2020年04月26日

価値の普遍性-23

「職業としての学問」・MWG,S.93 最初から数えて、第26段落 基本的に野崎敏郎「ヴェーバー『職業としての学問』の研究」晃洋書房、二○一六年に準拠する。
 「真の神への道」はたしかに、終焉を迎えたかもしれない。しかし、「真の存在」「真の自然」「真の幸福」への道を諦観するヴェーバーに同調することはできない。というのも、科学的研究は、少なくとも前の時代よりは、よりすぐれた世界観を呈示し、倫理学的研究は、無思慮な謹厳道徳の墨守から自由になっていこうとしているのだから。
 「何が存在するか」という問いへの解明は、反照的に人間とは、どういう存在かという、同一性の獲得を促す。「何が幸福か」という問いへのにじり寄りは、人が具体的な行動指針を他者に説得するさいの、補助を提供する。
 ヴェーバーはトルストイ的問題を引き受けて、「何をなすべきか」という問いに対して、科学は無意味である、と言っているかのようである。もちろん科学が全的に、トータルに、問いに応答しえない、とヴェーバーが言っているわけではない。
  「無前提の」科学はありえない。もちろん、リッカート的に言っても、価値無関係的な、文化科学はあり得ない。しかしヴェーバーがここで問題にしているのは、そうしたことがらと趣がじゃっかん違う。
 さしあたって、「論理と方法論との諸規則」の妥当は、前提されなくてはならない。それのみならず、「科学研究にさいして明らかになる事項が「知る価値がある」という意味で重要であることが前提されています」。価値関係的である文化科学は、特殊な価値を有意義と見なすがゆえに、価値的「説得」の基盤を有している。のみならず科学一般は知る価値がある。知るということが、幸福と並ぶ基本的な価値である、と現代の価値哲学者なら言うであろう。つまり、価値的「説得」の基盤には、共通の価値というものが必要になってくる。かくのごとき、価値論的議論の文脈で考えなければ、無前提な知はあり得ないというトートロジカルな些末な指摘に終わってしまうだろう。
 この点野崎が無前提でありえぬことを論証するため、ヘーゲル大論理学を引証しているのは、ほほえましくもある。価値哲学的に言って、価値は妥当であり、またそうである以上、認知主義的価値論が「説得」の可能性をひらくという、解釈学的/現象学的みとおおしを、ここで立てることができるであろう。(植村玄輝が示唆するように、ここで価値観という語彙が必要になってくるかもしれない)
posted by 9ki1to at 16:31| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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