2019年07月15日

他者の系譜学(承前)・リッカートの問題圏=2019/7/21=2019/11/13=2019/11/15=2020/1/1=2020/1/13

「贈与」:誠実・超越的当為・認識の対象・妥当と認知主義に連なるもの・・・・・措定としての他者・極めて強い実在性
「承認」:隣人愛・アガベ―の超越・異定立・解釈主義・記憶・取り戻し・・・・・彼岸としての他者・強い実在性
「交換」:経済・新カント学派社会主義・フィヒテの他者・文明価値・怜悧・・・・定立としての他者・弱い実在性
「享受」:宗教的な次元・エロスの問題系・ファウスト・愛のタクソノミー・・・・仮設としての他者・極めて弱い実在性 

誠実に関連して・認識論の形而上学的地盤・価値実在のテクスト・カントの悪・義務論的認識論・同一説への逸脱  誠実性・述定>期成
隣人愛に関連して異なりの超越・強い強度の意味・措定の問題圏・自己了解の要請・ファウスト的な世俗内的超越  ロゴス・較認>照会
経済に関連して「哲学の根本問題」の文明価値・外在的価値・非我の定立・ホネットの問題系・手段的価値と信頼  作品化・照会>較認
性愛に関連して愛の学・完結的部分性・行為者相関性・ヘレナ/グレートヒェンの世俗内的歓待・サルトルの他者  パトス・期成>述定


・照会以前的に、選好の差はついている。普遍化された照会同士の選択で、較認が効いてくる。
・帰結主義的なものが概して実在の強度が強い。
・宗教的な次元は自己愛と隣接している。
経済的価値と審美的価値が癒着してしまっている。
・興発的価値判断は普遍性をもたぬより、価値判断から放擲される。情動の一種にすぎない。
・普遍化は個人で閉じている。
・述定的価値判断と道徳的価値判断は、再較正により、命題価値から分岐する。
・述定的価値は、すべての価値判断と情動をレジスターできる。



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2019年07月14日

他者性の系譜学=2019/11/13=2020/1/1

倫理という他者性への四つの経路 

非帰結主義は、価値観準拠によって、帰結主義は観察者中立的=幸福追求=財実現によって特徴づけられる。

「自己定位」は、〈自己拘泥〉によって、「世界志向」は「まったき利他」=自己から離れること=「主義」からの離脱によって特徴づけられる。

ここで「世界志向」が自己評価中立性(自己評価相関性の反対)を意味しているかは、興味ある問題である。

「自己善」=「自己定位」の価値観準拠=「最小倫理」である。

「世界の善」=「世界志向」の幸福追求=「隣人愛」である。「隣人愛」は功利主義的なもののほかに、「平等主義」的なものがあるかもしれない。(心情倫理は、非帰結主義より広袤をもち、「世界志向」の幸福追求としての「平等主義」を含みうるだろう。)

 ここで得た四類型をまとめると、自己定位的な「最小倫理」(非帰結主義)・「契約論的功利主義」(帰結主義)に対して、世界定位的な「義務論」(非帰結主義)・「隣人愛」(帰結主義)である。

 自己定位的であるとは、他から財を享けることであり、世界定位的であるとは、他から意味を付されることである。

 非帰結主義とは、自ら意味を付すことであり、帰結主義とは自ら財を与えることである。

 自己定位的な非帰結主義とは「享受」であり、自己定位的な帰結主義とは「交換」である・世界定位的な非帰結主義とは「承認」であり、世界定位的な帰結主義とは「贈与」である。

これをリッカートで言えば、

 「享受」:性愛・エロスの問題系・ゲーテのファウスト・・・・仮設としての他者 人格財の享受 期成>述定 聖 作品化 非帰結・中心

 「交換」:経済・新カント学派社会主義・フィヒテの他者・・・定立としての他者 物件財の交換 照会>較認 美 パトス 帰結・中心

 「承認」:隣人愛・アガベ―の問題系・異定立・・・・・・・・彼岸としての他者 人格財の承認 較認>照会 善 ロゴス 非帰結・中立

 「贈与」:誠実・超越的当為・認識の対象・・・・・・・・・・措定としての他者 物件財の贈与 述定>期成 真 誠実性 帰結・中立




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2019年06月30日

非利他主義/利他主義=2019/11/13=2020/1/1

 他者の「厚生的-帰結」を重視するならば、それは功利主義を促す。逆に人が非帰結主義をとるのは、以下のような選択肢の間の決定によっているものと考えられる。つまり兵器研究所への就職は、サボタージュによる兵器開発遅延をとおした負傷の軽減のような世界の「厚生的-帰結」(兵器開発遅延という「利他」への些少の寄与・世界の財実現)、就職をえられる自己の幸福(みずからの不遇の改善・自己の財実現)、ならびに非帰結主義的要素の無視(世界と自己における価値観無視)とをもたらす。他方、兵器研究所への就職の忌避は、兵器開発に反対しないという、世界の「厚生的-帰結」の断念(なおざりにされた些少な「利他」・世界の財断念)、就職できない自己の不幸(みずからの不遇・自己の財断念)、自己の価値観を尊重した非帰結主義的要素 (自己の価値観準拠)をもたらす。〔これらとは別途、兵器研究所の就職が、〈自己拘泥〉的要素を揚棄した義務の実現である場合もあろう・世界の価値観準拠。〕

 両選択肢は、その総和を計算できないとはいえ、それらにわたって選択の自由がある。このさい、社会全体の幸福の実現可能性が少なくても、ジョージのような「自己定位」は、意志貫徹をとおして戦争への抵抗のメッセージを発信しうる。その方が戦争という「状況」に対して、自己の「主義」を発信できる。つまり「自己定位」ならば、そこに通俗的に自己が措定する「主義」を見いだしうる。――かくて第二に、〔「自己善」に顕著な〕「自己定位」vs. 〔功利主義、とくにその「隣人愛」に典型的な〕「世界志向」という、非利他主義vs利他主義の対照がえられる。

 これに対し、安彦は、功利主義的な「世界の善」の倫理を「自己善」に正対せしめる。そもそも責任倫理は、彼の言う「世界の善」の倫理と、結果の善し悪しを問う点をとりだすだけなら似ており、重なる部分を追求してゆけるのではないか。「世界の善」とは、「或る行為が帰結する、その行為以降の世界の全状態の属性である。……功利主義における「動機」性とは、この全般的な「世界」事態の「最善」を目指そうというものである」(安彦一恵、二○一三年、一六五頁、傍点強調原文)。

 安彦は、この概念を彫琢するにあたり、とくにゴティエを議論の端緒としている(Cf.Gauthier, D.P., 1986, p.60.etc.)。例えばゴティエは、『合意による道徳』のなかで、「合理的選択理論」、ゲーム理論、バーゲン理論等を駆使し、「目的合理性」に沿った道徳を考えていた。すなわち「目的合理性」をお手本とした戦略的合理性が、道徳の基礎とされる。論点先取をはばからずに言えば、道徳的命題が普遍化される途として、「世界志向」と財実現という二つの経路が考えられる。そこで「世界志向」が「まったき利他」――そこには「自己にこだわる/自己満足的な」利己性の要素がない――をもっぱらとし、財実現が幸福追求をもっぱらとすると考えよう。とすれば、財実現の倫理(「世界の善」は、その「世界志向」形態に限定する)を説く契約論者ゴティエに、「世界の善」へと至る、移行段階を認めることができる。彼の「契約論的功利主義」が、財実現をとおした〈自己拘泥〉でしかないなら、通俗的「主義」に準拠する限り、「自己定位」を離れられないと言えよう(つまり「真正な利他主義」ではないこと)。したがって安彦と異なり、「契約論的功利主義」を、自己の(非帰結主義的な価値観ではなく)幸福にかかわる「自己定位」(それに対し「自己善」は、その価値観重視形態に限定する)と見なす。

 もとより「契約論的功利主義」を採用した結果の方が、個人にとって通時的に損ではなるかもしれない。他方、非合理的だが、頭から「世界の善」を信じた方が、〔厚生主義的に、総和主義的に〕「トータルには」善になるとする態度に、安彦は道徳的要素を見いだしている。これがゴティエには見られぬ安彦の「追加的修正」であり(安彦一恵、二○一三年、六八頁)、〔「契約論的功利主義」の域を超えた、不特定の人を均し並みに愛する〕「隣人愛」につうじる要素である(以下、「隣人愛」の論点は、安彦氏からの私信によって示唆を受けた)。

 ここで一定の自己利益を留保しつつも、協調的信頼のなかに身を置く、という倫理学固有の解釈が可能となる。その解釈では、総和的に見て、他者たちの状態が最善になるという理想すら、不要とされる。通俗的に理想とは、ほぼ定義的に一つの「主義」だからである(安彦の論点)。筆者の見るところ、安彦がゴティエを措いて、功利主義的な「隣人愛」に与する所以である。ひいては、それが自己の責任意識(責任感という自己のトポスの〈帰結〉) を伴わぬ限りで、「自己善」を敬遠して「世界の善」へと帰着する。かくて、他者たちの「厚生的-帰結」を志向することで、利己性が前面に出た経済的合理性を迂回して、安彦は「契約論的功利主義」を昇華し、「隣人愛」を「世界の善」として抽出しえた。Sitteという準拠枠をとるなら、「自己善」(さらには「契約論的功利主義」)に対して、当然、達人的な「世界の善」は倫理的により高いだろう。

 しかしながら、安彦の「まったき利他」〔の候補である功利主義的「隣人愛」〕という醒めた意識は、動機となりにくいのではないか。これから見れば、もっぱら自己の価値観準拠である「自己善」にも、合理性理論として広義の功利主義に劣らぬ意味があると考える。ただし〈善の自己拘泥〉について誤解なきように言っておけば、善が自己を起点としていること(「自己定位」)の謂いである。それは「主義」へのコミットであって、〈善への通路〉が他者に閉じられていることとはちがう。もとより「自己定位」の価値観に準拠するからと言って、誠実な関係を他者と築ける保証はない(たんなる同じ主義者同士の相互承認)。それゆえ、帰結の点から言えば、個人にとって「賭け」にとどまる。これは2016/12/24の科研費研究会にて加藤泰史が指摘した論点と重なる(「自己」から「他者」へと格率を解放する加藤に顕著な「自己に対する義務」の論点・九鬼2018年科研費報告書)。とはいえ、それでも「価値観的に」同形の他者を想像する余地は残る。したがって、そのなかに「賭け」に共鳴する他者存在の可能性が示唆される次第である。自己に定位したとしても、他者との関係を築く可能性に「賭け」るなら、他者への倫理的な〈通路〉を開きうるかもしれないのである。

☆契約論的功利主義は純粋な利他主義であるが、真正の利他主義でないことに鑑みて、非利他主義ととらえ、真正の利他主義・帰結主義であるところの隣人愛と区別する。そうすると自己善を契約論的功利主義と同レベルの倫理性にまで持ち上げることができる。ethics14.pdf

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2019年06月29日

自己善・・・非帰結主義かつ非利他主義=2019/11/13=2019/12/31

 大学紀要の出版がされたので、著作権的に問題ないかと思い、その一端を公表する。

「自己善」は、と言えば、「他者の」幸福追求を、相対的に重視することなく、心情倫理との重なりを追求してゆける。けだし倫理学は人間性についての「学」である以上、合理性に依拠し、合理性は、「学」に対して統合性・普遍性等を要求するであろう。実際、ヴェーバーの――価値合理的行為=「ある特定の行動がもつ無条件の固有価値についての、倫理的・芸術的・宗教的なその他の、純粋にそのものへの、あるいは、結果を度外視した、自覚的な信念にもとづいて、行為すること」(根本概念WG:S.12.傍点は原文ゲシュペルト)を倫理的に昇華すれば獲得できる――心情倫理は価値観を優先し、人の纏まりたる統合性を志向する。その価値観準拠は、自己という「トポス」の充実を意味しており、普遍性をいささか犠牲にする。しかし筆者は、そのなかで価値観準拠を説くものを、主観的合理性の範疇に収めることができると考える。したがって、自己にこだわる合理的言説を、「最小倫理」と認めたい。それにあっても、あくまで倫理だから、自分のためだけの利益に自足することはない。自分が道徳的に善いと考えるものを――対自的には利己性に傾くにせよ――撰取するのである。ここで先回りして、「自己善」すなわち「最小倫理」という図式を、一応仮設して、その構成要素を掲げておこう。

@非帰結主義(価値観準拠)
 導きの糸となるのは、ヴェーバーの心情倫理批判であろう。彼は『職業としての政治』(一九一七年一月二八日)で、とくに心情倫理に低い評価を与えた。もとより彼は、達人的とも言える責任倫理を高く評価したとはいえ、心情倫理を放擲してしまったのではない。すなわち個々の行為は、その結果のみが倫理的天秤にかけられるとは限らないし、人格という観点に立てば、帰結への配慮よりも、むしろ価値観が問われるとした。ここから私たちが「自己善」と目してえられるものは、幸福という帰結から消極的にえぐりだされる、――それ自身では、公共への帰結を禁欲する価値観の倫理、つまり非帰結主義の一類型である。もとよりそれが、社会全体の幸福追求を第一義とするなら帰結主義に移行するが、小集団の連帯感・「絆」を中心にするかぎりでは、非帰結主義の域にとどまる。
A非利他主義(「自己定位」)
 功利主義的な厚生主義は、Sen,A.K.,1997,p.278によると事態の善は、個人効用の集合の善によって判断されるべき( must)だとする。こうしたセンの規定を承けるなら、幸福は人の豊かな生を反映しているが、人はそれのみを、評価の尺度とすることはできない( Sen, A.K., 1987a,Chap.2,p.41. )、という見方も成り立つ。彼によると、私たちは、目標、責任、価値等を形成する人間の能力を尊重すべきである。――少なくとも私たちは、俗見たる、自己にこだわる「最小倫理」を受け入れている。そしてセンは、生き方に踏み込んで、「主体性」重視の議論を展開する。そのさい、彼は各人の倫理観の重要性を強調し、功利主義に対する批判を押し出している。つまり、私たちが「自己善」として出会うのは、「まったき利他」の「世界志向」(「世界の善」を「世界志向」より狭くとる。)と相並ぶものとして、積極的に浮かびあがる「自己定位」という要素である(「自己善」を「自己定位」より狭くとる)。この「まったき利他」の否定(つまり自己にこだわる倫理)を、暫定的に非利他主義と呼んでおく。
 したがって、低幸福条件のもとでの「最小倫理」は、非帰結主義であり、かつ非利他主義として、かたどることができるであろう。
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2017年11月09日

アイデンティティ・オールドストーリー=2017/11/11=2019/2/19=2019/7/16

 コースガード,2005が義務論者について語ることを思い出そう。その叙述の或る部分は、価値合理主義者に当てはまるだろう。例えば彼女が言うように、自分をどのような纏まりとして捉えているか(アイデンティティ)が、価値合理主義者をコントロールすると、考えられないだろうか。

 アイデンティティの理解とは、「あなたが自分自身に価値を認めるさいの自己の記述、すなわち、自分の人生が生きるに値し、自分の行為が行うに値すると思うさいの自己の記述として」(コースガード,2005,118頁)解されるべきである。そうすると、自分自身を何と見なしどのように価値的な観点から統合するかにかかるアイデンティティは、人生という大海のなかで、言わばマニュアル(指針)の役割を果たすかもしれない。コースガードは言っている、「或る衝動―例えば或る欲求―が現れたとき、われわれはそれが理由になりうるかどうかを問う。われわれは、その衝動に基づいて行為するという格律が、当のアイデンティティをもつ存在者によって法則として意志されうるかどうか、を見ることで、その問いに答える」と(コースガード,2005,133頁)。こうして規則が「無条件的」 (コースガード,2005,121-122頁参照) となれば、価値合理主義的な、義務は合理的な理由をもつのだ、とコースガードは説くのである。

 ちなみに非合理性に対して、デイヴィドソンが説明として挙げている、「心の分割」を考えにいれよう。彼に拠れば「心の諸部分が或る程度独立しているならば、それらが不整合を抱えつつ、因果的に相互作用することがいかにして可能であるのかが理解できる…」(Davidson,D.,2004,p.181)とされる。彼の「心の分割」は理由 の非合理性を繕う相対的独立性を示唆する。しかしながら、あくまで分割された心の部分の独立性は「或る程度」のものでしかなかったことに、注意すべきである。すなわち、デイヴィドソンは「心の分割」により、十分な説明がつく程度に、アクラシアを合理的とする一方で、注意深くその「分割」に限界があるとすることを忘れなかった。つまり「心の分割」に因る非整合性は一定限のものであって、そうすれば他に採った選択と完全に撞着することがないから、個人が一個の纏まりをもつと、暗に認めていたのではないか。すると上でコースガードが語った「自分自身に価値を認める」局面において理由を与えるアイデンティティ、つまり個人にまとまりを与える規則とは、非合理性への防波堤と理解できる。

 そこで以下のような合理性に対する負荷を得られる。

「価値合理主義者の統合性の必要条件」: アイデンティティという自分で決めた規則に従って、狭窄化の度合いがはるかに限られた(言い換えれば、広い観点からの熟慮を介して)機会集合Ψから、整合性の取れた行為φを、選りすぐっている。

 このさい、アイデンティティが社会的パーソナリティーと連携すれば、強い人格が賦与されること、ひいては利他性と結びつきうることは何度も、言及したとおりである。

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2017年11月02日

統合性は倫理的ではない=2019/2/19

 コースガード書、邦訳119頁。

その結びつきは統合性の概念のなかにも現れる。語源的には、統合性とはutinityのことであり、統合とは、何かを一たらしめることである。あるもの、一つのもの、統一体、実体であるということを意味しており、ともかく何ものかであるということである。形而上学的には、統合性をもつとは、かかる意味である。しかるに、私たちはこの語を、自分じしんの〔行動〕基準に即して生きる人に用いる。なぜなら、私たちは、そうした基準にのっとって生きることで、人は一個の人となり、はじめて人格になると考えるからである。

 統合性とは、自己利益的な主体を立ち上げるための、価値合理的要請でしょう。主体が、対他的に整合的なふるまいをするからと言って、整合的な利己性を追求することもあるでしょう。コースガードの要求は、道徳性以前の倫理性(永井均の意味での)に焦点を絞っていると見るべきでしょう。

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2017年11月01日

アイデンティティーと統合性(承前)=2019/2/19

 たとえばKorsgaard, 2009(←1996),3-3-4=邦訳, 123頁以下の趣旨に即して補えば、たとえば学生として学科の必修であるが故に、学生は、学生の本分であることをわきまえているし、しかも学習の権利の一部は教師にゆだねるべきことを知悉している。だからこそ、数学を履修する義務論的な選好を挙げている。これをふまえれば、「数学を学んで学生の本分を全うする」という選択と、「数学を学んで教養をできれば積むようにする」という選択なら、前者の選択がより選好されるであろう。またコースガードから離れるが、「数学を学ぶことを怠らないようにする」という選択と、「数学を学ぶことを怠らずにできるだけ無教養にならないようにする」という選択なら、後者の選択がより選好されるだろう。

 このあたりはバックパス理論でも処理できるかもしれない。学生の本分ということの方が、教養を刹那的に追い求める選択肢よりも、より究極的な理由に関与している? また無教養にならないという防圧的な理由は、学生の社会のなかの網の目で、より際立つ理由となりうるであろう(対個人的な処世を身に着けるという意味で)。本分・無教養にならないといった要素は、すこぶる価値的であるが、具体的な個人関係に落とせば、説得的な合理性をもちうる。
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2017年10月30日

備忘録・アイデンティティー=2017/10/31=2019/2/19

 コースガードの手あかにまみれた議論から。

邦訳118頁。三人称的な観点から、すなわち、熟慮の立場の外側から見るならば、誰かが選択をする場合には、あたかも、葛藤しあう欲求のうちで一番強いものが勝利するように見えるかもしれない。しかし、あなたが熟慮するとき、あなたにとっては事態はそのようには見えない。あなたが熟慮するとき、あたかも、あなたのあらゆる欲求の他に何かが存在しているかのようである。すなわち、あなたそのものであるような何か、どの欲求に従って行為するのかを選択する何かが。これは次のことを意味する。あなたが行為を決定するさいに従う原則ないし法則は、あなたが自分自身を表現していると見なしている原理ないし法則だ、ということである。そうした選択の原理ないし方法にアイデンティティを見出すということは、聖パウロの有名な章句によるなら、自分自身が法である、ということなのである。

 規範性の淵源はコースガードの言うように「自分自身」の表現するさいの法ではない。むしろ熟慮を社会に委ねるというかたちでのみ、深化しうる法である。外形的な適法性としての法は、社会から与えられる。それを内化するのは、たんに強制的な教育(と言ってしまったのだが、伝統的な熟慮というものが、個人的吟味とは別にあるということ)であるにすぎない。(この項つづく。)
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2017年10月20日

ヘアの流用=2017/11/11

 『人倫形而上学の基礎づけ』中の行文「目的を遂げようと意志する者は(理性が彼の行為に決定的影響を及ぼすかぎり)、おのれの意のままになるなら、目的の達成に必要欠くべからざる手段をも欲する。この命題は、行為者の意欲にかんしては、分析命題である」(『人倫形而上学の基礎づけ』AA.4,S.417.=七:四八頁)に注目しよう。幸福は「すべての人間がもつ自然目的」から、道徳法則との並立の可能性を追求してゆける。〔なおその文脈で『実践理性批判』の「理性的自愛」/『宗教論』の「道徳的自愛」を媒介にして、道徳法則下の幸福に定位できるであろう。〕例えば幸福追求の自明なことは、「思慮の命法」弁護[=Verteidigung]上に見られる、 〈神聖なる意志の論理〉ということになる。仮に神聖なる意志が動因化の原理だとしたら、それをもった完全な理性的存在者は、必然的に善い行為を行うから、命法の問題とはかかわりをもたない。「神聖な意志には、命法というものが妥当しない。つまり、するべきという言葉はここでは場違いなのである」(『人倫の形而上学の基礎づけ』AA,4,S.414.=七:四三頁)。ここで論じられるべきは、動機が原則と必ずしも一致しない人間にとっての道徳の問題である。選択意志においては、原則に背きうるにもかかわらず、否それゆえにこそ、人間にとって意味をもつ原則が、問題とされなくてはならない。それは、道徳教育や人格形成において役立つのであり、そのためには直観的な簡明さを維持していなくてはならないが、より豊かな熟慮をくぐりぬけて、陶冶されなくてはならないのである。ヘアを流用すれば、
「これで、なぜ他のものが一見自明な〔直観的な〕原則より優越する〔その原則が他のものに屈服する〕可能性がなければならないのか――つまり、ある特殊な事例ではその原則に従(ママ)わないにもかかわらず、なぜその原則を持ち続けることが可能なのか――という理由が十分に説明される」 (ヘア.R.M.著/内井惣七+山内友三郎監訳,一九九四年,八九-九○頁)。

だから、最善の欲求・意図にとって汎通的な〔それが熟慮を経るということである〕直観より有利に立つ原則が選択される。かくて統合性をみたしつつ、反省的な原則は「優越」しうる。
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2017年09月30日

倫理・落穂ひろい=2011/11/7

・倫理学会発表前・落穂ひろい
・非快楽的-帰結というものはありうる・・・しかしながらそうした帰結が、動因化されていない場合、帰結主義と呼びうるだろうか。人倫の形而上学の基礎づけにおける、傾向性・傾向性の動因からの排除。もとより動因化される帰結をカント主義以外の場合、理想として認めうる。もしくは三重の普遍性。??
・自分の喜びをもとめない利他主義、これは理想を有意化しない利他主義と理解しうるが、自分を含めた財の最善の状態の実現を動因とするものである。あくまで隣人愛的に理解することも可能だが、人間学的にはそこに自己愛が介入せざるを得ないのではないだろうか。シュタルク〜ロールズ路線。
・真正に利他的ではなくても、純粋な利他主義というものは存立しうる。たとえそれが自己満足から推移するものであっても、不純な利他主義の純粋形態と重なることはまれである(単なる自己満足には留まらない。人倫の形而上学・岩波11巻、257ページ)。むしろ特定性をつうじて、純粋な利他主義に接合しうる。
・カントの観念性は、財定位の帰結の排除としては至言である。しかし、理想定位の帰結に定位していることにはならない。ちなみに自由という可能性は、理想という帰結を自己のトポスでエスカレイトさせることによって、自律を「動機」づける。
・センは広い帰結主義を、むしろ推奨しているのではないか。行為者相関的モラルの可能的判断(中立性をもたない)にしろ、帰結・不変項を想定することで、帰結主義に統合されているのではないか。要検討。
・ジムの例は、生死の人数だけを捨象している。記述の貫世界的同一性を論じなくてはならない。当然、機会集合の話が入ってくる。
・自己善とは、理想という帰結を、厚生主義的見地と関わりなく、推奨する立場である。平等主義は功利主義的厚生主義とそりが合わないので、自己善のなかに収められる。自己利益性と同時に、整合性を含む。規範的な正当化。
・自己善は俗人道徳である。相の転位。統合性は、純粋な利他主義が、やむをえなく認める要素である。
・ウィリアムズの例の行為主体相関性は、ポジション依存的客観性に包摂できる。普遍化が可能な所以である。
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2017年08月18日

倫理の指標=2017/11/2

 
小谷は二つの前提「判断者にとって妥当する道徳的命題pは必然的である」(a)かつ「命題pが幸福を目的としているとき、それpをいかなる場合でも目的としないのは、幸福が欲求の対象とすることに反する」(b)を想定する。その上でpの内実として反道徳的なものを仮定すれば背理に陥るとしている。それについては別の機会に述べことにする。
 (b)は言い換えれば「幸福が欲求の対象とするかぎり、命題pが幸福を目的としているとき、それpを目的とすることがありうる」(いかなる場合でも目的としないことはない、ということは、ある場合には目的とすることがありうる)。このさい欲求の対象のほかに、意図の対象が考えられる。ここは野矢茂樹1999の意図概念の規範性に即して論じたいところである。

 カントの意志と意図の違いで迷っている。
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2017年07月17日

サディコ-マゾヒズム(主と奴)=2017/11/2

 私が他者とかかわるさい、必然的に相手を奴隷にするような、主と奴*の関係が成り立ってしまう。そうしたことを、愛と憎の類似性は思い起こさせます。例えばサルトルの「羞恥」を見てみましょう。
 「意識(対自)の内発性が、絶対的な能動性であるとき、対自と対自の関係はどのようになるでしょう。私にとっての他我の存在は、私の存在といかにかかわるのでしょうか。サルトルは卑近な例で説明しています。
 「私が嫉妬にかられて、興味にさそわれて、あるいは悪癖にそそのかされて、扉とぴったりと耳を当てがい、鍵穴から中を覗(のぞ)いている場面を想像してみよう。……私は私の諸行為を何ものかに帰し、それによって私の諸行為を性質づけるということはできない。私の諸行為は決して認識されるのではない。反対に私は私の諸行為である」(『存在と無』三-一-四)。
 私は耳になり切っている。私は私の行為の主人である。「ところが突然、廊下で足音のするのが聞こえた。誰かが私にまなざしを向けている。……私は突然、私の存在において、襲われる。本質的な変容が私の構造にあらわれる」(同)。血の気がひいて、見る私は、見られる私に変容する。私はもう私の行為の主人でない。他人もまなざしの奴隷である。まるで私自身が風呂の水であったところへ、突然、誰かが、風呂の栓を抜いたかのように、私は「存在の減圧」をこうむる。私と他者との関係は、認識の関係でない。存在の関係である。私の存在減圧を代償としてしか、他者にとっての私の存在はない。「私の存在の無とは、他者の自由である」(同)」(加藤尚武、一九八三、二三六頁)。
 見る側が主人であり、見られる側が奴隷である。鍵穴から盗み見る私は、相手をあたかも観賞対象よろしく、〈凝固した石像〉として所有するのです(私の視線はメディウサの視線になぞらえることができよう)。たとえ他者と合一するような愛の体験においてすら、その根本には相手の存在を否定する要素が含まれています。言わば、サディコ=マゾヒズム(視線で石化される者が奴隷である)の関係が成り立ち、その関係は可変的です(廊下からの監視者によって私もまた石化されてしまう)。かようにも、愛と憎悪は、やすやすと逆転しうるものなのです。
Medousa.jpg
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2017年05月26日

再記述説・価値escalation=2017/11/1

  例えば次のような場合を考えよ。朝、家を大学へと出発したつもりだったが、途中で気が変わり映画館へと一日中入り浸っているとしましょう。その場合、大学への出発は、反因果論的に、映画館への出発へと再記述され(再記述は合理化にかかわる)、改訂されるのです。「映画館で面白い映画を見よう」という理由は、映画館へ行ったという出来事と別なことではありません。ただし理由は意図でなく、意図の対象です。理由が出来事に依存する以上、それは意図という心的な出来事ではない、と考えられます。つまり行為と記述に間に論理的結合があるのです。デイヴィドソンなら、映画館へ行きたくなった(欲求)という原因で、再記述するのだというかもしれないが、それは理由の一部に過ぎず、むしろ「映画館で面白い映画を見よう」という理由を構成する契機をなすにすぎません。映画館へと変更した原因が映画館へ行きたくなったであるとしても、大学へ出発したことは映画館へ行きたくなったこととは再記述できません(映画館への出発へと再記述できるとしても)。欲求(原因)は行為と別ものである以上、行為と一蓮托生な記述と決して重なることはありません。再記述は因果的説明でなく、合理化の次元に推移しているのです。
 再記述によって事態の価値が再発見される。単に言葉遣いの問題ではない。背後の機会集合が価値という傾向的性質を変形するのである。続きを読む
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2017年02月28日

リッカートの自由

 クライネンによるリッカートの自由論の紹介を見よ。自由論を基本的に「世界全体論」のなかに位置づけたうえで(Rickert,H.,1921,S.298-300.もしくは全体的人間論,Rickert,H.,1934,
S.226,230-232.)、その基本視座を批判的主観主義(実践的に自由な態度「決定」による、実践的領域への移り行き。したがって自由は特殊実践的な概念ではない)に求めることによって、根源的自由の発動を担保しようとしました。もしくは方法論的形式に比べてより基本的に働く構成的形式(態度「決定」の作用は基本的に自由Vgl.Rickert,H.,1921,S.298-300.)に、自由のありかを探ろうとするものです。そのさい、リッカートは以下の三つを区別します(GE6,S.447.)。
➀自然因果性からの人間の自由。つまり「自然の自由」。A「歴史の自由」。B構成的現実範疇たる因果性の原理からの自由。
 およそ、因果性のカテゴリーは現実範疇として妥当するが、方法論的形式としての因果的法則は、個別の事象には妥当しないとするものです。むしろ「価値規定性」こそ「実在規定性」と区別されるべきであり、すべてのものは「原因」をもっていないにしても、価値的根拠をもっているとでも言うべきでしょうか。それゆえ態度「決定」の能作に自由の根源を遡及することになります(Krijnen,Ch.,2001,7.2.3.3.)。
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2016年04月29日

ジンメルの責任:承前=2017/9/30

 ニーチェの高貴性を反道徳的にとらえところは合点がいかないが、一応フォローしておきます。
廳茂書、238頁
 
「ニーチェは、習俗や律法の外在的拘束から解放された「自立的な」存在を「主権的個体」とよぶ。このような個人は、内側からの「彼の価値尺度」をもちそのためには「「運命に抗して」」すらも闘う存在である。・・・結局約言すれば、自己への「責任という異例の特権」を許容された主体ということである。

 たしかにニーチェ的に他者へのかかわりが貶価されるのは分かる。だが、自我に焦点を結ぶとき、他者との規範的連関は出てこないですか。例えばコールマンのような規範をコードとしてとらえる視角はないのでしょうか。(ただしコード的/システム論的思考はあまり解せないのですが。)続きを読む
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2015年12月28日

アンネ・フランク問題=2017/4/9=2017/9/30

 行為者相関的モラル、位置的相関性の〔センの〕モデルで解決できることに思い至りました。https://blog.seesaa.jp/cms/article/edit/input?id=387331503&finished_from_edit=1&finished=1
anne-photo.jpg続きを読む
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2015年12月06日

当為の基底=2017/9/18

  ジンメルが個人主義的な当為ということで考えていたのは、Duの問題であったという話を廳先生から伺った。尊敬でもなく、相互承認でもなく・・・私と等価な存在として認めるという態度。愛に近いものではないかと忖度したが、それならシェーラーとの比較も必要になってくるかもしれません。
 当為というのはいっしゅの遮蔽のロジックではないか、という境地に近づきつつあります。それは倫理というロゴスにとって、夾雑物(すなわち完備性を損なうもの)として現われうるでしょう?
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2015年12月04日

倫理性と道徳性:永井均の私のメタフィジックス第二部に触発されて=2017/4/7

 広義の帰結主義とは縁を切れない自分がいます。もとより、センpositionalな相関性も帰結主義の範疇にありますが、私の場合、すこぶる倫理的な(道徳的な)次元と普遍的利己主義が、個人の中で、ゆるやかな統一を保っているという立場をとりたいのです。
 これに対して観察者相関性を満たさないような、非帰結主義は、つまるところ主体の形而上学(ハイデッガー)であり、倫理的な次元と接合しえないという反論がありうるでしょう。
 おそらく倫理的な次元は功利主義的に完備性を具えており、普遍的利己主義も完備性を有しているのではないでしょうか。ただし前者は私を蚕食し、私の合理的原理とぶつかりますし、後者は社会を食い破り、相互性の原理とぶつかるのでは・・・・。かくのごとき両体系を包含した倫理的学な体系は出来ません。したがって両者をアドホックに接合するcoherencyのような公理を倫理学以外の領域から持ち込まねばなりません。もとより相互性の原理を打っちゃっておいても、方や私の合理性を減損させて、片方の体系だけで行動規範を作ってもよいのですが、coherencyは人間の心理の機微をすくい取るが故に【私】ではなく、「理のみに生きるのではない人間」にまとまりを与えるのです。続きを読む
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2015年11月02日

2014年08月21日

自己善

 荻原理、二○○四年、〈ひとりの倫理学〉(荻原理、二○○四年、「〈ひとり〉の概念は倫理学においてどれくらい重要か」高橋久一郎他編『岩波 応用倫理学講義7 問い』岩波書店。)を読んで納得がいったことがあります。
 たとえば、―リルケの書簡を引いて―「自己形成の(ゆっくりした)時間」が重要な意味をもつと言われます。
 
 あなたは外へ眼を向けていらっしゃる、だが何よりも今、あなたのなさってはいけないことがそれなのです。誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段がある霧です。自らの内へおはいりなさい。あなたが書かずにいられない根拠を深くさぐって下さい。それがあなたの心の最も深い所に根を張っているかどうかしらべてごらんなさい。もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい。私は書かなければならないかと。深い答えを求めて自己の内へ内へと掘り下げてごらんなさい。そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ち立ててください。あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません。

 徳の倫理における補足。「すべての人間は、その人間たちの文化がいかなるものであっても、「人はいかに生き、いかに行為すべきか」ということに関する問いを出し、それに答えながら自分たちの生活と管理に参加する(ないし、参加しようとする)」という特徴をもつ以上、個人や集団の自由、主体性・自由意思、選択肢の広さ、人間としての尊厳、人権――そうした価値的要素は重視されてしかるべきでしょう。・・・もとよりこれによって利他的価値が排除されるわけではない。続きを読む
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