説(態度決定説)を述べているので、一致説(模写説ではない)と両立可能でありえます。一致ということを批判したのではなく、真理概念の定義としてのみ使おうとしたのです。
 承認は規範的概念です。フレーゲの真理関数には、真理値=真理価値としての意味が付随していたことに思い至るかたは多いでしょう。すなわち、価値という価値哲学的含意が出てきます。そのさい、ロッツェのごとく表象結合の真理区別として、真理-非真理の区別が示されました。ここから、西南ドイツ学派特有の価値判断に関する意想が開けます。ここでもフレーゲとの接点を確認することが可能です(1983,S.201)。また実践との関わりもフレーゲの見て取るところです(1983,S.4)。なおリッカートのBedeutungとの親近性については,Rickert,1928,193f.???続きを読む
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2017年04月01日

一致説と摸写説:Gabriel&Scholotterの備忘録2=2017/10/30

フレーゲの真理概念で承認(態度決定)が中心的機能をはたしていることは、つとに知られているところです。−Aは命題内容を表わすのに対して、回り木戸記号⊢Aは判断を表わしています。つまり、判断とは命題内容に主張力が付加したものを言います。主張力とは承認・拒斥であり、これに応じて、肯定・判断がよってきたるのです。
「主張文の形式において私たちは真理の承認を言表しているのである。私たちは〔それを表わすのに〕「真」という語を必要としない。しかも真を用いる場合でさえ、本来主張力はそれに内在しておらず、むしろ主張文の形式に内在しているのである。その形式が主張力を失う場合には、「真」という語ももはや言い立てられない。そういうこと〔「真」を言い立てること〕は、本気で語っていない場合に起こる」(Frege,G.,1918,S.63.=4:209ページ。)。

 G&S,S.32より。フレーゲは真理述語の使用に関して余剰説を支持するにもかかわらず、真理概念の貶価と結びついているものではありません。余剰なのは真理ではなく、「真」という言葉なのです。
 ところで先に言及したように、所与として真理を語ることはできず、意識内部での循環構造によって、真理は語りだされます。つまり超越論的観念論の構図を戴いている、ということです。その結果として、命題内容にのみ言及するだけでは、自足することはできず、循環を打ち止めにするには、主張力を込みにせざるを得ませんでした。承認の作用は「思想」に真なるものの真理価値を指し示します。そのさい真なることじしんは、承認の作用とは一応、独立です。この項続く。続きを読む
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2017年03月31日

一致説と摸写説:Gabriel&Scholotterの備忘録1=2017/10/29=2017/11/1

「真理の模写説と承認説-新カント主義におけるフレーゲ」,2013,S.31で次のように論定されています。
 
「真理の模写説を拒絶する点で、フレーゲと新カント主義者は根本的に帰一する。この立場についてもちろん、フレーゲの批判が対応説総体に向けられたものでなかったことに言及しておく必要があります。対応説はそれと定義的権限要求とが結びついているかぎりでのみ、非難されるのです。とはいえ、それが真理の確定作業に係るとすれば正当性をもっています。フレーゲじしんは、さまざまなところで、なにか現実について言明する思想の真理の承認のためには、意義表現にすがるよう配向されることを示しました。この見地においてもリッカートとの接点が存します。それは、このことは『認識の対象』において、リッカートの批判がまさしくこの一致の解釈を、それ自体存立する現物との摸写として反駁していること際立させている、という点です。リッカートの超越論的観念論は一致説に抗するものではなく、ただ模写説に異を唱えるだけなのです」(Krijnen,Ch,2001,S.218)。(下線イタリック)
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2017年02月15日

リッカート・フィヒテ=2017/5/28=2017/6/5

 カントのごとく、超越論的対象Xは多様なアスペクトに照応して、中島義道のように(中島義道,2008,90-91ページ)「本」「一枚一枚の紙」「文字というもの」という具合にまとめられるといえども、そのXが「まとめること」を可能にするものとして措定されていると、リッカートは考えています。
 例えばリッカートじしんの例ではないが、上記をフィヒテ流に読み替えれば――「この白い雪があります」と判断できるし、また「白い雪がここにあります」と判断できるということになるでしょう。彼は手元(zuhanden)という条件では「ここにスキーをできる雪がある」、目の前(vorhanden)という条件では「この雪が現前している」等々の判断のそれぞれは、膨大な条件の一部分をみたす判断としました。つまりリッカートは、既知を自覚しつつも、他の条件を除外して截り取ることによって、もしくは背景に匿名の私ならざるもの視点と向き合いながら、認識は成り立つというフィヒテの構図をお手本にしているのです。https://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%86%E7%9F%A5%E8%AD%98%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E6%A7%8B%E9%80%A0-%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%80%9D%E6%83%B3%E5%8F%A2%E6%9B%B8-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E6%98%8E%E6%89%8D/dp/4771015465/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1495915442&sr=1-3&keywords=%E7%9F%A5%E8%AD%98%E5%AD%A6%E3%80%80%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%92%E3%83%86
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2017年02月02日

主意主義の重力圏=2017/10/29

 フィヒテ-リッカート-ヴェーバーにつらなる主意主義の系譜では、誠実性が新たな文脈で問われることになります。例えば理論と実践との懸隔の超克を、自己の運命をみずから引き受けるわざ=Tat(事)に求める系譜がそれです。カントの困惑、つまり「物自体の不可知ゆえの表象の戯れ」に直面して、新たな知の基盤として非知的な生、実践的基盤へと私たちは配向されるでしょう。私たち「人間存在は、生において通常の経験とは別のところで付随的に知を有し、当の経験を説明したり基礎づけたりといった仕方で知に関(ママ)わっているのでは」ありません。より根源的には私たち「人間自身が知なのである」(廣松渉,1990,56ページ)。続きを読む
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2017年01月08日

決定的構成の主観=2017/5/26=2017/6/5

 文化科学の価値関係的手続きでは、対象のどの面を重視するかは、(超越論的主観を包摂した)個々の認識主観が責任をもちます。――廳茂氏のご注意 により気づきましたが、ここでの学知の決断的構成は個別的人格の超越論的扮肢によるものであり、その基底に、超越論的主観の相在の構成をベースとしている(とはいえ役割としては超越論的主観をrole-takeしている)ことになります。この構成の階層(シヒト)は連続的ではあるものの、決断が働く次元が曖昧であることを、廳氏の指摘により、改めて強調すべきことに思い至った。
・科研費研究会2016年12月24日の備忘録。
role-takeを入れなくては、構成的機能を考えられないのではないか、と考え直しました。
 人格が構成的に働きかけるにせよ、そのさい、超越論的主観を統制的にrole-takeしているという論点です。続きを読む
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2016年11月15日

ヴィンデルバントと「信仰/知」=2017/5/26=2017/6/5

ヴィンデルバントでは、論理学/倫理学/美学で妥当すべきものの三輻対の要求が金輪際、哲学の自律を迫ることなく、すこぶる倫理的な動機「信じること」 から生じたのです(Köhnke,K.C.,1986,S.420.)。
例えば、「宗教的信仰」を思弁的体系のなかに取り込もうとする、ヘーゲルの「信仰と知」的モチーフ(プロテスタンティズム的な神が死して後、「嘗て歴史的なものであった聖金曜日に代わって思弁的な聖金曜日を再興しなければならない」ヘーゲル,G・W・F著,上妻精訳,1993,169ページ)が翳を落としているのかもしれない。Windelband,W.,1884(←1882),S.43のDrang der Überzeugungenという表現に留意すること。

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2016年11月13日

ヴィデルバント・ヘーゲル・現実態=2017/5/19=2017/6/5

 ヴィンデルバントは、アヴェナリウスならびにマッハによって創始された、純粋経験に基礎をおく実証主義的認識論にあらがって、認識のアプリオリな条件は価値にもとづくとしました。そこで勝義の認識活動とは、表象作用とは独立な判断作用がされたのです。判断が認識の枢軸を成す以上、――ディルタイ的見地を脇において――判断意識としての規範意識にすがったわけです。そのさい、価値を判断作用の導き手としました。ヴィンデルバントは「価値」を、〔意志と感情のなかに内在する〕規範意識に妥当するものとしたからです。認識にとって本質的なのは、表象体系(判断形象)の根拠を問うことであり、当為必然性の感情へさかのぼって、その根拠を規範意識に見出しました。「……この解説にとって探求される必要がある、はなはだしく変転する過程は、絶対価値にまったく関与しないことなのである。その価値は意識内容に内在するものの、およそ現実 に対する規範として妥当する、と私は確信できる」(Windelband, W.,1884(←1883c),S.321.下線ゲシュペルト。)。続けて「イマヌエル・カント」で見られるごとく、そのことは、観念論的な〈私の統一〉に結実します。すなわちヘーゲルのごとく「真なるものは、しかし、宗教の場合のように、表象と感情の対象となり、芸術の場合のように直観の対象となるにとどまらず、また思考する精神の対象ともなる。かくして私たちはここに合一の第三の形態、すなわち哲学をもつことになる。哲学は〔、〕そのかぎりにおいて最も高い、最も自由な、また最も理性的な形態である」(ヘーゲルG.W.F.著/武市健人訳,1954,84ページ。下線ゲシュペルト)。哲学とはヘーゲルの場合、絶対精神の自己認識のあり方です。「真理はまさに真理として自己を確証しなければならない。この確証は、この論理的なもののうちでは、概念が自分じしんによって自分じしんに媒介されたものであることを自ら示し、そのことによって同時に、概念が真に直接的なものであることを自(ママ)ら実際に、示すことにある。より具体的で現実的なかたちで言えば、〔……〕神によって創造された世界、つまり、自然と有限的精神とを、それらが神から区別されるときには真ならざるものである、と私たちが識るかぎりにおいてのみ、真理であるところの神はその真理性において、つまり絶対〔的〕精神として認識されるのである……」(ヘーゲル,G.W.F.著,真下信一/宮本十蔵,1996,231ページ 。下線ゲシュペルト。) 。
 ヘーゲル的観念論は、絶対的な「現実」とも一方で連関しています。例えば理想主義(観念論)に言及する文脈でヴィンデルバントは述べています。「諸時代の変転する関心を越えて、ひとつのより高い精神的現実にもとづく持続的価値」 についての省察こそが、哲学に期待されている、と。ヴィンデルバントにおいて、表象にとっての「絶対的現実」[=absolute Wirklichkeit,絶対的価値]への関与によって認識は理解される(Windelband, W.,1884(←1881),S.132.)のです 。つまりヘーゲル的な現実的真理のもとに、――絶対精神モデルで――一元的に価値が統括されています。金正旭,2012の引用指摘によると、「真理を表象と事物の一致と見なすかぎり、真理はむろん思考のうちにのみしか求めえない。何とならば、かくなる一致は道徳行為のうちにも、美的感情のうちにも、見出しえないからである。しかるにカントとともに真理を精神の規範と理解するならば、理論的真理と同様に倫理的真理や美的真理も存するのである」(Windelband,W.,1884(←1881),S.139-140.)。
注:ビスマルクのナショナリズムともからみ、微妙ですね。続きを読む
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2016年09月23日

カント的自律的認識論/リッカート

 ハインツによれば、フィヒテの西南ドイツ学派に与えた影響として
 1.批判的方法が判断と価値判断との構成的区別をしたこと
 2.批判的方法の目的論的性格
 3.規範意識と経験的意識の関わりの規定
が挙げられています(Vgl.Heinz,M.,2002,S.135.←Krijnen,Ch.,2001,100ff.)。とくに容認/拒斥の感情についての考えは、フィヒテの道徳論を下敷きにしているとの由(Vgl.Heinz,M.,1995,S.109-131.)。彼においては義務に即して容認/拒斥が語られます(Fichte,J.G., 1977(←1798-1799),GAI/5.S.155.)。この両感情は二元的対立性を示しています(Fichte,J. G.,1977(←1798-1799),GAI/5.S.137.)。それゆえリッカート認識論は、しばしばフィヒテの基幹構図のもとにある、と言われます。
 しかしKrijnen,C.,2001,S.324.のごとく、判断を主観的恣意にまかせるならば認識課題を欠くことなく、いやしくも認識ならば「対象の概念」の「統一性」が、課題となるでしょう。つまり超越論的なまとまりというカント的相貌をとどめています。カントの自体的=内在的価値のように、〔ヘルマン・ロッツェ流の〕妥当する「超越的価値」は、超越的に主観と独立に存するのです。方や主観には、すべての意識内容を捨象した作用として「意識一般」がすえられます。それに対して客観から、例えば「雪は白くあるべし」のような、「雪は白いこと」という判断を促す「超越的当為」のかたちで、「超越的価値」が顕われるでしょう。判断とは、それに応じて、問いに模しうる〈主語表象と述語表象の表象結合態〉に答えることです。こうして「意識一般」は「雪は白いこと」という相在を構成し、ひいては「白い雪」という「現実」を内在に取り込みます。すなわち価値を介した「現実」の自律的構成、これが超越論的観念論の要諦です(Rickert,H,1904)。
 思えば、理性が本性からして自由に真理を語る哲学部の存在を要請する文脈でカントは言っていました。「学者公共体のためには、大学にどうしてももう一つ学部がなければならない。それは、みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由はもたないが、すべての命令を判定する(beurteilen)自由をもつような学部である」(Kant,I., 1917/1968(←1798)Bd.VII.S.19-20)。すなわち哲学=学知は命令について価値判断することによって、みずからの自由、自律を獲得できるのです。「公に講述するように命じられた或る種の教説が真であるかどうか問題となる場合、教師はこれに関して最高命令を引き合いに出すことはできないし、生徒もその教説を命令によって信じたと申し立てることはでない」と。しかるにそれに服従する責務/権能があることは、「やはり自由な判断によって認識しなければならない」。この「自律によって判断する能力、すなわち自由に(思考一般の原理に従って)判断する能力は、理性と呼ばれる」(Kant,I., 1917/1968(←1798)Bd.VII.S.27)。
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2016年09月16日

森秀樹氏の質問に寄せて3=2017/5/14=2017/6/1=2017/10/26

判断主体の位置づけについて
 リッカートのように判断を行為ととらえるならば、「決定主義」と称することもできましょう。しかるにリッカートの言によれば、判断主体は超越論的主観=意識一般です。この部分をどのように解したらよいのでしょうか。というのも、具体的個人では構成的権能を果たしえないからです。
 一、超越論的主観を唯名論的に解し、判断が普遍であることの、権能を負わせるという方途。
 二、超越論的主観を実念論的に解する方途。この場合、客観的観念論への傾きを否定できなくなる。歴史的リッカートは、フィヒテ主義をとりこの道に近い。
 三、超越論的主観を一種の規範的権能をもったレールな心的部分と解する途。判断が誤っているかどうか、の権利づけはいざ知らず、判断を行っている場合でも、それが誤っているのではないか、と十分承知の上で、あえて決断するという実践的営為(そこで規範ということが効いてくる)を行っている、というかたちで、超越的規範が介入すると考えられます。
 ここでは三の可能性を追求したい。そうすることで自律的認識論という、カント的相貌をリッカート哲学のなかに認めることができるはずです。
 ところでカントの場合、倫理的自律は以下のようにとらえられていました。
 
自律的に判断し行為する理性的存在者は、他の理性的存在者の権利行使の自由を侵害しないとともに、もしそれを侵害したとしたら自分自身の適法的行為をなす自由をも侵害することになる。つまり当の人格が自分のなした行為に対して責任を負うことを承認するのは、他人の追及や強制によってではなく、当人が理性により適法的行為をなすように命じられており、他人の権利行使の自由を侵害せぬように自らに強制していたときである。
 実際『人倫の形而上学』のなかでカントは、道徳性を強制という観点から捉えなおしています。
 「しかし、それでも人間は自由な(道徳的)存在者であるから、内的な意志規定(動機)という点では、義務概念は自己強制(法則だけの表象による)にほかならない」(Kant,I.,1922(←1797),Bd. VI.S.379-380=11:241-242ページ)。強制は自己からのみ由来するのであって、他人の知るところではない 。「倫理学は、私が契約で結んだ約定を、たとえ先方がその履行を私に強制することができない場合であっても、それでも履行せねばならないと命令する」(Kant,I., 1922(←1797)Bd. VI.S. 219=11:34ページ)。強制は他人からなされずとも、私が引き受けなくてはならぬものです。
 いやしくも人間が理性的な存在者であるためには、倫理は合理的に普遍化可能でなければならないでしう。カントにかぎれば、普遍化可能性のなかの自律は、合理性の指標です。iが困っている他人を助けないことでさえ、iじしんによって認められるAfi(i)、のパラメータiを普遍化することに通じて〔「自己評価中立性」(SN)のかたちで〕、カントの自律の形式的定式化を獲得できる。――あなたは困っている他人を助けなくてもよいAfi(i)としても、他人が困っているあなたを助けずによいと〔あなたは〕認めるAfi(j)わけではない、いやあなたは他人が〔あなたを〕助けないことを止めさせるべきである(「行為者相関性」)。Afi(j) のわけではないとしても、他人が困っているあなたを助けることを拒否したら、他人にはそれが正当化されるAfj(j)、つまりあなたを助けずともよい理由が他人にはあるAfi(j)(「観察者相関性」)。これらのことは、カントにおいて、以下つまり――あなたが困っている誰かを助けなくてもよいAfi(i)ならば、いかなる他人も誰かを助けずともよいAfj(j)場合、かつその場合にかぎる(「自己評価中立性」)――と、矛盾しない。
 もしこれと並行的に自律的認識論が説けるなら、当然のことながら、認識においても普遍化可能性が要求されます。iが判断を下すことが、iじしんによって認められるUi(i)、のパラメータiを普遍化することに通じて〔「自己評価中立性」(SN)のかたちで〕、リッカート認識論の自律の雛型が得られます。――あなたは判断を行うことが許されるUi(i)としても、知的良心にもとづいて行っているのだから、あなたがやっていることをそのまま他人に認めさせるUi(j)ことはできないUi(j)、いやあなたは自分の判断を無理やり強いることを辞めさせるべきである(「行為者相関性)。Ui(j)のわけではないとしても、他人が同じ判断をすること自体は、あなたに十分認められる、他人にもそうする理由は十分にあるUi(j)。これらのことは、リッカートにおいて、以下つまり――判断を行ってもよいAfi(i)ならば、いかなる他人も同じ判断を認められるAfj(j)場合、かつその場合にかぎる(「自己評価中立性」)――と、矛盾しないのです。
 要するに、自律的にみずからの内なる誠実性に問いかけることが、唯一の選択肢なのです。言い換えれば、知的良心以外に、自己の判断を統制するものはありません。先に述べた認識論的主観とは、そうした知的良心の働きなのです。リッカートの論じるところでは、認識の営みでも、倫理の領域に模した態度決定が語られます。判断の本質を知るには、「判断が〔心理状態として〕何であるのか、という観点からではなく、判断が何を遂行するのか」(傍点ゲシュペルト) という実践的観点が重要となる所以です。理論的領域においても倫理学と並行的に論じている点にリッカートの独自性があります。彼の場合、実践と認識という二つの側面を具えているのが人格=有徳な主体であり、認識の場合も人格の決断によって真理が承認されるのです。――例えば「決断」ということに関連して、ハバーマスによるポパー批判を見てみましょう。エンドクサたる基礎命題は「私たちに直観的かつ無媒介的に、明証的に与えられていると〔ポパーは〕する」。ポパーによれば全称命題を反証する、「一つの観察結果を表現するこのような基礎命題に対しては、にもかかわらず間主観的承認は強制されない。すなわちこの命題そのものが、その経験的吟味のためにこの命題が役立つべき法則仮説とまったく同じように」無根拠です。ゆえに「ある基礎命題の容認が経験にあっても十分に動機づけられているか否かについての決断が表明されねばならぬ」。もとよりハバーマスは、この決断の解釈学的歴史的背景を労働に遡及するのですが、彼自身の議論は無残にも精彩を欠いています。だから彼に追従することなく、認識も価値判断の一種である、つまり判断は一種の自立的態度決定 である、と見なしてはどうでしょうか。無限の真理に向かって啓かれていること=真理の卓越性は、有限の/限界をもった主体の態度決定の裏返しなのである、と。
 ここでカントと対比してみましょう。『諸学部の争い』のなかでカントは言っています。イサクを殺すべし、という神の命令に対峙するアブラハムの振る舞いを、カントは非難がましく扱いました。「……アブラハムは、この神の声らしきものに対して、次のように答えねばならなかったであろう。「私が私の善い息子を殺すべきでないことはまったく、たしかですが、私に現われているあなたが神であることについては、たしかではなく、またこれからもたしかになりえないでしょう」と」 。カントは、もし神が人間に語りかけたとしても、その語りかけている声が神のものであるか知ることは、人間にはできないと言います。つまり@理性への呼びかけは明示的であるにもかかわらず、Aその呼びかけがどういう根拠をもつかについては迷うことになるのです。
 リッカート認識論に即して考えた場合、当為の声は分明にもかかわらず、難局に立たされるのではないでしょうか。➀理性への超越的当為の声は判然としています。たとえば経験的実在論の域では、あるものについて――私の著作であり、かつ本であり、かつ物体であり……という、――それら判断は誰が下そうと、「自己評価中立性」(SN) を具えています。
 どの判断を下すかの段で、ビュリダンのロバのごとき逡巡にいたるのですA。旧聞に属するが小林道夫,1996の言い方を借りれば、もろもろの〈意味アスペクト〉に差し向けられるのです。そこで評価関与的な態度決定的構えが出てきます。
 これを先の経験的実在論に即した言い方をすれば、「……科学的探究では常に、対象の与えられ方としての「意味」(フレーゲの用語では「意義」Sinn)から「指示対象」(フレーゲの用語では「意味」Bedeutung )への前進に迫られるということになります。そこで、指示対象が確定されない段階では対象の理解は意味に支配されざるをえないのであるが、いったん意味と指示対象との結合が実現されるならば、今度はその意味は対象の一面として理解されます。「意味は対象の一つの側面を照射するだけ」だからです。指示対象は一つであっても意味は複数あるのである」(小林道夫,1996,142ページ。下線強調。)。
 カントを指針とする科学論は、感覚に即応した超越的意味の多様に正対する。良心の呼びかけに応じ、深淵の前に立つカントは、さながらかぎりない「密画作業」の前で逡巡し、知的良心の決断によって切り取るリッカートです 。かくのごとく態度決定説では、自律が前景に出てきます。
 繰り返すがAどの判断を下すかの段で、〔どの声に従うべきかは謎なので〕ビュリダンのロバのごとき逡巡にいたるのです。循環をどこかで断ち切らなくては、認識を完了できません。かかる決断を含んだ振る舞いも、無限の可能性に関係しています。ここに判断の「行為者相関性」(DR)「観察者相関性」(VR)を認められます。
                               
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2016年09月15日

森秀樹氏の質問に寄せて1=2017/10/25

 森秀樹氏は、ディルタイの所与を近くに近い線で理解できるのではないか、と提案されています。そしてディルタイはリッカートの判断形象が、ディルタイの所与とちがっていることを強調されます。
 ただし「これは黒板である」という判断は、社会文化的に規定され、後世に継承されてゆく以上、感性的な所与のみによっては成立しないことは明らかであると、指摘なさいます。さらに「ギフチョウは絶滅した」という知識は、「ギフチョウらしい蝶を見かけた」という知覚と相互に照らしあわされて、一方が棄却されることがありえる、という具合に、知覚と判断の違いを強調されます。ただしこの、「ギフチョウらしい蝶を見かけた」はアスペクト知覚であって、知覚の階梯には登りえていないというべきです。勝義の知覚は判断と癒着しているでしょう。さらに賞罰は附帯的な要素と見るべきでしょう。これをもって判断と知覚の区別はできません。また知覚+解釈の自立性とピう論点も挙げられていますが、規約主義的な考えをとる限り、説得性は弱いと思います。
 森氏はさらに「なぐる」という判断が、賞罰と結びついていることを指摘して、知覚表象の非実践性を際立たせておられます。しかるに「インフィールド・フライ」をとったということ、「人体図形を模範にして体操をする」ということのように(アンスコムに反して)、実践的知識は観察によらなくてはなりません。要するに、理論的な・判断的な営為は知覚と癒着しているのであり、判断行為主体と知覚主体の区別は、あまり説得性をもたないと言いたいのです。
 ディルタイの見るところ、思考における関係の言明が、「所与」の表象されたもののうちの関係づけと結合しているのであって、それを当為的に特徴づけるのは相応しくない、としています。それはひとつの覚知です。それ〔=覚知〕は、いっしゅの気づく働き、さらに立ち入って定義できない意識様態であって、形式としては思考の正しい態度のあり方に伴う と言えます(Dilthey,W.,Bd..XXIV. S.277-278.)。要するに「与えられているということを、気づいている」こと、つまり、ディルタイの基本態度である「意識の事実」を含意します。Dilthey,W.,1990(←1883),Bd.XX.S.153.=2:107ページのほか「……私が私のうちで体験しているものが意識の事実として私にとって現に存在する所以は、私がそれを覚知しているからである」(Vgl. Dilthey,W.,1959(←1883),Bd.I.S.394.=1:400ページ。)。
 すなわちディルタイにとっての「所与」とは、「私のうちで体験しているもの」であるから、例えばカントの「所与」ような感性の多様とは異なります。ディルタイはカントから当時の認識論的論理学を批判的に摂取して、なおかつ当時の心理学的見解にもとづき、所与にはすでに形式や秩序が内在しているとみなしました。彼のキータームである「構造」あるいは「連関」と名づけられる所以です。したがって、ディルタイにとって「所与」とは、構造や連関を抱えた統一体〔の「覚知」〕ということになります(Vgl. Dilthey,W., 1982(←1892/1893),Bd.XIX.S..335.=3:562ページ。有機的生の統一という論点は, 1982←1892/1893),
Bd..XIX. S.344-345.=3:575-576ページ参照) 。このようにディルタイの知覚は連関に媒介された、判断依存的なものと言えるでしょう。

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2016年09月09日

ラスク=2017/5/9=2017/6/1

 ラスクを見てみましょう。ラスクの意味は、フッサールのノエマ、リッカートで言えば超越的意味に当たります。フッサールではノエマは広義の「意味」と解され、「ノエマはおのおの、或る「内容」、すなわちその「意味」をもっており、それを通じて「みずからの」対象に関係することになる」(『イデーンT』1913年,Husserl,E.,1976,S.297.下線ゲシュペルト。)と論じられたような、対象認識の媒介項です。ただし知覚における「意味」は、対象に対して距離をとれないほど、近しいものと考えられています。
 例えば雪の知覚の現出するのは、「雪」という物体ではないし、実的(レール)な感覚「冷たさ」でもないし、ましてや志向的体験じたい「雪が白く見える」でもありません。否、対象それ自体の「意味」、知覚ノエマです。或る知覚の現出は、それを受け継いだ可能的知覚への指示を含んでおり、全体の現出は連関をもって知覚的体験の地平で現われます。このことは、知覚的現出のなかに、対象の部分的断片ならざる、実在する対象それじしんの「意味」が含まれていることを示唆しています。
 ラスクは、それじしん質料/形式からなる超対立的対象が技巧的に破壊される以前には、(真理vs背理、正当vs不当、承認vs拒斥等の)価値対立性を超えているとしたが、それは知覚野になかに痕をとどめているはずです。「対立的に分裂した意味に対しては、対立的に分裂した認識、すなわち、判断する認識が対応し、これに対して超対立的意味には、超対立的超判断的認識が対応する」(Lask,E.,1923,S.396.)。
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2016年04月25日

ジンメルの個人-社会問題:とくに責任をめぐって=2017/4/24=2017/10/15

 廳茂『ジンメルにおける人間科学』からの引用。:20世紀初頭の規範概念を広い文脈で捉えるため引用させていただきます。
 
237頁「最終的に、ニーチェの個人関心の核心を高貴性と責任という概念のもとに捉えようというジンメルの姿勢に集約的に示されることとなる」。そうした姿勢を、そのニーチェ論の最初から示していた。高貴性ということで、社会的、政治的身分である貴族の問題としてではなく、「「純粋に個人主義的な」意味、したがって人格の精神的、性格論的質の問題として取り上げる」。高貴性とは、「自己を価値規定的として感ずる」(VN,10)ことである。このような価値・意味賦与的主体としての自覚は、責任という意識に収斂する」。「ジンメルはニーチェの高貴性概念の「統合的で、絶対的に本質的な成素」(SN,246)は、責任という概念であると考える。すなわち、高貴性とは、言い換えると「他者や外側から与えられる律法に対してでなく、自己自身に対して責任をもつという意識」(SN,246)なのである」。

 カントに抗して、外在的な命法(律法)への絶対的帰依でないと(廳茂氏は)説かれているがこれは妥当でしょうか。疑問。続きを読む
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2015年08月01日

リッカート解釈の冒険=2017/3/30=2017/9/18

フレーゲは判断という主張を表示する記号として、「┣(回り木戸記号)」を導入します。たとえば「この者は人間である」という文をAとするなら「┣A」は「この者は人間である」という判断を、「━A」は「この者は人間であるということ」という命題内容を表わすという具合に。「┣この者」はそれだけでは判断を示しません。ないし、「━A」は主語「この者」と述語「人間である」とのあいだの〈たんなる表象結合〉を表現するだけです。「━A」に模して、リッカート解釈の冒険を試み、学的認識にとっての与件を前科学的個体と解したいのです。それに対して、後年のタームを使えば「┣」という記号が示すのは、表象結合という問いかけに帰属せしめられた主張力なのです。
フレーゲの構えをリッカートに当てはめていうなら、命題内容に対応した表象結合に、主張力に当たる態度決定(ロッツェでいえば副判断(2)に対応するもの。ジークヴァルト、ロッツェ、リープマンではカント的感性的所与にそれが及ぼされます。山本幾生、二○○五年、二四四頁)が、くわわってはじめて判断になります。判断主観には、すべての意識内容を捨象した作用として普遍的な認識論的主観がすえられるのです。かたやロッツェ流の妥当する「超越的当為」は、主観と独立の客観的効力をもち、普遍的な主観は、たとえば「雪は白くあるべし」という「超越的当為」に触れることができます。当為に応じて主観が下す判断は、「問い」に模しうる表象結合 (Vgl.GE2,S.95-96.) ――「雪は白いということ」にハイ/イイエと答えることを通じ、価値を承認/拒斥します。こうして認識論的主観は「雪は白い」という相在を内在的領域に構成し、ひいては「白い雪」という「現実」を意識に帰属させるのです。
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posted by 9ki1to at 04:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする