2020年04月27日

価値の普遍性-24=2020/4/30

野崎敏郎、前掲著、196-197頁。MWG,S.93、第26段落。
野崎注:「ある事実を確定しようとする科学者の営みは、たしかにその科学者の主観においては、あたかもありのままの事実の正確な記述にほかならないように映じるのであるが、そもそもなぜその事実に関心を向けたかについての自省を忘れると、そこに自己欺瞞が生じるのである」。
認知と解釈主義的論点の混交が見られる。なぜその事実に関心を向けたか、という解釈学的反省は、ありのままの事実の正確な記述に反省を及ぼす。それによって、極端な場合には、記述が失効をこうむるという事さえあり得るだろう。しかし、その場合においても、ロジックとしては、ありのままの正確な記述を貫こうとしている・・・といういっしゅ事実信仰が貫かれねばならない。つまり事実というものは「寄りかかられる」ということにおいて、事実でありうる。
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2020年04月26日

価値の普遍性-23

「職業としての学問」・MWG,S.93 最初から数えて、第26段落 基本的に野崎敏郎「ヴェーバー『職業としての学問』の研究」晃洋書房、二○一六年に準拠する。
 「真の神への道」はたしかに、終焉を迎えたかもしれない。しかし、「真の存在」「真の自然」「真の幸福」への道を諦観するヴェーバーに同調することはできない。というのも、科学的研究は、少なくとも前の時代よりは、よりすぐれた世界観を呈示し、倫理学的研究は、無思慮な謹厳道徳の墨守から自由になっていこうとしているのだから。
 「何が存在するか」という問いへの解明は、反照的に人間とは、どういう存在かという、同一性の獲得を促す。「何が幸福か」という問いへのにじり寄りは、人が具体的な行動指針を他者に説得するさいの、補助を提供する。
 ヴェーバーはトルストイ的問題を引き受けて、「何をなすべきか」という問いに対して、科学は無意味である、と言っているかのようである。もちろん科学が全的に、トータルに、問いに応答しえない、とヴェーバーが言っているわけではない。
  「無前提の」科学はありえない。もちろん、リッカート的に言っても、価値無関係的な、文化科学はあり得ない。しかしヴェーバーがここで問題にしているのは、そうしたことがらと趣がじゃっかん違う。
 さしあたって、「論理と方法論との諸規則」の妥当は、前提されなくてはならない。それのみならず、「科学研究にさいして明らかになる事項が「知る価値がある」という意味で重要であることが前提されています」。価値関係的である文化科学は、特殊な価値を有意義と見なすがゆえに、価値的「説得」の基盤を有している。のみならず科学一般は知る価値がある。知るということが、幸福と並ぶ基本的な価値である、と現代の価値哲学者なら言うであろう。つまり、価値的「説得」の基盤には、共通の価値というものが必要になってくる。かくのごとき、価値論的議論の文脈で考えなければ、無前提な知はあり得ないというトートロジカルな些末な指摘に終わってしまうだろう。
 この点野崎が無前提でありえぬことを論証するため、ヘーゲル大論理学を引証しているのは、ほほえましくもある。価値哲学的に言って、価値は妥当であり、またそうである以上、認知主義的価値論が「説得」の可能性をひらくという、解釈学的/現象学的みとおおしを、ここで立てることができるであろう。(植村玄輝が示唆するように、ここで価値観という語彙が必要になってくるかもしれない)
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2020年04月14日

価値の普遍性-22

三苫利幸による大河内一男の「没価値性論」のまとめ・マックス・ヴェーバー研究の現在、2016、創文社。
大河内は、近代国家のための政策を、資本主義の「内的な必然性」から構築すべきであると言う。一方で、彼は、シュモラーのように存在と当為をないまぜにした倫理主義を批判する形で、没価値的な存在を純化しようとする。他方で、ヴェーバーの社会認識を、自然科学を範とした没価値的なものと捉えなおし、自身の価値判断を吟味することなく、社会政策を論じた。
三苫が批判するのは、存在を純化しうるという前提のもとに、「対象(世界)へのもたれかかり」を生み出し、そのことによって自己の社会政策を正当化しようとする態度である。
もとより三苫は価値前提と切れることができると主張しているのではない。社会認識は、リッカートが述べるように価値関係的であり、価値関係性の背後では評価が蠢いている。(価値関係が理論的価値関係であることに対し、評価は実践的価値評価であることは注意)しかし、単純に「対象(世界)へのもたれかかり」を批判できるか。価値を存在論的に主観的なものとして、認識と切断することはできるか。対象認識が真理価値の承認であると言う立場に立てば、価値をとやかく言う以前に対象によりかかるべきである。価値の主観性を説く以前に、価値の理論装置としての客観性(価値の関係によってこそ、個性化的な認識が保たれること)を論じるべきである。もちろん、相対的に主観的な評価を対自化し切り分けて考えるということは必要であるが、評価と価値関係の「解釈学的な」連関に目をつぶるべきではない。
社会政策と言うと、何かいかにも主観的なように聞こえるが、倫理的命題が自己中立性を旨とすることを考えに入れれば、討論・自己吟味のなかで、より客観的な社会政策というものはあるのである。その可能性が秤量されていないと言っても、三苫にはないものねだりだろうか。
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2020年04月13日

価値の普遍性-21

ヴェーバーは社会科学的認識の客観性をどのように考えていたか。
「客観性」批判・安藤英治135頁。
ヴェーバーが見るところ、ロッシャ―にあっては法則的把握に対する信仰が前提されていた。彼にあっては「法則」は「客観的」と見なされる。ヴェーバーの時代に支配的であった客観性は、主観性と関係しえない客観性であり、ヴェーバーの展開したことは、この意味での客観性の意味転換であった。またそのさい、究極の実体に対する批判が念頭に置かれていた。
安藤英治・140頁「ウェーバーはつぎのようにいう。つまり、学問は、学問研究の結果得られる認識は「知る価値がある」という意味で重要なことである、という前提に立っているというのである。しかも、研究結果が重要であるかどうかについては、学問自体は答えることができない。「それはただ、人びとが、各自その人生の究極の立場からこの結果の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって、解釈されうるのみである」という。
このように一定限の文脈で、ヴェーバーは価値の主観性を認める。すなわちヴェーバーは、人間の発想が、なんらかの価値意識に立脚していることを是認せよと要求する。こうして索出される客観性は以下の二点に要約されうる。
一、主体的創造としての客観性 創造という口当たりのいい言葉を安藤は使っているが、客観性を虚焦点として立てて、それに向かって努力せよ、といったところで、それほどのちがいがあるようにも思えない。つまり、客観性の到達のためには、反省的努力を要するというほどの含意しかもちえない。
二、緊張としての客観性 解釈学的循環でも勉強して、ヴェーバー君は出直してきてもらいたい。
という次第で、認識論としてヴェーバーが語りえたことは、きわめて些少である。
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2020年04月12日

価値の普遍性-20

余談・リッカートにかんするヴェーバーの誤解
価値の話と、直接的には関係ないが、リッカートとのちがいを言うとき、ヴェーバー論者が誤って引用するくだりがある。幾度も指摘してきたことなのだが、ヴェーバー論者の不勉強を指摘するために、あえて今一度、引いておく。
安藤英治は、ヴェーバーを引用しつつ、次のように記述している。安藤132頁以下。
「即ち、彼(ヴェーバー)はここで歴史認識の論理的特性について語っているのであるが、精神的客体がわれわれに与えられている様式が、自然科学に対する精神科学(ママ・リッカートは文化科学と言っている)の本質的差異を根拠づけるのではないというリッカートの根本命題に対し、自分の立場はリッカートに近いが、それは、精神現象も生命なき自然現象とまったく同様に類概念や法則によって把握できるということから出発する限りにおいてなのだと断ったうえで、リッカートが考えたように「他人の精神(ママ・正確には心的)生活を解明することは原理的には不可能だ」ということにはならず、どんな種類の人間行為の経過や表現も意味深い解釈ができるのだと主張している」。

「精神的存在」に与りながら構成されてゆくのが、文化科学の研究対象である。リッカートと歩みを揃えて、文化科学を構想したヴェーバーとの関係を補っておこう。ヴェーバーは、「リッカートによって強調された他人の心的生への原理的接近不可能性」(Weber,M.,1973[1922](←1903-1906), S.12.fn.1.=ロッシャー,30-32ページ。)に言及する。このヴェーバーのリッカート解釈には、誤解が含まれている。たしかにリッカートの言い分によると、自然科学的手続きをとる心理学者について、このヴェーバーの言は当たっている。「〔すなわち〕こうした根拠から自然科学的手続きをとる心理学者は、自分の心的生[=Seelenleben]をもって、心的生に例外なく妥当する概念を獲得できるが、……そうしたところで、彼はせいぜい〈他人のそれへの原理的接近不可能性〉にたどりつくぐらいなのである」(Gr1,S.533.)。とは言うものの「歴史家は他者の心的生をまさしく、その個性的特性の観点から記述」できるのである(Gr1,S.533-534.)。この点、向井守,1997,189ページの記述によると、ヴェーバーは「リッカートの「他人の心的生への原理的接近不可能性」というテーゼには批判的であった。リッカートは、人間は自己の精神生活を直接に観察することはできるけれども、他人の精神生活にはそうすることができないので、ただ「推理の複雑な連鎖」という間接的な仕方で、推測するにすぎないという理由から、原理的に他人を理解することは不可能であると主張した」としているが、これは当たらない。なぜなら〔解釈学的〕「理解」の途が残されているからである。

瑣末な点にわたるが、「クニース(一)」でヴェーバーが、かつて消極的だった(Weber,M.,1973[1922](←1904),S.173.=客観性,78ページ。)「理解」概念に対して、――精神的事象の理解は、「原理的には「非合理性」が少ない」(Weber,M.,1973[1922](←1903-1906),.S.67.=ロッシャー,139-140ページ。)と――肯定的態度をとったことは、ディルタイへの傾倒がひとつの契機になっているのだろう(向井守,1997,308ページ。)。だがそのきっかけは、もしかするとリッカートにあったのかもしれない。リッカートの場合、研究者の関係づける価値は、「歴史的中心」である他者が態度をとる価値と異なる可能性もある。「もしくは:芸術家が時空的に遠く離れている諸過程である場合のように、精神的存在の諸価値[=1.Aufl.Werthe,2.Aufl.Werte]は、記述者の諸価値と同じでない。さらば歴史家は理解するかぎりでは、それに習熟し[=sich in ~ hineinleben]なくてはならない。〔それが理解である。〕それなら、この存在は彼にとって、その一度かぎりで個性的な、為すこと[=1.Aufl.Thun,2.Aufl.Tun]ないし為さんとすることが、次いで後を追うかたちで歴史家の興味をひくものとなる。彼はそれらに向かって歴史的にのみ観察して振る舞おうとする、つまり〔評価ではなく〕理論的に価値にのみ関係せんとするかぎりでは、それじしんが態度をとる価値以外のなにものでもないものを、この存在の描写にさいしても、本質的なものを非本質的なものから区別することに使用することができる」(Gr1,S.566;Gr2,S.500.斜体はGr1のみ・太字はGr2のみ)。研究者側の価値は、「歴史的中心」の価値に接近、ひいては合致するとする。つまり、リッカートは他者の生にテクスト媒介的に入り込み、相手の生を〔解釈学的に〕理解する、と言うのである。

 なお精神科学とリッカートの距離はGr1よりもGr2の方が遠ざかったように思われる。Gr1,S.562の「歴史的中心」が「記述の精神的中心」であるという表現に、精神科学との近さを見出せる。GE2,S.496の対応箇所にはこの表現が見られない。ただしGr2,S.505のごとく「人間の精神生活」を視野に入れた議論は、Gr2にも見られる。

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2020年04月11日

価値の普遍性-19

安藤英治・ヴェーバーの精神構造 安藤118頁以下。
安藤はヴェーバーの責任倫理的側面を強調する。しかし、彼の心情倫理に対する微妙な態度の取り方を無視するわけにはいかない。

「信条」と訳した方がよい場合もあるが、以下「心情」で統一。補足しておけば、帰結を重視する〈目的合理的〉〔な倫理である〕責任倫理といえども、それを政治への義務と見なせば、「価値合理的」と解する余地もあるし、実際『職業としての政治』中の示唆によれば、心情倫理と責任倫理とは、絶対的に対立するものではなく、相互に補完して「政治への使命」となる可能性もある(vgl. MWG1/17:S.250)と、ヴェーバーは言う。つまり「心情倫理とは無責任ということで、責任倫理というのは心情がないことだと、よもや言っているのではありません」(MWG1/17: S.237)と、彼みずからが注記しているように、心情と責任は相補関係にも立ちうる。しかしながら、〈目的合理的〉な責任倫理に比べ、「価値合理的」な心情倫理がおとしめられてきた。――これはある時期までのシュルフターのヴェーバー解釈に典型的に見られるが、――いわく、「心情の炎をたえずあらたに煽り立てるのが、行為の目途(ツヴェック)なのですが、そのわざは、ありうべき結果から判断すれば、断じて合理的でないもので、心情の証としての(エクセンプラーリッシュ)価値しかもちえぬし、またもってはいけないものです」(MWG1/17:S.238)のごときが、その評価の一例である。心情倫理をめぐる評価については、すでに包括的な先行研究がある。内藤葉子、二○○四年、九○一-九○二頁、注(五)に、心情倫理と比較して責任倫理を優越せしめる論考名が列挙されている。ないし同論文、九○二-九○三頁、注(七)に、心情倫理の側から責任倫理を批判する論考名が列挙されている。なお横田理博、二○一一年、第二章も参照されたい。そこで指摘されるように、心情倫理と責任倫理の対立は〈宗教的価値と政治的価値との相克〉という一面をもっている。

ヴェーバーを支えていた内面的動機の二側面。日常性逸脱への警告と日常性埋没への反対である。これらの状況は、責任意識に立つべしと要求する。そうした自立した姿が、個人主義であり、文化的人間のあり方である。安藤121頁からの引用。「認識の知的訓練が明晰と責任感を与えるという点に学問のモラルがあるのであって、学問の中に特定のモラルを持ち込むことによって学問を倫理化することは、それとは全く別のことがらである。学問が倫理化されるところにあっては、明晰という学問のモラルが傷つけられること、戦前の国体思想を考えるだけで充分であろう」。

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2020年04月10日

価値の普遍性-18

安藤英治・承前105頁。
1909年、ウィーンの社会政策学会にて。「....存在すべきものと存在するものとの混同に対して反対するのは、私が当為の問題を過小評価するからでなく、まさにその正反対だからである。すなわち、最高度に重大な意味をもった問題、最大の理念的意義をもつ問題、ある意味において人間の心を動かしうる最高の問題が、ここで技術的=経済的生産性問題に転化して、国民経済学のような専門科学の討論の対象にされることに耐えられないからである」。ここでも、ヴェーバーの論述はあまりにも心情的である。重要度のある問題であるのなら、自らの立脚点を明らかにしつつ、むしろ積極的に討論すべきである。討論とは、ひとえにレトリカルなものだから、存在と当為の間で文脈が交差するであろう。しかしレトリックを含めた、論述の重みというものが、成否を明らかにするだろう。
価値判断のレベルの一致について、ヴェーバーがひたすら懐疑的であったようにも思えない(WL,S.463)。このように価値観の相克に留保を与えることで、リッカートとの通路も見えてくるであろう。
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価値の普遍性-17

安藤英治・承前
価値自由の精神構造
安藤104頁「かくて、「価値自由」が主体性の論理であることは明らかである。....自己の価値世界と如何に異なった価値世界と対立してもいささかも揺らぐことのない自立性――この自己確信の強さがあってはじめて事実を事実として認識することができる。いかなる事実をも――自分にとって最も好ましからざる事実をも」。
この箇所、すこぶる非論理的である。自己の価値観にそぐわない現実を直視せよ・・これは倫理的に自己の利益に反する価値命題を認めよ、ということがらと五十歩百歩である。付け加えるとすれば、自己の価値観にそぐわない現実とは、価値中立的な現実ではなく、他者の評価をまって成立する現実である。価値自由要請は、価値抜きの現実をいただくものではなく、いわば、他者性を媒介にして成立する公共的な価値にもとづく現実・・・けだし倫理学が要請するのと遠く離れていない・・・を認めよ、ということかもしれない。したがって満腔の非同意を以て、ヴェーバーの結論を受け流すことができる。
「自分とちがう価値評価を心理的に理解すると消え失せてしまうような倫理的信念などは、科学的認識によって破壊されてしまうような宗教観程度の価値しかもっていない」(WL,S.465-466.)。
ちなみに倫理的価値が心理的問題でないことは、およそ真面目に哲学を初歩から学んだ人なら、多くは認めることがらである。そして新カント学派の哲学者たちにとっては、あまりに自明すぎることがらに属していた。
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2020年04月07日

価値の普遍性-16

安藤英治・承前
価値自由の精神構造
安藤104頁「かくて、「価値自由」が主体性の論理であることは明らかである。....自己の価値世界と如何に異なった価値世界と対立してもいささかも揺らぐことのない自立性――この自己確信の強さがあってはじめて事実を事実として認識することができる。いかなる事実をも――自分にとって最も好ましからざる事実をも」。
この箇所、すこぶる非論理的である。自己の価値観にそぐわない現実を直視せよ・・これは倫理的に自己の利益に反する価値命題を認めよ、ということがらと五十歩百歩である。付け加えるとすれば、自己の価値観にそぐわない現実とは、価値中立的な現実ではなく、他者の評価をまって成立する現実である。価値自由要請は、価値抜きの現実をいただくものではなく、いわば、他者性を媒介にして成立する公共的な価値にもとづく現実・・・けだし倫理学が要請するのと遠く離れていない・・・を認めよ、ということかもしれない。したがって満腔の非同意を以て、ヴェーバーの結論を受け流すことができる。
「自分とちがう価値評価を心理的に理解すると消え失せてしまうような倫理的信念などは、科学的認識によって破壊されてしまうような宗教観程度の価値しかもっていない」(WL,S.465-466.)。
ちなみに倫理的価値が心理的問題でないことは、およそ真面目に哲学を初歩から学んだ人なら、多くは認めることがらである。そして新カント学派の哲学者たちにとっては、あまりに自明すぎることがらに属していた。
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価値の普遍性-15

教壇禁欲・承前・安藤英治前掲書98頁。
「学生が教授に就くのは、ドイツの現状においては一つの強制された状況にあるのだから、そういう強制を受けている学生に個人的世界観を注入するために教壇を勝手に利用してはならない(WL,S.455.)」。要するに、「教壇作法」ともいうべき、「フェア・プレイ」の精神の発露である。立場を利用するな、というのは、いわばマナー的な統制的規範であり、学の内容にかかわる構成的規範でない。また、立場を利用しない形で、みずからの評価を対自化したうえで、講壇から価値を語ることは、「フェア・プレイ」と齟齬をきたすことはない。ヴェーバーは決して、価値判断を教壇から説くな、と言っているのではない。彼が禁じるのは、教壇から自由に語れることに乗じて、まるきり事実判断であるかのような論調で、つまり、それゆえにみずからの学問的卓越性を傘にきて、価値判断をすべりこませることの、いかがわしさである。「職業としての学問」と「客観性論文」との背景の比較は、それはそれで一つの興味ある問題であるが、ここでは触れない。ヴェーバーの価値自由が、一種の「教壇作法」であること・つまりそのことには、あらゆる価値的な立場を形式的には均し並みに提示すること等を含むのであるが、ことがらとしては、科学の倫理に属する問題であり、それゆえに問題の深度を測り間違えてはいけない。
 適度な深度を測量するには、例えば次のような文言を思いうかべればよい。「編集者は、自分自身に対してもまた寄稿者に対しても、彼らを鼓舞する理想を価値判断の形で表現することを決定的に禁止しはしない」(WL,S.156.)。
 それに付随して要請される責任とは、以下の二つである(安藤英治前掲書、103-104頁)。
一、いかなる価値意識に立脚しているかをつねに明確に自覚し、異なった種類の価値を錯綜させないように注意すること。
二、「思索する研究家は沈黙し、意欲する人間が語り始めているということ、また論議はどこまで悟性に訴え、どこから感情に訴えいるかを、読者に(そして――繰返しいうが――とりわけ自分自身に!)明らかにさせる」(WL,S.155)こと。
 肩透かしを食らったようで、こんなところにヴェーバーに対する幻滅を感じるのだが、どこから悟性・感情に訴えているか、どうかは、どうでもいい問題ではないか。学問上の価値は、レトリカル・もしくは動機的な要素に左右されるのではない。そもそもそれらは内観的な心理学の問題に属する。そもそも、学問的に熱を帯びれば、感情が高ぶるのは当たり前のことである。ただし高ぶっていても、学問上での優劣は歴然としてつくのであって、感情を明らかにせよとは、学問にとって、きわめて些末な要素であろう。じっさい、ヴェーバーは言っている。
「価値評価によって制約されているゆえに裁決できない問題は、社会学および国民経済学のごとき経験科学に対して価値評価が果す役割の論理的な論議と一緒にしてしまうことは、いかなる場合にも許されない」(WL,S.457.)。
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2020年04月05日

価値の普遍性-14

価値自由論の背景。
安藤英治、93頁。二つの背景。
一、西欧的世界とドイツ的世界の異質性。94頁「ドイツの歴史主義に対する攻撃の一つは、学問の科学性の要求という形で起こった。カール・メンガ―は自然科学的方法の欠如をもって、ドイツ歴史主義経済学の誤謬ときめつけた」。近代性の欠如。
二、ドイツにおける社会的状況の推移。
「客観性論文」の明るさ・19040年が資本主義的に成功していたこと。・歴史学派内で「倫理的規範がフォーマルな性格を失ない、倫理的なものの中に文化価値が持ち込まれて内容的な規定が与えられることになった」(安藤英二96頁)。
第二の論点の教壇禁欲にかかわる問題は、方法論的にさほどの意味をもたないかもしれない。己の価値観を対自化している限りで、教壇から倫理を説くか否かは、科学的問題ではなく、倫理的問題に属する。例えば、次のようなことを考えてみよう。倫理的に未成熟な学生を、自らが学問的に成熟しているという前提のもとで、「教導」するのは、学問的に誤りではない。しかし、学問制度の上下関係に寄生するかたちで、「教導」することは、学問的序列のもとに、倫理的高さを隠蔽してしまうがゆえに、一つの倫理的問題を抱え込んでしまう。(以下、続く)
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2020年04月02日

価値の普遍性-13

安藤英治の価値自由論。「マックス・ウェーバー研究―エートス問題としての方法論研究」未来社、1994年[新装版]
89頁。「”ヴェルト・フライハイト”の二通りの意味は、"客観性"の二通りの解釈に完全に照応している。すなわち、”客観性”を、"主観に無関係な”、あるいは”主観を越えた”という意味に解する場合は、”ヴェルト・フライハイト”は当然に”価値を離れた”、または”価値に関係のない”という意味に用いられることになるが、この意味における”wertfrei”または”von Wertung frei”という使い方は、すでに論文『ロッシャ―とクニース』にヴント、ミュンスターベルクを批判するときに現われていた(WL,S.53,64,74.)。しかるに、”客観性”が主観的前提の上に成り立つものとウェーバーのように考える場合には、”ヴェルト・フライハイト”とは、価値理念や価値判断をできるだけ鮮明に(とりわけ自分自身に対して鮮明に)させることによってそれを自覚的に自己統制することを意味するものになる。したがってこの場合、"ヴェルト・フライハイト"とは価値を”離れ”たり”没”することではなく、価値を持ちながらそれに”囚われない”、そして囚われないという意味において”自由な”、態度を指すことになるはずである」。
まず、「価値を離れた」という意味でのヴェルト・フライハイトはヴェーバーの短見としか言いようがない。いかなる形であれ、認識は価値に「拘束されている」はずだからである。だからといって、その価値が、普遍妥当的でないとは必ずしも言えず、また、価値に拘束されているからといって、認識が主観的なものに限られるというわけではなかろう。価値判断のなかには、たしかにごく主観的なものもあるが、他方で、相対的に普遍性をもっているものがあるだろうし、場合によっては、価値の普遍妥当性を語ることも臆断ではない。それ以上に、分かりにくいのは、価値を持ちながらそれに囚われないという表現である。ここは好意的に解し、認識がもとづく第一次的な価値判断に反省を及ぼすことであると理解したい。とはいっても、よりメタ的な第二次的な価値判断にもとづいているには相違なく、その意味では価値に囚われないことは金輪際ありえぬことになる。とはいえ、メタ的な反省の普遍性という論点さえ、認めてもらえれば、価値自由論者との対立は言葉遣いの問題に帰する。おそらく、この論点を価値自由論者は認めぬだろう。ひょっとしたら、価値に囚われぬことを想定しているかぎり、価値自由論者はヴェーバー批判者以上に、楽観主義者なのかもしれない。
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2020年04月01日

価値の普遍性-12

安藤英治は後に回して。大学の一年生の時、馬場修一郎先生が熱っぽく語ってくださった、価値自由論。
何が存在すべきか・という問題を科学の問題とすることはできない。科学が果たすのは、せいぜい次の四つである。
一、所与の目的に対する手段の適合性を示すこと。つまりヒューム的な道具的合理性の立場から選択肢を与えること。いかなる目的を選ぶかは個人の評価にしたがう。このことによって目的の立て方の妥当性を示し、目的に合った手段が存在するか、探索を促す。
二、結果の確定にかかわること。目的以外に生まれる意図しない結果を示す。
三、意欲せられたものじたいの意義を示す。意欲しても意義を認識していないものに対して、異議を示すのである。
四、意欲せられたものじたいを究極的に取った価値基準を示すこと。究極の価値基準に対する評価は、自己反省の契機となる。

こうした当為に対して禁欲する学問から、何を学べるかと言えば、
一、与えられた課題、具体的課題を解くことの重要性を学ぶこと。
二、みずからに不利な事実の承認。
三、人格を事態(Sache)の背後に沈めること。 
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価値の普遍性-11

価値自由論争である。導入部の意味で、浜井修にまず準拠する。
浜井修、前掲書、33頁。「ウェーバーが社会科学の認識の没価値性を求めたのは、社会科学の対象に対してでもなく、社会科学自体つまり社会科学の言明に対してであった。社会科学の言明においては「理想の開陳」はなすことはできず、もっぱら「事実の思惟的整序」が行われるだけである。従って没価値性原理とは、社会科学の言明は価値判断から自由でなければならないという要請に尽きる」。
歴史学派の経済学が一種、実践的観点から出発したこと、そこから存在すべきものが存在するものと合致したり、生成するものと合致したりすると誤認された。そこでSeinとSollenの原理的区別が課題に上ってくる。つまり「社会科学の認識における事実言明と、その言明の主体である社会科学者の価値観に由来する評価言明とを明確に区別せよ、という要請である」(浜井前掲書、35頁)。
ここで価値判断という表現が取られず、評価言明という表現が取られているのは肯綮にあたる。というのも、個人主観的色彩が強い場合、評価という表現が適切だからである。二点論点を挙げておきたい。
一、事実言明は評価言明を前提とする。このことはリッカートの「歴史哲学」の考察と平仄を合わせる。だが、その前提という事態からして、峻別が難しいことが予想される。おそらく、相対的にその区別に目覚めた認識主体が、事実的言明と評価的言明の区別を対自化せよというものであろう。一応、それを肯定しておいても、自らの認識土台の反省とは、ミュンヒハウゼン伯の髭のような困難を含んでいないか。
二、事実言明は評価言明、さらには価値関係を前提する(とくに文化科学においては)。ただし価値関係のうちには、普遍的?なものも含まれてくるだろう。例えば文学史を書く場合、フォンシュタイン夫人の手紙に価値を見い出すということは、文学史の手続きとしては正当な価値づけである。価値自由が問題になるのは、こうした普遍的?な価値関係よりは、個人の思いなしに属する評価というべきであろう。
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