2020年04月02日

価値の普遍性-13

安藤英治の価値自由論。「マックス・ウェーバー研究―エートス問題としての方法論研究」未来社、1994年[新装版]
89頁。「”ヴェルト・フライハイト”の二通りの意味は、"客観性"の二通りの解釈に完全に照応している。すなわち、”客観性”を、"主観に無関係な”、あるいは”主観を越えた”という意味に解する場合は、”ヴェルト・フライハイト”は当然に”価値を離れた”、または”価値に関係のない”という意味に用いられることになるが、この意味における”wertfrei”または”von Wertung frei”という使い方は、すでに論文『ロッシャ―とクニース』にヴント、ミュンスターベルクを批判するときに現われていた(WL,S.53,64,74.)。しかるに、”客観性”が主観的前提の上に成り立つものとウェーバーのように考える場合には、”ヴェルト・フライハイト”とは、価値理念や価値判断をできるだけ鮮明に(とりわけ自分自身に対して鮮明に)させることによってそれを自覚的に自己統制することを意味するものになる。したがってこの場合、"ヴェルト・フライハイト"とは価値を”離れ”たり”没”することではなく、価値を持ちながらそれに”囚われない”、そして囚われないという意味において”自由な”、態度を指すことになるはずである」。
まず、「価値を離れた」という意味でのヴェルト・フライハイトはヴェーバーの短見としか言いようがない。いかなる形であれ、認識は価値に「拘束されている」はずだからである。だからといって、その価値が、普遍妥当的でないとは必ずしも言えず、また、価値に拘束されているからといって、認識が主観的なものに限られるというわけではなかろう。価値判断のなかには、たしかにごく主観的なものもあるが、他方で、相対的に普遍性をもっているものがあるだろうし、場合によっては、価値の普遍妥当性を語ることも臆断ではない。それ以上に、分かりにくいのは、価値を持ちながらそれに囚われないという表現である。ここは好意的に解し、認識がもとづく第一次的な価値判断に反省を及ぼすことであると理解したい。とはいっても、よりメタ的な第二次的な価値判断にもとづいているには相違なく、その意味では価値に囚われないことは金輪際ありえぬことになる。とはいえ、メタ的な反省の普遍性という論点さえ、認めてもらえれば、価値自由論者との対立は言葉遣いの問題に帰する。おそらく、この論点を価値自由論者は認めぬだろう。ひょっとしたら、価値に囚われぬことを想定しているかぎり、価値自由論者はヴェーバー批判者以上に、楽観主義者なのかもしれない。
posted by 9ki1to at 10:20| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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