2018年04月28日

高度認知的情動=2018/8/29=2019/1/31=2020/2/9

 情動は事物の性質と呼応している、と言われることがある。すなわち身体的反応が対象の性質を表わし、脳がその反応を感受する、というわけである。論者は、情動は身体的変化の感受であるという仮説を支持すべく、情動と身体的な原因の間に相関を立証しようとする。その過程で高度認知的情動を「情感」(affection)として区別する。高度認知的情動とは、本来的に認知的と見える情動であり、洗練された認知能力を必要とする、嫉妬・罪悪感・恥・誇り・忠誠心・復讐心である(グリフィスの考え)。そうした情感にかかわる言葉として《響き》と《ひねり》という二種類のカテゴリーを呈示したい。果たして身体的反応を感受するレベルで、情感は説明しつくされるのだろうか。情感の基準は身体的にではなく、志向的な内容によって与えられるのではないだろうか。ここで論じるべき多くのことがら(価値実在論・美をモデルにした価値比較等、いずれも新カント学派と密接なトピックである)があるが、「情感」=命題的態度が安定した価値体系との接点であるという見地に立ち、情動のなかでも注目して、〔新カント学派の遺産たる〕価値妥当説との対話を再検討したい。

 信原の例で、イヌへの恐怖と、「怖くない」という、二つの契機が出てきているのに注意すべきである。ここで勝義の情感は後者の信念であると〔して、その上階に価値判断を措定し〕たい。@「怖くない」が恐怖を問題にしているかぎり、「否定」の情感であると考えられる。ということは、イヌの恐怖という情感と、イヌが「怖くない」という情感を、同時に感じていることになる。したがって、恐怖という情感と、「怖くない/怖い」という情感とを、矛盾を来たさない異種の情感と考えねばならぬ。仮に「怖くない」という情感が、知覚と直接的には関連しない種類の認知と考えるなら、次の説に接近する。A➀の間接性を認めて「怖くない」とは情感ではあるが、感受と直接関連しないとしよう。しかし「怖くない」が恐怖の否定であることをうまく処理できない。「怖くない」が恐怖という情感の否定であるなら、「怖くない」は、恐怖と同じく感受されると考えたほうが自然だからである。この隘路を避ける方法として、例えば「怖くない」という情感は認知的命題的態度とする、情感=命題的態度説が出てくる。

 ふつうの――グリフィスが言う――感情プログラムが機能する情動では、ミュラー・リヤー図形に類した安定性・モジュール性を認められる。ミュラー・リヤー図形は、判断とは一応独立して、ゲシュタルト的に安定した現われ方をする。同じ長さと判断しても、見えの長短にかんする見かけレベルの不均整は治らない。それは、知覚的な――判断ではなく感受レベルの――安定性を示している。もとより感情的プログラムに左右される部分の大きい恐怖はさておいて、ふつう基本的情動と見なされる悲しみについてもモジュール性は認められるだろうか。むしろ高度認知的な情動、つまり「情感」の一種ではないだろうか。たとえ修正された判断が悲しみを、阻却しようとしても、一定限抵抗が伴うという論点である。たしかに意識的推論の不在・強制性・自己中心的な定位(源河亨、2017、p.181.)等をミュラー・リヤー図形がもつように、情感にも一定限のしばりがあるように見える。しかしまさしく、そのミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように知覚に情感の認知を委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるに偽ミュラー・リヤー図形の安定性から、もう一本に比べて短いゲシュタルトを抱くことが考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。してみれば真に長さを認知しているのは、ものさしを当てた認知である、ということになる。と同様に高度に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に悲しみを志向的内容としてまったく感じていないのに、世間体から悲しむそぶりをしていたら、実際、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合でも、当人は悲しむべき理由を全く感じていないなら、悲しみの感じ・振る舞いがあろうと、それは偽善的悲しみというべきである。この場合はモジュール性が維持しがたいのではないか。ここでも「悲しくない」という認知と、悲しみの感じとしての失意という二要素が登場する。

 「悲しくない」が認知なら、悲しみの感じとしての失意も認知ということになり、またしても矛盾を避けえぬように思われる。これに対して、見かけ(視覚に限定せず現象=appearanceを指す)と、それから派生する命題的態度Bif(x) との区別を設けることで突破できるのだろう。認知される情感としては、「悲しくない」という信念があるだけで、その前に、漢字としての失意という見かけは括弧に入れられる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけをしているにもかかわらず、「実際は巨大である」という認知を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、失意と「悲しくない」とは同格でなく、「悲しくない」という認知によって、失意が滅せられることである。受け容れられているのは、「悲しくない」という事態だけであり、見かけは一定限阻却されるのである。

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2018年04月22日

新カント学派の逆襲=2018/8/28=2019/1/31=2020/2/9

 情動であるかどうかの基準は、身体的にではなく、心的な志向的内容によって与えられるのではないだろうか。つまり見かけと判断とを区別するなら、判断が価値判断情動の正体である、と。ここで論じるべき多くのことがらがある。

 見かけを正当化する判断とは、ヌスバウムのメタ認知説の謂いであるが、判断が見かけ-表象結合態とすると、西南ドイツ学派(ヴィンデルバント)の「判断についての判断」説に接近する。注意:さらなる価値体系を構築するのは、較認を前提とした、より技巧的な統括=照会である。

 そうしたところから、価値を妥当(認知モデル)で扱う理路も見えてくる。これらの論点は、ロッツェの内在的検討・ジークヴァルトへの継承・リッカートの妥当概念(自己決定による命題内容の賦活)を先決問題とする。


価値実在論はアフォーダンスや、傾向的性質を橋渡しにして力を盛り返しつつある。しかし、問題のポイント(例えば道徳的実在論なら内在主義との関係等)を論じなくては、堂々巡りになってしまう。この点について迂路をとることをもって次善としたい。 

  美と愛をモデルにした価値論・・・・文献的に確認の必要は選好(経済・愛=文明価値)の理論を照会(美)の理論に橋渡しすることができる。ただし新カント学派の理路として、価値の目的論から実在論への転回ということが認められる。

私たちの思考の歩みは、自然科学の概念限界から漸次的限定を及ぼし、歴史科学の概念を獲得する目的をもつしてゆくであろうが、さても言及できることとして、個性的現実自体は、歴史的対象(1・2Aufl.のゲシュペルト)の比べようもなく普遍的な概念と等置すべきであるにせよ、「歴史的な」ものが単に比類なきもの[=einmalige]、特殊なもの、個性的なものに鑑みた現実性のみを意味するなら、実践的生の個性化的現実把握は、このうえなく根元的で、最高に包括的な歴史把握(1・2.Aufl.のゲシュペルト)とも呼ばれなくてはならない。この意味で歴史的関心S.3551を個性的なものへの関心と等置したのであって、意欲し評価する人間にとって、不可―分割者である諸個体を、それゆえ比類なきものならびに個性的なものの概念として、歴史的なものについてのそれのみを考慮するかぎり、私たちはそれを歴史的個体(1.Aufl.のみゲシュペルト)と名づけることができる。


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2018年04月19日

情動の認知説14=2018/8/28=2019/1/31

プリンツの「はらわたが煮えくりかえる」勁草書房の邦訳入手。まとめながら、新カント学派の態度決定説(というより価値妥当説)の復権を目指そう。

 ジェイムズ=ランゲの身体感受説によれば、「身体的な感受がなくなってしまえば、情動経験には何も残っていないように思われるというのだ」(邦訳4ページ)。

 近年のダマシオの感受説によれば、「身体変化はなくとも、身体変化に通常関わっている脳中枢が活動すれば、情動反応が生じうること」(邦訳5ページ)が強調されている。「この点は、網膜が刺激されていなくても、赤いリンゴの視覚イメージが形成できるという考えと類比的である」(邦訳5ページ、あたかもループ)。「ダマシオは、身体を経由せずに情動が生じることはよくあると考えているのだ」。

情動を情感(affection)、身体状態への神経反応、認知的操作への影響と同一視する理論のほかに、情動には或る種の思考が伴う場合が多いことがわかる。こうした考えとして「純粋な認知説」がある。ref.クリュシッポス(ストア派)の認知説

 邦訳10ページ。「ヌスバウムもストア派の考えにしたがい、情動を、価値負荷的な見かけ」を承認する判断と定義している(Nussbaum2001)。「価値負荷的な見かけとは、出来事を価値づける解釈のようなものである」。解釈と価値判断の結びつき。「・・・私が理解した限りでは、ヌスバウムはさらなる要件をくわえている。その要件とは、見かけが価値負荷的なものであるためには、その見かけが正当化されているという趣旨の別の判断が形成される必要があるというものである。この主張のために、彼女の理論は単なる認知説ではなくメタ認知説になっている。つまり、情動には判断についての判断が必要である」。

 新カント学派の態度決定説との親近性。とくにロッツェ・ジークヴァルト・ヴィンデルバント・リッカートのライン。判断についての判断は、まさに西南ドイツ学派的であるかのよう。ただし、ヌスバウムはこれを情動と考えるが、私としては価値判断に類するものとして、情動とは区別したい。

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posted by 9ki1to at 04:06| Comment(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする