2017年11月09日

アイデンティティ・オールドストーリー=2017/11/11=2019/2/19=2019/7/16

 コースガード,2005が義務論者について語ることを思い出そう。その叙述の或る部分は、価値合理主義者に当てはまるだろう。例えば彼女が言うように、自分をどのような纏まりとして捉えているか(アイデンティティ)が、価値合理主義者をコントロールすると、考えられないだろうか。

 アイデンティティの理解とは、「あなたが自分自身に価値を認めるさいの自己の記述、すなわち、自分の人生が生きるに値し、自分の行為が行うに値すると思うさいの自己の記述として」(コースガード,2005,118頁)解されるべきである。そうすると、自分自身を何と見なしどのように価値的な観点から統合するかにかかるアイデンティティは、人生という大海のなかで、言わばマニュアル(指針)の役割を果たすかもしれない。コースガードは言っている、「或る衝動―例えば或る欲求―が現れたとき、われわれはそれが理由になりうるかどうかを問う。われわれは、その衝動に基づいて行為するという格律が、当のアイデンティティをもつ存在者によって法則として意志されうるかどうか、を見ることで、その問いに答える」と(コースガード,2005,133頁)。こうして規則が「無条件的」 (コースガード,2005,121-122頁参照) となれば、価値合理主義的な、義務は合理的な理由をもつのだ、とコースガードは説くのである。

 ちなみに非合理性に対して、デイヴィドソンが説明として挙げている、「心の分割」を考えにいれよう。彼に拠れば「心の諸部分が或る程度独立しているならば、それらが不整合を抱えつつ、因果的に相互作用することがいかにして可能であるのかが理解できる…」(Davidson,D.,2004,p.181)とされる。彼の「心の分割」は理由 の非合理性を繕う相対的独立性を示唆する。しかしながら、あくまで分割された心の部分の独立性は「或る程度」のものでしかなかったことに、注意すべきである。すなわち、デイヴィドソンは「心の分割」により、十分な説明がつく程度に、アクラシアを合理的とする一方で、注意深くその「分割」に限界があるとすることを忘れなかった。つまり「心の分割」に因る非整合性は一定限のものであって、そうすれば他に採った選択と完全に撞着することがないから、個人が一個の纏まりをもつと、暗に認めていたのではないか。すると上でコースガードが語った「自分自身に価値を認める」局面において理由を与えるアイデンティティ、つまり個人にまとまりを与える規則とは、非合理性への防波堤と理解できる。

 そこで以下のような合理性に対する負荷を得られる。

「価値合理主義者の統合性の必要条件」: アイデンティティという自分で決めた規則に従って、狭窄化の度合いがはるかに限られた(言い換えれば、広い観点からの熟慮を介して)機会集合Ψから、整合性の取れた行為φを、選りすぐっている。

 このさい、アイデンティティが社会的パーソナリティーと連携すれば、強い人格が賦与されること、ひいては利他性と結びつきうることは何度も、言及したとおりである。

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posted by 9ki1to at 05:27| Comment(0) | 倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月02日

統合性は倫理的ではない=2019/2/19

 コースガード書、邦訳119頁。

その結びつきは統合性の概念のなかにも現れる。語源的には、統合性とはutinityのことであり、統合とは、何かを一たらしめることである。あるもの、一つのもの、統一体、実体であるということを意味しており、ともかく何ものかであるということである。形而上学的には、統合性をもつとは、かかる意味である。しかるに、私たちはこの語を、自分じしんの〔行動〕基準に即して生きる人に用いる。なぜなら、私たちは、そうした基準にのっとって生きることで、人は一個の人となり、はじめて人格になると考えるからである。

 統合性とは、自己利益的な主体を立ち上げるための、価値合理的要請でしょう。主体が、対他的に整合的なふるまいをするからと言って、整合的な利己性を追求することもあるでしょう。コースガードの要求は、道徳性以前の倫理性(永井均の意味での)に焦点を絞っていると見るべきでしょう。

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2017年11月01日

アイデンティティーと統合性(承前)=2019/2/19

 たとえばKorsgaard, 2009(←1996),3-3-4=邦訳, 123頁以下の趣旨に即して補えば、たとえば学生として学科の必修であるが故に、学生は、学生の本分であることをわきまえているし、しかも学習の権利の一部は教師にゆだねるべきことを知悉している。だからこそ、数学を履修する義務論的な選好を挙げている。これをふまえれば、「数学を学んで学生の本分を全うする」という選択と、「数学を学んで教養をできれば積むようにする」という選択なら、前者の選択がより選好されるであろう。またコースガードから離れるが、「数学を学ぶことを怠らないようにする」という選択と、「数学を学ぶことを怠らずにできるだけ無教養にならないようにする」という選択なら、後者の選択がより選好されるだろう。

 このあたりはバックパス理論でも処理できるかもしれない。学生の本分ということの方が、教養を刹那的に追い求める選択肢よりも、より究極的な理由に関与している? また無教養にならないという防圧的な理由は、学生の社会のなかの網の目で、より際立つ理由となりうるであろう(対個人的な処世を身に着けるという意味で)。本分・無教養にならないといった要素は、すこぶる価値的であるが、具体的な個人関係に落とせば、説得的な合理性をもちうる。
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posted by 9ki1to at 03:36| Comment(0) | 倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする