2020年01月03日

リッカートの事実判断(価値判断)-2非自然主義的認知主義

 非自然主義的認知主義的側面へと移る。リッカートの場合、事実判断が原基的に価値判断ということになるから、話が錯綜する。だがしかし妥当という(準)価値に定位することは、価値判断一般の理論をつくりあげるうえで、大きな強みを発揮すると思われる。

㈠、悩ましいが、――今述べたように――認識が係る論理的(logisch)事実判断が、実践が係る倫理的(ethisch)価値判断と同じ構造で論じられる。認識論的二元性、つまり存在(現実性)と価値(妥当)の区別が設けられる。そこで前者は畢竟、後者に依存するがゆえに、現実性の概念と価値概念は交互概念となる。しいて言えば、真理価値を前提にした事実判断と、事実判断から遊離した価値判断、〔つまり評価との〕区別がしつらえられている。後者は、学的吟味の後景に退く。

㈡、およそ価値判断に関して言えば、構造としては、@客観的価値に対するA「振る舞い」ということになろう。個人的な評価がどのように絡まってくるのか、明確ではない。@を強調すれば、――かかわりを呼びかける妥当を、実在として据える――非自然主義的認知主義ということになり、Aを強調すれば、決断主義的情緒主義ということになる。暫定的に言えば、非自然主義的認知主義(「主意主義的認知主義」)の契機が認められるということである。

 さて、妥当に関する真理同一説的境地(上の一、で述べた、非自然主義的認知主義を、とくに真理価値に適用した形態のもの)は、カントの〈真理とは何か〉という問いかけを踏まえている (G. Gabriel.&,S.Schlotter,2013,S.25)。もとよりカント解釈では、模写説を公認されるわけではなく、一致という形式的一般的基準が指摘されるにすぎない(認識と悟性/理性の原則の一致)。やや広い文脈から見て、G. Gabriel.&,S.Schlotter, 2013,S.31のフレーゲのように、一致ということがらがありうべきだとしても、それは真理の定義に与りえぬ。というのも真理の具体的確定作業は、なお一致のうちに訴えなくてはならぬからである。思えばスピノザに関連して、「真なる観念はその観念対象と一致しなければならない」(『エチカ』第一部公理六)のである 。およそ一致ということを離れると、真理を確定しえない。スピノザは、対象との一致を観念が真であるための、「外的標識」と名づける。一致をリッカートと共有するフレーゲを参照すれば、フレーゲ自身、さまざまなところで、何か現実性について言明する思想の承認のために、意味[Sinn]表現にすがるよう配向されると示唆している(G. Gabriel.&,S.Schlotter, ,2013,S.31.)。

 ここにリッカートとの実在論的接点が存する。リッカート哲学では、認識にあたって、妥当という(準)価値へと差し向けられる。もちろん基本的に価値実在論の枠に収まるという意味では、実在論の結構をとっているが、価値は同時に、超越論的な含意(客観を成立せしめる超越論的条件という含意)をもつ。(1)ではリールの実在論に接近したリッカート哲学の〈超越的観念論=経験的実在論〉的相貌を描き出すことにより、T文に依拠する同一説をリッカートに認め、同一説へとアプローチする。

 さて、リッカート哲学を同一説として跡づけるにあたり、Meerbote,R.,1995,S.351-356の形式論理的分析を援用しよう。まず価値尺度「超越的当為」[1]に「一致」することで、構成される「経験的実在」の階梯を追跡する。そして科学分類論系列[2]の所知構成論は、前科学的世界に横たわる経験の沃野[3]を、視野に入れているとして、積極的に評価したい(以下の議論は「リッカート解釈の冒険」と重なるところがあるが、〈現実〉=「知覚」という論点が明確ではなかったので書き直した)。

 [直観の多様]リッカートの分析の端緒を、個々の具体的な主観iによる、直観の多様aについての肯定判断(1)Ui(Fa)によって表わすとする。リッカートにならうなら、主観iaperceptio知得する。このレベルでは、〈多様〉は、たんに「与えられたもの」として措定されているにすぎぬ。リッカートは、意識内容中、原初的な〈現実〉として〈多様〉を考えているのである。この「知覚」(もしくは直観)に即した〈現実〉は模写によってくみ尽くせない(Rickert,H.,1910(←1899), Kap.V. 内容が〈現実〉的なものとされる。Vgl.GE3,S.209.)。学問分類論にわたる批判に言及しつつ、ディルタイは、次のように生の前科学的〈現実〉を高く評価していた。「リッカートの現実科学とは歴史学のことであって(Dilthey,W.,2004(←nach1904),S.286:Gr.1,S.327からの引用)、それは、普遍的概念を扱う自然科学とちがっている。それゆえリッカートは自然科学を勝義の学問とはしなかった」。ここで、

(1)Ui(∃y)(y=a)

(1)が真のとき、aの存在を表示すれば、(2)が成り立つ。

(2)(∃x){(x=a)&Ui(∃y)(y=x)}

(1)と(2)の双方は、aという直観の多様が、存在判断(とはいえ、それは知覚判断にも及ばない判断以前形象である)の要素となることを表現している。

 [異質的連続]以下は「異質性と連続性との結合」を説く、リッカートの『文化科学と自然科学』第二版のくだりである(Vgl.Gr1,S.34/Gr2,S.32.)。「連続は、それが同質なら即座に概念によって支配されうるし、異質なものは、私たちがそれを截り出すとき、つまりその連続性を非連続性へと変化させるとき、理解されうる。こうして学問には、その途として二つの概念構成もまた、明らかとなる。私たちは、〈現実〉すべてに挿し込まれている異質的連続を、同質的連続か、もしくは異質的非連続に変形するのである」(Rickert,H.,1910(←1899),S.33.)。〔この箇所は――アヴェナリウスを承け――「模写説」に引き摺る『限界』第一版には見られない。構成を予期する『限界』第二版の論点である。〕
 [構成の主観性]かくて構成の主観性が問われる。さらにFyで規定される概念Fが述語として入ってくるならば、ごく単純な形でも次の知覚判断[4]の形式をとる。

(3)UA(∃y)(y=a&Fy)

この判断が真である時、aが感覚的な与件である道理によって、

(4)(∃x){(x=a)&Fx&Ui(∃y)(y=x&Fy)}

が成立する。(4)は、知覚判断を示している。知覚判断といえども(カントのそれを思い浮かべればよいように)内在的【客観】を目指すのである。この関係をメアボーテにならって、たんに「指示的関係」と名づけたい。この「関係」では判断者iに言及しており、iという条件のもとでのみ、たとえばaが青い、たとえ(漆黒の)暗闇において見えなくても青い、と判断(4)を下す。

(1)(2)が直観の多様にしか言及しないばかりか、 (3)(4)のごとき知覚判断の域にとどまる。さらに進んで、これは青いものである、という青い【このもの】に関する判断は、

(5)Ui(∃y)(y=dies Blaue)

となる。このさい、判断はまだ「知覚判断」の域で推移しており、普遍妥当的判断を懐胎しえていない。

 [普遍妥当的判断への移り行き]「現実」存在の〔判断の〕形式は、となる。これを【このもの】ではなく、価値と一致した「である存在」に当てはめるのなら、「青いもの」という「現実」存在の判断は、となる。これは(3)の個体定項を個体変項に変え、青さという本質?にも言及している。つまり、「前科学的個体」概念を介して、「現実」存在の構成に関与している。〔直観の多様を〈現実〉と見なせる文脈も存在しうるが、物心に対応する水準に「現実」存在を位置づけたいと考える。〕(6)Ui(∃y)(y=dies)
 翻って最も単純な「指示的関係」は、以下の判断形式
(7)Ui(∃y)(y ist blau)
(8)Ui(∃y)Fy

によって示される。そして知覚ならざるαについて語る命題

(9)(∃x)(x=α)

へと引き継がれてゆく。この生の経験的所与にわたる議論は、以下の引用を参照されたい(Vgl. Rickert,H.,1901, Gr1,S.354-355: 1913b, Gr2,S.316-317.)。

「私たちは、それゆえ、いかなる任意の事物ないし過程それぞれに相応しい個性は、その内容が現実と合致したかたちでは、その認識にも到達できないし獲得にも値しない。かくのごとき個性は、十全に規定された諸契機のなかから顔を出すものであるし、私たちにとって意義[=Bedeutung]に溢れた〔科学的〕個体とは峻別する必要がある。この通俗的に考えられたものでしかない狭義の個体〔つまり「前科学的個体」〕を、普遍的類概念がそうでないがごとく〈現実〉ではなきこと、のみならず私たちの現実把捉ないし前科学的概念構成の産物であることを、明確にしておかなくてはならない」。すなわちそれは〈現実〉ではなく、「現実」存在の構成契機となる「所与」である*(Rickert,H.,1905,S.63. 前科学的概念構成については、Gr1,S.379:Gr.2,S.342.)。こうして「直観の多様」=〈現実〉を最基底に置き、「前科学的個体」を所与として構成が進む。勝義の普遍妥当的判断へと上昇することで、相在たる「現実」存在が規定される。

 まとめれば「科学が研究にたずさわる以前に、むしろ至るところで、すでに概念構成が生じており、把捉と疎遠な〈現実〉ではなく、前科学的個体という産物を、科学は質料〔=本稿の言う所与〕として見いだすのである」(Rickert,H.,1905,S.62.傍点ゲシュペルト)。学的概念αは、iによる「知覚」=〈現実〉からは制作できぬ概念である。

 学的概念αに関連して、コウモリがソナーによって「かたちを聞く」ことは、逸脱現象なのだろうか。いや、私もそのことを、生態学的な説明の比喩によって、理解することが可能である。つまり比喩が「文法補完的」?に用いられているにすぎない。その意味で「世界をわれわれとは全く異なった仕方で経験しているものの可能性」(村田純一,1988,47ページ)さえ認めうる。つまり「私の直接的経験から」の回り道した経験も想像できる。突拍子もつかない命題内容があるときでさえ、「私」による判断は下されること、つまり、「私」以上のものに〔実際、なることは不可能としても〕扮したとき、「私」の判断は真であると言われる。「私」には、あたかも「意識一般」を扮した命題内容の「承認」[5]が要請されるのである。そのさい「前科学的個体」は、*で見たように、一般化的方法/個別化的方法という学的概念構成の「所与」となる。学的概念構成は、そこで特殊な事物、出来事に普遍的価値を結合して(Rickert, H.,1905,S.80.) 、学的個体概念を構成する。繰り返せば、「前科学的個体」は「所与」である。この「所与」は、学的「問いかけ」の第一次的対象である。とはいえ「所与」は、概念構成を介して形式とかかわっている。けだしディルタイにおいても、「所与」とは「連関」に媒介されていたことと足並みをそろえているのだろう。すなわちリッカートの場合、「前科学的個体」の水準で、同一説が成立するのである。

 Gabriel,G.&Schlotter,S.,2013,S.31によれば、「真理の模写説を拒絶する点で、フレーゲと新カント主義者は帰一する。この立場に関連して、もちろんフレーゲの批判が一致説すべてに向けられたものでなかったことに、留意しておく必要がある。一致説は、それが定義的要求と結びついているかぎりでのみ、非難される。とはいえ、それが真理の確定作業にかかわる場合には、正当性をもっている。フレーゲ(フレーゲの文脈ではSinnに意義を当て、Bedeutungに意味を当てる。リッカートの文脈ではSinnに意味を当て、Bedeutungに意義を当てる)じしんは、さまざまなところで、なにか「現実」存在について言明する思想の承認のために、意義[=Sinn]表現にすがるよう配向されることを示唆している。この見地にリッカートとの接点が存する。つまり一致の解釈は、それじたい存立する現物との摸写として論じるときにかぎって、リッカートの批判が映えるという論点である。リッカートの超越論的観念論は一致説に抗するものではなく、ただ模写説に異を唱えているだけなのである(Vgl.Krijnen,Ch,2001,S.218.)」となる。

[1] 原型はフィヒテであろう。湯浅正彦からの引用を引いておく。「他方「現象」は、……作用を自己遂行する「根源的な自由」でもあって、この「自由」にとっては「現象」の〈一〉なる〈存在〉(=「神の映像」)は、「当為」としての「法則」として現象する」(湯浅正彦,2016,107ページ)。

[2] 『認識の対象』系列での、以下の「所知構成の階梯」と比較参照せよ。

1.経験的に与えられた直観の多様(「知覚」)が有る。知覚表象〔の断片〕に「承認」を及ぼして、「所与性の範疇」を帰属させ、個々の【このもの】が成立する段階(GE2,Kap.5,II.)。リッカートの場合、非論理的質料〔本稿の言う所与ではない〕が想定されていたとも言われる(「純粋内容」Rickert,H.,1921,S.53;1924(←1912),S.13.)。判断によって形式を与えることで、【このもの】が構成される。

2.【このもの】に「構成的範疇」(因果のカテゴリーはこの次元で働く)が帰属し、「現実」存在が構成される(『認識の対象』第二版(1904年),Rickert,H.,1904,GE2,Kap.5,III.)。GE2,Kap.5,

II/III.(第二版以降の諸版でも同様)では【このもの】以後的に「現実」存在を置いている。つまり【このもの】に「現実」(性)という形式、ならびに「構成的範疇」〔時間、空間、個別的因果性の形式〕とが結合して、「現実」存在が構成される。「所与に客観的現実性の形式を与え、そうして客観的現実を構成する諸カテゴリーを、構成的範疇と名づける」(GE2,

S.211.)。

3.「現実」存在に普遍的価値が関係して、特定の観点から内在的【客観】(因果的法則性による前科学的個体の制限は、限定的である)を概念媒介的に抽出する。「現実」存在から内在的【客観】が成立する段階(GE2,Kap.5, IV.)である。認識がなされるなら、多様からの改変[=Umbildung] (GE2,S225-.226.)をこうむることになり、「現実」存在から離れる。「或るしかじかの法則に従っていること」は、認識のあり方に対応したものである。それゆえ、この認識のあり方の形式は「構成的範疇」と区別して「方法論的形式」と呼ばれる。

[3] アヴェナリウスの影響については、Kraus,Ch.R.,2016,S.63-72を見よ。とくにその精神物理学的投影概念について、『認識の対象』第一版(1892年GE1)で批判が向けられた。

[4]ただ主観的に妥当的である経験的判断は、これを私は単なる知覚判断と称する。知覚判断は、いかなる純粋悟性概念をも必要とせず、思惟する主観における諸知覚の論理的連結を必要とするにすぎない」(Kant,I.,Bd.IV,S.298.=6:250ページ。下線はゲシュペルトでない強調、ボールド体はゲシュペルト)。

[5] 「私」が「私以上の役割」を扮するrole-takingを、ここでは「承認」と呼んでいる。

[6] こうした所知は「意識一般」に現出するのではないか。認識主観というものは、他者の判断意識を通じて思考可能なものに限られる(Dilthey,W., 2004(←nach1904), S.272.)。ところで内在的【客観】つまり自己の意識内容は、主観によって思考されうる。言い換えれば、それらはすべて、「意識」に対する内在的【客観】になる。この第三の主客対立での能知、「意識」は、第二の「主観〔心的主観=自己の意識内容を含む〕を、なおもう一度主観と客観とに分解」(GE1,S.8/GE2,S.13.)し、より狭くとったものである。第三の主観項、〈意識作用〉を指示するのに、リッカートは第二の主観と紛らわしい「意識」[=Bewusstsein] (GE1,S.8/GE2,S.13,usw.)という語を用いる。ここに、〈ディルタイ的「覚知」が作用と対象内容とを区別しなかったこと〉との、対比を見出せる。

 さらに限定して、判断主観を考えうる。この判断意識たる「意識一般」は、内在的【客観】になりうる表象主観と区別される。それは、個人的理論的自我をまるきり内在的【客観】だと考えたとしても、主観として残る (Dilthey,W., 2004(←nach1904),S.274.GE2,S.144.)。フレーゲの一致説は一見、リッカートのそれと趣を異にしているかのようである。ウィットゲンシュタインの「論考」との関係で言えば、フレーゲはタルスキのT文を真理の基準とする一致説をとっていた。しかしフレーゲ-リッカート間の対立は、リッカート的主観とすることで、超越論的観念論=経験的実在論的に解決できる。

 以上のことを大枠で捉えるなら、リッカートの超越論的観念論は、同一説を御払い箱にするのではなく(Vgl.NMS,S.218.)、ただ模写説に異を唱えているだけなのである(G. Gabriel.&,S.Schlotter, ,2013,S.31.)。というのも模写を言いだすと、循環もしくは無限後退に(G. Gabriel.&,S.Schlotter, 2013,S.27.)帰着するからであって、独立自存する原物は、ポイントを失わざるをえない(G. Gabriel.&,S.Schlotter,2013, S.31.)。ことがらに即して考えるなら、例えば「ソクラテスは賢明である」という事実と、「ソクラテスは賢明である」という命題には、言語的なちがいはない。むしろ事実と命題の間で成り立つと言われる、対応という関係が不分明なのである。「対応が実際に完全でありうるのは、対応づけられるべき諸物が一致し、したがって別物では決してない」 (G.Frege,1918-19,S.60.=四:二○五頁)ケースであるが、そのようなことなど、よもやありうるだろうか。いったいこの関係を、どのように考えればいいのだろう。約めて言えば、模写は認識の論理的特徴の誤認であり、認識の基準問題を解くことができない(Ch. Krijnen, 2013,S.51.)。――ちなみに村田純一氏からの私信によれば、現象学に同一説の徴を認められるとの由。――そうしたアポリアを自覚して、現象学では、明証経験は、経験以外の何か他のものによって、特徴づけられないとする。畢竟、現象学は、その経験のうちの内的要素をつうじて、対象自体が現われるという同一説的構えに近づいている。

 リッカートは、認識の主観的要素と客観的要素とをいずれも斥け、フレーゲ(Ch.Krijnen, 2013,S.45.)とともに、同一説、もしくは対応項を廃棄する余剰説に近いスタンスをとったのであろう。そうしたフレーゲ=リッカートラインの真理論の射程を一瞥しよう。フレーゲ的に言うのなら、「思想」は意味[Sinn]のレベルで事実と合致[coincide]する。ここでの「思想」は、真である意味的項「思想」を、事実そのものと考えるのである(もとより、フレーゲの「思想」をレファランスの項とする異説を知っている。それでは、フレーゲ的な同一性を誤解しているという誹りはまぬがれない)。片やリッカートは次のように説いていた。「一致を認識するのは、相変わらず主観が必要であり、この認識はもはや表象ではありえぬ。なぜなら表象なら、新たな一致が認されねばならず、無限後退に逢着せざるをえまい」(GE1,S.44.)。模写は――表象と知覚との関係にとどまり、必然的に現物・コピーの対応にもちこまれる以上、――無効なのだ。けだし知覚される元来の客観と、表象によって模写された客観という、二つの項に分裂しかねないから。こうして認識主観のなかに、主観列の無限系列を抱え込んでしまうことを、リッカートは指摘したのである一致はあくまで外面的な基準であって、真であると本当に言えるためには、思惟そのものの内に、その根拠をもたなくてはならない。真なる観念を偽なる観念から区別する何かリアルなもの。そうしたリアルな(準)価値が、相在を組み立てる。

 このようにして構想された妥当領域は、第一に可謬性を保証するものであり、第二に価値判断の傾向性的基盤・合理論的理由となる。妥当それ自体は価値そのものでないとしても・・・それは事実判断との接合が見られるゆえに、(準)価値的な相在の構成契機にすぎないのである。ここでいう相在が、価値そのものではないとしても、動因的・動機的に価値とかかわりうる。それは、主観にかかわりを呼びかけ、主観は決断をもって迎い入れる。注意すべきは、妥当は、事実の存在根拠であると同時に、価値の存在根拠であるという点である。もとより、独断的な思い込みをいかに排してゆくか、という問題は残るものの、具体的問いかけをつうじて答えられるべき問題であって、模範解答的な解決を与えることはできないであろう。けだし、同一を保証する「かかわり-迎い入れ」関係を説くためには、シミュレート論を視野に入れた、理論拡充が必要である。

posted by 9ki1to at 10:20| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。