2020年01月04日

リッカートの事実判断(価値判断)-3シミュレート感応説

 高次認知的情動それぞれに、はたまた認知的信念に、特有の身体的反応が伴いうるか、と問うてみよう。このことに関連して、身体性の反応によっては、認知的構成要素が一義的に精緻化されるわけではない、という説がある。認知的状況が「再較正」(recalibration)によって決めるのは、たかだか情動・信念の種類にすぎない、というわけである。較正とは、或る「探知器」に反応する情動について、「或る探知器で測ったらAだったのに別な探知器ではBになる」という外見上の不一致を避けるよう、共通の基盤を探し、それぞれの探知器の追跡を把握することである。例えばネズミは過去の状況によって、餌を得るよう因果的に条件づけられているが、そのために餌の場所まで泳ぐというようには、条件づけられていないとする。後者の認知的条件下では、例えば餌を得ようとする情動が、「泳ぎ」を促すものとして修正をこうむる。こうして因果的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、さらなる再較正によって説明されうる。例えば通常の身体性の「怒り」は、或る種の認知的判断の状況下では、「不貞」に関する判断への反応として生じた「嫉妬」となる。例えば通常の身体性の「快感」は、反省を潜り抜けることによって、「幸福」として再較正される。このように別の認知的状態のもとでは、別の情動・認知を構成する。もとより個々の高次認知的情動に対応する「原」情動・「原」信念は共通なのだから、身体的反応はもとの情動から派生したとしてもよい。とはいうものの認知的状態による決定は、再較正を積み重ねて、身体性の評価が帰属する情動の種類にまで及ぶ。そうだとすれば、「ドクサ・思いなし」たる高次認知的情動は、認知をとおして、おのおのの特色をもつことになろう。それは、過去の経験に拘束されない、新奇性に感応した選好に応接する、というわけである(ドレツキ,F.,2005,第六章2.)。

 このように再較正によって、妥当からのかかわりを再解釈することで、認知の種差・情動の種差が生まれてくる。そのなかで普遍化的経路によって、勝義の価値判断として、述定的価値判断を含んだ様々なそれが立ち上がる。つまり@再較正とA普遍化ということが、認知主義的・合理主義的な価値判断のベースである。

 かようにも、価値判断は妥当の(準)価値的かかわり(それが情動にかかわるかぎり、価値判断に上昇しえない)を迎い入れて成立する、非自然主義的な業である。認知的な核は、妥当という客観軸が用意し、価値判断の種差の成形、ひいては普遍化的な構成は、迎い入れる態度決定が主導権を揮う。この妥当機軸のモデルにおいては、事実判断も価値判断の一種とみなしうるという長所があるのである。

 ところで真であるとはスピノザにあって、現実性の必然的な概念的総体を意味していたのである。すなわちスピノザ的に、永遠の相のもとの真理に住まうことは、有限者と神の思惟が一致する水準を考えることである。ただしリッカートから見れば、人間主体にとって、思惟と延長の同一性が成り立たないとする(BL.22)。すでに見たように、スピノザ的永遠には、自由の余地がない(リッカートはそれを緩和すべく、必然性概念を穏やかなものに解する(BL.24.))。

 こうしたスピノザ的自体的境地と掠るかたちで、リッカートの妥当(なかでも論理的妥当)ということから、認知主義が切り開かれる。それは個性主義的「価値多神教」と結びついた、真なる知(Gnosis)の探求であった(S. Griffoen, 1998, S.70.)。ここでリッカート的合理性を、異端的ではあるが、「主意主義的認知主義」と呼びたい。

 これに関連して「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを内在的領域に形成しつつ、シミュレーションを行うところに、ポパー型生物の特徴がある(戸田山和久、二〇一四、二六四頁)。それに引きつけて、合理的認知たる当為(妥当の派生態)の選択を考えてみたい。加藤泰史の言い方をもじれば(加藤泰史、二〇一四、一五二頁)、当為の次元を開示することで規範的次元を切り開き、――妥当という超感覚的存在(かかわりを呼びかける実在)を介して、――規範的観点から、判断行為に理由を付与する「作為」(Faktum)が、本来の価値判断ということになる。それは「意識一般」が認識論的内在を守りつつも、シミュレートによって手を伸ばす「超越の境界」である。

「主意主義的認知主義」は、リッカートの有限者認識に拠って立つ、ひとつの認知主義である。それはあくまでも、内在にとどまりつつ、或る種の価値との隔たりを予期しながら、認知的レジスターに即したシミュレートを駆使する認知主義である。もちろん、傾向性のそれ、のみならず理由性の合理化も、シミュレーションはかかわりうる。あくまで自体的なザッヘにしたがうとき、主観の迎い入れは当為的な導出に携わると言う意識をもちうる。誤解なきように付言すれば、価値判断は、妥当をベースにした、普遍化のブリコラージュ的寄せ集めである。そこには再較正と普遍化という、主観の側からの介入が必要なのであり、それによって価値判断たりうる。価値判断が「作為」たる所以である。・未完・ラスク論で完成させる予定。

(注)スピノザ、バールーフ・デ、『知性改善論』から、当為と必然の交わるところを、最後に押さえておきたい。事柄を自体的に見れば、「真理であることが確かになるためには、真の観念をもつ以外何ら他の標識を必要としない」(35、以下括弧中の数字はブルーダー版の番号)、つまり□Aである。しかし懐疑論者のように心を盲目にされてしまった人もいるから(47)、「真の観念の当為にしたがって他の諸観念を適当な秩序で獲得してゆけば、真理は、前述のように、自己自身を明らかにする」(44)。だからObAが要請される。認識必然公準□A→ObAを説くスピノザには、真理との隔たりはなかったのだろうか。スピノザにおいても、真理が流れこむことは、稀以外ではないのだから(44)、リッカートと同床で、〈価値との隔たり〉という異なる夢を見ていた。スピノザも私たちも、認識必然公準、さらには当為を無視しえない所以は、ここに慥かに存しているのである。

posted by 9ki1to at 05:12| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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