2017年10月30日

備忘録・アイデンティティー=2017/10/31=2019/2/19

 コースガードの手あかにまみれた議論から。

邦訳118頁。三人称的な観点から、すなわち、熟慮の立場の外側から見るならば、誰かが選択をする場合には、あたかも、葛藤しあう欲求のうちで一番強いものが勝利するように見えるかもしれない。しかし、あなたが熟慮するとき、あなたにとっては事態はそのようには見えない。あなたが熟慮するとき、あたかも、あなたのあらゆる欲求の他に何かが存在しているかのようである。すなわち、あなたそのものであるような何か、どの欲求に従って行為するのかを選択する何かが。これは次のことを意味する。あなたが行為を決定するさいに従う原則ないし法則は、あなたが自分自身を表現していると見なしている原理ないし法則だ、ということである。そうした選択の原理ないし方法にアイデンティティを見出すということは、聖パウロの有名な章句によるなら、自分自身が法である、ということなのである。

 規範性の淵源はコースガードの言うように「自分自身」の表現するさいの法ではない。むしろ熟慮を社会に委ねるというかたちでのみ、深化しうる法である。外形的な適法性としての法は、社会から与えられる。それを内化するのは、たんに強制的な教育(と言ってしまったのだが、伝統的な熟慮というものが、個人的吟味とは別にあるということ)であるにすぎない。(この項つづく。)
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2017年10月25日

カント研究会

今週末、発表してきます。「倫理のマトリックスとカント―「幸福に値すること/幸福を実現できること」―」です。
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2017年10月20日

ヘアの流用=2017/11/11

 『人倫形而上学の基礎づけ』中の行文「目的を遂げようと意志する者は(理性が彼の行為に決定的影響を及ぼすかぎり)、おのれの意のままになるなら、目的の達成に必要欠くべからざる手段をも欲する。この命題は、行為者の意欲にかんしては、分析命題である」(『人倫形而上学の基礎づけ』AA.4,S.417.=七:四八頁)に注目しよう。幸福は「すべての人間がもつ自然目的」から、道徳法則との並立の可能性を追求してゆける。〔なおその文脈で『実践理性批判』の「理性的自愛」/『宗教論』の「道徳的自愛」を媒介にして、道徳法則下の幸福に定位できるであろう。〕例えば幸福追求の自明なことは、「思慮の命法」弁護[=Verteidigung]上に見られる、 〈神聖なる意志の論理〉ということになる。仮に神聖なる意志が動因化の原理だとしたら、それをもった完全な理性的存在者は、必然的に善い行為を行うから、命法の問題とはかかわりをもたない。「神聖な意志には、命法というものが妥当しない。つまり、するべきという言葉はここでは場違いなのである」(『人倫の形而上学の基礎づけ』AA,4,S.414.=七:四三頁)。ここで論じられるべきは、動機が原則と必ずしも一致しない人間にとっての道徳の問題である。選択意志においては、原則に背きうるにもかかわらず、否それゆえにこそ、人間にとって意味をもつ原則が、問題とされなくてはならない。それは、道徳教育や人格形成において役立つのであり、そのためには直観的な簡明さを維持していなくてはならないが、より豊かな熟慮をくぐりぬけて、陶冶されなくてはならないのである。ヘアを流用すれば、
「これで、なぜ他のものが一見自明な〔直観的な〕原則より優越する〔その原則が他のものに屈服する〕可能性がなければならないのか――つまり、ある特殊な事例ではその原則に従(ママ)わないにもかかわらず、なぜその原則を持ち続けることが可能なのか――という理由が十分に説明される」 (ヘア.R.M.著/内井惣七+山内友三郎監訳,一九九四年,八九-九○頁)。

だから、最善の欲求・意図にとって汎通的な〔それが熟慮を経るということである〕直観より有利に立つ原則が選択される。かくて統合性をみたしつつ、反省的な原則は「優越」しうる。
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posted by 9ki1to at 05:25| Comment(0) | 倫理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月15日

予定

10月は出張準備。
11月は報告書執筆。
12月は非常勤の予習。
1月は宮澤賢治論。・・・トンネルは長い。
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