2019年11月09日

認知主義 彷徨

 

「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを認知的内在領域に形成しシミュレーションをおこなうところに、ポパー型生物の特徴がある(戸田山和久、二〇一四、二六四頁)。それに引きつけて、いかなる認知的状態に準拠すべきかがはじめから決まっていないさいの、認知的規矩の選択を考えてみたい。

加藤泰史の言い方をもじれば(加藤泰史、二〇一四、一五二頁)、当為の次元を開示することで規範的次元を切り開き、規範的観点から、判断行為に理由を付与する「仮説」(Faktum)が、超越論的?当為ということになる。それは内在的な意識一般が、そこにとどまりつつもシミュレートによって手を伸ばす「超越の境界」である。

意識の内在的相関の根拠が、価値概念であるとしても、そもそも有限者のシミュレートの結果は、あらかじめ決まっていないのだから、認知的規矩は宙刷りにされる。仮に対応説ならば、まず「従うべき規矩」が定まっている。それを(理性の検討を経ずに)そのまま判断行為に及び、実践に移せばよい。だが、自由に対峙する――現象の認識論的内在に即した認知主義的主意主義の場合、どう判断を決定すべきかは、決まっていない(というより、常に反照的均衡に晒される仮説である)。われわれはみずから問うことによって、認知的状況をいかに設定するか、はたまた、さらに進んでいかなる実践に移すかを決定しなくてはならないのである。
一、悩ましいのが、判断論=認知が実践的倫理判断と同じ構造で論じられることである。対象としての二元性、つまり現実性と妥当の区別が設けられるのだが、現実性は畢竟、価値に依存するがゆえに、ヴィンデルバント的な事実判断と価値判断の区別は設けられない。しいて言えば、真理価値を前提にした、事実判断と、事実判断から遊離した価値評価との、区別が設えられている。後者は、学的吟味の後景に退く。
二、実践的倫理判断だが、構造としては、客観的価値に対する態度決定ということになろう。個人的な評価が、どのようにからまってくるのか、明確でない。前者を強調すれば、非自然主義的認知主義ということになり、後者を強調すれば、決断主義的態度決定ということになる。つまり妥当に重きを置くのか、主意主義に重きを置くのかのちがいである。これまでの研究では、後者の側面に焦点を絞ってきたが、按配に欠ける気がしている。
三、認知主義ということだが、判断論での妥当機軸と、実践的評価での認知主義を、区別しえてなかったのも問題である。一応、これらを認知主義として扱い、それらをベテーティグングするものとして、主意主義的態度決定を設定しよう。ただしこのように考えたとしても、前段の認知主義固有の問題は残る。すなわち、有限な主体が妥当に手を伸ばす・仰ぎ見るという、有限主体の能力の限界の問題である。
posted by 9ki1to at 04:00| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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