2020年04月07日

価値の普遍性-15

教壇禁欲・承前・安藤英治前掲書98頁。
「学生が教授に就くのは、ドイツの現状においては一つの強制された状況にあるのだから、そういう強制を受けている学生に個人的世界観を注入するために教壇を勝手に利用してはならない(WL,S.455.)」。要するに、「教壇作法」ともいうべき、「フェア・プレイ」の精神の発露である。立場を利用するな、というのは、いわばマナー的な統制的規範であり、学の内容にかかわる構成的規範でない。また、立場を利用しない形で、みずからの評価を対自化したうえで、講壇から価値を語ることは、「フェア・プレイ」と齟齬をきたすことはない。ヴェーバーは決して、価値判断を教壇から説くな、と言っているのではない。彼が禁じるのは、教壇から自由に語れることに乗じて、まるきり事実判断であるかのような論調で、つまり、それゆえにみずからの学問的卓越性を傘にきて、価値判断をすべりこませることの、いかがわしさである。「職業としての学問」と「客観性論文」との背景の比較は、それはそれで一つの興味ある問題であるが、ここでは触れない。ヴェーバーの価値自由が、一種の「教壇作法」であること・つまりそのことには、あらゆる価値的な立場を形式的には均し並みに提示すること等を含むのであるが、ことがらとしては、科学の倫理に属する問題であり、それゆえに問題の深度を測り間違えてはいけない。
 適度な深度を測量するには、例えば次のような文言を思いうかべればよい。「編集者は、自分自身に対してもまた寄稿者に対しても、彼らを鼓舞する理想を価値判断の形で表現することを決定的に禁止しはしない」(WL,S.156.)。
 それに付随して要請される責任とは、以下の二つである(安藤英治前掲書、103-104頁)。
一、いかなる価値意識に立脚しているかをつねに明確に自覚し、異なった種類の価値を錯綜させないように注意すること。
二、「思索する研究家は沈黙し、意欲する人間が語り始めているということ、また論議はどこまで悟性に訴え、どこから感情に訴えいるかを、読者に(そして――繰返しいうが――とりわけ自分自身に!)明らかにさせる」(WL,S.155)こと。
 肩透かしを食らったようで、こんなところにヴェーバーに対する幻滅を感じるのだが、どこから悟性・感情に訴えているか、どうかは、どうでもいい問題ではないか。学問上の価値は、レトリカル・もしくは動機的な要素に左右されるのではない。そもそもそれらは内観的な心理学の問題に属する。そもそも、学問的に熱を帯びれば、感情が高ぶるのは当たり前のことである。ただし高ぶっていても、学問上での優劣は歴然としてつくのであって、感情を明らかにせよとは、学問にとって、きわめて些末な要素であろう。じっさい、ヴェーバーは言っている。
「価値評価によって制約されているゆえに裁決できない問題は、社会学および国民経済学のごとき経験科学に対して価値評価が果す役割の論理的な論議と一緒にしてしまうことは、いかなる場合にも許されない」(WL,S.457.)。
posted by 9ki1to at 06:02| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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