2007年06月18日

「私的言語」の開闢

 眠っている間に、赤と青という言葉の意味が逆転してしまったら、どうなるのか?
 すると絵日記には真っ赤な空の絵とともに「青空の下で」と言った記述が現れることになります。絵日記は言語とそれが表す言語外の事実との直接的対応関係を、記憶を媒介にせずに表示できるのです。
 というのも絵日記の空に赤い空(普通は青いと言う意味を与えているが)の絵の下に、「青空の下で」と書いてあっても、その「青空の下」の意味?が逆転しているわけですから、「赤い空」の記述が付与されていることになり齟齬が生じ得ます。
 しかるに赤と青の意味の逆転と同時に、それが指す感覚の質自体が実際逆転してしまうことは考えられないのでしょうか。つまり「青い空」が実際普通の意味で赤く見えてしまうこと。そのさい、真っ赤な空の絵と共に、赤い空という意味?を持った「青空の下で」という言語表現が出てくるわけです。
 言語外の事実はここで言語と癒着しています。
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2007年06月13日

記憶への懐疑・信頼???=2010/2/27改訂=2015/11/26

 記憶とは私の領域で完結しているわけではなく、社会的な適合性という観点から修正されます。
 単純に「他人たちと同じものをそう呼んでいるのだが、それにもかかわらず、その語を痛みが起こる通常の徴候と前提に一致するようには用いない」と言っても、「同じ」であることに基底を与える「記憶」がそもそもないのです。
 ですが冒頭に述べたように、記憶というものが他者の掣肘によっても変更可能性を持っているかもしれない(記憶を純粋に観念論的に考えられないのは、言語のなせる業)。

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2007年06月11日

言語と私

永井均、原著198ページ。
「私が理解する意味での「欺く神」が私が理解する意味での「私の今の言語」を、私が理解する意味での「私」に、私が理解する意味で「そう見えるように」、私が理解する意味で「いま創造した」のではないか」。

 おそらく、これは懐疑論として読まれるべきではなく、私的言語の公共的言語に対する優越性、さらには、懐疑の鋤が反り返るような地点を示唆しているのでしょう。公共的な言語を私的観点から覆そうとする試みは標準的な言語観に逆立するものであることは押さえなくてはなりません。ちなみに永井の青色本の分析には検討すべき論点が数多く含まれている。http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E8%AA%A4%E8%A8%BA-%E3%80%8E%E9%9D%92%E8%89%B2%E6%9C%AC%E3%80%8F%E3%82%92%E6%8E%98%E3%82%8A%E5%B4%A9%E3%81%99-%E6%B0%B8%E4%BA%95-%E5%9D%87/dp/4779506719
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2007年06月01日

言語の臨界=2011/2/26改訂

 永井均、原著197ページ以降。
「たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)といっさい無関係に、自分に向かってこう断言できる、「私がいま感じているのは、私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と」。

 正確さを期すならば「私がずっと『痛み』と呼んできたといま信ずるものである」と言うべきでしょう。でも現在の信念と独立に過去の痛みなどあり得ないわけですから、クオリアを想定せずとも『痛み』は『痛み』です。
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2007年03月22日

補足:野矢氏擁護論=2015/11/25

 私も『他者の声 実在の声』296ページに書かれているように、「自分はつねにかつての自分よりも豊かなものに成長してきた」という「単調増加の成長物語」に対して懐疑的である点で、野矢氏と立場を同じくします。「過去の概念体系の食み出し」は私の言葉で言えば、部分的には滑らかな翻訳の内に、ひっかかる箇所が露頭することに対応します。
「デイヴィドソンに反して、ぼくが自分が「意味の他者」に取り囲まれているという実感をもっている。未来の自分や、過去の自分でさえもが、いまの自分にとっては意味の他者にほかならない」(野矢氏原著297頁)。

 この健全な意味の実在論にクェスチョン・マークexclamation&question
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2007年03月12日

コミュニケーションのズレ=2011/2/22=読むに堪えない断章2013/7/26

 こうして問題は知覚目の場面から、言語翻訳の場面に繰り越されます。
 ただし「ズレ」という了解はそのまま翻訳の不確定性、もしくはコミュニケーションの不可能性に直結するものではありません。同音異義語があるように、もしくは一つの単語が多くの意味をもつように、「ズレ」には様々な位相があります。極端な場合再定義された語やレトリックで使われる意味は極端に通常的意味から離れています。その「ズレ」の極限に異文化に属する理解不能な意味があるのでしょう。
 かつて以下のように書いたことがあります。
「…ズレがたとえあろうと、知覚の場に引き戻されるならば「ズレの現れ」を介して間主観的な判断は行われるように思われる」(九鬼一人、2003、『真理・価値・価値観』岡山商科大学、47ページ)。

 しかしこの言い方は、意味の間主観性をナイーブに前提していますから、あまり魅力的ではありません。

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2007年03月04日

オールド・ストーリー(知覚の成功)=2011/2/22

 翻訳が知覚を地盤としている、という考え方は、ライルのいう「知覚の成功」と密接に結びついています。
 観察という言葉には二つの用法があるとライルは言います。第一には何ごとかを見出そうと試みている場合。第二にはそのような探索の試みが成功した場合。今問題にしている、アスペクト把握と区別された「を見る」は、「通常、観察が成功した」場合に用いられる第二のケースです(ライルの「見える」が達成動詞かどうかは、再考の余地があります。つまり心象を把握するのに達成している、と言える側面があります)。
 この論点を繰り込んで、「として見る」を振り返って見ましょう。下手なウサギ-アヒル図形をネズミとして見ることは、見知らぬ人を友達と見違えるのと違って、不成功ではないでしょう。同様にウサギ-アヒル図形をウサギとして見ること・アヒルとして見ることは成功/失敗中立的です。それに対してウサギ-アヒル図形のような頭を持ったアヒル、仮にそれをRabbitアヒルと呼ぶとするならば、それを見たとき「ウサギを見た」と記述するのならば、それはいっしゅの失敗です。
 ちなみに下手なウサギ-アヒル図形を富士山と見ることは、やはり失敗なのではないでしょうか。
オールド・ストーリーとしての〈「を見る」と「として見る」の峻別〉は、かくして懐疑に晒されます。
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2007年03月01日

として見る:改訂=2013/7/26

 「として見る」というアスペクト把握に知覚目の理論負荷性を重ね合わせるという解釈には、認識論的省察と心理学的観察という二つのレベルがあり得ます。前者はカント的な構成説という原基的な省察に、後者はゲシュタルト心理学にそれぞれ訴えます。
 問題は知覚目の理論負荷性で言われる「として見る」をこうした一般的な問題に結び付けてよいか、というところにあります。前者は形式の投入という観点において、「として見る」と結びつけることができます。しかし「として見る」は私の限界の内部においてすら反転の可能性を前面に押し出すことでしょう。これはカントの本質直感不可能性とかかわる論点。
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2007年02月25日

言語の基底:知覚へ

 ことばが内的規約によって意味が変わるということは意味の消尽点に位置します。つまり、そういう違いはかなり限界例に属します。
 恐らくそうした楽観論の理由の一つとして、言語の基底に安定した知覚の岩盤に対する信仰があるからでしょう。これに対して異を唱えたのが、デュエム・クワインテーゼに依拠した知覚の理論負荷性の議論。
 反転図形としてはウサギ-アヒル図形が有名です。つまり同一の反転図形について見え方が変わり、それらの見え方が同格である、ということで、知覚一般目が相対的であると論を進めるわけです。

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