2018年09月14日

自然のなかの情報・表象=2018/9/30=2019/2/1=2019/12/31

 戸田山和久『哲学入門』を読んで、いささか戸惑っている。機能の言及はあるのだが、循環的でないかたちで「本来の機能」が定義されているとは思えないのだ。それから、きゃっ、目的論のインフレーション。生物学へのアレルギーとあいまって、目的論をかくも正面から、論じることに懐疑をむけたくなる(目的論的偶然が進化論の真骨頂ではなかったのか・機能概念ということに、論点先取がもちこまれている気がする)。ということで不満やるかたないのだが、情報・表象の部分のサーベイをする。

 情報の数学的定義のところは、うさんくさい。情報エントロピー・確率エントロピーが、自覚的に区別されているのだろうか。このあたり大学で批判的な論文も読んだし、地学の浜田隆士先生の進化概念ともそりがあわない。
 すこしだけ共感をおぼえたのは「知識の定義:エージェントAがPということを知っている⇔AのPという信念がPという情報によって因果的に引き起こされた」というくだり。ふむふむ。価値判断も広い意味で知識なのだろう。Pという情報が客観的にあって、それが因果的に価値判断を引き起こした・少なくとも較認のレベルで・・・こんなことを言ったら、ヴィンデルバントは怒るだろうな。でも、新カント学派が自然化されてもいっこうにかまわない気もする。
補足:目的論より因果論の方が、ずっと外延の選好を考えるには有効である。「判断は何のためにあるのか」「真理という価値を承認するために判断をするのだ」これって、真理があとから判って、それから承認の意味付けを与えているのではないか。つまり承認されたものが真理であるということから遡って、その由来として価値があったという後知恵をつけているのに等しい。真理であることと独立に承認ということを言わないと、判断の目的が真理価値の承認にあったということは、トートロジカルになる。もとより、価値には自己解釈の文脈のコマ(そして整合性というかなめのピースを与えるのだが)にはなるが、価値と目的論の淫靡な結託には、反対したい。目的論なしの価値論にひかれるゆえんである。

 まあ、情報はこれぐらいにして、表象へ行こう。生き物に有用なのが「局地的情報」であるということはわかる。記号と記号が表わすものとの間のむすびつきが、確率的には蓋然性をもたなくてはならないことも。志向的表象は因果連鎖の途中をすっ飛ばして最も遠くにある因果的先行者を表象することができる・・・これは納得。

 どうも確率のところが浮いているような気がしてならない。確率が高いなら、情報がおいしそうという一方で、確率が低いからこそそれをありがたがる(自然にはみられにくい目的)ということもあるのではないか。つまりレアなおいしさというものも、あるはずだ。う〜ん、これはこれで悩ましい。
続きを読む
posted by 9ki1to at 05:05| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする