2020年04月12日

価値の普遍性-20

余談・リッカートにかんするヴェーバーの誤解
価値の話と、直接的には関係ないが、リッカートとのちがいを言うとき、ヴェーバー論者が誤って引用するくだりがある。幾度も指摘してきたことなのだが、ヴェーバー論者の不勉強を指摘するために、あえて今一度、引いておく。
安藤英治は、ヴェーバーを引用しつつ、次のように記述している。安藤132頁以下。
「即ち、彼(ヴェーバー)はここで歴史認識の論理的特性について語っているのであるが、精神的客体がわれわれに与えられている様式が、自然科学に対する精神科学(ママ・リッカートは文化科学と言っている)の本質的差異を根拠づけるのではないというリッカートの根本命題に対し、自分の立場はリッカートに近いが、それは、精神現象も生命なき自然現象とまったく同様に類概念や法則によって把握できるということから出発する限りにおいてなのだと断ったうえで、リッカートが考えたように「他人の精神(ママ・正確には心的)生活を解明することは原理的には不可能だ」ということにはならず、どんな種類の人間行為の経過や表現も意味深い解釈ができるのだと主張している」。

「精神的存在」に与りながら構成されてゆくのが、文化科学の研究対象である。リッカートと歩みを揃えて、文化科学を構想したヴェーバーとの関係を補っておこう。ヴェーバーは、「リッカートによって強調された他人の心的生への原理的接近不可能性」(Weber,M.,1973[1922](←1903-1906), S.12.fn.1.=ロッシャー,30-32ページ。)に言及する。このヴェーバーのリッカート解釈には、誤解が含まれている。たしかにリッカートの言い分によると、自然科学的手続きをとる心理学者について、このヴェーバーの言は当たっている。「〔すなわち〕こうした根拠から自然科学的手続きをとる心理学者は、自分の心的生[=Seelenleben]をもって、心的生に例外なく妥当する概念を獲得できるが、……そうしたところで、彼はせいぜい〈他人のそれへの原理的接近不可能性〉にたどりつくぐらいなのである」(Gr1,S.533.)。とは言うものの「歴史家は他者の心的生をまさしく、その個性的特性の観点から記述」できるのである(Gr1,S.533-534.)。この点、向井守,1997,189ページの記述によると、ヴェーバーは「リッカートの「他人の心的生への原理的接近不可能性」というテーゼには批判的であった。リッカートは、人間は自己の精神生活を直接に観察することはできるけれども、他人の精神生活にはそうすることができないので、ただ「推理の複雑な連鎖」という間接的な仕方で、推測するにすぎないという理由から、原理的に他人を理解することは不可能であると主張した」としているが、これは当たらない。なぜなら〔解釈学的〕「理解」の途が残されているからである。

瑣末な点にわたるが、「クニース(一)」でヴェーバーが、かつて消極的だった(Weber,M.,1973[1922](←1904),S.173.=客観性,78ページ。)「理解」概念に対して、――精神的事象の理解は、「原理的には「非合理性」が少ない」(Weber,M.,1973[1922](←1903-1906),.S.67.=ロッシャー,139-140ページ。)と――肯定的態度をとったことは、ディルタイへの傾倒がひとつの契機になっているのだろう(向井守,1997,308ページ。)。だがそのきっかけは、もしかするとリッカートにあったのかもしれない。リッカートの場合、研究者の関係づける価値は、「歴史的中心」である他者が態度をとる価値と異なる可能性もある。「もしくは:芸術家が時空的に遠く離れている諸過程である場合のように、精神的存在の諸価値[=1.Aufl.Werthe,2.Aufl.Werte]は、記述者の諸価値と同じでない。さらば歴史家は理解するかぎりでは、それに習熟し[=sich in ~ hineinleben]なくてはならない。〔それが理解である。〕それなら、この存在は彼にとって、その一度かぎりで個性的な、為すこと[=1.Aufl.Thun,2.Aufl.Tun]ないし為さんとすることが、次いで後を追うかたちで歴史家の興味をひくものとなる。彼はそれらに向かって歴史的にのみ観察して振る舞おうとする、つまり〔評価ではなく〕理論的に価値にのみ関係せんとするかぎりでは、それじしんが態度をとる価値以外のなにものでもないものを、この存在の描写にさいしても、本質的なものを非本質的なものから区別することに使用することができる」(Gr1,S.566;Gr2,S.500.斜体はGr1のみ・太字はGr2のみ)。研究者側の価値は、「歴史的中心」の価値に接近、ひいては合致するとする。つまり、リッカートは他者の生にテクスト媒介的に入り込み、相手の生を〔解釈学的に〕理解する、と言うのである。

 なお精神科学とリッカートの距離はGr1よりもGr2の方が遠ざかったように思われる。Gr1,S.562の「歴史的中心」が「記述の精神的中心」であるという表現に、精神科学との近さを見出せる。GE2,S.496の対応箇所にはこの表現が見られない。ただしGr2,S.505のごとく「人間の精神生活」を視野に入れた議論は、Gr2にも見られる。

posted by 9ki1to at 10:58| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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