2018年12月29日

記述と機能・マンドリン事例(3)=2019/11/13=2019/12/31

 マンドリン事例の意図の解釈性について。マンドリン事例には、まだ意図と言えるものがある。それは、作者エラリー・クイーンの意図である。彼にとってのマンドリンの機能・記述は何か。凶器?鈍器?いや「巧妙な凶器」と言うべきであろう。作中人物とは違う次元で成り立つこの意図は、読者との間で共有される。
 ここで読み取るべきは次の二点である。
@ 作中の凶器・鈍器・楽器という意図と、作者の意図が「逆立」するところに、「巧妙な凶器」の「技巧的」価値が生まれる。この内包に即した新しい価値の策出は、九鬼が「ひねり」と呼んだものと対応する。
A ティーパーティー事例における、後知恵でこしらえた、「無難さ」・「冒険」といった記述は、一応、現実のシミュレーションとして理解されうる。だがしかし、ティーパーティーの解釈の技巧性は、上の「解釈性」と類似してくるのではないか。つまり、虚構のフィクションをいかに解釈する問題と、現実をいかに解釈するか、という問題の類似性である。先に、解釈性とあえて虚構性という表現を使わなかった所以である。フィクションとシミュレーションに通底する解釈の要素を、「解釈性」とあらたに定義したい。つまり、フィクションとシミュレーションの未規定部分解釈問題を、「解釈性」という共通の発想で捉えたいのである。このように考えると、現実の未規定部分解釈問題、つまり意思決定問題は、フィクションとつうじる部分をもっていることが明らかになる。これを現実のフィクション化という反自然主義的構図によって収めたい。とくにその例示として、ティーパーティー事例のマンドリン事例化を掲げることにする。
 三浦俊彦,2015,「フィクションとシミュレーション」
p.380フィクションにおいては「行動と意識という現象面はマクロなレベルにあり、機能面はミクロなレベルにある」。p.381つまりフィクションは「マクロレベルの行動を先に作ってゆく」。このことを世界という観点から考えるのなら、「Pが論理的に可能である限り」「そのような可能世界は確実にあるのであり」「修正不可能である」(p.392)。つまり「名目的な改訂不可能性を持つ」(p.392・マンドリン事例を想起せよ)。それに対し、「シミュレーションでは、「実はこの結果は間違いだった」という訂正可能性が根本的にいつでもつきまとう」(p.392)。
 けだしティーパーティー事例は、現実に起こったなら、間違いがつきまとうシミュレーションである。コネクショニズムに準拠する選好説が、ミクロのレベルで働いており、現象を決定している。ティーパーティー事例で、機会集合が拡大するにつれ、y(ティーパーティーへの参加券)x(自宅の椅子)に選好がかわるか、y(ティーパーティーへの参加券)→z(吸引するコカイン)に選好が変わるかは、シミュレーション的な意思決定原理=期待効用原理(三浦p.396)によって決まっている。
 だが本当にそうなのか。y→xつまり「無難」という記述、y→zつまり「遊興」という記述を与えれば、外延レベルの選好は、内包レベル=記述の選好に事後的に置き換えられることができ、いかなる選択をとっても、記述によって正当化されることになる。別の観点からみれば、期待効用原理は、内包に関する効用の跡知恵的な操作により、いかようにも修正されうる(後からの記述に即して、効用が増減する)。つまり、記述にかんして収束するまでは訂正可能だが、いったん記述が収束してしまえば、訂正不可能になる。つまり現実(シミュレーション)がフィクションに近づいてゆく。この現実のフィクション化こそ、ティーパーティ事例のマンドリン事例化の本質である。
 ・・・付記:コンビニ問題 8;00に家を出た。大学に行くためである。つまり8:00の家を出たことは、大学への出発であった。しかるに8:15にコンビニに行くよう気が変わる。ここで8:00の家を出たことは、コンビニへの出発に変わる。本質的には、上記の現実のフィクション化の問題と同じ構造をもっている。
 ・・・審美的判断特有の選好の話を設定しなくてはなるまい。逆に言えば、審美的判断は倫理的判断につうじるということであり、その反対も真である、ということだ。
posted by 9ki1to at 07:01| Comment(0) | 認識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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