2020年03月30日

価値の普遍性-9

これまで見てきたように、価値の普遍性を説く、概念的ツールは揃っていると思われる。にもかかわらず、価値の普遍性がはやらいのは、ひとえにマックス・ヴェーバーの神々の戦い、さらにはそれにまつわる価値自由論争があるためであろう(ポイカートの所論・参照)。
西洋文化の爛熟とともに、神、ひいいては単一の価値観ということは失効し、神々の戦いに形容される価値観の対立が・・・宗教的価値の失墜と平仄を合わせて現れてきたというわけであろう。しかし、従来の価値観の失墜は、あらたな価値の普遍性の準備段階であるかもしれない。
問題は、そうして価値判断が普遍性をもたない以上、学問論的に言っても、価値を講壇の上からは説いてはならないとされることである。
後者にわたる価値自由論争を瞥見しよう(そののちに職業としての学問に触れることにする)。
価値自由とは、認識が価値から自由になれるという楽観的な主張ではない。認識は、人文社会科学の場合、価値を前提としており、価値前提抜きの認識はあり得ない(伊勢田哲治先生の発言・まちがっとるよ)。そもそもそうした学知においては、経済的価値・審美的価値・宗教的価値等の価値を対象に関係づけ、そのことによって対象を構成してゆく(フォンシュタイン夫人の手紙ならば、文学的見地を、文学的価値とともに導入している)のであるから、価値無関係と言うことはあり得ない。この立言は、リッカートサイドのものであるが、ザッハリッヒに言って正当なものであると思われる。ヴェーバー経由で価値無関係的な自然科学について、wertfreiと表現されるのはリッカートにとって迷惑なことだろう。ヴェーバー学者は、この水準に目を蔽いがちである。例えば鈴木宗徳の価値関係解説には、以上の点が欠落している。そもそも価値の身分を社会的現実とは無関係な論理的問題に切り詰めることをリッカートがしなかったことすら押さえられていない。現実性のなかに価値との絡み合いを見てとり、それに文化科学の定礎を求めたリッカートの企図さえ無理解なのはどうしたことか。
それはさておき、明らかに、ヴェーバーは価値を前提にするなとは言っていない。また価値が研究の対象にならないとも言っていない。(この辺り、浜井修の先行研究参照のこと)さらに言えば、実践の場面からの撤退でないことも、安藤英二の出口批判を引くまでもなく明らかである。
だが、価値を前提にした認識に立ちながら、講壇から当為を説いてはならないということとどう両立するのであろうか。ことは価値自由論争の本蹄にかかわる。あらかじめ言えば、喧伝されるほど、ヴェーバーの功績は多くはないと思われるのだが。一応の敬意を払い、検討することにしよう。
価値自由論争・職業としての学問・つづく。
ヴェーバーの価値の多神論的診断について。「ヴェーバーは、文化価値のヒエラルヒッシュな体系化を最終的に果たすと同時に現実科学の究極的な体系化をはかるというリッカートの抱負に共鳴していなかった」(邦訳、ポイカートp.28)と言う。そのことは「文化科学の体系などといういうものは、それ自体ナンセンスである」というヴェーバーの言葉に現われている(WL,S.184.)。ポイカートによれば、それはひとえに「価値多神論への確信」と主知主義に対する懐疑が背景にあった、と。しかしリッカートの価値の体系は、現実の生を解釈するために、価値と価値がどのような関係にあるかを、対自化しつつ、価値関係的概念構成に与るという、文化科学の認識論として企てられていた。たしかに価値の高低を含意する表現は見られるものの、それじたいシェーラーの諸論にもみられる論点であり、価値整序的理解において、価値の序列を設けることが一概に否定されてよいことがらではない。ましてヴェーバーの否定するような、評価の体系化ではなく、文化科学ならおよそたずさわざるをえない、文化カテゴリーの整序なのである。絶対的多神論といい、徹底的価値相対主義といっても、その背後で、おのれの価値を隠れて措定するなら、それはいつわりの・プロパガンダめいた価値相対主義である。そのことは、価値自由論争において、没価値性が否定された経緯を思い出していただきたい。価値ニヒリズムは規範的に機能しえないことは明々白々である。
ヴェーバーから引く。
「文化的生の分析にさいして、.....特殊で「一面的な」観点を離れた絶対に客観的な科学的分析などというものはおよそありうるものではない[強調原文――ポイカート]。社会現象は、必ずそうした特殊で「一面的な」観点に照らして研究対象として選択され、分析され、体系的に叙述されるのである」(WL,S.170)。
見るところ、リッカートとの絶縁は決定的ではない。リッカートの価値の体系は超越論的であり、学の背後で個体概念の構成を手引する非科学的分析だからである。彼にとって特殊なもののいちづけは二義的である。一方で、科学分類論系列では、異質的連続が説かれ、生のままの個体は、科学的分析に似つかわしくないと言われる。しかるに、学的な個体概念はあくまでも有効であり、そのさい導き手となるのが、超越論的に体系づけられた価値である。他方、認識の対象系列では、個体的現実が成立する以前に、所与性の形式が働いており、悟性的媒介を経ない個体というものはありえないという立場が取られる。いずれの方途を取るにせよ、普遍的な価値(かけがいのない価値)と関与するからこそ、一面的な個体が体系的に叙述されるというのが、リッカートの立場である。もとより、かけがえのなさを強調するヴェーバーと、価値関係を強調するリッカートの間に対立があったが(それが表面化するのは、文化的自然科学・個性化的自然科学をめぐってであることは注記しておこう)、一面性を重要視する点では、両者の間に決定的な対立はなかったと言えよう。
かけがいのない価値が、その比類なさにおいて、普遍的価値であること、それゆえに価値の高さというものが歴然として存在すること、これらをリッカートは譲らないだろう。
リッカートの克服しようとするのは、価値の高さなき、価値平準化であって、それゆえにこそ価値多元論が明確に立てなくてはならぬ、と考えているのである。したがって、ヴェーバー的相対主義は、価値多元論という豊饒な議論領野を、赤子を盥の水で流してしまうような、妄動のたくらみと言うほかはない。
posted by 9ki1to at 06:00| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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