2017年07月25日

非哲学的断章(続く)=2017/7/25

 
死を前にして、すべてが虚無に化してしまう、という感慨には根強いものがある。もしくは、死とは一個の謎である、という念が強く意識される。いずれにせよ、もし私の死とともに、世界のなかのすべての存在が無に帰するのなら、存在というものは、私の意識と独立には存在しない、という考え、つまり存在するのは意識だけであるという、観念論に誘われる。
 観念論が自殺に至るみちすじを描くことは、それはそれで簡単ではないが、私の意識とは独立に実在というものがある、と思う。例えば、ヒュームの追跡において、印象の分解の極限に、単純印象を想定したが、何かが所与としてあるのである。もちろん物的なものとも言えないにしても、モリヌークス問題の「かたち」に対応するような、経験にとってxがある。それらは感情的な確信にぴったり寄り添って、私たちの日常生活の地盤となっている。おそらく、私に先立つそのxは死後も、理想的な世界のなかに論理的には保存されるのであろう。それが私たち?の生き方の態度と即している。
 おそらく意識が、実在に「依拠」していない、という観念論は正しくない。されば実在するxが、物・心のいずれの身分をもつかは、事実探求の「科学の問い」ということにならないだろうか。すなわち、ヒュームを乗り越えるかたちで視野に入れてきた、記憶や知識の直接性(印象に対する観念に訴えても、基礎づけ不能である ことは幾度か示唆してきた)に裏づけられたxとして、まさにそれらの所与がある限りで、何か端的な実在を指し示している。つまり原物に対するコピーという了解を維持しえないのである。しかもそうした実在は、情念や生き方の態度に裏打ちされているので、生半可な懐疑では根扱ぎにしえないものなのである。宗教が断定の繰り返しであったように、実在の信も断定で打ち切られる。
 かくして経験論の準拠枠であった観念論の彼方、言い換えれば実在論の極北が拓けるように思われる。これは、哲学的問題の終着点ではなく、問題の乗り換え点である。幾度か示唆してきたように、言語は実在に係留するばかりか、私たちにとって余所余所しい、可能なタイプとでもいうべき、存在の「かたち」を提示する。こうした「かけがえのある個体」とも言うべきものは、公共の言語空間のなかに位置しているように思われるかもしれない 。はたまた、情念なり、道徳なり、私は、公共の場が接していることを示唆するごとき、事象に出会わざるを得なかった(ようである)。だがしかしこの他者という磁場は、私にとっての些末なエピソードに過ぎないのではないのだろうか。果たして、言語という媒体は、私のこの経験の場を溢れ出て、他者へと浸潤してゆくのだろうか。
 哲学3.14より。
posted by 9ki1to at 04:02| Comment(2) | TrackBack(0) | 様相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
生後、直後、現実世界は虚無だった。暫くして、自意識が生まれて、現実を目の当たりにして、少し臆病になった。

というのは、人に人たる正当性のある身分は存在せず、その時の人であるものの世代によって、現実世界の筋道は決められていたからだ。

でも、現実世界は嘘や幻の力、霊的な力、科学的な力、人による訓練によって、さまざまな問題を乗り越えていくことができると思う。(たぶん)
私自身は非力で、現実世界の筋道を立てることはできていない。

しかし、現実世界におけるこれら虚無は、古代遺跡の壁画とか、修行者の釈迦とか、王の息子であり、哲学を広めたプラトンが残したものを真価として、本質や概念を意識する心を会得した。

さらに、もしも死後に魂(心情)があったならとするところ、または、このように意識される概念を意識するところなんてところは、現実世界の虚無としてではなく、どこか別のところにあるものだからということをしろしめした。

けれどもおそらく、この事実探求には相応の身分(お金と時間)と想像力が足りていない。
私自身、すでに修正するのが、億劫な問題に今も巻き込まれていると感じている。
悲惨な人はどんな底辺にも適応しうることが、人には人たる正当性のある身分は存在しないことを証明していると思う。

ある絵心のある嘘つきが、センス?どんな知識を持っているかだと思うと言っていた。
倫理観の徳やセンスは多様に変質していると思った。丁度、ヒュームと同世代の作家のヴォーヴナルグの本を読んでいたので、思い出した。

そして、感心したのだが、他者の当事者問題は、わかりたくもないという気持ちであったり、我慢して想像したり、真似したりはできるけど、遊び心で見るぐらいにしておかないといたたまれないし、それに対して嬉しくも面白くも何とも思わないことに、人としての限界を感じていけば良いのだと思うようになっていた。

現実世界は、その時の人であるものの世代によって、現実世界の筋道は決められているのだから、そこでの人であるものがどんなものかに興味を持ち、自らは幸運であることを望んで、非力でも勇気をもって現実世界に願った筋道を立てていかないと、すぐに生活が成り立たなくなると思った。(金欠)
Posted by ORLITIA at 2017年07月28日 20:12
現実世界の筋道・・・・決まっているのでしょうかね。今日ここまで、かなり波乱にとんだ人生だった気がします。
Posted by 九鬼一人 at 2017年08月18日 06:18
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