2011年06月29日

コーヘンの汎神論=2012/9/8=2015/4/12点検


 『純粋意志の倫理学』の汎神論は、スピノザの『エチカ』を、その出発点としたという解釈もあります(Holzhey,H.,2002,S.52ff.)。また『純粋認識の論理学』は「自己意識の観念論」として、ヘーゲルの学知概念と合致していたともいえましょう(Holzhey,H.,2002,S.56)。
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2009年11月18日

内へ:超越論的観念論=2012/9/26=2016/3/12

 超越論的観念論は、いっしゅ実在論と両立しえます。ですが、それでさえ主観の経験の可能性に制約されている面があることも確か。
 仮説演繹法とどこがちがうかといえば、仮説はあくまで認識論的な道具に過ぎませんが、超越論的観念論においては、仮説が構成された客体に寄り添う他はない(いっこの経験的実在な)のです。ただし後者の場合においても主観が客体を把握する際、価値関与的なユートピア的枠組みを、〈無限に多様な経験〉に投入し、現象を記述することは有意味です(無限な多様に対する不可知論/経験的実在に関する可知論)。投入された形式は、いっしゅの実在の一契機である他はないのです。
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2009年11月17日

超越論的図式論と嘘=2015/3/31点検

 図式論と仮説演繹法は似て非なるものです。ここのところがしっかり押さえられていないと、新カント学派の超越論的規範は、19世紀の科学論の一亜種の構図に収められてしまいます。
 仮説演繹法には外に対する一種の断念があります。もちろん仮説は普遍妥当的たるべし、という信仰に支えられている限りにおいて、仮説を目的に対する手段と見なせるのです。カント哲学が客観的真理の法廷を信仰するとして、現実の仮説演繹法は、そうした信仰より一種のペシミズムにおいて成立っているでしょう(仮説演繹法をそのままカント主義と解する誤解は、1970年代の東京大学の相関社会科学においても顕著でした)。
 
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2009年04月29日

サバルタン:断片

 スピヴァク、サバルタンについて。「〔サバルタンと向き合うということは〕彼らを代表することではなく、私たち自身を表象する方法を学ぶことである」。つまり自己合理化の表象のなかで沈黙を強いられている自己の中の他者に耳を傾けること。それが他者と応答することなのです。

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2009年04月25日

確認:方位論文と判断力批判の間


 方位を決める直感の形式という発想は、対掌体(アンチポーデ)の思索の深まりと共に生まれたのでしょう。それは第一批判の超越論的図式に引き継がれます(B,S.154)。
 カントは第三批判へと継承される共通感覚の彫琢に当たり、上の図式論を完全に取り込まなかったため、超越論的構成を十全に生かせませんでした。
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2009年04月07日

身体がつむぐ図式=2011/5/24=2016/3/7

 カントにとって「私の身体」が自我の一部分と言います。だからこそ超越論的「手」を使って、超越論的図式を構成出来ました。
「われわれは、思想のうちでそれを引いてみることなしにはいかなる線をも思惟することはできず、それを記述することなしにはいかなる円をも思惟することはできない」(B,S.154)

 つまりレアールな身体に介入する共通感覚が、人と人の間に図式を挿入するのです。この点、実在論との接点が保たれており、〈かたち〉は現実の身体図式とリンクしています。
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2009年04月04日

備忘録:実在論の超越論的遡源=2011/05/24=2016/3/7

 ニーチェにおける解釈というものが「おのれを挿入する」ことであったこと。もとよりクーン的な規約主義では原理的次元で恣意的な形式が挿入されています(sich-hinein-legen)(『悦ばしき知』36ページ。白水社)。
 それと並行しつつもカントの場合には、主観が原理的に産出するのは、アプリオリな実在のある一面を抉り出されています。
「解釈に従ってみずからアプリオリに考えいれ(hineindenken)、描出したものによって、(構成によって)図形の諸性質を産出しなければならない」(B]U)

 だからこそ現実的な身体によって(超越論的に)媒介されることが、不可欠となります。図式論によって基礎づけられた身体性と、客観的認識の結合。湯浅正彦氏の図式論解釈をいくばくも出ることができません。

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2008年02月12日

川上未映子でも読もうか

 川上未映子氏と永井均氏の対談が文学界に載っていますね。川上氏は言葉に込められた情緒にこだわろうとしているのに対して、永井氏はすっぱり、そんな情緒的なものを切り捨てている、すれ違い方が面白い。永井氏が合理的でかつ論理的であろうとすればするほど、その言説が情緒を喚起しています。つまり、合理的であろうとすればするほど、非合理的なインスピレイションが対話に出てきている、これって生き方の問題?作法の(下品/上品の)問題?猫
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2007年12月24日

realitasの歴史:備忘録=2016/1/16

「exsitierenしうるもの、したがって、それにexistentiaが抵触しないものは、ensと言われる」(ヴォルフ、『第一哲学へのオントロギア』、§.314)。
「ある(esse)もの、あるいは、ありうると把握されるものはどれも、それが或るものであるかぎり、resと呼ばれる」(同書、§.243)。

 以上、檜垣良成、1998、『カント理論哲学形成』渓水社から借用したもの。
 結局、ensとは「存在しうるもの」であり、この同じものが「或るもの」であるときに限り、res(もの)と呼ばれるのです。例えばトマス・アクィナスにおいてensが本質を持つ限り、resと呼ばれたように(resは実在)。
 さらにrealisはreal=現実的と関係なく、「何かであるもの」を指します。その抽象名詞化realitasも現実性を意味せず、「何性」と同一視されています。realitasは「本質」そのものではなく、むしろ「resの徴表」を意味するのです。従って「存在」はrealitasの外延と重なります。
 それがバウムガルデンになると、「実在性」とは「真に肯定的な規定」となります。したがって「実在性」は「本質」を補って完全にし、「存在」を、一つの真に肯定的な規定にします。ここでも「実在性」は「存在」を包括?します。

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2007年10月26日

ハイデッガーと違い=2010/05/05改訂=2011/9/24=2016/1/7

 「ハイデッガーの独我論と対照的に、リッカートは我々共同体に与した」という図式ではなく、コミットした共同体概念が違うのでは、というご指摘を受けました。
 ただしこれに関連して或る方が、リッカートは所詮「社民」であるといわれた言葉が耳に残っています。おそらくハイデッガーとの対比が問題になったときだったと思います。そのハイデッガーの場合、−極めて雑に言ってしまえば、−共同体といえども主体に回収されるゆえに、究極的には本来的な意味での他者を見出し得なかったでしょう。
 リッカートの場合は、超越論的主観に重心をおくことに注意すべきです(このことは一方で他者意識を希薄化させる結果をもたらしたかもしれません)。その一方で、フィヒテ的な国家の擬制人格と親和的な、枠組みを提供しました。ここから、根本的に独我論を拒否し、社会主義的スキームが結果したのでしょう


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2007年10月21日

三重の主客対立:問題提起

 いささか唐突ですが、高名なリッカート『認識の対象』の主観の客観に対する三重の対立について。「客観という言葉」の「三つの意義」とは「1.私の肉体の外側の空間的外界」、「2.「それ自体で」実存する全世界すなわち超越的客観」、「3.意識内容、内在的客観」です(Der Gegenstand der Erkennntnis,1Aufl.S.8/2Aufl.S.13)。
(1)「1.私の肉体の外側の空間的外界」について言うと、「人は両者、すなわち身体的自我と空間的外界を存在の様式に関連して、{決して}互いに対立せしめることはできない」(1Aufl.S.10/2Aufl.S.16)と言われます。1Aufl.S.10/2Aufl.S.15-16で言われるように高々、自然科学的な生理現象が帰属するにすぎません。したがって「外界に対立させられる」主観といっても「私の「魂」を含んでいる[=nebst]私の身体」なのです(1Aufl.S.7/2Aufl.S.11)。
(2) 「だが私は肉体をも」、「「外界」{のなかに数えいれられるなら、}に数えられるなら、」客観は「 私の意識と独立なものとして受け取られる同じくすべてのもの」(Gegenstand der Erkenntnis,1Aufl.S.8/2Aufl.S.12{}内第一版のみに登場する表現)となる。こうして客観は拡大し、「2.「それ自体で」現存する全世界すなわち超越的客観」「私の意識内容でも、私の意識それ自体でもないすべてのもの」(Ibid.1Aufl.S.8/2Aufl.S.13)となります。他方、主観は「魂を吹き込まれた身体」(1Aufl.S.7f./2Aufl.S.11)から「私の精神的自我」「内在的世界」(Ibid.1Aufl.S.8/2Aufl.S.12)に縮小します。かくして客観の範囲は「空間的外界」から「超越的世界」に押し広げられます。
(3)第三の対立の客観項に立つのは「3.意識内容、内在的客観」です。すでに客観項は「私の身体」を組み入れて拡大したわけでした。これと対立する「第二の対立する主観を、人がさらにもう一度主観と客観に分解するとき」主観がより縮小することになります。客観とは意識内容となる「私の表象や、知覚や、感情や、意志表出」(Ibid.1Aufl.S.8/2Aufl.S.13)であり、それらに第三の主観項である「私の〈意識作用〉」(リッカートは第二の主観と紛らわしい「意識」[=Bewusstsein]という語を用い、〈意識作用>を使用していませんが、指示の便宜上用います)が主観として対峙します。
 ここに現相(象)主義(Phänomenalism)への傾倒を見出せます。ディルタイの命名による「現象性の命題」に則すと、表象できるものは経験的「内在」に限定されていました。すなわち、「最も普遍的な条件を下で、私にとってあるものはすべて私の意識の事実である」(Ibid.1Aufl.S.12/2Aufl.S.20)のです。ここで私の意識に直接現れる現相を広範なものとして把握されています。
 この修正は「私」を「客観」に繰り込むことによって遂行されます。超越の問題となるのは、 「ただ第二の対立の客観、私の意識の外部の世界、すなわち超越的世界のみ」Ibid.1Aufl.S.10/2Aufl.S.16)とするのが第一段階。後に第三の客観は内在する、私の〈意識作用〉を捨象した「意識内容」から、表象される客観である「内在的客観」として再定義するのが第二段階。こうして第三の主観「認識論的客観」が相関者となる「内在的客観[=immanentes Objekt]」(原語を参照するのは2Aufl.S.27以降)は、確定します(『岡山商大論叢』からの転用)。ディルタイとリッカート.pptx

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2007年10月01日

範囲と外延:改訂=2013/9/1

 高名なリッカート『認識の対象』の主観の客観に対する三重の対立に対応する三つの客観概念は以下の通り。Der Gegenstand der Erkenntnis,1Aufl.S.8/2Aufl.S.13「客観」という言葉の意味とは、「1.私の肉体の外側の空間的外界」、「2.「それ自体で」実存する全世界すなわち超越的客観」、「3.意識内容、内在的客観」。それぞれの客観概念に即して三つの主観概念が成立することになるのです。
取り分け第一の主観と第二の主観の関係は外延の包含関係とは理解できないでしょう。ここで第一の主観の方が第二の主観より広いことが想定されているますが、ストローソンのperson ように、「内在的世界」とは独立に「私の身体」を独立的な個体と見なせない以上、「内在的世界」が第一の主観の「外延」に含まれるとは、背理です。けだし第一版では1Aufl.S.13Umkreis=周囲(周延)という表現がとられているから、そのニュアンスを投射して第二版の1Aufl.S.23Umfangは、外延ではなく、単なる「範囲」と理解するべきではないでしょうか。
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2007年09月25日

ディルタイの汎神論(?):留保=2011/3/18改訂

 マックリール『ディルタイ』からの引用。
「ディルタイは、新しい認識論的根拠づけを持たない歴史主義は相対主義の危険にさらされているということもよく理解していた。カントが大陸の合理主義の伝統と関係させることによって彼の自然科学の認識論を展開したのと同様に、ディルタイは、一世紀後に、歴史的研究のためにもっと困難な批判的視点のための指針を打ち立てたのである。この視点は、ヘーゲルの観念論とコントの実証主義との両極端を避けることであった」(邦訳4ページ)。

 したがって客観的観念論とディルタイの考えは微妙にずれていたことに思いを致すべきでしょう。
 この態度と微妙にずれながら雁行するものとして、例えばリッカートの次の箇所が思い浮かびます。
したがってわれわれは客観という言葉に三つの意義を確定したことになる:1.私の肉体の外側の空間的外界、2.「それ自体で」実存する全世界すなわち超越的客観、3.意識内容、内在的客観。同様にわれわれは少なくともさしあたり、主観という言葉に対する三重の意義を区別できるだろう。:すなわち1.私の身体とそのなかで働いている「魂」となる私の自我。2,私の意識の全内容を伴った[=mit]私の意識。3.これら内容に対立する[=im Gegensatz zu]私の意識。人はその三様に述べられた意義を互いに混同しないことがいかに重要であるかは、人がこれらの主観と客観の対立のうちの一つを唯一の正当なものとして見なすことに応じて、理論哲学〔の〕におけるさまざまな諸根本的把握が生じることからも、取り分けて明白となる。〔身体的な〕空間を充たす主観以外の主観を決して認めようとしない者は、唯物論に導かれる。客観を意識内容と同一視する者は純粋内在の立場か絶対的観念論 )に至らねばならない。そして第二の対立の形態から、この二つの極端を介するに至った、さまざまな立場が生じる(Gegenstand der Erkenntnis,〔〕1Aufl.にのみに現れる表現。太字2Aufl.にのみ現れる表現。Der Gegnstand der Erkenntnis,1Aufl.S.8-9/2Aufl.S.13-14)。

 リッカートにおける実証主義・絶対的観念論はともに客観を意識内容と考える立場であり、それとの対決が彼にとって焦眉の課題でありました。またディルタイも経験論的には実在論に与していました。
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2007年09月20日

精神物理学的主観=2010/05/03改訂=2011/3/18補足

 例えば中島義道、2004、『カントの自我論』日本評論社、208ページの言とリッカートの第一の主観「精神物理学的主観」の違いに注意しておきましょう。
「私の過去における端的な体験Eを、その体験が生じている身体という持続的なものと身体に対している(囲んでいる)さまざまな持続するものとの連関でとらえなおすとき、私はEについて直観し、つまりEを時間、空間的に確定し、まさにそのとき同時に私は私を直観するのである。
すなわち〈いま・ここ〉にこの独自の身体をもって存在している私が、Eがそこで生じたあの身体と同一であることを端的に了解するとき、私は私を直観するのである」。

 そもそも心をもった身体という全体なくして、内在的世界は言うに及ばず、意識内容は考えられません。身体を持っているということは認識する私と連繋しているのです。ちょうど、信号が黄に変るのを見ている事実のうちに、急いで横断歩道を走り始めることが浸入するように。そうした場合のように、身体の動作性と認識作用の志向性が一体化していることに、自我における身体と心との等根源性を窺うことができます。
 ただしこのさいの等根源性はあくまで、(中島の言う)自己直観のレベルであって、間主観的な意識一般=認識論的主観のレベルまで上っていません。
「ただ第一の概念対のみが残って立てられている。:精神物理的主観はそこに見出される魂を持った空間充溢的物体[=Ding]であり、これに以前と同じく、空間的外界が対応している」(Gegenstand der Erkenntnis,2Aufl.S.26)。


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2007年09月03日

自己了解と既成の表現

「要するに、ほかならぬ了解の優先によって、生は自己自身について、その深みの中で解明されるのである」(Bd.Z,S.86f.)

 このディルタイの論点について、ボルノーは言っています。表現は対他者間の交渉の媒介項であるだけではなく、すべての理解(自己の生の了解も含めて)の必然的前提なのです(邦訳338頁)。客観化された精神に刻み込まれた他者の生は、「表現」という場で、反復的な再理解(了解)という複雑な連関を取ります。
 ここでは根源的に「見させる」ということを可能にする、「鏡像」機能が重要なのです。なおショーペンハウアーの鏡像論については山本幾生,2014,『現実と落着』関西大学出版部,293ページの図参照。
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2007年08月31日

内在的な目的連関=2013/8/26=2015/12/8

 リッカートの目的連関が超越的価値を志向していたのに対し、ディルタイのそれは、あくまで内在的領域に踏みとどまります。
「心的生を支配している合目的性は、それゆえ、この心的生に固有の各構成部分の連関の特性である。……われわれは、心的構造のこの合目的性を、主観的かつ内在的なものと名づける。これが主観的なのは、これが体験される、つまり、内的経験の中にあたえられているからである。一方、内在的なのは、これがこの内在的経験の外にあるどのような目的思想にも基づいていないからである」(Bd.X,S.215)。

 レアールな実在へに留まるディルタイ的態度は、価値に対する「振舞い」(リッカート/さらに言えばハイデッガーの超越の構造)と対照を成します。
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2007年08月28日

生の範疇:生自身の形式

 生の形式は、こちら(主観)の側から事物に押し付ける超越論的な形式ではなく、生自身の形式です。
「これら〔生の範疇〕は、生に付加されるような形式ではなく、時間的に経過する生自身の構造をなす形式、これが生において表現されるのである」(Bd.Z,S.203)

 そうして切りだされる範疇のうち、もっぱら基礎的な範疇が、個々の生の体験の、全体に対してもつ有意義性を規定します。
「意味は特殊な形の関係であり、これは、生の内部で生の部分が全体に対してもっている関係である」(Bd.Z,S.233f.)

 質料と領域範疇の中間領界としての「意義」ということではラスクの『哲学的論理学ならびに範疇論』久保邦訳九四ページ以下参照。
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2007年08月27日

生の力

 『生の哲学と現象学』S.161。「非合理的なものと形成する力とのあの基本的な関係」は、ミッシュにおいて取り残されています。無限なものはせいぜい後景のように見えます。したがって、獲得されたものは最終的に仕上げられています。
 しかし実は無限なものは、生自身の中に進入する、活動的な、固有の力パンチとして食い込んでいます。未来のほうへ開かれた力は、ここで別の重みをもつでしょう。また無限なもの自身も、〈力強く活動的なもの〉と転化し、「積極的に生を強める性格」をもつでしょう。ここから再び「生の究めつくしがたさ」が創造的な生の一面となります。

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2007年08月19日

備忘録:引きずりこまれる

引用の重畳。
 
「一つの対象的な把捉がその基礎になっており、この基礎の上で、対象的に把捉された事実についての、心配や苦しみ、あるいはこれを克服する努力もような、態度決定がなされる。そして、私にとってこれらすべてがその構造連関の中に現存しているのである。…ところでしかし、私がこの体験を把捉すると、それはその中に含まれる諸契機にもとづいて、たとえ長い間隙があったとしても、生の経過の中で構造的にこれらの契機と結び付けられた、さまざまの体験へと結び付けられる。…しかし、もう一つの契機は未来に導いてゆく。その眼の前にあるものにあるものが、まだ測りえない仕事を私に要求する。私はそのことで頭を悩まし、心の中でやりとげる準備をする。これらすべて、想い出の中にあるものと体験されたものとの関係、同じく未来のものとの関係が、心の中でやり遂げる準備をする。これらすべて、思い出の中にあるものと体験されたものの関係、同じく未来のものとの関係が、私をひきずりこんでゆく」(Dilthey,W.,Bd.Z,S.139f.)。

 やりとげるべき未来のものに、私はひきずりこまれます。そこには受動的企投の機制が見出せるでしょう。
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2007年08月10日

形而上学へのまなざし=2013/8/26

ディルタイにとって形而上学は、その不完全性を示して、それを論駁するのが本旨であったわけではありません。根拠への遡及によって、その必要性をも問うたのです。
 その前提として、まず人間的生の活動性があるのであって、これに続く形而上学という順序は交換不可能です。
 後期新カント学派が、形而上学を学的対象として取り上げたとき、ディルタイのような「順位」は逆転されています。主意主義の内部に蠢動する、主知主義と観念論への傾きは、反形而上学的なスタンスを生んでいます。
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