2015年11月16日

バウムガルテン美学

 以前書いた文章が、標準訳を踏まえていなかったので、訂正しておきます。
「バウムガルテンにおいて「麗しき美しき精神」(麗しく、しかも洗練された生得的天性)そのものである詩人に「美しい思惟」の尺度を授けるものはことごとく「主観の自己陶冶してゆく王国、ないしはそれからの芸術の基礎づけ」に帰属している。すなわち「恵まれた文学者の麗しき美しき精神そのもの(天性【インゲーニウム】、天賦の才【ジェニー】)が、創造的なものの原型なのであって、魂全体つまり感情や感覚の、鋭敏さ、判断力、趣味、想像、明敏さ、記憶力、高次の思惟や感覚、心根や心意の大きいこと、情熱」と親密な関係にある。バウムガルテン『美学 』松尾大訳、玉川大学出版会、一九八七年、第二八―四六節(原著は第一巻、一七五○年、第二巻、一七五八年刊)。それとほぼ一致して、バウムガルテン『形而上学』第五一九―六二三節には、感性的認識、すなわち下位認識能力として、感覚、再生的想像力、鋭敏さ、記憶、創作力、予見、判断、予知、表示能力を数える」。Historisches Wörterbuch der Philosophie,Band I,S.556.1971
posted by 9ki1to at 05:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月13日

柔らかな道具主義:改訂版2015.11.13

 塩野谷祐一氏の左右田論に対するリプライです。カント倫理学との関係に触れました。
柔らかな道具主義.docx
posted by 9ki1to at 05:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月26日

ディルタイの価値/リッカートの価値=2017/4/7

ディルタイは価値判断/規則のGeltungを認め (Vgl.Bd.24, C:S.227,S.233,usw.)、〔現実判断ならざる〕価値判断は、それ〔=対象〕をなお前提にしつつ(Vgl.Bd.24,C:S.229,usw.)、相対的に生の連関から自由になってゆきます。ただし、「生価値は規範をまったく含んでいない。生価値にかんする判断は規範的ではない」(Bd.24,C:S.237.= C束52.243.)以上、ディルタイ的「照会規準」としての価値は、リッカートの真理構成的な〔規範の〕妥当要求と雲泥の差があります。
 リッカートの立場は、ディルタイとは対照的です。感情が超越的Bedeutungをもつ価値の徴[=Kunde]をいかに知らせるかという問いに、彼なら次のように答えるでしょう。当為のBedeutungを否認すれば、拒斥をなすことになるし、他方、個人にとって有効な判断であれば、価値=当為の承認をなしている、と(Bd.24,S.279.Vgl.GE2,S.126,S.128-130,S.139.)。つまり決定〔断〕が要諦ということになります。裏返せば、生の背後に、価値を遡及しているのです。――たしかにリッカート的な志向は、生の背後にある実在という謗りを免れえるでしょう(意味の第三領界)。また、その師ヴィンデルバントが価値へと舵を切ったのは、生の意味を守るためでした。何よりリッカートの場合、超越的なのは客観的効力をもつ価値であります。
 とはいうものの、リッカートの作用は、ハイデッガー的な世界内的《予め構造》に比べて、価値連関を自存化せしめる一方で、価値[=Geltung]は生の背後に退引して[=entziehen]います。すなわちリッカートの場合、〈歴史内在的〉志操が希薄だったのです。そのことは後年の『哲学体系』(Rickert,H.,1921)が第一部で中断し、〈歴史内在的〉論理を組み立てられなかったことからも明らかでしょう。とかく新カント学派といえば、学の哲学として、「生の哲学」と対置されてきました。この見立ては、譲歩のうえでも、受け入れざるをえないことになります。
ディルタイは、認識価値といい、現実判断への移り行きの把握といい、リッカートとはまったくことなっている。現実判断たるものは、諸価値判断とまったく別の構造連関で表現されるとしている。ここから認識価値(Bd.24,C:S.248.=C束.52.237-240.272にも留意。Schrammの筆記ではC束.52.233.誰の手になるかわからぬ手稿の有る由。自然の支配/社会的生の統握と遂行の理念的契機/知的関心と職業の結びつき等)が生じる。他方、現実認識の過程に伴う感情は、認識主観の生動性全体との生の連関を介して、「認識という役目に根拠づけられる」。認識過程の価値を定式化するということは、生の連関の関与から帰納的にえられる至上の原則である。かくのごとく帰納的プロセスを介しているのであり、それによって知の価値は集約される。
続きを読む
posted by 9ki1to at 05:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月03日

ディルタイの価値/リッカートの価値=2017/4/2

 ブレンターノと同様、西南ドイツ学派においては判断の対立性が強調されます。そもそもブレンターノにおいては、表象作用には対立性がないのに、判断作用には肯定/否定、情意作用には愛/憎という対立性があり、判断作用と情意作用とが関連するのです(Brentano,F.,1921(←1889),S.17.とくにsec.21,sec.22)。論点は判断論が決定/決断主義をもつことにわたる。ディルタイに言わせれば、判断は〔価値についての言明ではなくて〕実在についての言明、「所与性」〔特殊ディルタイ的な所与・所与性の用法は括弧にいれる〕に即した概念(現実の「所与」間になりたつ論理的関係の表現)ですから、肯定/否定という〔評価的〕決断は二次的なもの[=sekundär]とされます(Dilthey全集,ドイツ語版,Bd.24,S.276.)。
 のみならず、肯定的判断がもつ明証性の意識が、快・不快のイミで感情であるという誤った主張を、リッカートのそれは含んでいます(Bd.24,S.276.ディルタイにおいて、思考の正しさと明証性とは循環関係と見なされるのです。日本語版『ディルタイ全集』第3巻、三〇一頁,三〇六ページ)。認識作用はリッカートの言い方に従えば、感情価値[=der Wert der Gefühle]の承認(/拒斥)ということになります(Bd.24,S.277.)。フィヒテ主義といわれる所以でしょう。この点、或る程度の類縁性をディルタイに認められます。ディルタイは、「価値は感情から生じる」と考えるからです(Bd.24,S.277. 日本語版『ディルタイ全集』第4巻、五三頁、五七ページ参照)。彼による価値規定を継時的にすでに辿ったことがあります。
 リッカートの立場は、ディルタイとは対照的です。感情が超越的Bedeutungをもつ価値の徴[=Kunde]をいかに知らせるかという問いに、彼なら次のように答えるでしょう。当為のBedeutungを否認すれば、これを暗黙裡に認める判断では拒斥をなすことになるし、他方、個人にとって有効な判断であれば、当為の承認をなしている(Bd.24,S.279.)、つまり決定〔断(?)〕を及ぼすことになってしまうでしょう。裏返せば、生の背後に、価値を遡及しているのです。――たしかに師ヴィンデルバントが価値へと舵を切ったのは、生の意味を守るためでした。またリッカート的な志向はディルタイ的な生の背後にある実体という謗りを免れえます。生の背後にモノしか認めないのならディルタイ的な批判が当たりますが、超越的なのは客観的効力をもつ価値です。したがって超越的価値は、仮象以上の身分にあります。
 とはいうものの、リッカートの作用は、ハイデッガー的な世界内的《予め構造》に比べて、価値連関を自存化せしめ、価値=Geltungは背後に退引Entzugしています。すなわち「生の哲学的=歴史内在的」志操を、リッカートがもちあわせていなかったのです。そのことは後年の『哲学体系』(Rickert,H.,1921)が第一部で中断し、歴史内在的論理を組み立てられなかったことからも明らかでしょう。とかく新カント学派といえば、学の哲学として、「生の哲学」と対置されてきました。この見立ては、譲歩のうえでも、受けいれざるをえません。
 ディルタイは、認識価値といい、現実判断への移り行きの把握といい、リッカートとはまったくことなっています。Bd.24,C:S.248では、現実判断たるものは、諸価値判断とまったく別の構造連関で表現されているとしています。ここから認識価値(自然の支配/社会的生の統握と遂行の理想的契機/知的関心と職業の結びつき等)が生じるのです。他方、現実認識の過程に伴う感情は、認識主観の生動性全体との生の連関を介して、認識の身分に根拠づけられています。認識過程の価値を定式化するということは、生の連関の関与から帰納的にえられる至上の原則です。かくのごとく帰納的プロセスを介しているのであり、それによって知の価値は集約されるのです。
続きを読む
posted by 9ki1to at 05:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月18日

リッカートの現実/価値解釈

 現実=価値解釈。これは前期リッカートではとりえぬ解釈ですが、中期・後期の実在論的リッカートに、或る程度の妥当性を見いだすことができます (たとえば価値概念が実在であることを述べるくだりを深読みすることができます。GE2, S. 117.この箇所は第1版,1892年には見られません)。つまり当為という促迫を「実在の声」と捉える途です。もとより「現実」が超越的現実ではないとしたところで。「実在の声」は、――1920年代以降だが――イデアールな価値序列と並置して、財というレアールな「現実」のかたちで、価値を「化肉せしめる」。そこに強い度合いの実在論を見いだせるのではないでしょうか。
 「現実」(性)は〔超越論的主観の〕思考の形式であり、そのように成立した「現実」は、「経験的主観に対して独立である」(GE2,S.221-222.)。すなわち、この「現実」について、経験的実在論(前科学的個体をベースにすれば)が成り立ちえます。経験的現実も、この文脈(GE2,S193-194.)で解すれば、「現実」という〈比類のない実在の強度〉を表わしているものとも解しえましょう。当為が「現実」を構成する以上、「現実」は一種、価値概念と見なせるわけです。ただし財=「現実」という論点が繰り込まれるのは、内在的Sinnが包摂される中期の転回を待つわけであり、価値と財を対で扱うディルタイとの懸隔は覆うべくもありません。質料としての知覚から構成されてゆく、所与としての「前科学的個体」たる「現実」→学的個体たる「科学的概念」の構成。
reality.jpg
posted by 9ki1to at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月30日

準備・最終調整

 ヤバい・・・質料と所与の定義がごっちゃになってしまった。質料→所与→概念という系列を考えています。
質料から概念へ ━Aに関連してSinnを論じよう。これは本来、リッカートでは「問い」として扱われてきたものであったが、のちに述べるようにSinnが横溢した個体、つまり前科学的世界=形式媒介的所与〔の集まり〕が、学的態度決定に対しては未確定な「問い」の役割を演じる。
彼の、所知構成の二系列を簡潔に定式化しておけば、次のごとくまとめられる。
■『認識の対象』系列
1. 経験的に与えられた直観の多様(「知覚」)がある。知覚表象〔の断片〕に態度決定を及ぼして、「所与性の範疇」を帰属させ、個々の【このもの】が成立する段階(GE2,Kap.5,U.)。リッカートの場合、非論理的質料が想定されていた ともいわれる(Rickert, H.,1921,S.53;1924a(←1912),S.13.) 。判断によって形式が与えられることで、【このもの】が構成される。〔すなわち感性の多様の混沌、もしくは知覚表象の断片は、それ自体、判断以前に属するものであり、経験的【このもの】にまで上昇できない。〕内容それじしんは非論理的という論理的位置を指し示す「内容性の形式的契機」”der formale Faktor der Inhaltlichkeit”(Rickert,H.,1924a(←1912),S.13; Rickert,H.,1921,S.53.) であって、論理的思考に欠かすことはできない。すなわち論理的な形式なくしては【このもの】の認識ということがありえぬ。これはちょうど所与性の範疇によって表象が規定されることと符合している。
2. 【このもの】に「構成的範疇」(因果のカテゴリーはこの次元で働く)が帰属し、「現実」が構成される(GE2,Kap.5,V.)。『認識の対象』第2版(GE2,Kap.5,U/V.第2版以降の諸版でも同様)では【このもの】以後的に「現実」を置いている。つまり「超越的当為」に従い、【このもの】に「現実」(性)という形式、ならびに「構成的範疇」〔時間、空間、個別的因果性の形式〕が結合して、「現実」が構成される。「所与に客観的現実性の形式を与え、そうして客観的現実を構成する諸カテゴリーを、構成的範疇と名づける」(GE2,S.211.)。
3. 「現実」に、普遍的価値が関係し特定の観点から【客観】(因果法則性はこの次元で働く)を概念媒介的に抽出する。「現実」から【客観】が成立する段階(GE2,Kap.5,W.)である。認識がなされるなら、多様からの改変[=Umbildung] (GE2,S225-.226.)を被ることになり、「現実」から離れる。「或るしかじかの法則に従っていること」は、認識様式に対応したものである。それ故、この様式は「構成的範疇」と区別して「方法論的形式」といわれる。
■科学分類論系列
 これとは別様の議論として、科学分類論系列の所知構成論があります。すなわち最基底に現実という多様をおき、そこから現実ならざる概念が構成される議論です。たとえば学問分類論にわたる批判として、ディルタイは次のように指摘していました。リッカートの現実科学とは歴史学のことであって(Bd.24,S.286.)、内容が普遍的概念からなる自然科学とちがっています。それゆえリッカートは自然科学を勝義の学問とは見なしませんでした。現実的なものは特殊であるというのが、その根底をなす考え方であり(Bd.24,S.285.)、このさい(とくに自然)科学的概念はいっしゅの虚構と見なされています。
1. リッカートは「現実」として、意識内容中、特殊なものを考えている。「現実」は模写によって尽くせない(Rickert,H.,1910, Kap.X.)。以下は「異質性と連続の結合」をとく、リッカートの『文化科学と自然科学』第2版のくだりである。Gr1.S.34/Gr2.S.32を参照のこと。
(ア) 「連続は、それが同質なら即座に概念によって支配されうるし、異質なものは、私たちがそれを截り出すとき、つまりその連続を非連続へと変化させるとき、理解されうる。こうして学問には、その途として概念構成の二つのものもまた、明らかになる。私たちは現実すべてに挿し込まれている異質的連続を、同質的連続か、もしくは異質的非連続に変形するのである」(Rickert,H.,1910,S.33.)。〔この箇所は第1版1899年には見られない。〕
2. 前科学的価値が関係するせいで、構成の主観性が問われる(注16.参照)。前科学的個体の概念の成立。この点にわたる議論は (イ)の引用を参照されたい(レジュメ16ページ参照。Vgl.Gr1,354f./Gr2,316f.)。
3. そののち科学的方法論の検討がなされている。
「科学が研究にたずさわる以前に、むしろ至るところで、すでに概念構成が生じており、把捉と疎遠な現実ではなく、前科学的概念構成の産物を、科学は質料として見いだすのである」(Rickert,H.,1905,S.62.)。かくのごとく前科学的世界は、一般化的方法/個別化的方法という概念把握の質料となる。しかるのち、科学的概念構成は、特殊な事物、出来事に普遍的価値を結びつけて(価値関心に依拠して)、個体概念を構成するのである(Rickert,H.,1905,S.76.)。
 まとめれば、科学的概念に対して、価値形式に媒介された所与というものを認めえます。Sinnとは、そのような形式媒介的所与がもっともナマの=「問い」の提示というかたちで与えられたものです。Sinn=Gedankeにかかる、フレーゲが「━A」を以ていわんとすることに橋渡ししようと思います。(後略)
続きを読む
posted by 9ki1to at 06:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月24日

ディルタイにおける価値論=2017/3/29=2017/9/17

ディルタイによる価値の規定を継時的にたどれば1892/1893年の「生と認識――認識論的論理学とカテゴリー論のための草案」では次のようになっているます。「私たちは私たちに対する刺激の多様性の関係を価値といい表わす」(日本語版『ディルタイ全集』第3巻,616ページ)。もしくは「心的生の連関という概念は、生の価値ときわめて密接に関連している。というのは、生の価値は、心的現実がその表現を感情に見いだすかぎりにおいて、心的現実の内に存しているからである。もっぱら感情において体験されたもののみが、価値をもっており、それゆえ価値は、感情と不可分である。しかし、だからといって、生の価値を感情の堆積とみなすことができるし、感情の合計によって確定することができる、ということにはならない。内的経験は、そのように語ってはいない。むしろ、私たちが経験している生のまったき充実、私たちが十分に感じている生の現実の豊かさ、私たちの内に有るものを生き尽くすこと、こうしたことが私たちの生存の価値であると思われる」(日本語版『ディルタイ全集』第3巻,726ページ。下線ゲシュペルト)。
 1905年以降の「精神科学の基礎づけの研究」では、「価値の三種の形態が成立する。すなわち、状態感情にもとづく生の価値、状況を制約する環境に関係する作用価値、そして対象感情を判断的または概念的に表現する、対象と人物の固有の価値である」(日本語版『ディルタイ全集』第4巻,54ページ)となっています。これら対象的把握は世界観的統一性を有する構造連関中からとり出されるのです。
 さらに1906-1908年頃の24巻論考中では以下のようになっています。「価値とは何か。さしあたって、快ないし満足によって性格づけられる状態、この状態を惹き起こす対象、もしくは、欠如によって不快をもたらすもの〔といえる〕。とはいえ、快ないし満足は、私たちの感情の生き生きとしたあり方が示す、さまざまな種類の肯定的態度を表わすには、狭隘な概念である。よって、価値を、この.感情の生動性が肯定的にかかわるもの、肯定するもの、かくのごとき態度を生じさせるもの、もしくは欠如によって何らかの仕方で感情の否定的態度をもたらすもの、と呼ぶことができる」(Bd.24,A:S.33.)。「価値とは、生の局面で生が肯定するものを判断によって確定することである。価値の性格は肯定的感情のうちで経験される」(Bd.24,C:S.223.)。かくのごとく、価値にとって感情の裏付けは必要(Bd.24,A:S.30.Vgl.価値の感情のかかわり/それが最終審であることについてはBd.24,C:S.213、そこから目的論的関係が生じきたるのです。Bd.24,C:S.215,
S.232.Vgl.S.216,219.usw.)がしかし、より基本的にはディルタイは思考作用による統制を積極的に認めています(Bd.24,A:S.20. Vgl.Bd.24,C:S.238.日本語版『ディルタイ全集』第3巻,423-426ページ)。「生の経験とは感情や衝動に直接含まれている価値規定をたえず修正してゆくことである。それゆえ、思考は生の継時中、価値規定の成立のただなかで、つまり善を求めて努力している最中に、たえず働くものである」(Vgl. Bd.24,C:S.234.感情はともすれば個人的に傾斜する。Bd.24, A:S.19,S.22-S.23.なおWeltanschauungslehreにわたる論点は注15参照)。生のうちの所与が、価値判断においても重要なのはいうまでもありません(Vgl.Bd.24,A:S.20-21.)が、価値判断が感情から遠ざかる所以です(Bd.24,C:S.S.237)。
 この箇所は「生と認識」第二章「認識論的論理学とカテゴリー論の草案」との関係を髣髴させます。「さて私たちは、思考あるいは認識を機能として、その全範囲において、また最も広くとらえる。……しかし私たちが思考の概念をどれほど広くとらえるにせよ、思考はつねに生の現象であり、生に結びつけられている」(日本語版『ディルタイ全集 第3巻』,575ページ)。
「生価値は規範を含んでいない。生価値にかんする判断は規範的ではない」(Vgl.Bd.24,C:S.
237.)。なお歴史と生価値についてはBd.24,C:S.215,S.225を見てください。
続きを読む
posted by 9ki1to at 05:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月02日

超越的当為=2016/6/1=2017/2/20=2017/9/10=2018/1/14

 どのように超越的Bedeutungをもつ価値について、感情が知らせることができるのでしょうか?答え:当為の超越的Bedeutungを斥けるのなら、これを暗黙の裡に承認する判断で拒斥を為すこと、もしくは体験を述べる妥当な判断は当為の承認を遂行することになる、とリッカートなら答えるでしょう(Bd.24,S.279)。
 これに対する批判。すべての人にとって同じ内在的法則性の意味で為されるそれを、真理であると説明してはなぜいけないのか?
 とはいえ相対主義者もこのイミで相対性の妥当性(相対主義の絶対主義化)を語ります。この意味で、相対主義も妥当を前提しているのです。
 リッカートの議論は真理は意識とまったく独立なことにもとづかなくてはならないはずです。〔しかるに感情という媒介を置く〕リッカートは独立性を論証できていなません。さてところがここで意識がすべて妥当を有すということについては、ここで使用される〔意識依存的〕概念が例にもれず扱われているのであるのですから、循環が明白です。ということは〔単なる概念ではなく〕真理が意識の彼方に妥当する領域は、何らかのイミで実在性を持っていなくてはならぬ道理となる・・・とディルタイは論じます。
続きを読む
posted by 9ki1to at 06:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月01日

ディルタイのリッカート価値哲学批判-2=2017/8/22=2017/9/9

 所与性が別の尺度として働く限り、認識の対象が認識の尺度であるのは間違っている、とディルタイは言います(Bd.24,278)。ディルタイとしては所与性/心的生に定位して、認識論を構想しようとするのですが、広義の当為を、判断に到達させる促迫と捉えることは、所与性から権利根拠を剥奪することだからです。当為とは〔代わりに〕言表と、言表される所与の表象関係〔連関〕との間に、アイデンティファイできる関係づけと他なりません(Bd.24,S.278)。つまり思考における諸関係の言表が、所与の表象されたものの関係づけと結びついているだけでは、当為に適盈〔てきよう〕していると言えないのです。
 また意識とは独立な現実(GE2,S.10/S.15)を正当化する徴は、どこにも見いだせません。というのも、意識の彼方に現実がないなら、超越的当為の妥当領域のごときものを要求することは、無意味(ナンセンス)だからです。続きを読む
posted by 9ki1to at 07:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月25日

超越としての価値=2015/6/30


 ディルタイによるリッカート批判。当為は内在と超越との対立のうちに収まりません(Bd.24,S.275)。なすべきものという定在は超越的でない以上、当為の妥当すべき領域が、超越的であることを示しえないからです。したがって当為とは超越に適用できない概念ということになります。そもそも、内在的概念とは、存在との関係からpick upされるのではないでしょうか。ディルタイに言わせれば、判断は〔価値についての言表ではなくて〕実在についての言表であるから、肯定・否定という価値評価は二次的なものにとどまらなくてはならないのです(Bd.24,S.276)。さらに言えば、リッカートの見解は、肯定的判断は明証性の意識が、快・不快の意味での感情に由来するという誤った主張を含んでいます(Bd.24,S.276)。認識作用はリッカートの言い方にしたがえば、感情の価値の承認であることを想起ください(Bd.24,S.277)。しかし感情じたいは価値をもたないでしょう。それに対し、ディルタイは価値が感情から成立すると考えます(Bd.24,S.277)。続きを読む
posted by 9ki1to at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月06日

Grenzen,1/2.Aufl.価値関係的概念構成(5)(続く)=2016/5/1

第一版,S.373,第二版,S.337
 
というのも、想定されているちがいとは、目的論的把握が因果的把握をしめだすというなら、因果的把握にさいして最終結果は時間的に先行する原因によってもたらされる、と考えられる点に限って、存在しうるのである。他方、目的論的把握にさいして、最終結果は目的としての、現実化する前に作用する力能[=Fähigkeit]をもつという。それゆえ本来的には、両把握はともども(2.Auf.のみゲシュペルト)因果的なのである最終結果が目的として立てられ、それと共に価値と結合しているが、というのも因果的関係自体については何ら変更を施しえないからである

 ★ここにリッカートの目的的必然と因果的必然の同種結合が顕著に見られる。とくに目的論が事後的なものによる、backwardの規定を説いている。注意:これ自体は遡言的ではなく、目的論的必然性の枠にとどまっている。続きを読む
posted by 9ki1to at 05:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月05日

Grenzen,1/2.Aufl.価値関係的概念構成(4)(続く)=2015/6/29=2016/4/23=2017/2/4=2017/8/18=2018/1/13

第一版,S.372f.,第二版,S.337
とはいえ今日学問は、もとより目的論とは、まるきり疎遠になってしまったと重々、信じられている。したがって、ところが他方、「目的論的」(1Aufl.,のみ括弧)という表現は多くの人[=1.Aufl.,Vielen,2.Aufl.,vielen]にたしかに疑念を呼び起こし、また分けても歴史科学で目的論を語るものは誤解から自衛しなくてはならない、というのもほかならぬ歴史目的論には、或る悪いうわさが立っているからである。というのも、もっともである、(1.Aufl.S.373)歴史家といっても、あらゆる代償を払って、今日「時代遅れでない」ようにし、それゆえに目的論をことごとく追放してしまったが、やはり断然争うべからざることとして、なぜなら実際、まるきり非科学的な歴史目的論が存在するからである[1.Aufl.=es giebt/2.Aufl.=es gibt]。もっとも、反目的論的傾向が非近代的言説にのみ伴うことが時としてあり、すなわち表現をもちうる雑多な諸意味をそれぞれ仕分けるのに骨を折る必要はないし、だから学的に正当化されない或るしゅの目的論が存在するのだからして、すでにいかなる目的論的なものも不都合ではと、実際[=in der That]問わなくてはならない。だからどのようなイミに限って、価値関係的概念構成を「目的論的」と呼んでよいか、なお正確に規定しなくてはならない。
 折にふれて因果的(2.Aufl.のみゲシュペルト)という概念と目的論的という概念はお互い対置されるが、いかなる目的論も一見、因果的把握に合致しないように映るから、そのさい、〔目的論は〕維持しがたいと見なされる。もとよりこのかたちでのこの対置は必ずしも首尾よいものではない,(文章切れず、後続す。)

 ★目的論的思考が歴史学においては、とられること。目的論と因果論は、その実、対置されるものではない。続きを読む
posted by 9ki1to at 06:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月04日

Grenzen,1/2.Aufl.価値関係的概念構成(3)(続く)=2016/4/22=2017/2/3=2017/8/18=2018/1/10

第一版S.372,第二版S.336f.より 一版のみ斜体、二版のみ太字、下線強調。
 
この歴史的概念構成を、さらに幾分詳しく論じることが肝要である歴史的概念の構成は価値というものであるという事情と連関する、それの別の特異性がより重要であり、歴史的概念をさらにはっきりと究明しなくてはならない。歴史的個体の統一がつねに価値というもののへの関係にもとづく限り、歴史的個体を目的論的(2.aufl.のみゲシュペルト)統一体とも、ないし非-分割〔能為〕者[=In-dividum](1.Aufl.)/歴史的非分割〔能為〕者(2.Aufl.)も(2.Aufl.S.337)目的論的個体と呼ぶことが出来よう。それ〔その原理〕が連関することとして、目的の概念が未来に存しつつ現実化してゆくべき善の概念として考えられていること、したがって目的の概念には普通、善を伴う価値の概念が結びついていること、しかもそれゆえ、諸価値が決定的役割を果たす考察もまるごと、目的論的と呼ぶならわしになっていることである。歴史的概念構成はとはいえ、この目的論的非-分割〔能為〕者構成と結びつくのが常であるので、しかして私たちとしてはその原理を目的論的と名づけるなりゆきとなり、ものの、されば同時に目的論的に看取されることができ、しかして歴史的概念構成は、自然科学的概念構成とは、それに対応した目的論的概念構成として区別するにいたるされなくてはならない。(第一版では以下*まで欄外注記)文献学的に正当化されえない用語をつくることがよもや許されるなら、歴史的個体を「被不可分割者」とも、歴史的概念構成を「被不可分割者構成」とも呼べるかもしれない。けれども個体で目的論的個体、つまり分割してゆくべきで[=1.Aufl.,zu theilende,2.Aufl.,zu teilende]ない個性という意味がそこかしこで、暗示されているというなら、分割-される-べき[1.Aufl.sollenのs大文字]-でないという目的論的契機を、もちろん表現しない、非-分割〔能為〕者という書き方を使用する方が、よいに決まっている。*

 ★分割されてゆくべきでない目的論的個体と言うことは文献的にそぐわない。表立って、「ゆくべきでない」という目的論的含意を言う必要はない。続きを読む
posted by 9ki1to at 05:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月11日

リッカートの循環(観測の理論負荷性とは別もの)=2015/3/30


 いくつも箇所で引いていたのだが、誤訳(hinein〔zu〕leben「没入して生きる」と訳していました。)があるようですので、改訂しておきます。
 問題は歴史家が関係づける価値と、対象の価値はちがうのではないかという論点。Grenzen第一版,S.566,第二版,S.500.斜体第一般のみ、太字第二版のみ、下線ゲシュペルト。
 
もしくは俳優は時空的に遠く離れている過程である場合のように、精神的存在の価値[=1.Aufl.Werthe(pl.),2.Aufl.Werte(pl.)]は、彼の価値と同じでない。さらば歴史家が理解する限りでは、それに習熟し[=sich in ・・・ hinein〔zu〕leben]なくてはならない。それなら、この存在は彼にとって、その一度限りで個性的な、すること[=1.Aufl.Thun,2.Aufl.Tun]なすことが、次いで後を追うかたちで歴史家の興味あるものとなる。彼はそれらに向かって歴史的にのみ観察して振舞おうとする、つまり〔評価ではなく〕理論的に価値にのみ関係させようとする限りでは、それ自身が態度をとる価値そのものを描写するにさいしても、本質的なものを非本質的なものから区別することに使用することができる。
続きを読む
posted by 9ki1to at 05:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月09日

歴史的中心=2016/4/2=2016/11/20=2017/8/6=2018/1/8

 前の記述が誤っていたようなので、訂正する。記述では以下のようになっていた。『思想』、1993年9月号、119ページ。
歴史家は価値に対して態度を採ることを通じて研究対象に価値を関係づける。この対象、つまり歴史上の人物も価値に態度を採る。そうした研究対象たる「精神的存在」が「歴史的中心」をなす。歴史家と研究対象とが対峙する価値は、存在論的客観性故に〈予定調和的に〉帰一するとリッカートは考えた。

 Grenzen第一版,S.561-562・第二版,S.496は以下のようになっています。斜体第一般のみ、太字第二版のみ、下線ゲシュペルト。
歴史的資料中の精神的存在がもつ、この突出した意義[=Bedeutung]を表現すべく、われわれとしてはしたがって叙述そのものの導きとなる価値に態度をとるすべての歴史的対象でかならず精神的存在に相違なき、歴史的対象をことごとく、今、なお歴史的中心と名づけよう。さらば叙述中にかくなる対象があらば、歴史は必然的に残りの存在をすべて、叙述の精神的中心たるそれに関係させることを見てとる。

 一番最後の文章の、関係させるものとして価値を想定していました〔実は歴史的中心〕。主観が習熟していないとき、叙述のなかでの〔歴史的中心の〕価値は、対象の価値と合致しないことは十分あり得ます。つまり予定調和的に帰一するとは限らないのです。続きを読む
posted by 9ki1to at 05:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月29日

Krijnen考究:67=2015/3/29=2015/6/25

 自然主義の形態-進化論的なそれ-にリッカートは与しなかった、とクライネンはいいます。この視角では、あたかも自然化された認識論しか構築できないことになります。リッカートは、自然主義を客観主義として批判してきました。とりわけ個別科学による世界理解は不可能であると見なしました。価値事象を見るのには、自然主義では短見におわってしまうからです。ここから生物学主義に対する批判も出てきます(Krijnen,C.,6.3.3.2.2→6.3.3.2.3)。この問題には個別化的自然科学の問題も加わり、クライネンのように単純に割り切れる問題ではないと思います。続きを読む
posted by 9ki1to at 06:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月16日

Krijnen考究:66=2015/3/28=2015/6/8=2016/4/2=2016/6/15=2016/11/13

客観的意味[=Sinn]がノエマとして対峙し、それが真理に他ならない(Krijnen,C.,2001,S.378-379)というわけです。注意:主観的意味といえども、心的作用とは別物であることに注意しなくてはなりません。
 
この判断内容は、たしかに判断作用によって遂行されるものの、それが妥当する点で判断作用から分離して考察されなくてはならない。(Krijnen,c.2001,S.379)


 この文脈でハイデッガーとの相違も問題になります。ハイデッガーは真理の主観的性格(1927a:226-227,1927b:314-316)を強調します〔現存在がある限りで、真理というものが存在する〕、つまり具体的主観性のイミで現存在が存在しえぬのなら、真理の理念は決して具体的な担い手をもちえないのです。このようにみてくると、ハイデッガーとリッカートの差異は明らかです。ただしキリスト教との関係は不明。
 妥当領域は間接的叙述として機能したというのは『判断力批判』におけるカントの叙述を参照。KU,B256-257参照。続きを読む
posted by 9ki1to at 06:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月12日

Krijnen考究:65=2016/10/30=2016/11/15

リッカートの態度決定説(二重作用説)は妥当の承認理論と呼ばれています。
 彼は二つの種類の妥当要求を区別します。(Krijnen,C.,2001,S.358)
 
「(a)単に「主観的に」欲せられている要求で、それを通じて現実的な意志との相関のなかに、定められるもの。(b)「客観的で」無条件的に妥当する要求」(1928:S.235-236;Vgl.1909,S.187)

 だからといって、リッカートは形而上(的に大い)なるものを導入したわけではありません。無条件的な当為とともに要求〔の概念〕は、固有性をもって決まってきます。妥当はいかなる存在とも独立です。それゆえにリッカートは超越的妥当と規定します(transzendentes Sollen,1909,S.187:1928,S.232
Vgl.transscendentes Sinn,1909,S.193)。
 後形而上学的思考と言われる所以でもあります。続きを読む
posted by 9ki1to at 05:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月03日

Krijnen考究:64=2015/3/20=2015/6/8=2016/10/26この項問題あり。=2017/8/17

再び遡行。6.2.1新カント学派には具体的な主観性が欠けているというドグマについて。Krijnen,C.,S.336
 1.ヴァーグナーの議論(?)はより若い超越論哲学者が新カント派の主観性の問題に対して表明する批判に、いっていの答えの図式を与えた。
 2.具体的主観性の哲学理論は体系的に志向され、妥当理論的根本条件がこの理論を満たしたという指摘を、ヴァーグナーの議論は与えたので、具体的主観性の議論は明晰性を獲得しえた(それはあるイミ、超越論的主観性を犠牲にした)。
 Wagner,1980は、ノエシス的省察と心理学を等置することによって、(抽象的な)作用体験を過小評価することになったとも言っています。かくして超越論的主観性と具体的主観性の対質は実質、困難となったのです。
http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA2775072X続きを読む
posted by 9ki1to at 05:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月30日

Krijnen考究:63=2016/6/14=2016/10/30=2017/8/8

 妥当ノエシス学ではなく妥当ノエマ学は、超越論的論理学にあずかります。それは超越的意味(Sinn)を扱うから、内在的現実でもなく、超越的意味でもない内在的意味概念を「区別」します。分析所与としての真理概念の財とは、「文章」のことです(イデアールな命題ではありません)。Krijnenはこの文脈で文化的現実を理論的財としていますが、「文章」の方がもっと広袤をもっている気がします。例えば文化的現実といえば、因果作用を探究する文化=現実科学に限定されているのでは(Krijnen,C.,2001,S.377)。続きを読む
posted by 9ki1to at 05:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする