2020年04月11日

価値の普遍性-19

安藤英治・ヴェーバーの精神構造 安藤118頁以下。
安藤はヴェーバーの責任倫理的側面を強調する。しかし、彼の心情倫理に対する微妙な態度の取り方を無視するわけにはいかない。

「信条」と訳した方がよい場合もあるが、以下「心情」で統一。補足しておけば、帰結を重視する〈目的合理的〉〔な倫理である〕責任倫理といえども、それを政治への義務と見なせば、「価値合理的」と解する余地もあるし、実際『職業としての政治』中の示唆によれば、心情倫理と責任倫理とは、絶対的に対立するものではなく、相互に補完して「政治への使命」となる可能性もある(vgl. MWG1/17:S.250)と、ヴェーバーは言う。つまり「心情倫理とは無責任ということで、責任倫理というのは心情がないことだと、よもや言っているのではありません」(MWG1/17: S.237)と、彼みずからが注記しているように、心情と責任は相補関係にも立ちうる。しかしながら、〈目的合理的〉な責任倫理に比べ、「価値合理的」な心情倫理がおとしめられてきた。――これはある時期までのシュルフターのヴェーバー解釈に典型的に見られるが、――いわく、「心情の炎をたえずあらたに煽り立てるのが、行為の目途(ツヴェック)なのですが、そのわざは、ありうべき結果から判断すれば、断じて合理的でないもので、心情の証としての(エクセンプラーリッシュ)価値しかもちえぬし、またもってはいけないものです」(MWG1/17:S.238)のごときが、その評価の一例である。心情倫理をめぐる評価については、すでに包括的な先行研究がある。内藤葉子、二○○四年、九○一-九○二頁、注(五)に、心情倫理と比較して責任倫理を優越せしめる論考名が列挙されている。ないし同論文、九○二-九○三頁、注(七)に、心情倫理の側から責任倫理を批判する論考名が列挙されている。なお横田理博、二○一一年、第二章も参照されたい。そこで指摘されるように、心情倫理と責任倫理の対立は〈宗教的価値と政治的価値との相克〉という一面をもっている。

ヴェーバーを支えていた内面的動機の二側面。日常性逸脱への警告と日常性埋没への反対である。これらの状況は、責任意識に立つべしと要求する。そうした自立した姿が、個人主義であり、文化的人間のあり方である。安藤121頁からの引用。「認識の知的訓練が明晰と責任感を与えるという点に学問のモラルがあるのであって、学問の中に特定のモラルを持ち込むことによって学問を倫理化することは、それとは全く別のことがらである。学問が倫理化されるところにあっては、明晰という学問のモラルが傷つけられること、戦前の国体思想を考えるだけで充分であろう」。

posted by 9ki1to at 18:08| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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