2019年11月09日

認知主義 彷徨

 

「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを認知的内在領域に形成しシミュレーションをおこなうところに、ポパー型生物の特徴がある(戸田山和久、二〇一四、二六四頁)。それに引きつけて、いかなる認知的状態に準拠すべきかがはじめから決まっていないさいの、認知的規矩の選択を考えてみたい。

加藤泰史の言い方をもじれば(加藤泰史、二〇一四、一五二頁)、当為の次元を開示することで規範的次元を切り開き、規範的観点から、判断行為に理由を付与する「仮説」(Faktum)が、超越論的?当為ということになる。それは内在的な意識一般が、そこにとどまりつつもシミュレートによって手を伸ばす「超越の境界」である。

意識の内在的相関の根拠が、価値概念であるとしても、そもそも有限者のシミュレートの結果は、あらかじめ決まっていないのだから、認知的規矩は宙刷りにされる。仮に対応説ならば、まず「従うべき規矩」が定まっている。それを(理性の検討を経ずに)そのまま判断行為に及び、実践に移せばよい。だが、自由に対峙する――現象の認識論的内在に即した認知主義的主意主義の場合、どう判断を決定すべきかは、決まっていない(というより、常に反照的均衡に晒される仮説である)。われわれはみずから問うことによって、認知的状況をいかに設定するか、はたまた、さらに進んでいかなる実践に移すかを決定しなくてはならないのである。
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2019年11月03日

スピノザとリッカート-1

スピノザの並行論解釈にリッカートの相関主義がどのような翳を落としているのかを見よう。Korrelat(Correlat)を造語成分として含む単語が出てくるのは、文中五箇所である。幾分の齟齬も見えるので概括的なまとめで禁欲しなくてはならない。一、スピノザが並行論を首尾よく完遂したかという問いを承けて言う、「延長という属性の様態各々に対して精神的なものに相関項が存し、反対に観念各々(jedrのe欠)に、それに対応するにちがいない何か物体的なものが存するということである。私たちはそこで物体各々は観念に、つまり一個の観念に対応し、観念各々は物体に、つまりふたたび一個の物体に対応することが明らかにされるなら、私たちのスピノザの成就の首尾という問いに肯定的に答えられる」。しかし観念の観念という二つの観念が対応する「相関者」、様態が一つしかないので並行論はとん挫するかに見える。この文脈で観念の観念を第三の属性と見なす解釈が検討され棄却される。二、また物と心の対応が難しいことが示されるのは、スピノザが自己意識に無頓着であるかに見えるくだりである。いったいスピノザは無限に多くの無意識的心的状態を認めるよう強いられたのであろうか。「自己意識に対して、思考の様態は決め事としてあえて意識的と認めよう。まさにこの意識ということにこそ、自己意識の固有の本質が成立する」。さりとて「自己の表象は、たしかに「純粋精神的な」何かとはいえ、それに対応する相関様態を延長のなかで選り分けることはできないであろう」。

このようにスピノザ解釈における相関関係は対立概念の相補性という骨格を残している。とはいうものの、並行的・相即的(もとより実体的に一なので当然であるが)性格を示している。

こうした第一領域レベルで物と心が相関するにあたり、その関係の導きとなるのが価値である。リッカートは次のように説いていた。「一致を認識するのは、相変わらず主観が必要であり、この認識はもはや表象ではありえぬ。なぜなら表象なら、新たな一致が認されねばならず、無限後退に逢着せざるをえまい」(GE1,S.44.)。模写は――表象と知覚との関係にとどまり、必然的に現物・コピーの対応にもちこまれる以上、――無効なのだ。けだし知覚される元来の客観と、表象によって模写された客観という、二重化は避けなくてはならぬ。こうして認識主観のなかに、表象系列という主観列の無限系列を抱え込んでしまうことを、リッカートは批判したのである(T.,Kubalica, 2012, S.108-109.)。一致はあくまで外面的な基準であって、真であると本当に言えるためには、思惟そのものの内に、その根拠をもたなくてはならない。思えば、リッカートでは価値とは、一致を名乗る思惟そのものの次元であり、この価値自身において真理が問われた。それをスピノザ風に言いかえれば、〈おのれと同一な観念〉の次元と言えるだろう。真なる思考は、ほかの思考に関係なく、それ自身で自らが真であることを知悉しているのである。

価値という根拠をリッカートに設けるなら、それからurteilenして出てくる物と心は、非実体性=現象の分轄、したがって物と心が相関する意識というかたちをとるであろう。それに対してスピノザの並行論は、根拠を神の実体性に置く。とすれば神の内在的領域にものと心の並行的・相即的関係として相関が成り立つだろう。見方を変えれば、神の存在論的内在(スピノザ)が個人に投影されて、現象の認識論的内在(リッカート)が生成するのだ。しかも後者、意識の内在的レベルの根拠が、価値概念であるなら、前者、神の内在的レベル(属性)の根拠が、実体概念ということになる。

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2019年10月24日

「小谷論文・道徳と〈幸福であるに値すること〉」の査閲-3=2019/10/24=2019/10/25

ref.AA5,25
→幸福内実として目的的ないし手段的価値を持ちうる具体的な対象は、そうした価値を経験的・相対的・偶然的に担うにすぎない。
「幸福への指示そのものが全く無意味だと言いたかったわけではない」。幸福に含まれるであろう目的は存在しうる。それを実現する行為の格率、怜悧の助言は存在しうる。
現代カント主義における道徳と幸福
・コースガードの価値構造論理解
@価値の主観主義でも客観主義でもない理性主義
・・・理性主義者は「ある客体ないし状態は、それを実現ないし引き起こすのに十分な実践的理由が存在するならば善である」(Korsgaard,1996,p.226)と定義。
A価値の内在性

十分な実践的理由を普遍化可能性に見いだす。
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2019年10月22日

「小谷論文・道徳と〈幸福であるに値すること〉」の査閲-2=2019/10/22

二、道徳に由来しない幸福の価値
二-(2)何が幸福なのか p.89「あらゆる諸対象は幸福という理想に包摂され、欲求の対象となりうるのである。ただし、諸対象は経験的・相対的・偶然的にしかこの価値を持ちえない」。

ところで二-(1)の記述では以下のようになっている。
引用A570/B598によれば、「「構想力の理想」としての幸福は「可能的な経験的直観によっては到達できない見本」であるが、しかし「説明と吟味に耐えうるような規則を与えることはない」ような代物である。すなわち幸福概念はそこから必然的な規則が導出されることのない、そういった理想なのである」。
幸福への意欲が普遍的である理由。
@カントは幸福を人間の自然存在という側面と結びつけている。
A幸福への普遍的意欲は、幸福が理想だからである。
cf.浄福;純粋な理性的存在者にとって。それに対して幸福は有限的存在者にとって有意味である。


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2019年10月20日

「小谷論文・道徳と〈幸福であるに値すること〉」の査閲-1=2019/10/20

テキストは現代カント研究14 哲学の体系性 晃洋書房より
幸福が最高善の一要素である理由は、幸福には何らかの客観的価値があると考えられるからである。p.87

幸福値テーゼ・・・〈道徳は人格を幸福であるに値するものにする〉

幸福を必要とし、幸福に値しながらも幸福に与っていないということは、ある理性的存在者〔・・・〕の完全な意欲と両立しない。(AA5,110)

以下、続く。
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カント価値哲学の逆襲・新カント学派ではなく=2019/10/20=2019/11/13

 これからカント価値哲学プロパーの問題を扱ってゆこうかと思う。
@真理価値  内在的善としての真理・認知主義・主意主義に抗して・知覚判断の妥当性(プラウス)・方位を定めることとシミュレーション・解釈主義としての超越論的記号論(シェーンリッヒ)
A善価値   内在的価値の広袤・功利性との対抗(人間学の問題領域)・幸福に値すること・宗教的価値や美的価値(照会をどのように考えるか)・コースガードの義務論(論理空間の射程)・較認的選好と義務
B審美価値  照会的選好と善・主観的普遍性と現代アート・知覚と美的性質・傾向性としての価値・コネクショニズムとの対話・価値の淀みと価値生成・解釈主義の変奏と射程(フッサール)
C宗教的価値 幸福論の臨界(シュヴァイツアー)・誠実性の再評価・バウムガルテンと悪への自由・いのりの象徴的意義(カッシーラー)・プラグマティズムから見たカント宗教論・フォアとしての宗教

@贈与・帰結  ・中立  ・解釈学
A承認・非帰結 ・中立  ・カント
B交換・帰結  ・中心  ・現象学
C享受・非帰結 ・中心  ・新カント


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2019年08月22日

価値論としての解釈主義=2019/11/13

 あえて解釈学というタームを使わずに、解釈主義というのは、その広袤を目してのことである。措定の哲学としてのカント哲学(シェーンリッヒによる賦活・パースの超越的記号論との対話)を中核にすえ、新カント学派・解釈学・現象学をその周囲に配する。
 新カント学派としてはリッカート・ラスク。リッカートは価値の非身体性に即した形で、価値の多元性を説く。つまり解釈仮説としての価値である。ラスクは認知主義的・理性主義的妥当理論の極限を示している。
 解釈学は生のカテゴリーに依拠することで、他者性の超越を、その媒体たる価値にとどめる。だから価値論としての解釈主義はすぐれて、存在論的/倫理学的地平に定位しているのである。もとより、実体的/無謬的な価値を措定するものではなく、理論仮説としての価値概念を探究できる。
 現象学はとくに、シェーラーに顕著なように、価値の位階をとく。このことは、必然的に価値アンチノミーを招き込むように思われる。そうしたアンチノミーを価値の淀みと呼ぶならば、淀みは多元的価値の自己解釈のために価値仮説を必要とするだろう。

 カント哲学の「承認」・記憶・取り戻し・隣人愛・ロゴス(普遍化)の問題系・・・彼岸としての他者
 新カント学派の「享受」・宗教的な次元で出会う他者・身体性の迷路・作品化・・仮説としての他者
 解釈学の「贈与」・誠実・自己/他者に対する義務・自己評価中立的な帰結・・・措定としての他者
 現象学の「交換」・現象学的社会学・文明価値と怜悧・合理性・パトス・・・・・定立としての他者
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2019年07月15日

他者の系譜学(承前)・リッカートの問題圏=2019/7/21=2019/11/13

「享受」:性愛・エロスの問題系・ゲーテのファウスト・愛のタクソノミー・・・・仮設としての他者・極めて弱い実在性 
「交換」:経済・新カント学派社会主義・フィヒテの他者・文明価値・怜悧・・・・定立としての他者・弱い実在性
「承認」:隣人愛・アガベ―の超越・異定立・解釈主義・記憶・取り戻し・・・・・彼岸としての他者・強い実在性
「贈与」:誠実・超越的当為・認識の対象・キルケゴールの問い・宗教的な次元・・措定としての他者・極めて強い実在性

性愛に関連して愛の学・完結的部分性・行為者相関性・ヘレナ/グレートヒェンの世俗内的歓待・サルトルの他者論の査閲
経済に関連して「哲学の根本問題」の文明価値・外在的価値・非我の定立・ホネットの問題系・手段的価値と信頼との調停
隣人愛に関連して異なりの超越・強い強度の意味・措定の問題圏・論理的な要請・ファウストの世俗内的超越・レヴィナス
誠実に関連して象徴交換・認識論の形而上学的地盤・価値実在のテクスト・カントの悪・義務論的認識論・同一説への逸脱

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2019年07月14日

他者性の系譜学=2019/11/13

倫理という他者性への四つの経路 

非帰結主義は、価値観準拠によって、帰結主義は観察者中立的=幸福追求=財実現によって特徴づけられる。

「自己定位」は、〈自己拘泥〉によって、「世界志向」は「まったき利他」=自己から離れること=「主義」からの離脱によって特徴づけられる。

ここで「世界志向」が自己評価中立性(自己評価相関性の反対)を意味しているかは、興味ある問題である。

「自己善」=「自己定位」の価値観準拠=「最小倫理」である。

「世界の善」=「世界志向」の幸福追求=「隣人愛」である。「隣人愛」は功利主義的なもののほかに、「平等主義」的なものがあるかもしれない。(心情倫理は、非帰結主義より広袤をもち、「世界志向」の幸福追求としての「平等主義」を含みうるだろう。)

 ここで得た四類型をまとめると、自己定位的な「最小倫理」(非帰結主義)・「契約論的功利主義」(帰結主義)に対して、世界定位的な「義務論」(非帰結主義)・「隣人愛」(帰結主義)である。

 自己定位的であるとは、他から財を享けることであり、世界定位的であるとは、他から意味を付されることである。

 非帰結主義とは、自ら意味を付すことであり、帰結主義とは自ら財を与えることである。

 自己定位的な非帰結主義とは「享受」であり、自己定位的な帰結主義とは「交換」である・世界定位的な非帰結主義とは「承認」であり、世界定位的な帰結主義とは「贈与」である。

これをリッカートで言えば、

 「享受」:性愛・エロスの問題系・ゲーテのファウスト・・・・仮設としての他者 人格財の享受 期成>述定 聖 作品化 非帰結・中心

 「交換」:経済・新カント学派社会主義・フィヒテの他者・・・定立としての他者 物件財の交換 照会>較認 美 パトス 帰結・中心

 「承認」:隣人愛・アガベ―の問題系・異定立・・・・・・・・彼岸としての他者 人格財の承認 較認>照会 善 ロゴス 非帰結・中立

 「贈与」:誠実・超越的当為・認識の対象・・・・・・・・・・措定としての他者 物件財の贈与 述定>期成 真 誠実性 帰結・中立




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2019年06月30日

非利他主義/利他主義=2019/11/13

 他者の「厚生的-帰結」を重視するならば、それは功利主義を促す。逆に人が非帰結主義をとるのは、以下のような選択肢の間の決定によっているものと考えられる。つまり兵器研究所への就職は、サボタージュによる兵器開発遅延をとおした負傷の軽減のような世界の「厚生的-帰結」(兵器開発遅延という「利他」への些少の寄与・世界の財実現)、就職をえられる自己の幸福(みずからの不遇の改善・自己の財実現)、ならびに非帰結主義的要素の無視(世界と自己における価値観無視)とをもたらす。他方、兵器研究所への就職の忌避は、兵器開発に反対しないという、世界の「厚生的-帰結」の断念(なおざりにされた些少な「利他」・世界の財断念)、就職できない自己の不幸(みずからの不遇・自己の財断念)、自己の価値観を尊重した非帰結主義的要素 (自己の価値観準拠)をもたらす。〔これらとは別途、兵器研究所の就職が、〈自己拘泥〉的要素を揚棄した義務の実現である場合もあろう・世界の価値観準拠。〕

 両選択肢は、その総和を計算できないとはいえ、それらにわたって選択の自由がある。このさい、社会全体の幸福の実現可能性が少なくても、ジョージのような「自己定位」は、意志貫徹をとおして戦争への抵抗のメッセージを発信しうる。その方が戦争という「状況」に対して、自己の「主義」を発信できる。つまり「自己定位」ならば、そこに通俗的に自己が措定する「主義」を見いだしうる。――かくて第二に、〔「自己善」に顕著な〕「自己定位」vs. 〔功利主義、とくにその「隣人愛」に典型的な〕「世界志向」という、非利他主義vs利他主義の対照がえられる。

 これに対し、安彦は、功利主義的な「世界の善」の倫理を「自己善」に正対せしめる。そもそも責任倫理は、彼の言う「世界の善」の倫理と、結果の善し悪しを問う点をとりだすだけなら似ており、重なる部分を追求してゆけるのではないか。「世界の善」とは、「或る行為が帰結する、その行為以降の世界の全状態の属性である。……功利主義における「動機」性とは、この全般的な「世界」事態の「最善」を目指そうというものである」(安彦一恵、二○一三年、一六五頁、傍点強調原文)。

 安彦は、この概念を彫琢するにあたり、とくにゴティエを議論の端緒としている(Cf.Gauthier, D.P., 1986, p.60.etc.)。例えばゴティエは、『合意による道徳』のなかで、「合理的選択理論」、ゲーム理論、バーゲン理論等を駆使し、「目的合理性」に沿った道徳を考えていた。すなわち「目的合理性」をお手本とした戦略的合理性が、道徳の基礎とされる。論点先取をはばからずに言えば、道徳的命題が普遍化される途として、「世界志向」と財実現という二つの経路が考えられる。そこで「世界志向」が「まったき利他」――そこには「自己にこだわる/自己満足的な」利己性の要素がない――をもっぱらとし、財実現が幸福追求をもっぱらとすると考えよう。とすれば、財実現の倫理(「世界の善」は、その「世界志向」形態に限定する)を説く契約論者ゴティエに、「世界の善」へと至る、移行段階を認めることができる。彼の「契約論的功利主義」が、財実現をとおした〈自己拘泥〉でしかないなら、通俗的「主義」に準拠する限り、「自己定位」を離れられないと言えよう(つまり「真正な利他主義」ではないこと)。したがって安彦と異なり、「契約論的功利主義」を、自己の(非帰結主義的な価値観ではなく)幸福にかかわる「自己定位」(それに対し「自己善」は、その価値観重視形態に限定する)と見なす。

 もとより「契約論的功利主義」を採用した結果の方が、個人にとって通時的に損ではなるかもしれない。他方、非合理的だが、頭から「世界の善」を信じた方が、〔厚生主義的に、総和主義的に〕「トータルには」善になるとする態度に、安彦は道徳的要素を見いだしている。これがゴティエには見られぬ安彦の「追加的修正」であり(安彦一恵、二○一三年、六八頁)、〔「契約論的功利主義」の域を超えた、不特定の人を均し並みに愛する〕「隣人愛」につうじる要素である(以下、「隣人愛」の論点は、安彦氏からの私信によって示唆を受けた)。

 ここで一定の自己利益を留保しつつも、協調的信頼のなかに身を置く、という倫理学固有の解釈が可能となる。その解釈では、総和的に見て、他者たちの状態が最善になるという理想すら、不要とされる。通俗的に理想とは、ほぼ定義的に一つの「主義」だからである(安彦の論点)。筆者の見るところ、安彦がゴティエを措いて、功利主義的な「隣人愛」に与する所以である。ひいては、それが自己の責任意識(責任感という自己のトポスの〈帰結〉) を伴わぬ限りで、「自己善」を敬遠して「世界の善」へと帰着する。かくて、他者たちの「厚生的-帰結」を志向することで、利己性が前面に出た経済的合理性を迂回して、安彦は「契約論的功利主義」を昇華し、「隣人愛」を「世界の善」として抽出しえた。Sitteという準拠枠をとるなら、「自己善」(さらには「契約論的功利主義」)に対して、当然、達人的な「世界の善」は倫理的により高いだろう。

 しかしながら、安彦の「まったき利他」〔の候補である功利主義的「隣人愛」〕という醒めた意識は、動機となりにくいのではないか。これから見れば、もっぱら自己の価値観準拠である「自己善」にも、合理性理論として広義の功利主義に劣らぬ意味があると考える。ただし〈善の自己拘泥〉について誤解なきように言っておけば、善が自己を起点としていること(「自己定位」)の謂いである。それは「主義」へのコミットであって、〈善への通路〉が他者に閉じられていることとはちがう。もとより「自己定位」の価値観に準拠するからと言って、誠実な関係を他者と築ける保証はない(たんなる同じ主義者同士の相互承認)。それゆえ、帰結の点から言えば、個人にとって「賭け」にとどまる。これは2016/12/24の科研費研究会にて加藤泰史が指摘した論点と重なる(「自己」から「他者」へと格率を解放する加藤に顕著な「自己に対する義務」の論点・九鬼2018年科研費報告書)。とはいえ、それでも「価値観的に」同形の他者を想像する余地は残る。したがって、そのなかに「賭け」に共鳴する他者存在の可能性が示唆される次第である。自己に定位したとしても、他者との関係を築く可能性に「賭け」るなら、他者への倫理的な〈通路〉を開きうるかもしれないのである。

☆契約論的功利主義は純粋な利他主義であるが、真正の利他主義でないことに鑑みて、非利他主義ととらえ、真正の利他主義・帰結主義であるところの隣人愛と区別する。そうすると自己善を契約論的功利主義と同レベルの倫理性にまで持ち上げることができる。ethics14.pdf

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2019年06月29日

自己善・・・非帰結主義かつ非利他主義=2019/11/13

 大学紀要の出版がされたので、著作権的に問題ないかと思い、その一端を披歴する。

「自己善」は、と言えば、「他者の」幸福追求を、相対的に重視することなく、心情倫理との重なりを追求してゆける。けだし倫理学は人間性についての「学」である以上、合理性に依拠し、合理性は、「学」に対して統合性・普遍性等を要求するであろう。実際、ヴェーバーの――価値合理的行為=「ある特定の行動がもつ無条件の固有価値についての、倫理的・芸術的・宗教的なその他の、純粋にそのものへの、あるいは、結果を度外視した、自覚的な信念にもとづいて、行為すること」(根本概念WG:S.12.傍点は原文ゲシュペルト)を倫理的に昇華すれば獲得できる――心情倫理は価値観を優先し、人の纏まりたる統合性を志向する。その価値観準拠は、自己という「トポス」の充実を意味しており、普遍性をいささか犠牲にする。しかし筆者は、そのなかで価値観準拠を説くものを、主観的合理性の範疇に収めることができると考える。したがって、自己にこだわる合理的言説を、「最小倫理」と認めたい。それにあっても、あくまで倫理だから、自分のためだけの利益に自足することはない。自分が道徳的に善いと考えるものを――対自的には利己性に傾くにせよ――撰取するのである。ここで先回りして、「自己善」すなわち「最小倫理」という図式を、一応仮設して、その構成要素を掲げておこう。

@非帰結主義(価値観準拠)
 導きの糸となるのは、ヴェーバーの心情倫理批判であろう。彼は『職業としての政治』(一九一七年一月二八日)で、とくに心情倫理に低い評価を与えた。もとより彼は、達人的とも言える責任倫理を高く評価したとはいえ、心情倫理を放擲してしまったのではない。すなわち個々の行為は、その結果のみが倫理的天秤にかけられるとは限らないし、人格という観点に立てば、帰結への配慮よりも、むしろ価値観が問われるとした。ここから私たちが「自己善」と目してえられるものは、幸福という帰結から消極的にえぐりだされる、――それ自身では、公共への帰結を禁欲する価値観の倫理、つまり非帰結主義の一類型である。もとよりそれが、社会全体の幸福追求を第一義とするなら帰結主義に移行するが、小集団の連帯感・「絆」を中心にするかぎりでは、非帰結主義の域にとどまる。
A非利他主義(「自己定位」)
 功利主義的な厚生主義は、Sen,A.K.,1997,p.278によると事態の善は、個人効用の集合の善によって判断されるべき( must)だとする。こうしたセンの規定を承けるなら、幸福は人の豊かな生を反映しているが、人はそれのみを、評価の尺度とすることはできない( Sen, A.K., 1987a,Chap.2,p.41. )、という見方も成り立つ。彼によると、私たちは、目標、責任、価値等を形成する人間の能力を尊重すべきである。――少なくとも私たちは、俗見たる、自己にこだわる「最小倫理」を受け入れている。そしてセンは、生き方に踏み込んで、「主体性」重視の議論を展開する。そのさい、彼は各人の倫理観の重要性を強調し、功利主義に対する批判を押し出している。つまり、私たちが「自己善」として出会うのは、「まったき利他」の「世界志向」(「世界の善」を「世界志向」より狭くとる。)と相並ぶものとして、積極的に浮かびあがる「自己定位」という要素である(「自己善」を「自己定位」より狭くとる)。この「まったき利他」の否定(つまり自己にこだわる倫理)を、暫定的に非利他主義と呼んでおく。
 したがって、低幸福条件のもとでの「最小倫理」は、非帰結主義であり、かつ非利他主義として、かたどることができるであろう。
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2019年04月14日

開店休業

 雑誌掲載論文の著作権の関係から、ブログに新しい考えを公表できませんでした。去年から書いている、現代哲学と価値論の話は整理し直す必要性を認めているのですが。
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2019年01月25日

これが「ひねり」だ。=2019/11/13

 マンドリン事例には、さらに意図と言えるものがある。それは、作者エラリー・クイーンの意図である。彼にとってのマンドリンの機能・記述は何か。凶器?鈍器?いや「巧妙な凶器」と言うべきであろう。作中人物とは違う次元で、作者の意図は、読者との間に「重畳性」をもちうる。このフィクションにかかわる解釈の共有を「解釈性」と呼ぶことにする。

 ここで読み取るべきは次の点である。

 作中の凶器・鈍器・楽器という意図と、作者の意図が「逆立」するところに、「巧妙な凶器」の技巧性が生まれる。この内包に即した新しい価値の策出は、九鬼が「ひねり」と呼んだものと対応する。: 「ひねり」と呼んだのは、次のような例であった。いくつかの価値判断があるとする。イヌは噛むから、相対的に危険だ(a1(k1), K1)(a1(k1)は帰結k1の記述。K1 はk1を含む機会集合。以下同様)、転びやすい床は、相対的にあぶなっかしい(a2(k2), K2)、……を総合して、私たちは例えば、「身体的健康に配慮すべきである」Vaという類の一般的な価値判断を形成する。ただしここでは単純な一般化と言うより、一種の「技巧」が加わる。すなわち、バンジージャンプは危険だけれど、相対的にスリルがある(a3(k3), K3)、多量の飲酒は体を壊すかもしれないが、相対的に快楽を伴う(a4 (k4), K4)、といった(a1 (k1), K1), (a2 (k2), K2)と一見、整合的でない価値判断がある場合、「自己の身体は大切にするべきであっても、自由主義の享受を適度に実現する可能性がある分には、身体を危害にさらしてもかまわない」Vaという具合に、一見予想される「身体的健康に配慮すべきである」Vaより、技巧を経た《ひねった》「解釈」を個々の価値判断間につけるのである。その技巧性により、「ひねり」は、美的観点からだけではなく、高い価値をもちうる。

 審美的判断の照会>較認と倫理的判断の較認>照会を区別する必要があろう。N>DはNが当為的機能、Dが慾動的機能を果たすことを示す。

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2018年12月29日

記述と機能・マンドリン事例(3)=2019/11/13

 マンドリン事例の意図の解釈性について。マンドリン事例には、まだ意図と言えるものがある。それは、作者エラリー・クイーンの意図である。彼にとってのマンドリンの機能・記述は何か。凶器?鈍器?いや「巧妙な凶器」と言うべきであろう。作中人物とは違う次元で成り立つこの意図は、読者との間で共有される。
 ここで読み取るべきは次の二点である。
@ 作中の凶器・鈍器・楽器という意図と、作者の意図が「逆立」するところに、「巧妙な凶器」の「技巧的」価値が生まれる。この内包に即した新しい価値の策出は、九鬼が「ひねり」と呼んだものと対応する。
A ティーパーティー事例における、後知恵でこしらえた、「無難さ」・「冒険」といった記述は、一応、現実のシミュレーションとして理解されうる。だがしかし、ティーパーティーの解釈の技巧性は、上の「解釈性」と類似してくるのではないか。つまり、虚構のフィクションをいかに解釈する問題と、現実をいかに解釈するか、という問題の類似性である。先に、解釈性とあえて虚構性という表現を使わなかった所以である。フィクションとシミュレーションに通底する解釈の要素を、「解釈性」とあらたに定義したい。つまり、フィクションとシミュレーションの未規定部分解釈問題を、「解釈性」という共通の発想で捉えたいのである。このように考えると、現実の未規定部分解釈問題、つまり意思決定問題は、フィクションとつうじる部分をもっていることが明らかになる。これを現実のフィクション化という反自然主義的構図によって収めたい。とくにその例示として、ティーパーティー事例のマンドリン事例化を掲げることにする。
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2018年12月20日

記述と機能・マンドリン事例(2)=2018/12/27=2019/11/13

 Yの悲劇の場合、殺人立案者と、殺人者が違う。殺人立案者のシナリオに従って、殺人者はマンドリンで殴打して殺す。ただしそのさい、シナリオの「鈍器」を誤解して「楽器」を、マンドリンに当てはめている。
 このさい、三つの機能・それに対応した意図が考えられる。
 マンドリン製作者の楽器としての機能・記述は楽器になる。
 殺人立案者の鈍器としての機能・記述は鈍器となる。
 殺人者の凶器としての機能・記述は凶器となる。
 ここで解釈のもつれを逸脱性と呼ぶなら、殺人立案者は、殺人する意図はもたないが、マンドリンは凶器であり、鈍器である。殺人者は殺人する意図をもつが、マンドリンは凶器であり、楽器を誤解した意味において、鈍器である。
 では「意図によって、本来の機能が確定する」という立場に立つのなら、マンドリンは何と記述されるべきなのか。この殺人劇では、マンドリンは凶器であり、かつ、「不透明な意味」での鈍器というべきではないか。
 もし、逸脱を強調するなら、ここで、解釈の重畳性はなりたたない。しかるに逸脱のなかで共通性を探ってゆくなら、凶器かつ不透明な鈍器において、解釈の重畳性が成り立つのである。ただしこのような危うい一致が成り立たぬなら、一致なき逸脱性が、この場合で見られるということになる。
注意:Yの記述の偏見的表現に与するものではありません。
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2018年12月10日

記述と機能・ティーパーティー事例=2019/2/1=2019/11/13

 記述を拡張された選択肢にもちこむと独立性が侵犯されることが知られている。記述を含んだ選好に、独立性を追求する試みを考えたい。これはあるていど、帰結に本来的な機能をもちこむ試みに一致する。
 センのティーパーティーの事例を状況的人工物の例に改作する。x;自宅の椅子 y;友人宅のティーパーティーの参加券 z;吸引するコカイン。
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではxが選ばれるとき、無難(y)=無難(x)という内包的に独立な選択が選ばれている(外延的には独立性は保たれない)。
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではzが選ばれるとき、遊興(y)=遊興(z)という内包的に独立な選択が選ばれている。
yに無難か遊興か、いずれかの記述を与えることは、選択者の意図に委ねられている。このように考えて、内包の整合性を追求すれば、ティーパーティー事例は、独立性への反例にはならない。
補足:
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではyが選ばれるとき、人を選ばぬ社交(y)=人を選ばぬ社交(y)という内包的に独立な選択が選ばれている
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではxが選ばれるとき、自閉(x)=自閉(x)という内包的に独立な選択が選ばれている
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではyが選ばれるとき、気まぐれ(x)=気まぐれ(y)という内包的に独立な選択が選ばれている(外延的には独立性は保たれない)
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではzが選ばれるとき、反社会社交性(x)=反社会社交性(z)という内包的に独立な選択が選ばれている
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2018年10月20日

記述と選好=2019/2/1=2019/11/13

 価値の高低を論ずるためには「修正された拡張された選択肢」を導入しなくてはならない(記述を視野に入れているので、厚生経済学の定式化と異なる)。相互に排他的で、結合すれば網羅的な帰結〔となる対象〕αに対して、その全体集合をXX∋α,β,γ, ……, n(X)をXの要素の数とすると、3≦n(X)<∞)、Xの非空な有限部分集合全体の集合族をKとする。Kの要素はA,B,C,……によって表わされて、それぞれ機会集合と呼ばれる。A,B,C,……には記述f(α) (α∈A),g(β) (β∈B),h(γ) (γ∈C), ……が対応しているものとする、ここで「拡張された選択肢」(鈴村興太郎,2009,310-311頁)を修正して、α∈Aで (f(α),A)(修正された拡張された選択肢)を「Aからf(α)を選ぶ」と理解すると、期待効用にもっぱら注目した選好、「iは(f(α),A)を(g(β),B)より選好する」がえられる((f(α),A)Ri(g(β),B))。
 見通し@鈴村興太郎の対象に関する選好の公理化に依拠すれば、帰結主義的/非帰結主義的選好を統一的に把握できる。すなわち独立性と単純な無差別性と単純な単調性を要求しさえすれば、体系を・・・少なくとも対象の選好についてかたちづくれる。これは外延的に有効である。
 見通しA記述と対象に関するテクニカルな問題。((f(α),A)Ri(g(α),B))・・・同じαを選ぶにしても、機会集合が違う場合、10品目の対象からαを選ぶ、5品目の対象からαを選ぶと記述が変わってくる。
 さらに悩ましいのは((f(α),A)Ri(g(α),A))の場合である。事後的に記述が与えられたら、記述・内包のレベルで独立性を追求できる。・・・これは響きをさせ、外延のみに訴えることができないことを示している。つまり響きとひねりの区別は、いっしゅ便法であり、この選好の段階では、ひねりの要素が浸潤してきているのである。両価値判断の区別があくまで、説明を単純化するための区別であることをテークノートしておきたい。
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2018年09月14日

自然のなかの情報・表象=2018/9/30=2019/2/1

 戸田山和久『哲学入門』を読んで、いささか戸惑っている。機能の言及はあるのだが、循環的でないかたちで「本来の機能」が定義されているとは思えないのだ。それから、きゃっ、目的論のインフレーション。生物学へのアレルギーとあいまって、目的論をかくも正面から、論じることに懐疑をむけたくなる(目的論的偶然が進化論の真骨頂ではなかったのか・機能概念ということに、論点先取がもちこまれている気がする)。ということで不満やるかたないのだが、情報・表象の部分のサーベイをする。

 情報の数学的定義のところは、うさんくさい。情報エントロピー・確率エントロピーが、自覚的に区別されているとはいいがたい。このあたり大学で批判的な論文も読んだし、地学の浜田隆士先生の進化概念ともそりがあわない。
 すこしだけ共感をおぼえたのは「知識の定義:エージェントAがPということを知っている⇔AのPという信念がPという情報によって因果的に引き起こされた」というくだり。ふむふむ。価値判断も広い意味で知識なのだろう。Pという情報が客観的にあって、それが因果的に価値判断を引き起こした・少なくとも較認のレベルで・・・こんなことを言ったら、ヴィンデルバントは怒るだろうな。でも、新カント学派が自然化されてもいっこうにかまわない気もする。
補足:目的論より因果論の方が、ずっと外延の選好を考えるには有効である。「判断は何のためにあるのか」「真理という価値を承認するために判断をするのだ」これって、真理があとから判って、それから承認の意味付けを与えているのではないか。つまり承認されたものが真理であるということから遡って、その由来として価値があったという後知恵をつけているのに等しい。真理であることと独立に承認ということを言わないと、判断の目的が真理価値の承認にあったということは、トートロジカルになる。もとより、価値には自己解釈の文脈のコマ(そして整合性というかなめのピースを与えるのだが)にはなるが、価値と目的論の淫靡な結託には、反対したい。目的論なしの価値論にひかれるゆえんである。

 まあ、情報はこれぐらいにして、表象へ行こう。生き物に有用なのが「局地的情報」であるということはわかる。記号と記号が表わすものとの間のむすびつきが、確率的には蓋然性をもたなくてはならないことも。志向的表象は因果連鎖の途中をすっ飛ばして最も遠くにある因果的先行者を表象することができる・・・これも納得。

 どうも確率のところが浮いているような気がしてならない。確率が高いなら、情報がおいしそうという一方で、確率が低いからこそそれをありがたがる(自然にはみられにくい目的)ということもあるのではないか。つまりレアなおいしさというものも、あるはずだ。う〜ん、これはこれで悩ましい。
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2018年08月10日

現代価値論への警鐘=2018/9/22=2019/2/1

 現代価値論は、すぐれて総体的で包括的な反省を迫る価値を、身体的な情動の構成に委ねてしまう。それは従来の「人間観」、ヒューマニティにラディカルな「思考法の革命」を及ぼしかねない(牧野英二,2013)。もとより科学的知見としての意義を、全面的に否定するものではないが、ともすれば、それがもたらしかねない「人間性」を解体/縮減する知的作業に警鐘を鳴らさんとするものである。こうした基本的立場に立ち、新カント学派の価値哲学を、現代価値論に対置せしめ、その可能性を再考したい。そのさい生の自己解釈をかけがいのない個体(反省的判断力)に即し、かつ感情的契機をベースに考える点では共通なディルタイを、現代価値論と新カント学派の中間に位置付け、両者の優劣を吟味する対照項として設定することにする。
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2018年06月18日

再較正=2018/9/18=2019/2/1

 

 高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。身体的変化の知覚のなかに、高次認知的情動であるものがあるか否かは、高次認知的情動として何を認定することが先決要件となる。ここで身体性の評価は、判断が構成要素になって認知的に精緻化されるわけではない、とプリンツ は主張する。認知的状況が情動の種類を決めるのは「較正」(calibration)によっている。「較正」に応じて、或る「探知機」(プリンツ)に反応する情動について、「或る探知機で測ったらAだったのに別な探知機ではBになる」という不一致が生じないように、それぞれの探知機の追跡のずれを把握し、進化論的に適合した共通の探知の基盤を作る行為だからである。さらには進化論的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、同様な再較正によって説明されうる。 例えば通常の身体性の怒りは、或る種の判断の状況下では、不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬となる。このように別の原因、つまり認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではないが、「再較正」においては認知的状態が、身体性の評価がどの情動の種類に属するかを決めるものである。そうだとすれば、高次認知的情動の「ドクサ・思いなし」の独特性を認知は隈取り、「価値判断」の種差を規定するのである。あらかじめ見とおしを言えば、「ドクサ・思いなし」に対するメタ的な反省が、xする命題内容をかたちづくり、「価値判断」を成形してゆく。


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