2018年12月31日

現実のフィクション化

 反自然主義をここで、謡いたいのである。現実がフィクション化するさい、働くのは「美的原理」「マクシマックス原理」(三浦俊彦,2015,p.397)であろう。つまり後知恵によって期待効用を増やすために、価値付与してゆくのである。意思決定を現象的に記述してゆくさい、ミクロでは機械論が働くのに対して、マクロでは目的論に依拠する価値付与が有効ということになる。
 ・個性記述学の目的論的記述。
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2018年12月29日

記述と機能・マンドリン事例(3)

 マンドリン事例の意図の解釈性について。マンドリン事例には、まだ意図と言えるものがある。それは、作者エラリー・クイーンの意図である。彼にとってのマンドリンの機能・記述は何か。凶器?鈍器?いや「巧妙な凶器」と言うべきであろう。作中人物とは違う次元で成り立つこの意図は、読者との間で共有される。
 ここで読み取るべきは次の二点である。
@ 作中の凶器・鈍器・楽器という意図と、作者の意図が「逆立」するところに、「巧妙な凶器」の「技巧的」価値が生まれる。この内包に即した新しい価値の策出は、九鬼が「ひねり」と呼んだものと対応する。
A ティーパーティー事例における、後知恵でこしらえた、「無難さ」・「冒険」といった記述は、一応、現実のシミュレーションとして理解されうる。だがしかし、ティーパーティーの解釈の技巧性は、上の「解釈性」と類似してくるのではないか。つまり、虚構のフィクションをいかに解釈する問題と、現実をいかに解釈するか、という問題の類似性である。先に、解釈性とあえて虚構性という表現を使わなかった所以である。フィクションとシミュレーションに通底する解釈の要素を、「解釈性」とあらたに定義したい。つまり、フィクションとシミュレーションの未規定部分解釈問題を、「解釈性」という共通の発想で捉えたいのである。このように考えると、現実の未規定部分解釈問題、つまり意思決定問題は、フィクションとつうじる部分をもっていることが明らかになる。これを現実のフィクション化という反自然主義的構図によって収めたい。とくにその例示として、ティーパーティー事例のマンドリン事例化を掲げることにする。
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2018年12月20日

記述と機能・マンドリン事例(2)=2018/12/27

 Yの悲劇の場合、殺人立案者と、殺人者が違う。殺人立案者のシナリオに従って、殺人者はマンドリンで殴打して殺す。ただしそのさい、シナリオの「鈍器」を誤解して「楽器」を、マンドリンに当てはめている。
 このさい、三つの機能・それに対応した意図が考えられる。
 マンドリン製作者の楽器としての機能・記述は楽器になる。
 殺人立案者の鈍器としての機能・記述は鈍器となる。
 殺人者の凶器としての機能・記述は凶器となる。
 ここで解釈のもつれを逸脱性と呼ぶなら、殺人立案者は、殺人する意図はもたないが、マンドリンは凶器であり、鈍器である。殺人者は殺人する意図をもつが、マンドリンは凶器であり、楽器を誤解した意味において、鈍器である。
 では「意図によって、本来の機能が確定する」という立場に立つのなら、マンドリンは何と記述されるべきなのか。この殺人劇では、マンドリンは凶器であり、かつ、「不透明な意味」での鈍器というべきではないか。
 もし、逸脱を強調するなら、ここで、解釈の重畳性はなりたたない。しかるに逸脱のなかで共通性を探ってゆくなら、凶器かつ不透明な鈍器において、解釈の重畳性が成り立つのである。ただしこのような危うい一致が成り立たぬなら、一致なき逸脱性が、この場合で見られるということになる。
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2018年12月14日

記述と機能・マンドリン事例(1)=2018/12/25

 解釈の重畳性について。Yの悲劇で、殺人のシナリオを書いたXとシナリオに従う殺人者Yとの間で、マンドリンの記述・機能に関する齟齬があった。Xはマンドリンを鈍器と解釈していたのに対して、Yはマンドリンを鈍器と誤解して、マンドリンをもって殺してしまった。ここで、一見、Xによるマンドリンの記述と、Yによるマンドリンの記述とは、一致せず、解釈の妥当性が損なわれているようにも見える。しかし、実はここでも凶器という解釈は、妥当しており、XとYとの記述は共通であると言いたい。シッファー的なダブル・コンティンジェントは、グライス的な相互了解によって共通の地盤に達しうる。この共通理解に関する無限的了解を重畳性と呼ぶ。
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2018年12月10日

記述と機能・ティーパーティー事例

 記述を拡張された選択肢にもちこむと独立性が侵犯されることが知られている。記述を含んだ選好に、独立性を追求する試みを考えたい。これはあるていど、帰結に本来的な機能をもちこむ試みに一致する。
 センのティーパーティーの事例を状況的人工物の例に改作する。x;自宅の椅子 y;友人宅のティーパーティーの参加券 z;吸引するコカイン。
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではxが選ばれるとき、無難(y)=無難(x)という内包的に独立な選択が選ばれている(外延的には独立性は保たれない)。
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではzが選ばれるとき、遊興(y)=遊興(z)という内包的に独立な選択が選ばれている(外延的には独立性は保たれない)。
yに無難か遊興か、いずれかの記述を与えることは、選択者の意図に委ねられている。このように考えて、内包の整合性を追求すれば、ティーパーティー事例は、独立性への反例にはならない。
補足:
{x,y}ではyが選ばれ、{x,y,z}ではyが選ばれるとき、人を選ばぬ社交(y)=人を選ばぬ社交(y)という内包的に独立な選択が選ばれている
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではxが選ばれるとき、自閉(x)=自閉(x)という内包的に独立な選択が選ばれている
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではyが選ばれるとき、気まぐれ(x)=気まぐれ(y)という内包的に独立な選択が選ばれている
{x,y}ではxが選ばれ、{x,y,z}ではzが選ばれるとき、反社会社交性(x)=反社会社交性(z)という内包的に独立な選択が選ばれている
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2018年11月23日

基体と記述

xは基体とする。このさい記述f(x)についてf(x)⇔xが成り立つなら、主体は基体をその機能において表象していると呼ぶ。f(x)⇔xが成り立たないなら、主体はその機能において表象しておらず、単に非機能をレジスターしているにすぎない。自然淘汰説ではなく、生活世界淘汰説。
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2018年11月05日

基体選好説のもくろみ

独立性公理
(x,A)≿(y,B)⇔(x,A∪{z})≿(y,B∪{z})
ここでfという記述を考える。
(x,A)≿(y,B)⇔(f(x),A)≿(f(y),B)すなわちxとf(x)が一対一対応している関数である。したがって逆関数がかんがえられ、f-1(f(x))=xとする。
このとき
(f(x),A)≿(f(y),B)⇔(f-1(f(x)),A∪{z})≿(f-1(f(y)),B∪{z})
つまり
∄g(f(x),A)≿(f(y),B)⇔(g(f(x)),A∪{z})≿(g(f(y)),B∪{z})

このようなfが成り立つx,yの論議領界を基体と呼ぶ。基体とは、例えばx=「ここのマンドリン」のことであり、それが凶器に使われたらf(x)は「ここのマンドリンを凶器に使ったである」。凶器に使われたxは楽器ではない。ただしxは鈍器でありうる。先の一対一対応を保存するためには、f(x)として「ここのマンドリンを凶器、もしくは鈍器に使った」がいいかもしれない。

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2018年10月20日

記述と選好

 価値の高低を論ずるためには「修正された拡張された選択肢」を導入しなくてはならない(記述を視野に入れているので、厚生経済学の定式化と異なる)。相互に排他的で、結合すれば網羅的な帰結〔となる対象〕αに対して、その全体集合をXX∋α,β,γ, ……, n(X)をXの要素の数とすると、3≦n(X)<∞)、Xの非空な有限部分集合全体の集合族をKとする。Kの要素はA,B,C,……によって表わされて、それぞれ機会集合と呼ばれる。A,B,C,……には記述f(α) (α∈A),g(β) (β∈B),h(γ) (γ∈C), ……が対応しているものとする、ここで「拡張された選択肢」(鈴村興太郎,2009,310-311頁)を修正して、α∈Aで (f(α),A)(修正された拡張された選択肢)を「Aからf(α)を選ぶ」と理解すると、期待効用にもっぱら注目した選好、「iは(f(α),A)を(g(β),B)より選好する」がえられる((f(α),A)Ri(g(β),B))。
 見通し@鈴村興太郎の対象に関する選好の公理化に依拠すれば、帰結主義的/非帰結主義的選好を統一的に把握できる。すなわち独立性と単純な無差別性と単純な単調性を要求しさえすれば、体系を・・・少なくとも対象の選好についてかたちづくれる。
 見通しA記述と対象に関するテクニカルな問題。((f(α),A)Ri(g(α),B))・・・同じαを選ぶにしても、機会集合が違う場合、10品目の対象からαを選ぶ、5品目の対象からαを選ぶと記述が変わってくる。
 さらに悩ましいのは((f(α),A)Ri(g(α),A))の場合である。・・・これは響きが独立して外延のみに訴えることができない限界を示している。つまり響きとひねりの区別は、いっしゅ便法であり、この選好の段階では、ひねりの要素が浸潤してきているのである。両価値判断の区別があくまで、説明を単純化するための区別であることをテークノートしておきたい。
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2018年09月14日

自然のなかの情報・表象=2018/9/30

 戸田山和久『哲学入門』を読んで、いささか戸惑っている。機能の言及はあるのだが、循環的でないかたちで「本来の機能」が定義されているとは思えないのだ。それから、きゃっ、目的論のインフレーション。生物学へのアレルギーとあいまって、目的論をかくも正面から、論じることに懐疑をむけたくなる(目的論的偶然が進化論の真骨頂ではなかったのか・機能概念ということに、論点先取がもちこまれている気がする)。ということで不満やるかたないのだが、情報・表象の部分のサーベイをする。

 情報の数学的定義のところは、うさんくさい。情報エントロピー・確率エントロピーが、自覚的に区別されているとはいいがたい。このあたり大学で批判的な論文も読んだし、地学の浜田隆士先生の進化概念ともそりがあわない。
 すこしだけ共感をおぼえたのは「知識の定義:エージェントAがPということを知っている⇔AのPという信念がPという情報によって因果的に引き起こされた」というくだり。ふむふむ。価値判断も広い意味で知識なのだろう。Pという情報が客観的にあって、それが因果的に価値判断を引き起こした・・・こんなことを言ったら、ヴィンデルバントは怒るだろうな。でも、新カント学派が自然化されてもいっこうにかまわない気もする。
補足:目的論より因果論の方が、ずっと認識論的には有効である。「判断は何のためにあるのか」「真理という価値を承認するために判断をするのだ」これって、真理があとから判って、それから承認の意味付けを与えているのではないか。つまり承認されたものが真理であるということから遡って、その由来として価値があったという後知恵をつけているのに等しい。真理であることと独立に承認ということを言わないと、判断の目的が真理価値の承認にあったということは、トートロジカルになる。もとより、価値には自己解釈の文脈のコマ(そして整合性というかなめのピースを与えるのだが)にはなるが、価値と目的論の淫靡な結託には、反対したい。目的論なしの価値論にひかれるゆえんである。

 まあ、情報はこれぐらいにして、表象へ行こう。生き物に有用なのが「局地的情報」であるということはわかる。記号と記号が表わすものとの間のむすびつきが、確率的には蓋然性をもたなくてはならないことも。志向的表象は因果連鎖の途中をすっ飛ばして最も遠くにある因果的先行者を表象することができる・・・これも納得。

 どうも確率のところが浮いているような気がしてならない。確率が高いなら、情報がおいしそうという一方で、確率が低いからこそそれをありがたがる(自然にはみられにくい目的)ということもあるのではないか。つまりレアなおいしさというものも、あるはずだ。う〜ん、これはこれで悩ましい。
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2018年08月10日

現代価値論への警鐘=2018/9/22

 現代価値論は、すぐれて総体的で包括的な反省を迫る価値を、身体的な情動の構成に委ねてしまう。それは従来の「人間観」、ヒューマニティにラディカルな「思考法の革命」を及ぼしかねない(牧野英二,2013)。もとより科学的知見としての意義を、全面的に否定するものではないが、ともすれば、それがもたらしかねない「人間性」を解体/縮減する知的作業に警鐘を鳴らさんとするものである。こうした基本的立場に立ち、新カント学派の価値哲学を、現代価値論に対置せしめ、その可能性を再考したい。そのさい生の自己解釈をかけがいのない個体(反省的判断力)に即し、かつ感情的契機をベースに考える点では共通なディルタイを、現代価値論と新カント学派の中間に位置付け、両者の優劣を吟味する対照項として設定することにする。
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2018年06月18日

再較正=2018/9/18

 

 高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。身体的変化の知覚のなかに、高次認知的情動であるものがあるか否かは、高次認知的情動として何を認定することが先決要件となる。ここで身体性の評価は、判断が構成要素になって認知的に精緻化されるわけではない、とプリンツ は主張する。認知的状況が情動の種類を決めるのは「較正」(calibration)によっている。「較正」に応じて、或る「探知機」(プリンツ)に反応する情動について、「或る探知機で測ったらAだったのに別な探知機ではBになる」という不一致が生じないように、、それぞれの探知機の追跡のずれを把握し、進化論的に適合した共通の探知の基盤を作る行為だからである。さらには進化論的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、同様な再較正によって説明されうる。 例えば通常の身体性の怒りは、或る種の判断の状況下では、不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬となる。このように別の原因、つまり認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではないが、「再較正」においては認知的状態が、身体性の評価がどの情動の種類に属するかを決めるものである。そうだとすれば、高次認知的情動の「ドクサ・思いなし」の独特性を認知は隈取り、「価値判断」の種差を規定するのである。あらかじめ見とおしを言えば、「ドクサ・思いなし」に対するメタ的な反省が、xする命題内容をかたちづくり、「価値判断」を成形してゆく。


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2018年06月16日

ディルタイの認知的契機の包摂=2018/9/18

 

 ディルタイ一九〇六-一九〇八年頃の全集24巻中講義Aでは「快ないし満足によって性格づけられる状態、この状態を惹き起こす対象、もしくは、欠如によって不快をもたらす対象」(Bd.24,A:S.33.)とされている (Vgl. Bd.24,C:S.213. =A.45.266.)。さらにディルタイは思考作用による統制を積極的に認める(Bd.24,A: S.20. Vgl. C:S.238.)。生のうちの「所与」が、価値判断においても重要なのはいうまでもない(Vgl.Bd.24,A:S.20-21.)が、思考は、感情や衝動に直接含まれる価値規定をたえず修正してゆく (Vgl Bd.24,A:S.19, S.22-23.)。ディルタイは価値判断/規則のGeltungを認め (Vgl.Bd.24, C:S.227,S.233,usw.)、〔現実判断ならざる〕価値判断は、現実の対象を前提にしつつ(Vgl.Bd.24,C:S.229,usw.)、相対的に生の連関から自由になってゆく。

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2018年06月14日

情動のモジュール性=2017/9/18

 ミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように認知的契機を、知覚に委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるにこの偽ミュラー・リヤー図形がもつ錯視安定性から、もう一本に比べて短い錯視を抱くことも考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。このことは一、錯視のモジュール性が体系性を欠いていること、二、錯視と中立的な判断が変われば、見かけの内容も変化しうること(情動について言えば、飛行機恐怖症に安全性を教えると、自分の小心に自卑の情動を抱くように変わるかもしれない)で、錯視のモジュール性を反省的判断まで及ぼせないことを示唆する。

85_1a.jpg


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2018年06月09日

存在と価値の二元論=2018/9/17

 

事実から価値を導けない、と言われることがある。どういうことだろうか。価値的性質は事実的性質に還元されない。もちろん或る性質が別の性質に還元されず、それに付随するだけであっても、多様な各分子の質量と速度のいずれからも、気体が平均分子エネルギーEをもつことが導ける。しかしこの場合、事実的性質に非経験的な法則を適用して事実的性質を導けたのだが、どんな論理的操作を加えても、認知的にすぎない事実的性質から、情動的指令を含む価値的性質は導けない。

新カント学派的な存在と価値との二元論は、この点に与するとはいえ、やや事情は込み入っている。もとより事実判断(一次的な判断レベルの表象結合の強調)と狭義の実践的評価(二次的な判断レベルの態度決定の強調)とのちがい、さらにはかけがいのない個体の価値付帯性(判断内容としての価値関係性)と法則論的事物性(判断内容としての価値無関係性)とのちがいをもうけているものの、事実判断や事物性は理論的価値の認知(一次的な判断レベルの表象結合+二次的な判断レベルの態度決定)をまってはじめて成立する。とくにリッカートの歴史哲学的論考では、論理的価値関係性の議論と、評価的価値づけの議論が整理されぬまま、接合されていると言っていい。仮に価値判断の認知説が事実判断を価値判断の基底におくものであるとしたら、そのままのかたちでは新カント学派に合致しない。というのも、事実判断が価値判断を前提している以上、一見、循環することになるからである。そこで判断内容としての事物的性質(内容としての価値無関係性)と、判断形式としての表象準拠性(一次的な判断レベルの表象結合)とを区別しよう。前者は、事実的性質と価値的性質の対に対応するものであり、事物性から価値関係は導きだせぬという定式化を得ることができる。新カント学派は、評価的/実践的に意義あるものとして価値的性質を撰取した。後者は、表象結合の強調と態度決定の強調の対に対応するものであり、結合するかたちにおいては、理論的価値の認知、分離するかたちにおいては、実践的評価の決定という、二様の映現をする。したがって認知的レベルの、二重判断の結合を強調すれば、新カント学派は認知説に傾き、評価的レベルの、二重判断の分離を強調すれば、それは情動説に傾くという次第になるのである。

一般に認知説といった場合、価値的性質(対象の価値付帯性)の認知にかかわり、それは理論的に措定される場合を念頭に置くから、――ここで先の選択肢を交叉させれば――価値判断の認知説は、価値的性質(判断内容)の二重判断的措定(判断形式)という新カント学派の立場と整合的に理解することが可能である。高次認知的情動は、認知的要素と情動的要素をもっている。前者は価値判断における二重判断の結合と、後者は二重判断における分離(評価の主題化)に足並みをそろえる。高次認知的情動の「命題的態度」は、言わば表象結合態として所与となり(Nonrepresentative-argument)、メタ的な反省として価値的性質を、妥当する命題内容としてかたちづくり、「価値判断」が構成される。


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2018年06月07日

認知的に精緻化された身体性の評価は、純粋に身体的である=2018/9/17

較正をいれた訂正版。 

高次認知的情動(情動一般ではない)それぞれに特有の身体的反応は生じるか、と問うてみよう。身体的変化の知覚のなかには、高次認知的情動でないものがあるかどうかじたいは、高次認知的情動として何を認定することが先決要件となる。さて認知的に精緻化された身体性の評価は、身体性の評価のみから出来上がっている、とプリンツは主張する。不貞にかんする判断への反応として生じた嫉妬は、別の原因、つまり認知的状態のもとでは、別の情動を構成する。つまりもともとの表象とは異なった、別の使い方がされるように、身体性の評価と判断を結びつける「再較正」なされているのである。このさい認知的状況が、情動の種類を決めている。こうして較正に応じて本来の情動からの逸脱が説明されうる。これらを考えると、身体的メカニズムに高次認知的情動が対応すると思われる。もとより高次認知的情動のすべてがすべて、認知的要素に還元されるわけではない。だから価値判断と連続する情動として、高次認知的情動の「命題的態度」をしつらえよう。あらかじめ見とおしを言えば、「命題的態度」に対するメタ的な反省が、妥当する命題内容をかたちづくり、そうして「価値判断」というものを成形してゆく。

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2018年06月05日

高次認知的情動=2018/9/7

 

高次に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に愛情を感じていないのに、――世間体から悲しむそぶりをしていて、実際悲しんでいるかのように、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合、悲しみの感じ・振る舞いがともなうことがあろう。にもかかわらず、当人は愛していないのだから、悲しむべき理由を全く見いだせない。それは「自己演技的悲しみ」というべきである。この場合、モジュール性が維持しがたいのは、悲しみの背後の愛情の有無が問われているからである。

ポイントは高次認知的情動「愛情」の観点から、「悲しみ」のような感情プログラムが派生しうるという点である。対偶をとれば、悲しくないとき、愛情をもっていないとすら、言える場面がある。情動の認知的契機としては、「愛していない」という「見かけ」があるだけで、その前に、「自己演技的悲しみ」という見かけは括弧に入れられる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけをしているにもかかわらず、「実際は巨大である」という判断を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、「悲しみの感じ」と「悲しくないという認定」とは同格でなく、後者の判断によって、「悲しみの感じ」が滅せられるのである。受け容れられているのは、「愛していないから悲しくない」という認定=信念だけであり、見かけは一定限阻却されるのである。身体的反応(ここでは脳状態)が情動と「密接に」連動しているわけではなかろう。


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2018年05月05日

情動の認知説18=2018/8/31

「はらわたが煮えくりかえる」邦訳p.10
ヌスバウムもストア派の考えにしたがい、情動を、「価値負荷的な見かけ」を承認する判断と定義している(Nussbaum,2001)。価値負荷的な見かけとは、出来事を価値づける解釈のようなものである。たとえば、家族の誰かが死ぬことは、繁栄が困難になる重大な損失とみなされるかもしれない。ここまでは通常の認知説だが、私が理解した限りでは、ヌスバウムはさらなる要件を加えている。その要件とは、見かけが価値負荷的なものであるためには、その見かけが正当化されているという趣旨の別の判断が形成される必要があるというものである。この主張のために、彼女の理論は単なる認知説ではなくメタ認知説になっている。つまり情動には判断についての判断が必要なのである。
同p.39
認知説はすべて、情動に含まれている認知的要素は身体変化と同一でないし、身体変化を記録する内的状態とも同一ではないと主張している。なかには、情動は何の身体的要素なしに生じうると主張する認知説もある(Nussbaum2001,Solomon1976)。
同p.58
彼女によれば、情動とは、〈われわれの評価的判断は正当化されている〉という判断である。例えば恐怖は、〈自分の福利を脅かしているものがあると信じることが正当化されている〉という判断になるかもしれない。
幼い子供や幼児が情動をもつためには、高度に洗練された認知の観点から、情動を定義できないことを示している。
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2018年05月02日

偽りの恐怖=2018/8/31

  情動は事物の性質と呼応している、と言われることがある。すなわち身体的反応が事物の性質を表わし、脳がその反応を感受する、というわけである。論者は、情動は身体的変化の感受であるという仮説を支持すべく、情動と身体的な原因の間に相関を立証しようとする。以下ではこの見解を批判するかたちで検討したい。その過程で高度認知的情動を「情感」(affection)として区別する。高度認知的情動とは、本来的に認知的と見える情動であり、洗練された認知能力を必要とする、嫉妬・罪悪感・恥・誇り・忠誠心・復讐心である(グリフィスの考え)。そうした情感にかかわる言葉として《響き》と《ひねり》という二種類のカテゴリーを呈示したい。果たして身体的反応を感受するレベルで、情感は説明しつくされるのだろうか。情感の基準は身体的にではなく、志向的な内容によって与えられるのではないだろうか。つまり見かけと判断とを区別するなら、判断が情感の正体である、と。判断論中心の価値論・情動論に反対して、信原幸弘は以下のように身体的感受説を擁護する。「私たちは歯を剥き出しにしたイヌに恐怖を覚えつつも、そのイヌが檻のなかに入っているので、本当は怖くない(=危険でない)と判断することがある。つまり、イヌに恐怖を抱きつつも、イヌを怖くないと判断するのである。イヌへの恐怖が、イヌは怖いという判断なら、ここでは矛盾した判断が生じていることになる。すなわち、イヌを怖いと判断しつつ、同時に怖くないと判断していることになる。しかし、こんな明々白々の矛盾が生じているとは考えがたい。いくらなんでも私たちはそこまで愚かではない。そうだとすれば、イヌへの恐怖はやはり判断ではなく、感じであろう。イヌに恐怖を抱くとき、私たちはイヌをまさに怖いと感じているのである」(信原幸弘,2017,p.8.)。

  信原の例で、イヌへの恐怖と、「怖くない」という、二つの契機が出てきているのに注意すべきである。ここで価値判断と連続しうるのは、後者の判断であるといいたい。@「怖くない」が恐怖を問題にしているかぎり、「否定」の情感であると考えられる。ということは、イヌの恐怖という情感と、イヌが「怖くない」という情感を、同時に感じていることになる。もし恐怖という情感と、「怖くない/怖い」という情感は、単なる感じとしたら、矛盾を来たすかもしれない。しかし「怖くない」ということがらには、場合によって(例えば檻の中の犬のように)恐怖を矯めて、統制する場合が出てくる。すなわち「怖くない」は怖がるべきではないという当為性をもちうる。A➀の間接性を認めて「怖くない」とは情感ではあるが、感じと直接関連しないとしよう。しかしいずれにしても「怖くない」が恐怖の否定であることをうまく処理できない。「怖くない」が恐怖という情感の否定であるなら、「怖くない」は、恐怖と同じく情感であるとも考えられるからである。この隘路を避ける方法として、例えば恐怖を見かけとし、「怖くない」という情感は信念とする、情感=命題的態度説が出てくる。一方は、正しい信念を伝え、見かけは誤っているという了解が成り立ちうる。

 ふつうの――グリフィスが言う――感情プログラムが機能する情動では、ミュラー・リヤー図形に類した安定性・モジュール性を認められる。ミュラー・リヤー図形は、判断とは一応独立して、ゲシュタルト的に安定した現われ方をする。同じ長さと判断しても、見えの長短にかんする見かけレベルの不均整は治らない。それは、知覚的な――判断ではなく感受レベルの――安定性を示している。もとより感情的プログラムに左右される部分の大きい恐怖はさておいて、ふつう基本的情動と見なされる悲しみについてもモジュール性は認められるだろうか。むしろ高度認知的な情動、つまり「情感」の一種ではないだろうか。たとえ修正された判断が悲しみを、阻却しようとしても、一定限抵抗が伴うという論点である。たしかに意識的推論の不在・強制性・自己中心的な定位(源河亨、2017、p.181.)等をミュラー・リヤー図形がもつように、情感にも一定限のしばりがあるように見える。しかしまさしく、そのミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように知覚に情感の認知を委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるに偽ミュラー・リヤー図形の安定性から、もう一本に比べて短いゲシュタルトを抱くことが考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。してみれば真に長さを認知しているのは、ものさしを当てた正しい信念である、ということになる。と同様に高度に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に悲しみを志向的内容としてまったく感じていないのに、世間体から悲しむそぶりをしていたら、実際、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合でも、当人は悲しむべき理由を全く感じていないなら、悲しみの感じ・振る舞いがあろうと、それは偽善的悲しみというべきである。この場合はモジュール性が維持しがたいのではないか。ここでも「悲しくない」という判断と、悲しみの感じとしての失意という二要素が登場する。



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2018年04月28日

高度認知的情動=2018/8/29

 情動は事物の性質と呼応している、と言われることがある。すなわち身体的反応が対象の性質を表わし、脳がその反応を感受する、というわけである。論者は、情動は身体的変化の感受であるという仮説を支持すべく、情動と身体的な原因の間に相関を立証しようとする。その過程で高度認知的情動を「情感」(affection)として区別する。高度認知的情動とは、本来的に認知的と見える情動であり、洗練された認知能力を必要とする、嫉妬・罪悪感・恥・誇り・忠誠心・復讐心である(グリフィスの考え)。そうした情感にかかわる言葉として《響き》と《ひねり》という二種類のカテゴリーを呈示したい。果たして身体的反応を感受するレベルで、情感は説明しつくされるのだろうか。情感の基準は身体的にではなく、志向的な内容によって与えられるのではないだろうか。ここで論じるべき多くのことがら(価値実在論・目的論と価値・美をモデルにした価値比較等、いずれも新カント学派と密接なトピックである)があるが、「情感」=命題的態度が安定した価値体系との接点であるという見地に立ち、情動のなかでも注目して、〔新カント学派の遺産たる〕態度決定的価値説との対話を再検討したい。

 信原の例で、イヌへの恐怖と、「怖くない」という、二つの契機が出てきているのに注意すべきである。ここで勝義の情感は後者の信念であると〔して、その上階に価値判断を措定し〕たい。@「怖くない」が恐怖を問題にしているかぎり、「否定」の情感であると考えられる。ということは、イヌの恐怖という情感と、イヌが「怖くない」という情感を、同時に感じていることになる。したがって、恐怖という情感と、「怖くない/怖い」という情感とを、矛盾を来たさない異種の情感と考えねばならぬ。仮に「怖くない」という情感が、知覚と直接的には関連しない種類の認知と考えるなら、次の説に接近する。A➀の間接性を認めて「怖くない」とは情感ではあるが、感受と直接関連しないとしよう。しかし「怖くない」が恐怖の否定であることをうまく処理できない。「怖くない」が恐怖という情感の否定であるなら、「怖くない」は、恐怖と同じく感受されると考えたほうが自然だからである。この隘路を避ける方法として、例えば「怖くない」という情感は命題的態度とする、情感=命題的態度説が出てくる。

 ふつうの――グリフィスが言う――感情プログラムが機能する情動では、ミュラー・リヤー図形に類した安定性・モジュール性を認められる。ミュラー・リヤー図形は、判断とは一応独立して、ゲシュタルト的に安定した現われ方をする。同じ長さと判断しても、見えの長短にかんする見かけレベルの不均整は治らない。それは、知覚的な――判断ではなく感受レベルの――安定性を示している。もとより感情的プログラムに左右される部分の大きい恐怖はさておいて、ふつう基本的情動と見なされる悲しみについてもモジュール性は認められるだろうか。むしろ高度認知的な情動、つまり「情感」の一種ではないだろうか。たとえ修正された判断が悲しみを、阻却しようとしても、一定限抵抗が伴うという論点である。たしかに意識的推論の不在・強制性・自己中心的な定位(源河亨、2017、p.181.)等をミュラー・リヤー図形がもつように、情感にも一定限のしばりがあるように見える。しかしまさしく、そのミュラー・リヤー図形のあり様が、以下のように知覚に情感の認知を委ねてはならないことを、示しているのではなかろうか。ここで↔状の図形が、ものさしで計測すれば、若干長いとして見よう。しかるに偽ミュラー・リヤー図形の安定性から、もう一本に比べて短いゲシュタルトを抱くことが考えられる。このさい、↔のゲシュタルトとしては、ミュラー・リヤー図形も、偽ミュラー・リヤー図形も、より短いものとして立ち現われるが、〈正確な認知〉としては、前者においては同じ長さ、後者おいてはより長いという具合に食いちがうのである。してみれば真に長さを認知しているのは、ものさしを当てた認知である、ということになる。と同様に高度に認知的なものは、身体的感受によって判定されてはならないだろう。具体的に言えば、親の死に目に悲しみを志向的内容としてまったく感じていないのに、世間体から悲しむそぶりをしていたら、実際、涙も心拍数の変化も生じたとせよ。その場合でも、当人は悲しむべき理由を全く感じていないなら、悲しみの感じ・振る舞いがあろうと、それは偽善的悲しみというべきである。この場合はモジュール性が維持しがたいのではないか。ここでも「悲しくない」という認知と、悲しみの感じとしての失意という二要素が登場する。

 「悲しくない」が認知なら、悲しみの感じとしての失意も認知ということになり、またしても矛盾を避けえぬように思われる。これに対して、見かけ(視覚に限定せず現象=appearanceを指す)と、それから派生する命題的態度Bif(x) との区別を設けることで突破できるのだろう。認知される情感としては、「悲しくない」という信念があるだけで、その前に、漢字としての失意という見かけは括弧に入れられる。ちょうど、太陽は十円玉の見かけをしているにもかかわらず、「実際は巨大である」という認知を受け容れるのと同様である。ここでのポイントは、身体的感受説が言うように、失意と「悲しくない」とは同格でなく、「悲しくない」という認知によって、失意が滅せられることである。受け容れられているのは、「悲しくない」という事態だけであり、見かけは一定限阻却されるのである。

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2018年04月24日

情動の認知説17=2018/8/29

多次元評価(appraisal)説・・・プリンツ邦訳18ページ。何かを評価するとは、その対象を、自分に何らかの重要な影響を与えるものと見なすことである。多次元評価説では、情動はすべて評価的判断を含むと言われる。自分に影響を与える状況に直面している判断を含む。

@自分がいる状況が有益か有害か Aその状況にかかわる対象が存在しているのかどうか B対象を獲得したり避けたりすることは容易か困難か

ラザルスやアーノルド:査定は情動の一部ではなくその原因である。評価は情動の一部ではなくその原因と見なしている。

プリンツの態度
@情動は認知的ではない A情動は中心的テーマを表象する B情動にはひとまとまりのクラスがある C社会的構成主義をとりながら生物学的に基本的な情動を核として形成される D認知的なものを強調している構成主義理論を拒否する E情動は知覚の一種である。
中心的テーマから、価値の関係説に移行するのは、拙速かもしれない。中心的テーマを論じつつ、傾向性と橋渡しできるかもしれない。

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