2020年04月27日

価値の普遍性-24=2020/4/30

野崎敏郎、前掲著、196-197頁。MWG,S.93、第26段落。
野崎注:「ある事実を確定しようとする科学者の営みは、たしかにその科学者の主観においては、あたかもありのままの事実の正確な記述にほかならないように映じるのであるが、そもそもなぜその事実に関心を向けたかについての自省を忘れると、そこに自己欺瞞が生じるのである」。
認知と解釈主義的論点の混交が見られる。なぜその事実に関心を向けたか、という解釈学的反省は、ありのままの事実の正確な記述に反省を及ぼす。それによって、極端な場合には、記述が失効をこうむるという事さえあり得るだろう。しかし、その場合においても、ロジックとしては、ありのままの正確な記述を貫こうとしている・・・といういっしゅ事実信仰が貫かれねばならない。つまり事実というものは「寄りかかられる」ということにおいて、事実でありうる。
最初から第27段落。MWG,S.94f.
医学の場合にあっても、「この生命は生きるに値するか否か、そしてどの場合に――こうしたことを医学は問いかけません」。歴史的に見れば、モード1の科学の特殊的形態においては、こういうことがあったかもしれない。ここではギボンズを引くまでもなく、またローダンに登場してもらわなくとも、科学が価値と密接にかかわり合っており、倫理的言明とかかわらざるをえないことを認めうるだろう。ヴェーバーはすこぶるモダン的すぎる。
当時の状況を把握してヴェーバーを解するにしても、次のようなくだりは見とがめざるをえない。「歴史的文化科学を取り上げてごらんなさい。....しかしこの科学は、こうした文化現象の存立が価値あるものだったか、また〔いまなお〕存立が価値ありか否かという問いに対する解答を、みずからのなかからは与えません」。そうだろうか。文化科学は価値ありを前提しているからこそ、文化的に特殊な記述に意味を与えうるのではないか。かちは、文化価値みずからのうちに前提されているのではないか。これを評して、野崎敏郎は、当該著書204頁で言う。歴史的出来事の「因果性の遡及」の問題は、その出来事の「倫理的『責任性』の意味と意義とにたいする問い」からは峻別されなくてはならない(WL6,S.223)」。たしかに狭義の倫理的提言とは区別されるべきこと(とはいえ、倫理的提言を説得する意味ではリンクしうるという留保つきで)であるにせよ、価値関係が、資料選択の指導原理として働くこと、したがってその場合、実践的な価値と関与しうる余地があることを、みじめなことにヴェーバーは忘失しているように見える。
posted by 9ki1to at 05:27| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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