2019年11月03日

スピノザとリッカート-1

スピノザの並行論解釈にリッカートの相関主義がどのような翳を落としているのかを見よう。Korrelat(Correlat)を造語成分として含む単語が出てくるのは、文中五箇所である。幾分の齟齬も見えるので概括的なまとめで禁欲しなくてはならない。一、スピノザが並行論を首尾よく完遂したかという問いを承けて言う、「延長という属性の様態各々に対して精神的なものに相関項が存し、反対に観念各々(jedrのe欠)に、それに対応するにちがいない何か物体的なものが存するということである。私たちはそこで物体各々は観念に、つまり一個の観念に対応し、観念各々は物体に、つまりふたたび一個の物体に対応することが明らかにされるなら、私たちのスピノザの成就の首尾という問いに肯定的に答えられる」。しかし観念の観念という二つの観念が対応する「相関者」、様態が一つしかないので並行論はとん挫するかに見える。この文脈で観念の観念を第三の属性と見なす解釈が検討され棄却される。二、また物と心の対応が難しいことが示されるのは、スピノザが自己意識に無頓着であるかに見えるくだりである。いったいスピノザは無限に多くの無意識的心的状態を認めるよう強いられたのであろうか。「自己意識に対して、思考の様態は決め事としてあえて意識的と認めよう。まさにこの意識ということにこそ、自己意識の固有の本質が成立する」。さりとて「自己の表象は、たしかに「純粋精神的な」何かとはいえ、それに対応する相関様態を延長のなかで選り分けることはできないであろう」。

このようにスピノザ解釈における相関関係は対立概念の相補性という骨格を残している。とはいうものの、並行的・相即的(もとより実体的に一なので当然であるが)性格を示している。

こうした第一領域レベルで物と心が相関するにあたり、その関係の導きとなるのが価値である。リッカートは次のように説いていた。「一致を認識するのは、相変わらず主観が必要であり、この認識はもはや表象ではありえぬ。なぜなら表象なら、新たな一致が認されねばならず、無限後退に逢着せざるをえまい」(GE1,S.44.)。模写は――表象と知覚との関係にとどまり、必然的に現物・コピーの対応にもちこまれる以上、――無効なのだ。けだし知覚される元来の客観と、表象によって模写された客観という、二重化は避けなくてはならぬ。こうして認識主観のなかに、表象系列という主観列の無限系列を抱え込んでしまうことを、リッカートは批判したのである(T.,Kubalica, 2012, S.108-109.)。一致はあくまで外面的な基準であって、真であると本当に言えるためには、思惟そのものの内に、その根拠をもたなくてはならない。思えば、リッカートでは価値とは、一致を名乗る思惟そのものの次元であり、この価値自身において真理が問われた。それをスピノザ風に言いかえれば、〈おのれと同一な観念〉の次元と言えるだろう。真なる思考は、ほかの思考に関係なく、それ自身で自らが真であることを知悉しているのである。

価値という根拠をリッカートに設けるなら、それからurteilenして出てくる物と心は、非実体性=現象の分轄、したがって物と心が相関する意識というかたちをとるであろう。それに対してスピノザの並行論は、根拠を神の実体性に置く。とすれば神の内在的領域にものと心の並行的・相即的関係として相関が成り立つだろう。見方を変えれば、神の存在論的内在(スピノザ)が個人に投影されて、現象の認識論的内在(リッカート)が生成するのだ。しかも後者、意識の内在的レベルの根拠が、価値概念であるなら、前者、神の内在的レベル(属性)の根拠が、実体概念ということになる。

posted by 9ki1to at 05:29| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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