2020年04月14日

価値の普遍性-22

三苫利幸による大河内一男の「没価値性論」のまとめ・マックス・ヴェーバー研究の現在、2016、創文社。
大河内は、近代国家のための政策を、資本主義の「内的な必然性」から構築すべきであると言う。一方で、彼は、シュモラーのように存在と当為をないまぜにした倫理主義を批判する形で、没価値的な存在を純化しようとする。他方で、ヴェーバーの社会認識を、自然科学を範とした没価値的なものと捉えなおし、自身の価値判断を吟味することなく、社会政策を論じた。
三苫が批判するのは、存在を純化しうるという前提のもとに、「対象(世界)へのもたれかかり」を生み出し、そのことによって自己の社会政策を正当化しようとする態度である。
もとより三苫は価値前提と切れることができると主張しているのではない。社会認識は、リッカートが述べるように価値関係的であり、価値関係性の背後では評価が蠢いている。(価値関係が理論的価値関係であることに対し、評価は実践的価値評価であることは注意)しかし、単純に「対象(世界)へのもたれかかり」を批判できるか。価値を存在論的に主観的なものとして、認識と切断することはできるか。対象認識が真理価値の承認であると言う立場に立てば、価値をとやかく言う以前に対象によりかかるべきである。価値の主観性を説く以前に、価値の理論装置としての客観性(価値の関係によってこそ、個性化的な認識が保たれること)を論じるべきである。もちろん、相対的に主観的な評価を対自化し切り分けて考えるということは必要であるが、評価と価値関係の「解釈学的な」連関に目をつぶるべきではない。
社会政策と言うと、何かいかにも主観的なように聞こえるが、倫理的命題が自己中立性を旨とすることを考えに入れれば、討論・自己吟味のなかで、より客観的な社会政策というものはあるのである。その可能性が秤量されていないと言っても、三苫にはないものねだりだろうか。
posted by 9ki1to at 07:48| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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