2020年03月31日

価値の普遍性-10

価値自由論争に入る前に
浜井修の「ウェーバーの社会哲学 価値・歴史・行為」1982、東京大学出版会より。覚え書き。
没価値性原理とは、社会科学における価値判断の取り扱いを排除することを意図したものではない。「価値判断は究極において一定の理想にもとづくものであり、したがって〈主観的〉な根拠をもつものであるがゆえにこそ、科学的討論から一般に価値判断が取りのけられる、ということには決してならない」(WL,S.149.)。価値判断は批判的に、科学において取り扱われる対象となりうる。
さらに浜井32頁から引けば、「科学が何らの価値評価をも前提にしないという意味で科学の「評価からの自由」を主張し要請しているわけでもない」。同33頁。「人間生活の諸事象をその文化意義の観点のもとで考察する科学」である文化科学ないし社会科学の場合、科学の成立根拠である価値観点は、科学的研究そのものである「経験的現実の思考的整序」を常に制約し、支配し、導くからである」。
「〈社会経済的〉現象としての或る事象の性質は、かかるものとして事象に〈客観的〉に付着しているものでない。それはむしろ我々の認識関心の方向によって制約される。言い換えれば、我々が個々の場合に当該事象に帰する特殊な文化意義から生じたものなのである」(WL,S.161.)。
文字ずらだけを追えば、リッカートの価値が普遍的で、ヴェーバーの価値が普遍的だと相違しているように見える。しかし、リッカート的に言えば、かけがいのない価値であるからこそ、文化的に傑出した普遍的意味をもつのである。両者の間に深刻な齟齬はない。
かくなる次第で、認識は価値を前提する。では価値自由とはいかなる事態を指すのだろうか。
posted by 9ki1to at 12:24| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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