2016年05月21日

仏教哲学にこだわる

鎌田茂雄,1974,「第一部 存在論 第三章 法界縁起と存在論」『講座 仏教哲学 第一巻』第一巻。
 
宗密の『注華厳法界観門』より「統ぶれば唯だ一真法界なり。総じて万有を該ねるは、即ちこれ一心なり。然るに心、万有を融し、即ち四種法界を成ず。一には事法界、界はこれ分の義にして、一一の差別に分斉あるが故に。二には理法界、界はこれ性の義にして、無尽の事法、同一性なるが故に。三には理事無礙法界、性と分との義を具し、性と分の無礙なるが故に。四には事々無礙法界、一切の分斉の事法、一一性の如く融通す、重々無尽なるが故に(大正蔵、四五巻六八四頁ab)

 ここに総該万有の一心といわれているが、いわゆる心ではなく、心と「もの」の両方を含んだところの場所を言います。そもそも四種法界の基本をなす「事と理」の解釈として、理を本体とし、事を現象と説くのは正しくありません。華厳思想では万有の根源となる永遠不滅の本体を立てるのではなく、形而上学的実体をどこまでも排除することに、その特質があるのです(鎌田茂雄,1974,一〇二頁)。
 いかに西洋的実体をもちこむことがいかに危険か、ということを示しているようです。続きを読む
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2009年03月23日

解釈学的な生=2011/5/18改訂=2012/9/14補足=2014/1/3

 解釈学的な生は、「単線化された」時間表象とは一概に言えません(素朴すぎます)。
 たしかに解釈が実在と込みになっているという意味では、経験的実在論ですが、予め超越論的観念論であるという了解がそこにはあったはずです。それを観念論という言い方で片づけるのは、ためらわれます。ただしリッカートの場合、それとちがって「異質的連続」ということを言いますから、外延主義にも接近します。

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2009年01月29日

訂正

 [事実なし、つまり独断論]に反対というのがニーチェの考えということなのでしょうか。
昨日の記述で[]が抜けていました。ニーチェは実在論ではない、ということを確認したかっただけです。内田さん。コメントを読みました。まことにご同慶の至りです。
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2008年12月23日

12月12日のコメント欄

>ニーチェの系譜学的な批判の仮説性を彼が認めていないという立場を採られるならば、それは系譜学と遠近法主義との間に矛盾を呈することになる、とお考えになるのは妥当だと思われます。

ここで頭をかすめるのは遠近法主義という相対主義がもつ限界です。ニーチェの「力」の「空間」(永井均の評)は冴えている(ニーチェが冴えていない)ように、傍目から見えるのですが。


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2008年12月16日

系譜学的意識

>解釈学的思考から系譜学的思考へと移行し、しかしそれでもなお解釈学的思考へと逆行してしまうのであれば、我々が「系譜学」とか「系譜学的」と呼んでいるものが一体何を意味しているのでしょうか
 ゆる〜く絡ませていただきます。系譜学的意識は解釈学的意識の出自を問うことで、「鳥はもともと青かった」とから出発し、「鳥は本当は青くなかった」に回帰することで逆の解釈学的意識を包摂します。
 事は、この解釈学的意識は新たな内部であって、いくら系譜学が外部に超出しようと、徒労に終わるのではないか、という限界にかかっています。
 一時、系譜学が観念論を防圧する光明のように思えた時期があったのですが、その問いのアクチュリティも含めて、改めて勉強しなくてはならないと思っています。(内田さん勉強させてくださいね。)
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2008年12月12日

解釈学的意識で居直る

>解釈学と系譜学の関係は一面では厳密な意味で二元論的な対立を提示していない様に思われます。
これは内田氏の議論。永井氏の議論でもたしかに、系譜学がメタ化するものの、新たに解釈学を包摂する議論となっています。というよりも系譜学的意識は分裂して、解釈学的意識に頽落するという過程を伴っています
>確かに、解釈学的思考が現在から過去への中立的な志向性として歴史起源と過程への観照の方法論を伴う<過去の学>であるならば、系譜学的思考は解釈学的思考のメタ化として、つまり、解釈学的に考察された一個の歴史的連続性のフロイト主義的批判の方法論であって、それによって現在に新たなパースペクティブを加算し捉え直す<現在の学>であると対立させて考えることはできます。
この部分永井解釈としていいのでしょうか。永井の解釈学的意識はむしろ現在の学として過去の意識をねじまげ、昔からあった青い鳥を刷り込みます。それは基本的に後知恵です。
内田氏のいわれるように、解釈学もしくは歴史的意識は

>一個の歴史的・文化的な被制約性の世界の内部に投企され「影響作用史」に内在する主体が行うものである以上、それが「ありのまま」を指示し得るか、という問題

が残ります。もちろん理想的クロニクルとしての歴史そのものが理念として入ってくるでしょうが(このあたり系譜学的意識によって解釈学的意識を補完していると申せましょう。)。
>なぜなら、系譜学的思考もそれ単独では機能し得ず、解釈学的思考の延長だからです。系譜学的思考は解釈学的思考と重層化された内在的活動なのではないでしょうか…??
系譜学内在的には理解しきれませんが、論理的に解釈学的意識で居直るという選択肢しか、(もちろん留保付きの居直りですが、)あり得ないと思います。あくまで私が擬似-解釈学の徒を脱し得ないからでしょう。以前のリッカート解釈もニーチェに妥協しすぎた理解であったと反省しています
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2007年01月07日

時間論の空隙=2015/11/18

 時間の各時点は過去であるか、現在であるか、未来であるかであって、この述語付けの如何は時間の経過と共に変化する。この時間の経過の側面をマクタガードはA系列と名づけています。
「私的言語は、端的な今的言語ではないから、時間を貫いて使える」。たとえA系列の事実を語るのは端的な言語でない−なぜならそれを語ることはA事実を相対化してしまう−にしても(永井原著161ページ)、驚くべきことに私的言語は、(普通のヴィトゲンシュタイン解釈とは反対に)言語が可能であるための条件である、という事実。
 実際「私」は過去の一時点から以前には経験したことがない感覚の質を持っており、それに対して「しっぽい」という言葉を私的に割り当てています。というより「しっぽい」感覚は或る時点以前に持っていたかどうか、記憶に定かでありません。そしてその「しっぽさ」は生理的に或る程度、説明がつくと自分では思っています(問題はその「しっぽさ」が異常に属すかどうかは、医者に委ねられている部分があることなのですが、そんなことはどうでもよい/というより人間学的問題?)。
 「私」が利益計算の最小単位のまとまりを持っているという前提の下で、短期的「私的言語」を肯定したいのです。
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2007年01月03日

胡蝶の夢

 荘子の胡蝶の夢は有名な話。夢と現実の境目で「現し世」はどちらか、態度決定を迫る物語です。この難問に対して以下の文がいささかの光を当ててくれるような…。再び永井均先生の本の出番です。原著140頁。
「夢を見ているとき、われわれはそれが後で思い出されることを意識していない。それは突如として思い出される。…現実に生きているとき、われわれはすでにそれが後で思い出されることを知っている」。

 でもこれって肝心なところが抜けているような気がします。ですって人は、現実に生きているとき発狂するがく〜(落胆した顔)ことすらあり、後で思い出されるという意識の連続さえ保っていないことがあるからです。
 ひいては『私』が、自己利益性計算の単位を維持していないことも想定できます。人の成り立ちはかくも分散化に向かって開かれています。
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2006年11月10日

音楽と超越:哲学以前

 今道友信先生が芸術を通して超越に至れるという文章を読んだとき、「文学的な修辞」にとどまるのではないか?という疑問がいささかわきました。
 しかし今はもう少し好意的に解釈しています。例えばブルックナーの交響曲演劇を耳にするとき、崇高なメロディーが立ち現れます。そのメロディーは時間的に何時、帰属するかというと、永遠に現在です。(過ぎ去ったメロディーも過去における現在であった、という限りでは。)音楽を聴くとき、現在は永遠であるという実感が迫ります。つまり時間の中でいっしゅ超時間的なものに出会う、という感慨に浸ってしまうのですが・・・
 そんなところから芸術を通して超越した「存在」に至れる、という命題に、哲学以前的な共感を感じるこの頃です。
・・・しかしこの文章は非哲学的転喩を語っているにすぎないことに思い至った。うっちゃっておいてよろしい。続きを読む
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2006年11月09日

哲学的命題の前に。超時間的なもの=2013/7/17

 時が流れるにもかかわらず、超時間的なものはないかと思案するにつけ、ハイデッガーの命題が念頭に浮かびます。
 ハイデッガーは現象学を「自分を示すものを、それが自分みずから自分を示すように、それ自身から見させること」(アポファイネスタイ・タ・ファイノメナ)として規定し、現象学的に解された現象がいつも「存在」を構成する以上「存在するものの存在」の解明を存在論において要求します。
 では「存在するものの存在」「存在一般」とは如何?ここで古東哲明さんの説明に耳を傾けてみましょう。「宇宙も神もモノもヒトも意識も死も生も、なんなら死後にある他界や天国や地獄でさえ、もしそれらが〈在る〉というのなら、存在を前提するというにひとしい」。だから「存在が究極の根拠であり、至高である」。つまり「存在」はほとんど時間を超えていると言ってしまいたいほど・・。このことに関連して次回以降、「存在一般」という前提のもとに、有限な存在者の「存在」そのものへと至る道がないか、哲学以前的雑感を書きとめておきたいと思います。
・・・注:「存在」に至る道という考えはあるしゅの退行を含んでいると考え直し、この部分は手をつけませんでした。続きを読む
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2006年11月07日

非哲学的命題?時は流れる=2015/11/15

 野矢茂樹さんのアキレスと亀のパラドクスの解法で、どうも気にかかって仕方がないことがあります。それは運動を論点先取しているのではないかという危惧です。もしアキレスが走っている最中で時が止まってしまったらどうなるのだろう。
 普通、時は流れて当たり前と考えていますが、「物理学的」には時の止まる可能性がアポステリオリにあるはずです。とすると時が流れるというのは哲学的命題に値しない「憶見」ということになるでしょう。でもいったい時が止まったとして、そのことを認識することは可能なのか?続きを読む
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