2019年11月26日

認知主義 非自然主義的認知主義の擁護のために-1(改稿)=2020/1/13

 以下ではメタ倫理学として、非自然主義的認知主義を扱う。非実在論に抗して考察してゆきたい。
 非自然主義的実在として、〔判断をつうじて現われる〕相在に対応する準価値的妥当を考えたい。光の波長じたいが色ではないように、準価値的妥当自体、純粋な価値的性質ではないとしてみたら、非自然的な存在のなかに妥当をくくることが容易になるのではないか。これはリッカートからの逸脱であるが、論理的妥当をひながたとした妥当解釈のための、一候補となり得よう。
 妥当は当為の存在根拠であり、当為は妥当の認識根拠である。これらは非自然主義的に現われる。
 関与をよびかけてくる妥当に基づいて、選好は、理解・再解釈によって順位を変える。他方、相在は因果的に情動たる選好を惹起する。この二つの経路によって、対象に帰属される効用的な選好認知がされる。前者が目的合理的選好・後者が価値合理的選好となる(というより、選好のなかに、この二要素がある)。いずれも準価値的対象からの作用である。効用自体は、価値的な解釈をし直すか、価値を与えるかという、いずれも合理的営為にかかわる。
 準価値的実在に比べて、価値的性質自体は、帰結主義的には受け手によって変るし、非帰結主義的には構成されるべきものであるから、価値的性質は本来の意味では実在しない。実在的準価値的性質(命題価値)には、通常の意味での認知はありうるが、実在的準価値的性質としては構成され/作為としてのみ存在しうる。およそ認知があるとしても、合理的手続きという特異な認知のかたちをとる(感受性理論の知得作用という特異な認知を想起せよ)。ここで選好を産む候補として、アポステリオリな、傾向性やアフォーダンスを考えることもできる。だがしかし、あくまで非自然主義的現象に定位して、準価値的妥当に限定したい。理由の責任転嫁理論とちがうのは、妥当の側からの、価値合理的な関与を認める点である。理由の実在論とちがって、自己評価中立性のみを普遍性の要件とするので、場合によっては、非普遍的な様相を示すことがある。しかし、それは帰結に焦点を絞ったことによる狭い普遍性のせいであって、選好の解釈という見地に立てば、自己評価中立性が成り立っている。
 解釈的・因果的経路を経た価値的性質は、基本的に共変群概念である。
 道徳全廃主義は、共変群としての様々な善さ/多元的価値の観点から、道徳が劣位に置かれる場合に対応している。ここで述定的判断・理論的価値判断として価値判断を考えた場合、酒や好色が尤度優先で上位に来るかもしれない。道徳虚構主義も述定レベルで考えた時、シュミレーションにまさるフィクション的要素をもつことに、文脈によっては対応しうる。動機づけられた価値判断/価値的性質ゆえにこそ、道徳的価値は時間推転的な活動的意義をもち、そこから道徳の至高性が紡がれる。
 効用、もしくは幸福がアプリオリに/総合的還元主義的に善であるのは、合理的観点からである。これらの性質は、選好が当為によってコントロールされた時、対象に投射される。これは準価値的意味、記述的意味の「引用符付きの用法」に、規範性が与えられ(つまり「であるから、べきである」が推論され)るのであるが、これにより自然主義的非還元主義(自然主義的実在論の外在主義)のなかに包摂されうる。(伊勢田哲治のアイデアの拝借)
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2019年11月15日

スピノザとリッカート-2

Rickert, Heinrich, Spinozas Lehre vom Parallelismus der Attribute

 リッカートのスピノザ論が書かれた背景は、今一つ明らかでない。出所はシュトラスブルク大学図書館である。

 このなかで、スピノザ解釈の整合性より、むしろ一と多の矛盾、神的主観と人間的主観の両義性等の、問題が指摘されている。論調としては、物心の並行論的解釈から、両者の同位的相関に話が及ぶ。スピノザ解釈としては、エルトマン・フィッシャ―・トレンデレンブルク・ブラトゥシェックに追随しており、トマス的個体主義への特色はあるものの、出色の出来ではない。

 リッカートは神=実体を、論理的前提とするエルトマン、因果的原因とするフィッシャーを解説し、両者の限界を指摘して、属性をそれぞれ実体の本質とする解釈を指し示す。そして神の知性を規定力とするトレンデレンブルクを承けつつ、二元論的解釈を斥ける。ならば基体と様態の「一と多」の問題がここで出来することになる。途中、観念の観念(ブラトゥシェック)を、思惟・延長とは異なる属性とする解釈を検討し、それが無限後退になることを指摘する。畢竟、スピノザにおいてはごく内的な「敬虔」の問題として解決されるから、神秘主義の傾きをもたざるをえない。これには、人間の思惟を念頭に置く錯視が絡まってくるが、忘れてはならないのは、「(ゼーレ)」ということで無限知性の一部分(?)を考えるべきである、という点である。その錯視を回避しながら、自我の観念に相関的な延長たる身体、さらには自然という個体、誤った思惟の可能性等々の論点が検討される。因果的な人間の思惟への働きかけというアポリアに触れつつも、身心の根本的関係は、神について成り立つのであって、それゆえ人間には理解できぬのか、――そこに死の問題もかかわってくる――という有限主体と神の隔たりというリッカート的な問いかけで結ばれている。

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2019年11月09日

認知主義 彷徨=2020/1/13

 

「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを認知的内在領域に形成しシミュレーションをおこなうところに、ポパー型生物の特徴がある(戸田山和久、二〇一四、二六四頁)。それに引きつけて、いかなる認知的状態に準拠すべきかがはじめから決まっていないさいの、認知的規矩の選択を考えてみたい。

加藤泰史の言い方をもじれば(加藤泰史、二〇一四、一五二頁)、当為を開示することで規範的次元を切り開き、規範的観点から、判断行為に理由を付与する「仮説」(Faktum)が、超越論的?当為ということになる。それは内在的な意識一般が、そこにとどまりつつもシミュレートによって手を伸ばす「超越の境界」である。

意識の内在的相関の根拠が、価値概念であるとしても、そもそも有限者のシミュレートの結果は、あらかじめ決まっていないのだから、認知的規矩は宙刷りにされる。仮に実体的認知主義ならば、まず「従うべき規矩」が定まっている。それを(理性の検討を経ずに)そのまま判断行為に及び、実践に移せばよい。だが、自由に対峙する――現象の認識論的内在に即した認知主義的主意主義の場合、どう判断を決定すべきかは、決まっていない(というより、常に反照的均衡に晒される仮説である)。われわれはみずから問うことによって、認知的状況をいかに設定するか、はたまた、さらに進んでいかなる実践に移すかを決定しなくてはならないのである。
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2019年11月03日

スピノザとリッカート-1

スピノザの並行論解釈にリッカートの相関主義がどのような翳を落としているのかを見よう。Korrelat(Correlat)を造語成分として含む単語が出てくるのは、文中五箇所である。幾分の齟齬も見えるので概括的なまとめで禁欲しなくてはならない。一、スピノザが並行論を首尾よく完遂したかという問いを承けて言う、「延長という属性の様態各々に対して精神的なものに相関項が存し、反対に観念各々(jedrのe欠)に、それに対応するにちがいない何か物体的なものが存するということである。私たちはそこで物体各々は観念に、つまり一個の観念に対応し、観念各々は物体に、つまりふたたび一個の物体に対応することが明らかにされるなら、私たちのスピノザの成就の首尾という問いに肯定的に答えられる」。しかし観念の観念という二つの観念が対応する「相関者」、様態が一つしかないので並行論はとん挫するかに見える。この文脈で観念の観念を第三の属性と見なす解釈が検討され棄却される。二、また物と心の対応が難しいことが示されるのは、スピノザが自己意識に無頓着であるかに見えるくだりである。いったいスピノザは無限に多くの無意識的心的状態を認めるよう強いられたのであろうか。「自己意識に対して、思考の様態は決め事としてあえて意識的と認めよう。まさにこの意識ということにこそ、自己意識の固有の本質が成立する」。さりとて「自己の表象は、たしかに「純粋精神的な」何かとはいえ、それに対応する相関様態を延長のなかで選り分けることはできないであろう」。

このようにスピノザ解釈における相関関係は対立概念の相補性という骨格を残している。とはいうものの、並行的・相即的(もとより実体的に一なので当然であるが)性格を示している。

こうした第一領域レベルで物と心が相関するにあたり、その関係の導きとなるのが価値である。リッカートは次のように説いていた。「一致を認識するのは、相変わらず主観が必要であり、この認識はもはや表象ではありえぬ。なぜなら表象なら、新たな一致が認されねばならず、無限後退に逢着せざるをえまい」(GE1,S.44.)。模写は――表象と知覚との関係にとどまり、必然的に現物・コピーの対応にもちこまれる以上、――無効なのだ。けだし知覚される元来の客観と、表象によって模写された客観という、二重化は避けなくてはならぬ。こうして認識主観のなかに、表象系列という主観列の無限系列を抱え込んでしまうことを、リッカートは批判したのである(T.,Kubalica, 2012, S.108-109.)。一致はあくまで外面的な基準であって、真であると本当に言えるためには、思惟そのものの内に、その根拠をもたなくてはならない。思えば、リッカートでは価値とは、一致を名乗る思惟そのものの次元であり、この価値自身において真理が問われた。それをスピノザ風に言いかえれば、〈おのれと同一な観念〉の次元と言えるだろう。真なる思考は、ほかの思考に関係なく、それ自身で自らが真であることを知悉しているのである。

価値という根拠をリッカートに設けるなら、それからurteilenして出てくる物と心は、非実体性=現象の分轄、したがって物と心が相関する意識というかたちをとるであろう。それに対してスピノザの並行論は、根拠を神の実体性に置く。とすれば神の内在的領域にものと心の並行的・相即的関係として相関が成り立つだろう。見方を変えれば、神の存在論的内在(スピノザ)が個人に投影されて、現象の認識論的内在(リッカート)が生成するのだ。しかも後者、意識の内在的レベルの根拠が、価値概念であるなら、前者、神の内在的レベル(属性)の根拠が、実体概念ということになる。

posted by 9ki1to at 05:29| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする