2020年04月01日

価値の普遍性-11

価値自由論争である。導入部の意味で、浜井修にまず準拠する。
浜井修、前掲書、33頁。「ウェーバーが社会科学の認識の没価値性を求めたのは、社会科学の対象に対してでもなく、社会科学自体つまり社会科学の言明に対してであった。社会科学の言明においては「理想の開陳」はなすことはできず、もっぱら「事実の思惟的整序」が行われるだけである。従って没価値性原理とは、社会科学の言明は価値判断から自由でなければならないという要請に尽きる」。
歴史学派の経済学が一種、実践的観点から出発したこと、そこから存在すべきものが存在するものと合致したり、生成するものと合致したりすると誤認された。そこでSeinとSollenの原理的区別が課題に上ってくる。つまり「社会科学の認識における事実言明と、その言明の主体である社会科学者の価値観に由来する評価言明とを明確に区別せよ、という要請である」(浜井前掲書、35頁)。
ここで価値判断という表現が取られず、評価言明という表現が取られているのは肯綮にあたる。というのも、個人主観的色彩が強い場合、評価という表現が適切だからである。二点論点を挙げておきたい。
一、事実言明は評価言明を前提とする。このことはリッカートの「歴史哲学」の考察と平仄を合わせる。だが、その前提という事態からして、峻別が難しいことが予想される。おそらく、相対的にその区別に目覚めた認識主体が、事実的言明と評価的言明の区別を対自化せよというものであろう。一応、それを肯定しておいても、自らの認識土台の反省とは、ミュンヒハウゼン伯の髭のような困難を含んでいないか。
二、事実言明は評価言明、さらには価値関係を前提する(とくに文化科学においては)。ただし価値関係のうちには、普遍的?なものも含まれてくるだろう。例えば文学史を書く場合、フォンシュタイン夫人の手紙に価値を見い出すということは、文学史の手続きとしては正当な価値づけである。価値自由が問題になるのは、こうした普遍的?な価値関係よりは、個人の思いなしに属する評価というべきであろう。
posted by 9ki1to at 05:21| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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