2019年06月30日

非利他主義/利他主義=2019/11/13=2020/1/1

 他者の「厚生的-帰結」を重視するならば、それは功利主義を促す。逆に人が非帰結主義をとるのは、以下のような選択肢の間の決定によっているものと考えられる。つまり兵器研究所への就職は、サボタージュによる兵器開発遅延をとおした負傷の軽減のような世界の「厚生的-帰結」(兵器開発遅延という「利他」への些少の寄与・世界の財実現)、就職をえられる自己の幸福(みずからの不遇の改善・自己の財実現)、ならびに非帰結主義的要素の無視(世界と自己における価値観無視)とをもたらす。他方、兵器研究所への就職の忌避は、兵器開発に反対しないという、世界の「厚生的-帰結」の断念(なおざりにされた些少な「利他」・世界の財断念)、就職できない自己の不幸(みずからの不遇・自己の財断念)、自己の価値観を尊重した非帰結主義的要素 (自己の価値観準拠)をもたらす。〔これらとは別途、兵器研究所の就職が、〈自己拘泥〉的要素を揚棄した義務の実現である場合もあろう・世界の価値観準拠。〕

 両選択肢は、その総和を計算できないとはいえ、それらにわたって選択の自由がある。このさい、社会全体の幸福の実現可能性が少なくても、ジョージのような「自己定位」は、意志貫徹をとおして戦争への抵抗のメッセージを発信しうる。その方が戦争という「状況」に対して、自己の「主義」を発信できる。つまり「自己定位」ならば、そこに通俗的に自己が措定する「主義」を見いだしうる。――かくて第二に、〔「自己善」に顕著な〕「自己定位」vs. 〔功利主義、とくにその「隣人愛」に典型的な〕「世界志向」という、非利他主義vs利他主義の対照がえられる。

 これに対し、安彦は、功利主義的な「世界の善」の倫理を「自己善」に正対せしめる。そもそも責任倫理は、彼の言う「世界の善」の倫理と、結果の善し悪しを問う点をとりだすだけなら似ており、重なる部分を追求してゆけるのではないか。「世界の善」とは、「或る行為が帰結する、その行為以降の世界の全状態の属性である。……功利主義における「動機」性とは、この全般的な「世界」事態の「最善」を目指そうというものである」(安彦一恵、二○一三年、一六五頁、傍点強調原文)。

 安彦は、この概念を彫琢するにあたり、とくにゴティエを議論の端緒としている(Cf.Gauthier, D.P., 1986, p.60.etc.)。例えばゴティエは、『合意による道徳』のなかで、「合理的選択理論」、ゲーム理論、バーゲン理論等を駆使し、「目的合理性」に沿った道徳を考えていた。すなわち「目的合理性」をお手本とした戦略的合理性が、道徳の基礎とされる。論点先取をはばからずに言えば、道徳的命題が普遍化される途として、「世界志向」と財実現という二つの経路が考えられる。そこで「世界志向」が「まったき利他」――そこには「自己にこだわる/自己満足的な」利己性の要素がない――をもっぱらとし、財実現が幸福追求をもっぱらとすると考えよう。とすれば、財実現の倫理(「世界の善」は、その「世界志向」形態に限定する)を説く契約論者ゴティエに、「世界の善」へと至る、移行段階を認めることができる。彼の「契約論的功利主義」が、財実現をとおした〈自己拘泥〉でしかないなら、通俗的「主義」に準拠する限り、「自己定位」を離れられないと言えよう(つまり「真正な利他主義」ではないこと)。したがって安彦と異なり、「契約論的功利主義」を、自己の(非帰結主義的な価値観ではなく)幸福にかかわる「自己定位」(それに対し「自己善」は、その価値観重視形態に限定する)と見なす。

 もとより「契約論的功利主義」を採用した結果の方が、個人にとって通時的に損ではなるかもしれない。他方、非合理的だが、頭から「世界の善」を信じた方が、〔厚生主義的に、総和主義的に〕「トータルには」善になるとする態度に、安彦は道徳的要素を見いだしている。これがゴティエには見られぬ安彦の「追加的修正」であり(安彦一恵、二○一三年、六八頁)、〔「契約論的功利主義」の域を超えた、不特定の人を均し並みに愛する〕「隣人愛」につうじる要素である(以下、「隣人愛」の論点は、安彦氏からの私信によって示唆を受けた)。

 ここで一定の自己利益を留保しつつも、協調的信頼のなかに身を置く、という倫理学固有の解釈が可能となる。その解釈では、総和的に見て、他者たちの状態が最善になるという理想すら、不要とされる。通俗的に理想とは、ほぼ定義的に一つの「主義」だからである(安彦の論点)。筆者の見るところ、安彦がゴティエを措いて、功利主義的な「隣人愛」に与する所以である。ひいては、それが自己の責任意識(責任感という自己のトポスの〈帰結〉) を伴わぬ限りで、「自己善」を敬遠して「世界の善」へと帰着する。かくて、他者たちの「厚生的-帰結」を志向することで、利己性が前面に出た経済的合理性を迂回して、安彦は「契約論的功利主義」を昇華し、「隣人愛」を「世界の善」として抽出しえた。Sitteという準拠枠をとるなら、「自己善」(さらには「契約論的功利主義」)に対して、当然、達人的な「世界の善」は倫理的により高いだろう。

 しかしながら、安彦の「まったき利他」〔の候補である功利主義的「隣人愛」〕という醒めた意識は、動機となりにくいのではないか。これから見れば、もっぱら自己の価値観準拠である「自己善」にも、合理性理論として広義の功利主義に劣らぬ意味があると考える。ただし〈善の自己拘泥〉について誤解なきように言っておけば、善が自己を起点としていること(「自己定位」)の謂いである。それは「主義」へのコミットであって、〈善への通路〉が他者に閉じられていることとはちがう。もとより「自己定位」の価値観に準拠するからと言って、誠実な関係を他者と築ける保証はない(たんなる同じ主義者同士の相互承認)。それゆえ、帰結の点から言えば、個人にとって「賭け」にとどまる。これは2016/12/24の科研費研究会にて加藤泰史が指摘した論点と重なる(「自己」から「他者」へと格率を解放する加藤に顕著な「自己に対する義務」の論点・九鬼2018年科研費報告書)。とはいえ、それでも「価値観的に」同形の他者を想像する余地は残る。したがって、そのなかに「賭け」に共鳴する他者存在の可能性が示唆される次第である。自己に定位したとしても、他者との関係を築く可能性に「賭け」るなら、他者への倫理的な〈通路〉を開きうるかもしれないのである。

☆契約論的功利主義は純粋な利他主義であるが、真正の利他主義でないことに鑑みて、非利他主義ととらえ、真正の利他主義・帰結主義であるところの隣人愛と区別する。そうすると自己善を契約論的功利主義と同レベルの倫理性にまで持ち上げることができる。ethics14.pdf

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posted by 9ki1to at 21:37| Comment(0) | 倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月29日

自己善・・・非帰結主義かつ非利他主義=2019/11/13=2019/12/31

 大学紀要の出版がされたので、著作権的に問題ないかと思い、その一端を公表する。

「自己善」は、と言えば、「他者の」幸福追求を、相対的に重視することなく、心情倫理との重なりを追求してゆける。けだし倫理学は人間性についての「学」である以上、合理性に依拠し、合理性は、「学」に対して統合性・普遍性等を要求するであろう。実際、ヴェーバーの――価値合理的行為=「ある特定の行動がもつ無条件の固有価値についての、倫理的・芸術的・宗教的なその他の、純粋にそのものへの、あるいは、結果を度外視した、自覚的な信念にもとづいて、行為すること」(根本概念WG:S.12.傍点は原文ゲシュペルト)を倫理的に昇華すれば獲得できる――心情倫理は価値観を優先し、人の纏まりたる統合性を志向する。その価値観準拠は、自己という「トポス」の充実を意味しており、普遍性をいささか犠牲にする。しかし筆者は、そのなかで価値観準拠を説くものを、主観的合理性の範疇に収めることができると考える。したがって、自己にこだわる合理的言説を、「最小倫理」と認めたい。それにあっても、あくまで倫理だから、自分のためだけの利益に自足することはない。自分が道徳的に善いと考えるものを――対自的には利己性に傾くにせよ――撰取するのである。ここで先回りして、「自己善」すなわち「最小倫理」という図式を、一応仮設して、その構成要素を掲げておこう。

@非帰結主義(価値観準拠)
 導きの糸となるのは、ヴェーバーの心情倫理批判であろう。彼は『職業としての政治』(一九一七年一月二八日)で、とくに心情倫理に低い評価を与えた。もとより彼は、達人的とも言える責任倫理を高く評価したとはいえ、心情倫理を放擲してしまったのではない。すなわち個々の行為は、その結果のみが倫理的天秤にかけられるとは限らないし、人格という観点に立てば、帰結への配慮よりも、むしろ価値観が問われるとした。ここから私たちが「自己善」と目してえられるものは、幸福という帰結から消極的にえぐりだされる、――それ自身では、公共への帰結を禁欲する価値観の倫理、つまり非帰結主義の一類型である。もとよりそれが、社会全体の幸福追求を第一義とするなら帰結主義に移行するが、小集団の連帯感・「絆」を中心にするかぎりでは、非帰結主義の域にとどまる。
A非利他主義(「自己定位」)
 功利主義的な厚生主義は、Sen,A.K.,1997,p.278によると事態の善は、個人効用の集合の善によって判断されるべき( must)だとする。こうしたセンの規定を承けるなら、幸福は人の豊かな生を反映しているが、人はそれのみを、評価の尺度とすることはできない( Sen, A.K., 1987a,Chap.2,p.41. )、という見方も成り立つ。彼によると、私たちは、目標、責任、価値等を形成する人間の能力を尊重すべきである。――少なくとも私たちは、俗見たる、自己にこだわる「最小倫理」を受け入れている。そしてセンは、生き方に踏み込んで、「主体性」重視の議論を展開する。そのさい、彼は各人の倫理観の重要性を強調し、功利主義に対する批判を押し出している。つまり、私たちが「自己善」として出会うのは、「まったき利他」の「世界志向」(「世界の善」を「世界志向」より狭くとる。)と相並ぶものとして、積極的に浮かびあがる「自己定位」という要素である(「自己善」を「自己定位」より狭くとる)。この「まったき利他」の否定(つまり自己にこだわる倫理)を、暫定的に非利他主義と呼んでおく。
 したがって、低幸福条件のもとでの「最小倫理」は、非帰結主義であり、かつ非利他主義として、かたどることができるであろう。
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posted by 9ki1to at 04:08| Comment(0) | 倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする