2020年03月03日

価値の普遍性-2=2020/8/28

人の考えはわからないか。
 価値の対立と言うことで、人はしばしば他人の考えなど分かりようがない、とうそぶく。気の遠くなるような意見の社会的対立ということを出発点とするなら、そういう感慨もやむを得ないかもしれない。その反対に、自分の考え方は、まったく公に開かれていて、その中立性を疑わないという、社会学者がいた。これにも、いい加減反吐が出る。まあこれは感情的な反発だから、あまり真実性は含まれていないかもしれない。自分が正しいと考えているとき、何らかの意味での普遍性を密輸入していることは、ままあり、そのこと自体は不健全とは言えないだろう。自分が5+7=12と考えているとき、それ以外に正しいと考えられない。殺人が悪いと考えているとき、それが社会の理に定位しているのなら、たしかに普遍的に?悪いだろう。吉高由里子が美人と考えているとき、他人にもそのことを認めてもらいたく思っているだろう。もちろんラオスの首長美人を美しいとは思えないのだが、美という範疇で捉えているとき、当人にしてみれば、何らかの普遍性を要求している。議論はもうカントの美学の主観的普遍性の域に踏み込んでいる。また、死んだら無である・・・どのような意味かはわからないが、幽霊を認めている人でも、それが生きている人から何かを欠如を含んでいる・無がそこに忍び寄っていることを認めるだろう。このように価値判断(狭義の理論的価値も含む)が一致していること・もしくは一致を要求しているとか、一致を案外、秘密裡に持ち込んでいるとか・・・哲学の戦場は案外、アナーキーではないのではないか。たまたま、密やかな戦いを挑む人はいるが、それは価値判断の戦場を〈私〉という拠点から繰り広げているからである。しかし、社会の視点が勝つことは、プラグマティカルに約束済みである。というのは、こういうことである。対話なり、戦争なり、他者との接点を設定するとき、言語論的に他者を前提せずにはいられぬ。これは論理的と言うより、実践的・人生論的な意味においてそうである。つまり、他人のことがわかるという、至極当たり前な前提が、生きているうえでは作動してしまっているからである。これは論理的問題ではない。たとえ、精神病者が、自分の考えと他人の考えを区別できない、もしくはそれが災いして、他人の理解ができないと言っても、その人がたまたま、病気であることに目覚めるなら、他人が自分の考えを盗み取っている(思考伝播)等々の病的指標が自覚されるはずである。だが、その指標が自覚された時点で、その人が正しい思考ができるかできないかにかかわらず、つまり意識とは無関係に、病というかたちで、「他者」が正常状態として設定される。精神病者は結局、いつも「他者」に負ける。いつも「社会」に負けるのである。もしくは「他者」のことがわかるということがらが、事実可能ではなくても、正常状態の理想となることである。だから、人の考えがわからないと孤塁を守るより、そうしない方が、実践的・人生論的にいいのである。人の考えはわかるはず、というカノンが価値の普遍性をひらく。
posted by 9ki1to at 17:59| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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