2018年06月18日

再較正=2018/9/18=2019/2/1=2019/12/31

 

 高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。身体的変化の知覚のなかに、高次認知的情動であるものがあるか否かは、高次認知的情動として何を認定することが先決要件となる。ここで身体性の評価は、判断が構成要素になって認知的に精緻化されるわけではない、とプリンツ は主張する。認知的状況が情動の種類を決めるのは「較正」(calibration)によっている。「較正」に応じて、或る「探知機」(プリンツ)に反応する情動について、「或る探知機で測ったらAだったのに別な探知機ではBになる」という不一致が生じないように、それぞれの探知機の追跡のずれを把握し、進化論的に適合した共通の探知の基盤を作る行為だからである。さらには進化論的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、同様な再較正によって説明されうる。 例えば通常の身体性の怒りは、或る種の判断の状況下では、不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬となる。このように別の原因、つまり認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではないが、「再較正」においては認知的状態が、身体性の評価がどの情動の種類に属するかを決めるものである。そうだとすれば、高次認知的情動の「ドクサ・思いなし」の独特性を認知は隈取り、「価値判断」の種差を規定するのである。あらかじめ見とおしを言えば、「ドクサ・思いなし」に対するメタ的な反省が、xする命題内容をかたちづくり、「価値判断」を成形してゆく。

・再較正によって、情動が照会的選好になったり、較認的撰取になったり、価値の様相を変えてゆく。価値の本性とは案外一元的で、映現する再較正によって種差が現われるだけではないだろうか。


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2018年06月16日

ディルタイの認知的契機の包摂=2018/9/18=2019/2/1=2019/12/31

 

 ディルタイ一九〇六-一九〇八年頃の全集24巻中講義Aでは価値とは「快ないし満足によって性格づけられる状態、この状態を惹き起こす対象、もしくは、欠如によって不快をもたらす対象」(Bd.24,A:S.33.)とされている (Vgl. Bd.24,C:S.213. =A.45.266.)。さらにディルタイは思考作用による統制を積極的に認める(Bd.24,A: S.20. Vgl. C:S.238.)。生のうちの「所与」が、価値判断においても重要なのはいうまでもない(Vgl.Bd.24,A:S.20-21.)が、思考は、感情や衝動に直接含まれる価値規定をたえず修正してゆく (Vgl Bd.24,A:S.19, S.22-23.)。ディルタイは価値判断/規則のGeltungを認め (Vgl.Bd.24, C:S.227,S.233,usw.)、〔現実判断ならざる〕価値判断は、現実の対象を前提にしつつ(Vgl.Bd.24,C:S.229,usw.)、相対的に生の連関から自由になってゆく。・・・ディルタイの思考は低次元レベルのそれである。述定的な高次のレジストリを行うわけでない。

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2018年06月14日

情動のモジュール性=2018/9/18=2019/2/1

 ミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように認知的契機を、知覚に委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるにこの偽ミュラー・リヤー図形がもつ錯視安定性から、もう一本に比べて短い錯視を抱くことも考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。このことは一、錯視のモジュール性が体系性を欠いていること、二、錯視と中立的な判断が変われば、見かけの内容も変化しうること(情動について言えば、飛行機恐怖症に安全性を教えると、自分の小心に自卑の情動を抱くように変わるかもしれない)で、錯視のモジュール性を反省的判断まで及ぼせないことを示唆する。

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2018年06月09日

存在と価値の二元論=2018/9/17=2019/1/31=2019/12/31

 

事実から価値を導けない、と言われることがある。どういうことだろうか。価値的性質は事実的性質に還元されない。もちろん或る性質が別の性質に還元されず、それに付随するだけであっても、多様な各分子の質量と速度のいずれからも、気体が平均分子エネルギーEをもつことが導ける。しかしこの場合、事実的性質に非経験的な法則を適用して事実的性質を導けたのだが、どんな論理的操作を加えても、認知的にすぎない事実的性質から、情動的指令を含む価値的性質は導けない。

新カント学派的な存在と価値との二元論は、この点に与するとはいえ、やや事情は込み入っている。もとより事実判断(一次的な判断レベルの表象結合の強調)と狭義の実践的評価(二次的な判断レベルの態度決定の強調)とのちがい、さらにはかけがいのない個体の価値付帯性(判断内容としての価値関係性)と法則論的事物性(判断内容としての価値無関係性)とのちがいをもうけているものの、事実判断や事物性は理論的価値の認知(一次的な判断レベルの表象結合+二次的な判断レベルの態度決定)をまってはじめて成立する。とくにリッカートの歴史哲学的論考では、論理的価値関係性の議論と、評価的価値づけの議論が整理されぬまま、接合されていると言っていい。仮に価値判断の認知説が事実判断を価値判断の基底におくものであるとしたら、そのままのかたちでは新カント学派に合致しない。というのも、事実判断が価値判断を前提している以上、一見、循環することになるからである。そこで判断内容としての事物的性質(内容としての価値無関係性)と、判断形式としての表象準拠性(一次的な判断レベルの表象結合)とを区別しよう。前者は、事実的性質と価値的性質の対に対応するものであり、事物性から価値関係は導きだせぬという定式化を得ることができる。新カント学派は、評価的/実践的に意義あるものとして価値的性質を撰取した。後者は、表象結合の強調と態度決定の強調の対に対応するものであり、結合するかたちにおいては、理論的価値の認知、分離するかたちにおいては、実践的評価の決定という、二様の映現をする。したがって認知的レベルの、二重判断の結合を強調すれば、新カント学派は認知説に傾き、評価的レベルの、二重判断の分離を強調すれば、それは情動説に傾くという次第になるのである。

一般に認知説といった場合、価値的性質(対象の価値付帯性)の認知にかかわり、それは理論的に措定される場合を念頭に置くから、――ここで先の選択肢を交叉させれば――価値判断の認知説は、価値的性質(判断内容)の二重判断的措定(判断形式)という新カント学派の立場と整合的に理解することが可能である。高次認知的情動は、認知的要素と情動的要素をもっている。前者は価値判断における二重判断の結合と、後者は二重判断における分離(評価の主題化)に足並みをそろえる。高次認知的情動の「命題的態度」は、言わば表象結合態として所与となり(Nonrepresentative-argument)、メタ的な反省として価値的性質を、妥当する命題内容としてかたちづくり、「価値判断」が構成される。


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2018年06月07日

認知的に精緻化された身体性の評価は、純粋に身体的である=2018/9/17=2019/1/31=2019/12/31=2020/2/10

較正をいれた訂正版。 

高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。さて認知的に精緻化された身体性の評価は、身体性の評価のみから出来上がっている、とプリンツは主張する。不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬は、別の原因、つまり別の認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。つまりもともとの表象とは異なった、別の使い方がされるように、身体性の評価と判断を結びつける「再較正」なされているのである。このさい認知的状況が、情動の種類を決めている。こうして較正に応じて本来の情動からの逸脱が説明されうる。これらを考えると、身体的メカニズムに高次認知的情動が対応すると思われる。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではない。だから価値判断と連続する情動として、高次認知的情動の「命題的態度」を位置づけよう。あらかじめ見とおしを言えば、「命題的態度」に対するメタ的な反省が、妥当する命題内容をかたちづくり、そうして「価値判断」というものを成形してゆく。///いや、身体的メカニズムに高次認知的情動はぴったり重ならない。とくに価値判断にいたるものとして、相在経由の動因的なものと、妥当経由の動機的なものがある。善や価値は一枚岩でない。

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2018年06月05日

高次認知的情動=2018/9/7=2019/1/31=2020/2/10

 

高次に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に愛情を感じていないのに、――世間体から悲しむそぶりをしていて、実際愛情ゆえ悲しんでいるかのように、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合、悲しみの感じ・振る舞いがともなうことがあろう。にもかかわらず、当人は愛していないのだから、悲しむべき理由を全く見いだせない。それは「自己演技的悲しみ」というべきである。この場合、モジュール性が維持しがたいのは、悲しみの背後の愛情の有無が問われているからである。

ポイントは高次認知的情動「愛情」の観点から、「悲しみ」のような感情プログラムが派生しうるという点である。情動の認知的契機としては、「愛していない」という「高次の判断」があって、見かけの「自己演技的悲しみ」は括弧入れされる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけという了解において、十円玉の見えは括弧に入れられ、「実際は巨大である」という判断を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、「悲しみの感じ」と「悲しくない=愛していないという認定=価値判断」とは同格でなく、後者の判断によって、「悲しみの感じ」が滅せられるのである。受け容れられているのは、「愛していないから悲しくない」という価値判断だけであり、見かけは阻却されるのである。身体的反応(ここでは脳状態)が情動と「密接に」連動しているわけではなかろう。


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