2016年12月18日

リッカートの遠近法(備忘録・・・引用ばかりですみません)

人倫の形而上学,VI,S.417-418.
「というのは、もしこうした義務〔すなわち、自己自身に対する義務〕がまったく存在しないとするならば、およそ義務などというものは………まったく存在しないことになるであろうからにほかならない。――というのも、私が他者に対して義務づけられていると認めることができるのは、私が同時に自己自身を義務づけるかぎりにおいてのみであるからなのである。なぜなら、それによって私が自己自身を義務づけられているとみなす法則は、つねに私自身の実践理性から生ずるのであり、この実践理性によって私は強制されるのであるが、しかし同時に私は自己自身に関して強制する者でもあるからである」。
Höffe,O.著,薮木英夫訳,1991,『イマヌエル・カント』法政大学出版局。
「約束する人は自らに義務を課す人であり、利己的にあるいは功利主義的に抜け目のない思慮にもとづいて約束を守ることをそもそもしない人である。自己を義務づけることとしての約束は………また約束という制度が一般に道徳的に擁護できるか、あるいはむしろ賭事のようにみなされるべきかということにも関係しない。約束が自己を義務づけるということを意味するならば、故意に偽った約束は、義務を引き受けしかも請け負わないということを意味する。知りつつ意図して約束を守らないことの基礎に自己矛盾する格率があるのである」。

 加藤泰史,1992,「『定言命法』・普遍化・他者」『現代カント研究3 実践哲学とその射程』,83ページ。
カントは「自己自身に対する義務」をあらゆる義務の基礎としたが、その理由は、「自己自身に対する義務が………人間性の尊厳にのみかかっている」(VE,S.150)からである。したがって、「自己自身に対する義務を踏み越える者は、自己の人間性[すなわち、自己の人格]を放棄し、もはや他者に対する義務を遂行することができない(VE,S.147)のである。つまり「自己自身に対する義務」は「自己」が「人格」として成立する場面にかかわっているのであり、それの不履行は「自己」をみずから「傾向性の遊戯の対象」として「物件(Sache)」にまで落としめることを意味することになる」。

同書,84ページ。

 カントによれば、「自己自身にたいする義務」は、ホモ・ヌーメノンとしての自己がホモ・フェノメノンとしての自己を義務づけるという仕方において成立しているのであり(vgl.MS,VI,S.418)、そこでは「自己否定」(GMS,IV,S.407)が要求されます。

 牧野英二,1996,『遠近法主義の哲学』61ページ。
広義には「遠近法」ないしパースペクティヴとは、対象に対する主観の採る立場一般を意味する。……しかし厳密にいえば、それは対象に対する一定の哲学的思惟の「立場」を指す。それゆえカウルバッハは、カントにおいて事物を考察する二つの観点を直ちに世界および世界における諸物に関する二つの「遠近法」とみなす。
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2016年11月21日

ヴィンデルバントの転回

 ロッツェにおいては、「善」・「絶対的目的」・「存在すべきもの」といった普遍的理念が肯定されました。しかし、理知体において妥当する価値が積極的に考えられていません。つまり彼は片足を直観の形式において、もう一方の足を理知体におきながら、現象体〔可感界〕のあり方は理知体〔可想界〕そのものについて語らぬとしたのです。〔後者はただ原因として、その徴が前者に反映されると信じうるのみです。サンタヤナの解釈によると「ロッツェは現象論へと押し出される」(Kuntz,P.G.,1971,p.97.)。この点、大橋容一郎氏のロッツェに対する唯心論的形而上学という表現は、可想界への一定限の諦念をうまく表現しえていないと考えます。〕
 ヴィンデルバントの転回は、より広い文脈で見ると、新カント学派観念論的転回(1878/
1879年) と呼応することができます。ケーンケによれば、「哲学とは何か?」(1982年)では、諸価値の妥当そのものを問うことが、ロッツェとジークヴァルトの判断と価値判断の区別を通じて成し遂げられました(Köhnke,K.C.,1986,S.418.)。ヴィンデルバントでは、論理学/倫理学/美学で妥当すべきものの三輻対の要求が金輪際、哲学の自律を迫ることなく、すこぶる倫理的な動機「信じること」 から生じたのです(Köhnke,K.C.,1986,S.420.)。
 ちなみにKöhnke,K.C.,1986,S.421.によると、ドイツ思想界は社会主義者鎮圧法制定 (1878年)をめぐってパニック状態にありました。「規範意識」は、必ずしも民主主義者・共和主義者・社会主義者にとっての敵対概念ではありません。この時期を画期として、ヴィンデルバントの視線は、より広範に社会状況を概観するように転調をとげました。すなわち「ソクラテスについて」(“Űber Sokrates”in; Windelband,W.,1884(←1880),S.54-87.)辺りから、理性的立場を背景に、ヴィンデルバントは非-理想的、反-民主主義的、反-社会主義的、権威主義的哲学の方向に意を唱えるようになります。価値多元主義的転回の背景にはこうした社会的背景があったのです(Köhnke,C.K.,1986,S.426-427)。

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2016年11月20日

書誌訂正:以前の部分の訂正です。

Gr2,S.335にかぎって次のように述べられています。外延的多様のなか、内包的多様のなかから歴史的に本質的な部分を区別するさい基準となるのは価値関係の原理である、と。その点で選び出されたものは普遍的価値をもつのです。
価値関係の原理が歴史科学では、およそ本質的な役割を果たすなら、内包的多様の克服の場合と同様、外延的多様の克服のさいにも決定的でなくてはならない。〔中略〕それゆえ、価値関係の原理は内包的に多様な内容をもつ叙述にあたって決定的であるのみならず、外延的に見通しえぬ諸物体、諸過程一般から当該客観を選ぶにあたり決定的である」(Vgl.Gr2,334-335.太字はGr2のみ)。
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2016年10月26日

ジンメルのポテンツ=2017/5/17=2017/6/5=2017/10/26

 ジンメルは、新たに変容された主観概念にもとづき、アプリオリとして掴みなおした人格概念を、自己のうちへと引き入れるというわざを成し遂げました(Fellmann, F.,1994,S.310)。『貨幣の哲学』のなかで、彼は人格性を意識内容の「相対的な統一体」(Simmel,G.,1958,S.312=邦訳315ページ)と定義しています(Fellmann,F.,1994,S.310.)。相対的というのは、実体的な統一の代わりに、論理的に互いに矛盾すら孕む、多様な諸表象を孕んでいることです(Fellmann,F., 1994,S.310-311.)。ここで以下のように、人格性はもはや交換不可能な実体ではなく、その統一は、心理的にあまたに放散する束であることに叩膝されます。「〔心の〕統一がたんに多く〔=あまた〕の光線に分裂した場合にのみ、それらの総合を通じてその統一は、はじめて再びこのひとりの特定の人格として表示できるようになる」(Simmel,G.,1958,S.312=邦訳316ページ)として、擬-心理的な枠組みを打ち出しました。
 価値実在論をとるのか否かという大問題は、棚上げにせざるをえません。ただし排中律を前提にするなら実在論的枠組みと近づくでしょう。しかし、新カント学派学説史的には、主観的な価値の現われ=心理主義をイマジネールな踏み台としながら、同時に実体に即応する判断(=排中律)を、認める機制をとっていました。これを「分散するふり」と呼ぶことにしたいのです。「分散するふり」が可能であればこそ、価値認識論は、客観判断(実体主義)への背馳の危険を犯しつつ、つまり心理的には「嘘」・饒舌・逡巡しながら、――可能的な認識からの截り取り〔=決断〕を行うのです。それゆえにリッカートの「決定主義」は、実体主義と心理主義の必然的帰結と言えましょう。
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2016年09月26日

カント的自体的価値

 オニール は「「内在的価値」という言葉は、少なくとも三つの本質的に異なる意味」を持つことを指摘しています。
(1)「非道具的価値」(スティーヴンソン・クレプスの「内在的価値」)/「道具的価値」。
(2)「非関係的価値」(ムーア・ロスの「内在的価値」)/「関係的価値」。
(3)「客観的価値」/「主観的価値」。
 カントにあっては(3)の「客観的価値」を(2)の「非関係的価値」に還元したかたちでの自体的価値が考えられています。とはいえ、カントの議論は主観主義と客観主義の間を縫うて進みます。主観主義は、「善くないものを欲する」という現象が説明しやすいという外貌に対して、実はその反対であるという難点をもっています。というのも、行為者が誰であっても等し並の「善」を認めるならば、悪を欲する現象は説明しにくいからです。消極的な意味で自由にすぎない選択意志 (善・悪いずれにも向かうことのできる意志)は、道徳法則によって積極的な意味で自由(善意志による自律)となるのです。他方、合理主義的でない客観主義をとるとすれば、「本性的」善を立てず、「善」は対象に存するから、「自然な関心」は「善」と絶縁してしまい、「善」と「関心」との結びつきを、偶然的なそれとして処理せざるをえなません(subjectivism objectivismの批判はcf.CKE,p.225-226)。
 いずれにせよ主観主義・客観主義は、合理主義へと推転します。つまり、「この見解によれば、ある事物・事態を実現したり、惹起したりすることに〔目的論的に〕十分な実践的理由があれば、それは善い」(CKE,p.226)と見なされるのです。
 一方、「内在的価値」をとるアリストテレスは、価値源泉を「観照」を通して同定し、その結果、逆向きの因果的必然性=目的的必然性 を取り込みました。そのため、個人の「選択」は、世界に内在する物質的快の発見通じて、決定されるという構図をとります。あくまで、物質的快に引き摺られる傾向があると言えましょう(観照は快自身のために遂行されるCKE,p.233,もしくは観照的に快は認知される (CKE,p.229)アリストテレスにおいては、観照による〈快知覚〉が行為を選択せしめますcf.p.246)。とすれば、アリストテレスとの対比におけるカントの特質は、観照的生から活動的生への焦点の転換です。そのことは、たとえば「選択」の自由に現われています。とくにコースガード的カントの場合、既存の契約についての、反省的認証を通じ、つねに善意志とかかわりをもって、価値評価/価値付与がされてゆきます。これを通して、人格が理性により、みずから導き出した規範に従うこと、これが「構成主義」をなす。「私たちは最も完全に思える諸活動の価値評価/価値付与から実際、それらの価値を獲得するにちがいな」(CKE,p.246)く、その付与される価値は善意志によって構成される。「善は観照されえず、その代わりに私たちの努力によって創りだされる」(CKE,p.246)のです。すなわち内在主義=非関係主義といえども、主観によるFaktumの構成に定位します。かくのごとく、基本的にカント的倫理的価値は善意志=「内在的価値」に基礎を置きます。
 このさいコースガードの指摘するように、「内在的価値」の対極に「道具的価値」が位置づけられないことに注意しなくてはなりません。彼女は、オニールの(2)に即して、単純化された「外在的価値」=「手段」図式の更新を目します。「内在的価値」に対して「道具的価値」を位置づける図式には、「内在的価値」と「目的」の同視、「外在的価値」と「手段」の同視の両面が含まれるのです(CKE,p.250)。
 第一に「内在的価値」が「目的」に還元される場合、「快」価値を、「目的」から峻拒する必要がありましょう。というのも先にアリストテレス批判で見たように物質的快の系列は、「内在的価値」になじまないから(「内在的価値」は「欲求・関心」との結びつきを排除する。cf.CKE,p.255)、もしくは受動的に選択される価値は構成主義と接合しないからです。
 仮に第二に、「外在的価値」がすべて、手段(性)に還元されるなら事態はいっそう深刻です。「外在的価値」の体験は、関係性ゆえに「それ自身のうちに」価値をもつ(CKE,p.251)ものを前提しなくてはならないでしょう。「それ自身のために」価値評価/価値付与される体験を「快」とすれば、「快」自体が究極価値となります。他方、「花を美しいと眺めることに快を認める」という経験が、快を感じていないときでさえ善いとされるのなら(cf,.CKE,p.252)、「花を美しいと眺めることに快を認める」という経験は、外在的に「関係的」に価値評価されるにすぎません。もしここで「外在的価値」=「手段」という単純化した等式に固執するならば、「快」を含む経験は、「快」の「手段」ということになります(CKE,p.252)。しかるに「手段」という「外在的価値」以外にも、内在的に善い「目的」全体を成り立たしめる役割を促す「寄与的(contributive)価値」は、「外在的価値」をもつし、内在的に善い経験(例えば美感的快)を抱く対象(例えば絵画)は、「固有(inherent)価値」をもつという具合に、「外在的価値」は手段性/功利主義に切り詰めることはできません。二の論点として、「外在的に善いが目的として価値評価されるものという可能性」が残されることになります。その場合でさえ、善意志という「内在的価値」が嚮導的役割を果たすと言えましょう。
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2016年09月15日

超越論的心理学=2017/5/14=2017/6/1

中期リッカートは「認識論の二途」中で、前期『認識の対象第2版』(GE2)のごとき判断作用の分析から超越論的当為にいたる途を、「超越論的心理学」[=Transscendentalpsychologie]と名づけています。ただし判断作用から超越的対象に向かう分析の方向を指して、「心理学」と呼ぶのです。「類比的に「超越論的心理学」は心的実在の中の認識作用を扱うのではなくて、その「イレアールな意味」の中のそれを扱う」(Krijnen,C.,2001,S.303.) 。
 したがってふつうの意味での心理学的分析ではありません(Rickert,1909,S.190.)。ここでは、超越論的心理学の限界の指摘をとおして『認識の対象第2版』の自己批判を行っている点に注目しておきたい。すなわち超越的当為が、それに従う主体、およびそのわざ(実践)を前提としている点に批判が向けられます。
 「当為は純粋な価値ではない。それは命令であるから非存在者である。したがって当為は、これに従って是認し従属する存在、つまり主体を要求する」(Rickert,H.,1909,S.209-210.)。
 当為は超越的なものから垂れられるので、主体とかかわると変容をこうむります。当為という妥当ノエシス学が扱う対象は、対象が主観に向いた側です(Krijnen,C., 2001,S.320.)。それはラスクのように技巧化された対象ではなく、あくまでノエシスです。当為は主観化されているから、認識価値自体をではないのです。
 「妥当機能的分析は心的過程の「定在」に関心をもたない。――「その過程とはそれ自体で現実的〔なものだから〕である」。それはそれとして心的過程の遂行(機能)には、関心を寄せる」(Krijnen,C.,2001,S.366.下線イタリック。)。
 ここでの当為が或る種、実的(レールな)ものとして、捉えられていることが分かります。主観的恣意だけでは、認識課題を欠いており、主観的な認識といえども「対象の概念」が「統一性」をかたちづくるわけです。Krijnen,C.,2001,S.324よると、越論的心理学が到達しうる超越的当為とは、いわば私たちに向いている対象の契機であり、態度決定を迫るものです。
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2016年09月07日

価値ノエマ学=2017/5/9=2017/6/1

では、このノエマ学という価値論の見地から、リッカートの価値体系を査閲してみましょう(なお行為者中立性・観察者中立性・自己評価中立性ないしその、それぞれの反対概念である相関性は、活動の領域の価値〔ならびに遂行としての真理価値〕に対峙する振る舞いに根拠をもっています(九鬼一人,2016参照)。
 カントを指針とする科学論は、感覚に即応した無限の多様に正対して決定する。「悟性はみずからの領域の限界絶えず踏み越え(……)、妄想と幻惑に迷い込む」場合は叱責を受けなくてはなるまい」(A238./B.297.つまりかくも多様な経験への志向がある。)。vita cotemplativaとvita activaというアリストテレス以来の二分法に即すなら、知的良心の前で、自律的な態度決定を行う主観は、活動領域を参照しています(Vgl.Rickert,H.,1913b,S.298.)。無限の経験に対峙するカントは、汲めども尽きぬ認識の多様を、決定を以て切り取るリッカートにほかならなりません。無-限的全体(Rickert,H.,1913b,S.302.)=行為者相関的/自己評価中立的認識論の卓越性・人間の有限性の自覚・根拠の非完結。このさい認識の材料は「汲みつくしえない全体」(Rickert,H.,1913b,S.302.)へと向かいます。
 それとならび立つかたちの倫理的領域では、「自己評価中立的」(SN)な徳行為をエンドクサとして認めつつ、あえておのれから選び取る構造を意味しています。例えば倫理的なFaktum(「ライオンに人を食べさせるのは残酷である」)があったとして、それを選び取るか否かは、一種の自律に左右されるでしょう。「その〔倫理学的〕領域とは、とにもかくにも自由意志に即して「法則」に従う「自律的」人格性の義務自覚的な意志の領域である」(Rickert,H.,1913b,S.311)。つまり抑止意志という善意志に背いて、なお悪を選び取るところに、「行為者相関的」(DR)な「選択」の余地があります。「選択」した「目的」にあらがいながら、なお善を意志しているという構造に、善意志が卓越する根底(人間の本有的なロゴスの尊重)が求められるのではないでしょうか。つまり可想界に定位する無限性 を認めえます。無-限的全体=行為者相関的/自己評価中立的=道徳の卓越性・人間の有限性の自覚。「倫理的という点では異なる全領界も、同じく、汲めどもつきない」(Rickert,H.,1913b,S.312-313.)。
 この有徳で完備的な人間像の後退に伴って、いわゆる合理化が出現するでしょう。それに伴う第二の自然の析出は、徳における不一致をもたらします。すなわち、近代化に伴う世俗化の昂進が、倫理の普遍化可能性に抗して傾向性をもち込み、価値の世俗化を来たすのです。そこで前者の可能性によって、欲求や利害に対する公平性は補償しえないという〈経済的〉事実に直面します。――かくして成立する価値にかんして、カント研究者コースガードの見解は、両義的です。それは外在的である以上、「目的」でありながら、「手段」のなかに組み込むことができるとします。「目的-手段文脈に応じて、外在的目的は、「目的」になりうる。それを「外在的手段」の派生形態として捉えることを提唱したく思います。コースガードが展開しているのは、まさに経済活動で中心となる「交換価値」に現われる、第二の自然という人間の価値的な要素に言及したものと考えられるからです。
 コースガードの考察を見てみよう。彼女は「道具、お金、アルバイト(chores)」(Korsgaard,
Christine,M.,2004(←1996),P.250.)の例を出しています。ところで「万年筆」が内在的に善いと主張することはできないでしょう。万年筆は筆記のための手段(使用価値)に即して外在的に善いと判断されるからです。ところが、象牙の万年筆であるなら、物象化により目的が自存化せしめられて、高く評価されます(交換価値)。象牙の万年筆が高価なことは、「手段」の物象化・第二の自然が生んだ制度的な事実です。第二の自然は、こうした経路を通じて、「目的-手段」系列を完結せしめるでしょう。つまり――非帰結主義の枠内で合理性を追求しようとすれば、「行為者中立性」(DN)が候補となりえます。その場合は「利」に傾斜するから、一種の経済的合理主義 に変貌するのです。仮に「自己評価中立性」(SN)も負荷するなら、「観察者中立性」(VN)が帰結してしまうから、このさい非帰結主義の枠外に出ぬかぎり、「自己評価相関性」(SR)を課さなくてはなりません。幸福を扱うリッカートの「非倫理学的」な愛の学が指示される所以です。完-結的部分=行為者中立的/自己評価相関的=経済の非卓越性・物象化による「目的-手段」系列の完結。「私たちは完-結した現在的生を一つの特殊な領域として画定する場合には、……人格的で活動的な社会的な定在(ダーザイン)のみ、私たちはかかわる」(Rickert,H.,1913b,S.316.)。
 これら活動系列の最終審は、倫理学を裏打ちする卓越した宗教論に求めざるをえません。例えば、中島義道,2011は、「自由に因る因果」におけるアンチノミーを責任論的解釈ではなく、むしろ実在的解釈の見地に立って解決しようとすることと平仄が合います。「自由が単なる理念ではなくて実在するのなら、この可想的因果性(自由による因果性)も実在的でなければならず、矛盾なく想定できるに留まらず、現象界における私たちの具体的行為に実在的な作用を及ぼすものでなければならない」(中島義道,2011,121ページ)。したがって「可想的因果性は行為の現場、すなわち「いま」行為が実現されつつあるとき、確実に作用している。しかし、それをあとで認識しようとすると、それは自然因果性の一項(現象)に姿を変えてしまう」(中島義道,2011,147ページ)のです。「自由に因る因果性」は、可想界から現象界への実在的な因果連関(第三アンチノミーが想定するそれ )に求める必要があるでしょう。この論点を先導するかたちで加藤は、実践的に善を選び取る可能性を、『宗教論』に委ねるべきであろう、と述べています(加藤泰史,2015,一三-一四頁)。かくして完-結的全体としての最高価値は、人格的聖価値に求められることとなります。
 「この宗教は、生が個人の部分的な価値から育みえない価値を生に与えることによって、現在および未来の生を支え、確固たるものとする。永遠なるものが時間的なものへ、神的なものが人間的なものへ、絶対的なものが相対的なものへ、完-結的なものが終結なく有限的なものへ、人格の全体が部分へと持ち込まれるのである」(Rickert,H.,1913b,S.320-321.)。
 これらは評価関与的な態度決定的構えに基礎をおいているのです。

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2016年08月09日

ジンメル〜ヒューム:分散するふり

ジンメルは、新たに主観概念を組み替え、アプリオリとして掴みなおした人格概念を、自己のうちへと引き入れるという業(わざ)を成し遂げました(Fellmann,F.,1994,S.310)。『貨幣の哲学』のなかで、彼は人格性を意識内容の「相対的統一」と定義していたことが思い出されます(loc.cit.)。相対的というのは、実体的な統一の代わりに、論理的に互いに矛盾すらしている、多様な諸表象が統一される心理的な過程のさまを意味しています(loc.cit.S.310-311.)。人格性は、もはや交換不可能な実体ではなく、その統一性は、あまたに放散するのです (『貨幣の哲学』Philosophie des Geldes,1958,6.Aufl.,S.312.)。
 まずこの人格性に即した、ふり(feign)をヒュームから引いておきたい。ウィリアムズ(Williams,C.,1999,p.3)の言うように考察を一時中断し、迷路に陥ることを回避する「不合理主義的」懐疑の態度として、ヒューム的ふりを捉えることにしましょう。とくに「現われるままの現象を肯定すると同時に、それを反実仮想的に把握する理性」、これを「分散するふり」と呼ぶなら、ジンメルとの接点も見えてきます。
 というのも、これは近代的な人格概念の刷新を意味しているからです。坂部恵が言うように、ある自律的〈人柄〉となることは、「自我の理想としてのイデアールかつイマジネールな〈他者(ひと)〉の〈ふり〉を〈まね〉〈まねび〉〈まなぶ〉、〈ひと〉の〈ふり〉を見てわが〈ふり〉をなおす、〈ふりつけ〉、すなわち内受容的・無限定的な直接性から想像的・象徴的場において〈他者(ひと)〉へとのりこえ、そのいわば述語規定によって、みずからを限定することなしにはありえない」 。つまりロック的な人格概念を換骨奪胎して、「相対的統一」としての人格性による〈ふり〉に定位して、「自律」を理解することができます。
 ここで道徳的現象を把握するレベルと、道徳的に対する反実仮想的把握のレベルとの、二つのレベルが区別できる。例えば「痛みという概念を知らない部族」にとって、「痛みのふりを装う」ことはできないでしょう。痛みの直覚なくして、痛みについての反実仮想は、意味をもちえません。「ふり」の反実仮想は、直覚とは異なるレベルを同時に予想します。「ふり」ができることは、「二つのレベル」を前提にする。ジンメル的に言えば、あまたの態度に拡散しつつも、その間隙へ入り込んでくるのが「ふり」なのです。道徳判断に即せば、差し詰め「ふり」の場合、痛みの直覚がなくしては痛みのふりができないように、美徳の現われがなければ美徳のふりすらありえないということになりましょう
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2016年07月31日

転移するロゴス=2017/5/14=2017/6/1

 前発表論文では、論理的次元から心理的次元の移調を考えていたため、転移するロゴスになっていた。が、今回は対応説から決断主義(承認説・・・決断の含意は極力避けた)へのディルタイ的転移を主題とします。今年中には書き終えるつもり。neukantianismus_versin4.pdf続きを読む
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2016年07月13日

ヘーゲルとリッカートの共通性=2017/5/5=2017/6/1

Krijnen,C.,2002,Absoluter oder kritische Standpunkt?Das Methodologisch-genetische Problem das Anfangs der Philosophie bei Hegel und Rickert.
 第一。個別科学は対象領域に制約を受けており、非反省的前提というものが要求されます。他方、哲学は”原理論的に”[=prinzipientheorethisch]理解された全体科学であって、集塊的全体ではなく、具体的総体性というイミで全体を規定します。本質的な諸連関のために、相関項の抽象的対立は止揚されるのです。それに対応して直接知に定位する直観主義・感情哲学等は否定され、対立の看取にとどまらぬ「概念」[=Begriff]に即して、それへの携わり(アルバイト)として学は、捉え返されることになります。
 第二。論理学を対象性の論理として規定しました。それにおいて、思考の客観性が取り扱われるのです。その思考の客観性は概念にうちに存するのですから、リッカート/ヘーゲルにとって意識哲学的に定式化すれば、思考の客観性は「概念」、つまり自己意識の統一のうちに存しています。
 第三。形式的もとづけモデルを拒絶します。類概念を抽象的に捉えることをしないヘーゲル/リッカートにとって概念は、具体的なものの可能性の条件であると見なされます。形式は対象性の原理としての思考そのものです。理論的理念の構成的な機能を拒絶するカントをさらに発展をさせて、認識の最終的もとづけに携わろうとする・・・そうして首尾一貫して貫徹された超越論的観念論として哲学を理解しました。
 第四。認識機能的な論理の必然性は、内容をもつ対象知であらんとする認識の要求と結びついています。思考は認識と認識批判のかかわりを包括するのです。あらゆる対象性の原理として、思考は自分じしんのうちに思考を規定するものを含んでいます。したがってヘーゲルもリッカートも概念の真理を問い、概念のうちに含まれているものとしての、存在に係留します。主観-客観区分は、認識関係の外部で対立するという極端な両者のかかわり方とは、まるきりちがっています(認識機能的なかかわりである)。認識関与的な思考じしんが差異を孕み、そこから思考と対象とが派生するからにほかなりません。意識の外にある、即かつ対自的なSinnを語ることはできなません。即自とはつねに思考を内在的に規定することです。
 第五。対象的論理は原理論的論理です。その論理は、たんに分析的のみならず、総合的でもあり、抽象的のみならず具体的でもあり、外的連関をもっているのみならず、連関に必然的に内属しています。
 第六。知の妥当の問題は、二重の相のかたちをとりました。つまり真理と確実性(ヘーゲル)、認識の対象と対象の認識(リッカート)、存在とSinnという問題位相です。論理的なものの具体化は、客観的性の根拠としての思考で、もとづけられます。もとより、思弁的なヘーゲルと批判的なリッカートのちがいはあったが、思考が根源の原理として働いていました。
 第七。対象の規定と、知のなかで意識された規定とは、もはや対立することはありません。かくのごとき知の妥当規定性は、知に内在する規定性として把握されざるをえないのです。そこで両哲学者では、体系という内在的な径行き(ディダクツィオン)(『精神現象学』の「絶望の径行き」!!)がとられることになります。
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2016年06月04日

Reiner Wiehl論文SEMPER APERTUS(3)(続く)=2017/5/4=2017/6/1=2017/10/25

 ハイデッガーの「ニーチェ」、ハイデルベルク的伝統の外側に位置するものの、新カント学派の価値哲学のもつ位置価を秤量する、手段となりえます。1915年に教授資格論文を提出した彼は、もっぱら、ニーチェに価値哲学の尊称を授けています。歴史的なヨーロッパの事象たる、虚無主義の由来を抽出することによって、従来の価値の顛倒という思索のなかに、価値存在を発見し、そうして存在者の存在を価値として思考したのです。ニーチェは西洋形而上学の完結と克服とのはざまの思索領域に足を踏み入れた最初の人物でした。新カント学派は彼に教えを垂れるということはありませんでしたが、比類のない寄与をしたことも確かです。すなわち心理主義・生物学主義に対抗し、本来的で唯一の哲学として、哲学ないし哲学的問いの本質についての真の知の痕跡を授けるという役割を果たしたのです。リッカートは後年、彼の思索の覚醒した力動感Lebendigkeitを認めています。リッカートは生の哲学の非合理的特徴に心穏やかならぬものを感じたならば、それならばいっそうきっぱりと、概念の内に存する思考、西洋的合理性、ないしヨーロッパ哲学が作り出した学問的論理に対して限界を徴づけなくてならないでしょう。その主題は科学的実証主義の批判であり、自然主義と歴史主義の批判に向かうのです。他方、ヘーゲル的なスタンスを継承しつつも、『20世紀初頭の哲学』に見られるように、学的専門化に対峙して、学問を超えた学としての哲学が模索されました。そのさい、文化的形象に接する、もしくは歴史的個体に接する導きの糸となるのが、可能的批判の条件となる実践的な評価であり、進歩する人類にとっての文化価値という絶対的価値です。このさい注目すべき事柄として、ヘーゲルの論理学と哲学史をなぞるかたちで、体系が構想されたということです。そのことはヴィンデルバントが、前掲著において、論理学と哲学史の項目を担当していることに端的に現われています。哲学史は進歩する精神の自己認識です。この歴史哲学的な問題は、新カント学派の哲学体系の課題となるのです。S.419-424.続きを読む
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2016年06月01日

Reiner Wiehl論文SEMPER APERTUS(2)(続く)

 リッカートが考えていたのは、決してロマン主義的な一回的な個体ではありませんでした。芸術自体の有意義性を求める努力、ないし進歩への認識の努力がハイデルベルク的伝統においては、キルケゴールやニーチェの追従者と拮抗するかたちで考えられていたのです。ヤスパースはリッカートとヴェーバーの間に立ち、ヴェーバーが哲学者であるかについて意見を交えましたが、それは異なる哲学の本質を前提にしていたために生じた軋轢でした。かくのごとく諸学派に翻弄され、個別専門家学にあらがって、西南ドイツ学派は価値哲学を彫琢してゆこうとしました。つまりリッカートは19世紀中葉、古色ある新カント学派を、専門哲学の狭隘から解き放ち、哲学をもっぱら認識批判の形式、批判的認識論として有効ならしめんと寄与したのです。
→転移するロゴスneukantianismus_versin4.pdf続きを読む
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Reiner Wiehl論文SEMPER APERTUS(1)(続く)=2017/5/4=2017/6/1

 ハイデルベルクの伝統にはDenkerとして、クーノー・フィッシャー、ヨハン・エドゥアルド・ハルトマン、エドアルド・ツェラ―等、枚挙にいとまがありません。
 1931年6月9日の講演で、リッカートは哲学のハイデルベルク的伝統に言及しています。それには、カント主義・ヘーゲル主義の差異の彼岸に共通性、つまりドイツ観念論の哲学的伝達に即した統一的根本志向に認められるます。ヘーゲルに従ったハイデルベルク的哲学のこの統一的歴史的志向では、リッカートは実質的な哲学的共通性、すなわち歴史的・体系的思考の結合をもたらしうる形式を端緒とすることに信念をもつ共通性を認識していたのです。かくしてヘーゲル哲学の基本意想が生かされました。「哲学の歴史」と「歴史と体系の結合」というモットーに並んで、学という言葉が添えられたわけです。これはリッカート哲学の学的性格と密接に結びついています。続きを読む
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2016年05月22日

ジンメルのニーチェ解釈(2):備忘録=2017/10/25

『ジンメル著作集5 ショーペンハウアーとニーチェ』吉村博次訳,二九○頁。
 
ニーチェの理想の独自性―これについては、とりわけそれらの理想が高貴性の理想において合流しているということが確証しているはずであったと思うが―には、責任の感情が、これを統合する絶対的に本質的な一成分として結びついている。あらゆる善良な貴族階級は、他の人間に対してでも、外部から与えられた法に対してでもなく、自分自身に対して責任があるという意識によって、彼らの特権を単に享受することから免れる。ただ自己の存在の理想のなかからだけ湧きだしてくるこのような責任感は、まさしくニーチェが、みずからの最高の手本たちの高さと同一の高さをもつという、人類の概念によって解釈してみせたものである。その場合彼は、「一切が虚偽であり腐敗している」既存の貴族制を理想として把握しているわけではけっしてないのであるが。

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2016年05月21日

あまりニーチェの思想を正しく捉えているようにも思えぬのだが・ジンメルのニーチェ解釈=2017/10/20

吉村博次訳,1994,『ショーペンハウエルとニーチェ』『ジンメル全集第5巻』、落穂ひろい。
 
人類?の生はあらゆる瞬間においてまた社会的な生であるということ、社会的な--というのはすなわち、個々人の相互作用のなかに一切の個別者の被限定性を求める--考察方法はあらゆる瞬間になんらかの仕方で人類に対しても適用されうるということが意識されるようになったということ、このことが社会的な実存の形式と人類一般という事実とを同一視する方向へ誘っていったのである(邦訳,248頁)。

 ジンメルの場合、社会の枠が先取されていてからこそ、その中での自我の発展が、人類一般の発展と一致するのです。それに対して、ニーチェは、虚構の枠として、認めていたのに過ぎなかったのではないでしょうか。続きを読む
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2016年05月20日

ジンメルのニーチェ解釈(1)=2017/6/1

吉村博次,1994,『ショーペンハウアーとニーチェ』『ジンメル著作集5』白水社。
 
「第七講 人類の価値と頽廃」ニーチェは、ますます完全になってゆくもろもろの個人を通して、というのはつまりそれで個人のうちで、個人としての発展がなされるがごとき、人類という理念によって、これ〔つまり絶対的な価値の担い手たる完成された人格性を、定在の広範な意味・目的構造のなかに組み入れること〕を成し遂げる。

 人類の理念のもとに、個人の自己発展が組み入れられます。社会的な/相互作用的ななかかわりのなかに、一切の個別者の被限定性が求められるのであります・・・個人は社会によって理念的に制約されるわけです(邦訳,247-248ページ)。
 或る種の間主観性を読めますが、いくぶん退嬰の趣きがあります。続きを読む
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2016年05月13日

ジンメルの問題系=2017/10/20

廳茂,1995,ジンメルにおける人間の科学、第四章 科学と倫理 落穂ひろい。
 
EMT,S.54で当為とは「純粋に形式的な性格」しかもっていないと捉える。それはいっしゅ「心理学的機能」(EMU,S.310)である。この二点でリッカートととも類似する。ただし、リッカートのそれは絶対的に妥当し、相在とかかわるゆえに、超越的な性格をもつ。カントの言う自律とリッカートの自律は、前者が定言命法の遊域で作動するがゆえに、後者リッカート的截り取り的可能性と変わって来る。またジンメルの目的論的構図は、リッカートの定義論にも色濃く表れている。ジンメルが志向したのは人間の学問における倫理と科学の関係づけの視点を保持する方向である。廳氏によれば価値自由論的に追求されたというが、いささか価値自由論の意義がヴェーバーと異なっている気がする。
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2016年05月04日

ゲーム合理性とカント=2017/10/18

滝沢正之「カントにおける行為の自由と合理性」『現代カント研究13』晃洋書房。
 
ゲームの実践の二つの側面に対応して二種類の合理化を語ることができ、他行為可能性と自律は、その二つの合理化のそれぞれに属している。他行為可能性は、ゲームの指し手について語られ、自律はゲームをすることそのものについて語られる。

 自律的か否か、という論点は、そのさいの理由が感性的欲求に言及していないときのみに限られます。したがってゲームの指し手の善し悪しという感性的条件に踏み込むなら、それは仮言的となる、と滝沢氏は理解しているようです。
 しかし意味的に他律的な善し悪しを超え、反則ができない(犯則を行えばゲームの埒外に放擲され、事実可能であれ、意味的には可能でない)、というウィンチ流の論点を盛り込めば、感性的条件をたとえ含んでいたとしても、ゲームに対して構成的な義務(意味的に縛るという意味で)を考えることができるのではないでしょうか。ただし滝沢氏のようにゲームの感性的条件を盛り込んだ規範は、カントにとって鬼子のようにも思えますが。(怜悧の命法の原像が思慮の命法とが癒着していたことに思いを馳せられる。ヒンスケ)
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2016年05月01日

Krijnen考究:84

Krijnen,Ch.,S.318以下。Rehabilitation der Geltungsnoetik妥当ノエシス学の優位。
 この箇所の相関関係の議論は、そのままリッカートに妥当するようには思われません。異定立の原理を、そのまま超越的当為に当てはめてよいものでしょうか。
 客観的対象の主観的側面が超越的当為であるとすれば、ノエシスがノエマに劣るということはないでしょう。もとより認識に〔相対的に〕独立な「超越的意味」としての価値は、当為から遡及されねばならないにしても・・・・。
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2016年04月29日

BewertungとWertung=2017/4/20

 野崎敏郎氏のヴェーバー研究ではBewetungを価値査定と訳し、特定の問題関心および観点からみたとき、その歴史的意義を評価することと定義されます。またWertungを価値選択と訳し、価値査定のうち、そうした評価を評価者が内面化し、それを自己の思考基準・行動指針としていることと定義されています(佛大社会学第40号2016、注4))。
 氏の綿密なヴェーバー文献考証に対しては、もとより蟷螂の斧でしかないのですが、BewertungはヴィンデルバントのBeurteilungを踏んでいるものと思われます。すなわち判断一般の基底にある、態度決定を含むでしょう。Beurtilungは否定判断論を参照してみればわかるように、最広義の態度決定に対応しています。 Wertungは実践的評価でよいと思うのですが、一、一方では文化科学特有の個体形成論理である価値関係の基底にあり(何を科学という実践において重要視するかの原理)、二、他方では、実践的勧告案の推奨につながる評価ともなりえます。つまりWertungは狭義の実践/行動の指針でなくても、観照的な生き方に思想的に共鳴し、それを(広義の実践的に)評価するような場合を含むのではないでしょうか。少なくともリッカートはこのような意味での広義の評価をWertungと呼んでいます。そう考えないと、野崎氏の言うヴェーバーの価値選択=評価、すなわち(学問営為における実践的評価としての)価値関係という読みは成立しないのではないでしょうか。ちなみに価値査定という訳は、照会的価値を連想させ、その点からも適切な訳とは思えません。続きを読む
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