2018年06月05日

高次認知的情動=2018/9/7=2019/1/31=2020/2/10

 

高次に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に愛情を感じていないのに、――世間体から悲しむそぶりをしていて、実際愛情ゆえ悲しんでいるかのように、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合、悲しみの感じ・振る舞いがともなうことがあろう。にもかかわらず、当人は愛していないのだから、悲しむべき理由を全く見いだせない。それは「自己演技的悲しみ」というべきである。この場合、モジュール性が維持しがたいのは、悲しみの背後の愛情の有無が問われているからである。

ポイントは高次認知的情動「愛情」の観点から、「悲しみ」のような感情プログラムが派生しうるという点である。情動の認知的契機としては、「愛していない」という「高次の判断」があって、見かけの「自己演技的悲しみ」は括弧入れされる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけという了解において、十円玉の見えは括弧に入れられ、「実際は巨大である」という判断を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、「悲しみの感じ」と「悲しくない=愛していないという認定=価値判断」とは同格でなく、後者の判断によって、「悲しみの感じ」が滅せられるのである。受け容れられているのは、「愛していないから悲しくない」という価値判断だけであり、見かけは阻却されるのである。身体的反応(ここでは脳状態)が情動と「密接に」連動しているわけではなかろう。


 情動が感じ・信念・判断のいずれにしても、イヌへの恐怖に関する矛盾が出来するようにも、思われるが、ここでは「矯められる可能性」を含んだ信念=命題態度としておきたい。
posted by 9ki1to at 05:37| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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