2020年04月07日

価値の普遍性-16

安藤英二・承前
価値自由の精神構造
安藤104頁「かくて、「価値自由」が主体性の論理であることは明らかである。....自己の価値世界と如何に異なった価値世界と対立してもいささかも揺らぐことのない自立性――この自己確信の強さがあってはじめて事実を事実として認識することができる。いかなる事実をも――自分にとって最も好ましからざる事実をも」。
この箇所、すこぶる非論理的である。自己の価値観にそぐわない現実を直視せよ・・これは倫理的に自己の利益に反する価値命題を認めよ、ということがらと五十歩百歩である。付け加えるとすれば、自己の価値観にそぐわない現実とは、価値中立的な現実ではなく、他者の評価をまって成立する現実である。価値自由要請は、価値抜きの現実をいただくものではなく、いわば、他者性を媒介にして成立する公共的な価値にもとづく現実・・・けだし倫理学が要請するのと遠く離れていない・・・を認めよ、ということかもしれない。したがって満腔の非同意を以て、ヴェーバーの結論を受け流すことができる。
「自分とちがう価値評価を心理的に理解すると消え失せてしまうような倫理的信念などは、科学的認識によって破壊されてしまうような宗教観程度の価値しかもっていない」(WL,S.465-466.)。
ちなみに倫理的価値が心理的問題でないことは、およそ真面目に哲学を初歩から学んだ人なら、多くは認めることがらである。そして新カント学派の哲学者たちにとっては、あまりに自明すぎることがらに属していた。
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価値の普遍性-15

教壇禁欲・承前・安藤英二前掲書98頁。
「学生が教授に就くのは、ドイツの現状においては一つの強制された状況にあるのだから、そういう強制を受けている学生に個人的世界観を注入するために教壇を勝手に利用してはならない(WL,S.455.)」。要するに、「教壇作法」ともいうべき、「フェア・プレイ」の精神の発露である。立場を利用するな、というのは、いわばマナー的な統制的規範であり、学の内容にかかわる構成的規範でない。また、立場を利用しない形で、みずからの評価を対自化したうえで、講壇から価値を語ることは、「フェア・プレイ」と齟齬をきたすことはない。ヴェーバーは決して、価値判断を教壇から説くな、と言っているのではない。彼が禁じるのは、教壇から自由に語れることに乗じて、まるきり事実判断であるかのような論調で、つまり、それゆえにみずからの学問的卓越性を傘にきて、価値判断をすべりこませることの、いかがわしさである。「職業としての学問」と「客観性論文」との背景の比較は、それはそれで一つの興味ある問題であるが、ここでは触れない。ヴェーバーの価値自由が、一種の「教壇作法」であること・つまりそのことには、あらゆる価値的な立場を形式的には均し並みに提示すること等を含むのであるが、ことがらとしては、科学の倫理に属する問題であり、それゆえに問題の深度を測り間違えてはいけない。
 適度な深度を測量するには、例えば次のような文言を思いうかべればよい。「編集者は、自分自身に対してもまた寄稿者に対しても、彼らを鼓舞する理想を価値判断の形で表現することを決定的に禁止しはしない」(WL,S.156.)。
 それに付随して要請される責任とは、以下の二つである(安藤英二前掲書、103-104頁)。
一、いかなる価値意識に立脚しているかをつねに明確に自覚し、異なった種類の価値を錯綜させないように注意すること。
二、「思索する研究家は沈黙し、意欲する人間が語り始めているということ、また論議はどこまで悟性に訴え、どこから感情に訴えいるかを、読者に(そして――繰返しいうが――とりわけ自分自身に!)明らかにさせる」(WL,S.155)こと。
 肩透かしを食らったようで、こんなところにヴェーバーに対する幻滅を感じるのだが、どこから悟性・感情に訴えているか、どうかは、どうでもいい問題ではないか。学問上の価値は、レトリカル・もしくは動機的な要素に左右されるのではない。そもそもそれらは内観的な心理学の問題に属する。そもそも、学問的に熱を帯びれば、感情が高ぶるのは当たり前のことである。ただし高ぶっていても、学問上での優劣は歴然としてつくのであって、感情を明らかにせよとは、学問にとって、きわめて些末な要素であろう。じっさい、ヴェーバーは言っている。
「価値評価によって制約されているゆえに裁決できない問題は、社会学および国民経済学のごとき経験科学に対して価値評価が果す役割の論理的な論議と一緒にしてしまうことは、いかなる場合にも許されない」(WL,S.457.)。
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2020年04月05日

価値の普遍性-14

価値自由論の背景。
安藤英二、93頁。二つの背景。
一、西欧的世界とドイツ的世界の異質性。94頁「ドイツの歴史主義に対する攻撃の一つは、学問の科学性の要求という形で起こった。カール・メンガ―は自然科学的方法の欠如をもって、ドイツ歴史主義経済学の誤謬ときめつけた」。近代性の欠如。
二、ドイツにおける社会的状況の推移。
「客観性論文」の明るさ・19040年が資本主義的に成功していたこと。・歴史学派内で「倫理的規範がフォーマルな性格を失ない、倫理的なものの中に文化価値が持ち込まれて内容的な規定が与えられることになった」(安藤英二96頁)。
第二の論点の教壇禁欲にかかわる問題は、方法論的にさほどの意味をもたないかもしれない。己の価値観を対自化している限りで、教壇から倫理を説くか否かは、科学的問題ではなく、倫理的問題に属する。例えば、次のようなことを考えてみよう。倫理的に未成熟な学生を、自らが学問的に成熟しているという前提のもとで、「教導」するのは、学問的に誤りではない。しかし、学問制度の上下関係に寄生するかたちで、「教導」することは、学問的序列のもとに、倫理的高さを隠蔽してしまうがゆえに、一つの倫理的問題を抱え込んでしまう。(以下、続く)
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2020年04月02日

価値の普遍性-13

安藤英二の価値自由論。「マックス・ウェーバー研究―エートス問題としての方法論研究」未来社、1994年[新装版]
89頁。「”ヴェルト・フライハイト”の二通りの意味は、"客観性"の二通りの解釈に完全に照応している。すなわち、”客観性”を、"主観に無関係な”、あるいは”主観を越えた”という意味に解する場合は、”ヴェルト・フライハイト”は当然に”価値を離れた”、または”価値に関係のない”という意味に用いられることになるが、この意味における”wertfrei”または”von Wertung frei”という使い方は、すでに論文『ロッシャ―とクニース』にヴント、ミュンスターベルクを批判するときに現われていた(WL,S.53,64,74.)。しかるに、”客観性”が主観的前提の上に成り立つものとウェーバーのように考える場合には、”ヴェルト・フライハイト”とは、価値理念や価値判断をできるだけ鮮明に(とりわけ自分自身に対して鮮明に)させることによってそれを自覚的に自己統制することを意味するものになる。したがってこの場合、"ヴェルト・フライハイト"とは価値を”離れ”たり”没”することではなく、価値を持ちながらそれに”囚われない”、そして囚われないという意味において”自由な”、態度を指すことになるはずである」。
まず、「価値を離れた」という意味でのヴェルト・フライハイトはヴェーバーの短見としか言いようがない。いかなる形であれ、認識は価値に「拘束されている」はずだからである。だからといって、その価値が、普遍妥当的でないとは必ずしも言えず、また、価値に拘束されているからといって、認識が主観的なものに限られるというわけではなかろう。価値判断のなかには、たしかにごく主観的なものもあるが、他方で、相対的に普遍性をもっているものがあるだろうし、場合によっては、価値の普遍妥当性を語ることも臆断ではない。それ以上に、分かりにくいのは、価値を持ちながらそれに囚われないという表現である。ここは好意的に解し、認識がもとづく第一次的な価値判断に反省を及ぼすことであると理解したい。とはいっても、よりメタ的な第二次的な価値判断にもとづいているには相違なく、その意味では価値に囚われないことは金輪際ありえぬことになる。とはいえ、メタ的な反省の普遍性という論点さえ、認めてもらえれば、価値自由論者との対立は言葉遣いの問題に帰する。おそらく、この論点を価値自由論者は認めぬだろう。ひょっとしたら、価値に囚われぬことを想定しているかぎり、価値自由論者はヴェーバー批判者以上に、楽観主義者なのかもしれない。
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2020年04月01日

価値の普遍性-12

安藤英二は後に回して。大学の一年生の時、馬場修一郎先生が熱っぽく語ってくださった、価値自由論。
何が存在すべきか・という問題を科学の問題とすることはできない。科学が果たすのは、せいぜい次の四つである。
一、所与の目的に対する手段の適合性を示すこと。つまりヒューム的な道具的合理性の立場から選択肢を与えること。いかなる目的を選ぶかは個人の評価にしたがう。このことによって目的の立て方の妥当性を示し、目的に合った手段が存在するか、探索を促す。
二、結果の確定にかかわること。目的以外に生まれる意図しない結果を示す。
三、意欲せられたものじたいの意義を示す。意欲しても意義を認識していないものに対して、異議を示すのである。
四、意欲せられたものじたいを究極的に取った価値基準を示すこと。究極の価値基準に対する評価は、自己反省の契機となる。

こうした当為に対して禁欲する学問から、何を学べるかと言えば、
一、与えられた課題、具体的課題を解くことの重要性を学ぶこと。
二、みずからに不利な事実の承認。
三、人格を事態(Sache)の背後に沈めること。 
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価値の普遍性-11

価値自由論争である。導入部の意味で、浜井修にまず準拠する。
浜井修、前掲書、33頁。「ウェーバーが社会科学の認識の没価値性を求めたのは、社会科学の対象に対してでもなく、社会科学自体つまり社会科学の言明に対してであった。社会科学の言明においては「理想の開陳」はなすことはできず、もっぱら「事実の思惟的整序」が行われるだけである。従って没価値性原理とは、社会科学の言明は価値判断から自由でなければならないという要請に尽きる」。
歴史学派の経済学が一種、実践的観点から出発したこと、そこから存在すべきものが存在するものと合致したり、生成するものと合致したりすると誤認された。そこでSeinとSollenの原理的区別が課題に上ってくる。つまり「社会科学の認識における事実言明と、その言明の主体である社会科学者の価値観に由来する評価言明とを明確に区別せよ、という要請である」(浜井前掲書、35頁)。
ここで価値判断という表現が取られず、評価言明という表現が取られているのは肯綮にあたる。というのも、個人主観的色彩が強い場合、評価という表現が適切だからである。二点論点を挙げておきたい。
一、事実言明は評価言明を前提とする。このことはリッカートの「歴史哲学」の考察と平仄を合わせる。だが、その前提という事態からして、峻別が難しいことが予想される。おそらく、相対的にその区別に目覚めた認識主体が、事実的言明と評価的言明の区別を対自化せよというものであろう。一応、それを肯定しておいても、自らの認識土台の反省とは、ミュンヒハウゼン伯の髭のような困難を含んでいないか。
二、事実言明は評価言明、さらには価値関係を前提する(とくに文化科学においては)。ただし価値関係のうちには、普遍的?なものも含まれてくるだろう。例えば文学史を書く場合、フォンシュタイン夫人の手紙に価値を見い出すということは、文学史の手続きとしては正当な価値づけである。価値自由が問題になるのは、こうした普遍的?な価値関係よりは、個人の思いなしに属する評価というべきであろう。
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2020年03月31日

価値の普遍性-10

価値自由論争に入る前に
浜井修の「ウェーバーの社会哲学 価値・歴史・行為」1982、東京大学出版会より。覚え書き。
没価値性原理とは、社会科学における価値判断の取り扱いを排除することを意図したものではない。「価値判断は究極において一定の理想にもとづくものであり、したがって〈主観的〉な根拠をもつものであるがゆえにこそ、科学的討論から一般に価値判断が取りのけられる、ということには決してならない」(WL,S.149.)。価値判断は批判的に、科学において取り扱われる対象となりうる。
さらに浜井32頁から引けば、「科学が何らの価値評価をも前提にしないという意味で科学の「評価からの自由」を主張し要請しているわけでもない」。同33頁。「人間生活の諸事象をその文化意義の観点のもとで考察する科学」である文化科学ないし社会科学の場合、科学の成立根拠である価値観点は、科学的研究そのものである「経験的現実の思考的整序」を常に制約し、支配し、導くからである」。
「〈社会経済的〉現象としての或る事象の性質は、かかるものとして事象に〈客観的〉に付着しているものでない。それはむしろ我々の認識関心の方向によって制約される。言い換えれば、我々が個々の場合に当該事象に帰する特殊な文化意義から生じたものなのである」(WL,S.161.)。
文字ずらだけを追えば、リッカートの価値が普遍的で、ヴェーバーの価値が普遍的だと相違しているように見える。しかし、リッカート的に言えば、かけがいのない価値であるからこそ、文化的に傑出した普遍的意味をもつのである。両者の間に深刻な齟齬はない。
かくなる次第で、認識は価値を前提する。では価値自由とはいかなる事態を指すのだろうか。
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2020年03月30日

価値の普遍性-9

これまで見てきたように、価値の普遍性を説く、概念的ツールは揃っていると思われる。にもかかわらず、価値の普遍性がはやらいのは、ひとえにマックス・ヴェーバーの神々の戦い、さらにはそれにまつわる価値自由論争があるためであろう(ポイカートの所論・参照)。
西洋文化の爛熟とともに、神、ひいいては単一の価値観ということは失効し、神々の戦いに形容される価値観の対立が・・・宗教的価値の失墜と平仄を合わせて現れてきたというわけであろう。しかし、従来の価値観の失墜は、あらたな価値の普遍性の準備段階であるかもしれない。
問題は、そうして価値判断が普遍性をもたない以上、学問論的に言っても、価値を講壇の上からは説いてはならないとされることである。
後者にわたる価値自由論争を瞥見しよう(そののちに職業としての学問に触れることにする)。
価値自由とは、認識が価値から自由になれるという楽観的な主張ではない。認識は、人文社会科学の場合、価値を前提としており、価値前提抜きの認識はあり得ない(伊勢田哲治先生の発言・まちがっとるよ)。そもそもそうした学知においては、経済的価値・審美的価値・宗教的価値等の価値を対象に関係づけ、そのことによって対象を構成してゆく(フォンシュタイン夫人の手紙ならば、文学的見地を、文学的価値とともに導入している)のであるから、価値無関係と言うことはあり得ない。この立言は、リッカートサイドのものであるが、ザッハリッヒに言って正当なものであると思われる。ヴェーバー経由で価値無関係的な自然科学について、wertfreiと表現されるのはリッカートにとって迷惑なことだろう。ヴェーバー学者は、この水準に目を蔽いがちである。例えば鈴木宗徳の価値関係解説には、以上の点が欠落している。そもそも価値の身分を社会的現実とは無関係な論理的問題に切り詰めることをリッカートがしなかったことすら押さえられていない。現実性のなかに価値との絡み合いを見てとり、それに文化科学の定礎を求めたリッカートの企図さえ無理解なのはどうしたことか。
それはさておき、明らかに、ヴェーバーは価値を前提にするなとは言っていない。また価値が研究の対象にならないとも言っていない。(この辺り、浜井修の先行研究参照のこと)さらに言えば、実践の場面からの撤退でないことも、安藤英二の出口批判を引くまでもなく明らかである。
だが、価値を前提にした認識に立ちながら、講壇から当為を説いてはならないということとどう両立するのであろうか。ことは価値自由論争の本蹄にかかわる。あらかじめ言えば、喧伝されるほど、ヴェーバーの功績は多くはないと思われるのだが。一応の敬意を払い、検討することにしよう。
価値自由論争・職業としての学問・つづく。
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2020年03月24日

価値の普遍性-8

承前p.106〜109
四、どこからでもない眺め
シジウィック・ネーゲルの所説を参照のこと。私の視点からは私の幸福が私にとって重要に見えるが、客観的な善さはそれとはちがう。要するに宇宙の善、どこからでもない善を考えると言うもの。しかしxにとって善いというのは、xの賛成態度の適合対象である場合に限るが、賛成する主体がいないから、不条理なことに陥ってしまう。
五、公平さimpartiality
個人の関心・選好・愛着に観察者が左右されていない場合である。例えば分配のときに顕著な機能が見られる。
ところでここでの公平さは「適合的に公平な観察者にとっての善」である。
このように考えることによって、どこからでもない眺めのような不条理さに陥らない。また普遍化や主体への非言及のように、中立的により悪いものは私にとってより悪いということを含意しない。また競争のような、競合性を説くことなく、公平な観察者は結束を呼び掛けることができる。また普遍化に対して、中立的に悪い結果を生みだすことを成すべき場合に、制限を与える発想を説明がつくようにする。非インデックスのことに関して理由を与えられなかった拷問のなさに、公平な観点から理由を与えうる。
この五番目は、相関価値帰結主義の提案である。
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価値の普遍性-7

承前・the oxford handbook of value theoryより
三、行為主体非言及p.105~106
行為主体中立的理由を、その理由をもつ行為主体へ何らかの言及をもつ理由として考えよう。
対象OについてOに賛成することに適合した応対者に、Oが何の言及も行わない場合、かつそのときに限りOは中立的に善である。
この行為主体への非言及は、割合、意識一般の特徴を言い当てているように思われる。

内在的意味の統一が意識に現われるには、純粋意識の作用が意味的統一を賦与しなくてはならない。内在的意味とは、主観化の極限に立てられた「意識一般」の別名である(時期的には、中期の「哲学の概念について」(1910a)から、後期の『哲学体系第一部』のなかで説かれる)。個人主観的な存在・価値に対して、主観的の極となる項である。この「意識一般」とは、すぐ述べるように純粋な作用形式にほかならず、主観のレアールな心的作用に帰属する。それは現実的な心的内容のように客観化されえず、ごく主観的なものである。この領域が「第三領界」と呼ばれるのは、「現実」と「価値」に次ぐ三番目の独自な領域[1]だからである。というのも、「第三領界」は「現実」の世界と「価値」の世界とを結ぶ「世界の結節点」[=Weltknoten]という固有な役割を果たす(Rickert,H.,1921a,S.260.下線ゲシュペルト。)。すなわちundに模される結合作用[2]のことである。ただしそれは、一足す一の「足す」のように二つの〔結合されるものの〕区別を無にしてまとめあげるものではない。「結節点」においては、結合される「現実」と「価値」とが、それぞれの差異性を保ちつつ結びついている(Rickert,H.,1910,S.22.)。そのイミで「作用体験」(Rickert,H.,1921a, S.259.)「作用意味」(Rickert,H.,1921a, S.261.)と呼ばれたりする。結局、「作用の意味ないし評価の意味は、レアールな心的存在でも、妥当する価値でもない。そうではなくて、価値にとっては作用に内在する意義〔性〕[=Bedeutung]であり、このかぎりにおいて両領域の結合でありかつ統一である」(Rickert,H.,1921a, S.261.)。

ドラスティックに変化する射映を、一つの対象として把握するためには、作用の統一を必要とする。「思考する主観は……理論的認識が実現される作用を及ぼす」(Husserl,E.1975,Bd.XVIII/1.S.240.)。この点が、形式的論理学と超越論的論理学とにとって肝要である。つまり客観性(認識の客観的内容)は主観から迫られる(Krijnen,C.,2001,S.331.)。意味をとおして客観的内容、経験的対象が統握されるためには、主観がまとまっていなくてはならない。第二の主観もしくは「〔私の〕内在的世界」が、普遍的な作用たる第三の主観より〈範囲Umkreisが広い〉のは、第三の主観[3]、つまり「意識一般」が第二の主観をもとづける部分だからである(GE1,S.8/GE2,S.13.)。とすれば、フッサール流に[4]自我を構成する成素についてホーリズムを見出せる。


このように意識一般が自我という規定を捨象した主観極に考えられるのだから、当然、行為主体への非言及と言うことが出てくる。そうすれば、非人称的な理由は命題によって扱われることになる。それゆえ以下の定式化の方が優れている。

対象OについてOに適合的に賛成するのは、それに寄与する性質が、Oに賛成することに適合した応対者への言及なしに記述される場合、かつそのときに限り、Oは中立的に善である、と。




[1] 意味の第三領界(Krijnen,C.,2001,S.369-370.)がもつ存在様相の特異性が問題となる。「第三領界」はフレーゲ・ボルツァーノ・マイノング・チザム・ポパー・トゥーゲンハットに認められる。ところでフレーゲが「思想」を第三領界と言う場合、命題内容(もとよりリッカートの超越的意味は命題内容=文章の意味にほかならない。)に即している。しかるにリッカートのそれは、主観的な存在領域という含みがある。したがって意識に即して、存在(妥当)について判断する作用であることが、リッカート的「思想」の際立った特色である。

[2] クライネンの解釈は一貫して、思考と認識の対象との間にも、異定立の原理・相関関係を見て取る、極端に観念論に傾斜した解釈となっている(経験的実在論的読み替えがない)。しかるに「純粋に異質的な媒体」[=ein rein heterogenes Medium](Rickert,H.,1924a,S.59.下線ゲシュペルト。)としてのSinnの第三領界のみが、「共相関」と呼ばれてしかるべきである。「認識主観と客観の認識統一体の契機として、交互的含意関係は「認識作用と対象との論理的な根源的相関関係」をかたちづくる」(GE6,S.362.Vgl.1929,S.689.)。認識作用は、認識された【客体】と、認識する主観を必然的に含意している。そこで認識を遂行する契機が認識主観である(Krijnen,C.,2001,S.310.)。

[3] この箇所は、第三の主観「私の〈意識作用〉」を抽出する第一段階の文脈だが、それを前提にするときだけ、第二段階の純化された第三の主観、「意識一般」について語りうる。客観的価値と対峙するこの「意識一般」よりは、中期・後期のリッカートにおいて主観〔側〕の極、つまり「内在的意味のあの領界」[=jenes Reich des immanenten Sinnes](Rickert,H.,1909,S.220.)に読みかえられる。こうした現象学的「後退」によって、客観側に「存在」と「価値」が並立することになる (九鬼一人,2014(←1989),78ページ参照)。現象学的「後退」についてはhttp://www.

systemicsarchive.com/ja/b/ethische_aesthetik.html,2013年12月11日閲覧,参照。

 向井守,1997,151ページの「認識論的主観」の解釈は、それが認識の論理的前提であることを、無視した議論である。また認識論的主観は心的な「意識の成立[=Entstehung]」に依存しない (GE1,S.36.)のであって、それが――向井守,1997,152ページが誤って言うがごとく――「表象的」主観を指していないことは明らかである。

[4] かつて「意義[=Bedeutung]のカテゴリーは全体に対する生の諸部分の関係を示していて、この関係は生の本質にもとづいている」(Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.233.=4:258ページ。Vgl. Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.243-244.=4:271ページ。)というディルタイの文言に引きつけ、この箇所を解していた。当時はノエマにのみ注意がいき、ノエシスの問題には思いいたらなかった。ディルタイ論中の、「具体的な現実のなかでの体験の連関は、意義のカテゴリーにもとづいている。……これらの〔体験や追体験の〕連関を構成するものとしての体験作用[=Erlebnis]のなかに、意義が含まれている」(Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.237=4:263ページ。全体と部分の関係についてはVgl. Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII. S.195=4:215ページ。Dilthey,W. 1979(←ca.1910),Bd.VII.S.197=4:218ページ。)という箇所にいささか性急であるが、リッカート/フッサールとの接点を見出そうとした(九鬼一人,2007/2008,29ページ。連関の客観的観念論的含意についてはDilthey,W. 1968(←1906/他),Bd.IV.S.177.=8:532ページ。)。またディルタイの真意を知るには、「意義は特殊な種類の関係であり、これは、生の内部でその部分が全体に対してもっている関係である」(Dilthey,W.,1979(←ca.1910),Bd.VII.S.233-234.=4:259ページ。)を十分理解しておく必要がある。

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2020年03月14日

価値の普遍性-6

承前・the oxford handbook of value theoryより
二、普遍化可能性
Oが中立的に善なのは、∀x「Oが善いx」の場合であり、その時に限る。
つまりOが中立的に善なのは、Oが、いかなる人によっても相応しく賛成される場である。帰結主義をとる限りにおいては、いかなる人ということは、道徳的行為者=主体に限定される。
このさいs3はs1やs2より行為者中立的に善い、ということは、s3が私にとってより善いことを含意する。しかしこのように考えると、性格的な特徴に拘束されてより悪くなることが、行為者中立的である可能性を排除できなくなる。そうすると行為者中立的により悪い状態が、行為者相関的により善い、と言っていることの記述として受け取るしかない。行為者中立的に悪いとは、行為者相関的に悪いことをつねに伴っている。p.104〜105
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価値の普遍性-5

oxfordのthe oxford handbook of value theory からの引用にしたがう。
一、非インデックス化
対象が三座の適合関係(対象、応対内容?、応対者)に参与するとき、それは相関的な善をもつ。しかしその適合関係において、応対者を欠くとき中立的な善をもつと言われる。例えば賞賛に値することを考えてみよう。牡蠣の料理は、人によって望ましさは違うかもしれない。しかし賞賛に値することは、応対する評価者のインデックスなく決まってくる。ちょうどネルソン・マンデラの偉業のように。
 事態s1がs2より私に善いということは、s1が私によって選好されているということである。
 s1として:私がAを拷問しない・BとCが拷問されている・あなたは私がAを拷問することをやめさせる。
 s2として:私がAを拷問する・BとCが拷問されていない・あなたは私がを拷問することをやめさせない。
ここでs3を考える。
 s3として:私がAを拷問しない・BとCが拷問されていない。
s3はs1やs2より善いだろう。そのさいs3はインデックスなしで善いということになる。それは選好されている好ましいものであり、応対者の座に何ももたない関係である。
 だがここで、インデックスの悩み深きパズルに落ち込む。インデックスなしにs3はs1やs2より善いかもしれないが、実はそれはs3はs1やs2より私にとって善いとは限らない。ここでs3に正しさというものを要求すると、結局、中立的価値の解釈ということになる。
 こうしたところから、非インデックス化の追求は、誰が理由をもっているかと、理由の内容は何かという観点の分離を要求されることになる。例えば約束順守が約束に敬意をもって行われる(理由の内容は何か)ということが、人の約束を守る理由である。しかし、約束を人によって破るということは、応対者相関的な理由に拠っている。このように相関性をどの次元で考えるのか、という難問に突き当たるのである。
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2020年03月12日

価値の普遍性-4

価値が一般に成り立つことを解くために、以下のロジックが提出される。
・インデックスを欠いたこと・レファランスのなさ(意識一般)・普遍化可能性・公平性
いずれゆっくり見てゆくが、注目したいのは第二のレファランスのなさである。このことを評価者相関性と言うことで考えれば、倫理的な一般性は、自己評価中立性を目しているものと考えられる。
妥当が依存する「意識一般」(主体agentへの非言及)の僭称によって、理想的な条件のもとでの制約のない意識に近づく。主体=応対者の非言及とは、以下の事態にほかならない。「Oが中立的に善であるのは、以下の場合かつそのときに限られる。Oに適合して賛成する所以の性質がOの賛成に適合するところの応対者に何ら言及することなく記述可能な場合である」。命題価値が態度決定をつうじ、他方で情動関与的に再較正されて、あたかも普遍的な価値判断のなかに結実してゆく。そもそも価値は「少なくとも個人のイマジネールな立場変更によって主観的に普遍化可能でなくてはならない」。というのも、価値は「公の言論にかかわり、理想の生き方にコミットする」からである。
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2020年03月10日

価値の普遍性-3

O君のこと。
O君は倫理学が嫌いである。二十近くなったのだから、人生の問題は自分で考えてゆく問題であると考えている。そして、人生観に関する問題は、畢竟、個人に集約されるのであるから、教壇から説教じみた価値観を聴くことを毛嫌いしている。たしかに人生観のグラウンドは、個人によってプレーする場所が相違しているから、そこに箍を求めるのは場違いのようにも思える。しかし、価値観にもいろいろな観点から、尺度が決まることはあるのだ。実在に関する価値観は、科学の掣肘を受けざるをえない。倫理的な価値観が法と言う、あまりにも正直すぎる社会の道具とかかわらざるをえないところから、社会との対話ということも出てくる。その対話は、基本的にはロゴスに依拠したものであるが、不整合が生じたときなどは、言説の物語としての巧みさ・技巧性という尺度からもはかられる。美と言う新奇さと隣り合わせでもあるような価値でさえ、新奇性ということがら自体が、あらかじめ成り立っている美的尺度との緊張関係のなかから生まれてくる。このように考えるならば、価値ということがら、それを拡げて人生論的な問題は、価値の尺度という普遍性の密輸入を経ることなくして、論じえない。論じえないというのも、論理的な問題なのではなく・・・個人のレベルでの合理性というものも考えられるのだから・・・実践的・言語論的な論じえなさである。言いかえれば、共同体に片足をかけているのなら、社会的な価値尺度に敬礼しなくてはいけない、という類の問題である。
O君にしてみれば、こういう教師は「生意気に」映るらしい。そこでO君は論争する。だが、O君よ、論争と言うことは、なんらかの構えでの終点(決着ではないにしろ)を予想しているのではないか。討議倫理学というような野暮なことは言わない。いずれにせよ、論争は実践的に・言語的に、終わらざるをえないのだ。いつか論争を終えて、休まざるをえないように。その終点が、なにかの暫定的・究極的かたちをとる以上、そのかたちは社会の尺度の上に引き直され、何らかの評価を受けざるをえないのだ。O君の論争は、論争と言うかたちをとってしまった以上、片足を社会にかけているのであり、社会のコードがそこに埋め込められる運命にある。
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2020年03月03日

価値の普遍性-2

人の考えはわからないか。
 価値の対立と言うことで、人はしばしば他人の考えなど分かりようがないとうそぶく。社会の気の遠くなるような意見の対立ということを前提するなら、そういう感慨もやむを得ないのかもしれない。その反対に、自分の考え方は、まったく公に開かれていて、その中立性を疑わないという、社会学者がいたことには、反吐が出そうになった。まあこれは感情的な反発だが、まんざら、その社会学者が常軌を逸しているとも思われない。自分が正しいと考えているとき、何らかの意味での普遍性を密輸入していることはままあり、そのこと自体不健全とは言えないからである。自分が5+7=12と考えているとき、それ以外には考えられない。殺人が悪いと考えているとき、それを社会の理のレベルに定位しているのなら、たしかに悪いだろう。吉高由里子が美人と考えているとき、他人にもそのことを認めてもらいたく思っているだろう。もちろんラオスの首長美人を美しいとは思えないのだが、美という範疇で捉えているとき、当人にしてみれば、何らかの普遍性を要求しているということである。議論はもうカントの美学の主観的普遍性の域に踏み込んでいる。また、死んだら無である・・・どのような意味かはわからないが、幽霊を認めている人でも、それが生きている人から何かを欠いている・無がそこに忍び寄っていることを認めるだろう。このように一致していることがらは、少なく見えても、一致を要求しているとか、一致を案外、持ち込んでいるとか・・・哲学の戦場は案外、アナーキーではない。たまたま、密やかな戦いを挑む人はいるが、それはある意味で、戦場を私という拠点から繰り広げているからである。しかし、社会の視点が勝つことは、プラグマティカルに約束済みである。というのは、こういうことである。対話なり、戦争なり、他者との接点を設定するとき、言語論的に他者を前提せずにはいられぬ。これは論理的と言うより、実践的・人生論的な意味においてそうである。つまり、他人のことがわかるという、至極当たり前な前提が生きているうえでは作動してしまっているからである。これは論理的問題ではない。たとえ、精神病者が、自分の考えと他人の考えを区別できない、もしくはそれが災いして、他人の理解ができないと言っても、その人がたまたま、病気であることに目覚めるなら、他人が自分の考えを盗み取っている等々の病的指標が自覚されるはずである。その指標が自覚された時点で、その人が正しい思考ができるかできないかにかかわらず、病というかたちで、他者が正常状態に設定される。精神病者は結局、いつも他者に負ける。いつも社会に負けるのである。もしくは他者のことがわかるということがらが、事実可能ではなくても、正常状態の理想となることである。だから、人の考えがわからないと孤塁を守るより、そうしない方が、実践的・人生論的にいいのである。人の考えはわかるはず、というカノンが価値の普遍性をひらく。
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価値の普遍性-1

 哲学、とくに価値に関わる授業をやっていると、学生諸君の相対主義に出逢う。人それぞれ価値に関する意見は違うのだから、とくに価値とかかわりの深い哲学の問題には答えがないとか、価値観を反映する社会的問題には、解決などありえないという反応である。とくに後者の傾向は、判断の停止を学生諸君にもたらしているようだ。
 かくゆう私も中学生のころ、太平洋戦争について、判断中止の状態にあった。日本人の意識が目覚めていなかった、もしくは未成熟であったとするなら、戦争の悪さについての判断ができないと考えたのである。ヒロシマの「あやまちはくりかえせませんから」という碑文に反発を覚えたものである。「あやまち」と捉える道徳意識が発達していなければ、責任を問うことができない、という感慨を抱いたからである。
 先の戦争が成熟した意識にとってさえ、「あやまち」であったかどうかについては、異論が百出するであろうが、ここで思い出すのは高校での社会で教わったことである。教師は太平洋戦争を@植民地に対する侵略戦争A列強間の帝国主義戦争B民主主義国家と独裁国家との戦争・・・という三つの側面に分け解説してくれた。このことは@かAかBかという排他的選択肢の間で選ぶことではない。また@も正しいAも正しいBも正しい、ゆえに帝国主義戦争という弱肉強食の事態のためには、戦争は正当化されてもよいという相対主義を意味するものではない。@とAとBは言わば次元が違うのである。ただしだからと言って総括的な評定を怠っていいわけではなく、@・A・Bで組み立てられた「多面体」全体を複合的に評価する必要でてくると思うのである。神々の戦いという言葉は、あたりがよすぎて、弊害が多い。次元の違いに目を向けよう。そして総体的な把握を心掛けよう。
 以下での論調は、あらたな次元の知見を付加することにより、より普遍的な価値評定を生みだしてゆく可能性を探ることである。このような話をすると、本当に人それぞれさまざまな評価ができるのですね、という感想がでてきて辟易する。目指すのはむしろ、価値的なものの一致点である。
(承前)人の考えはわからないか。
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宮沢賢治論・冒頭

プレアデスへの序奏・科学と宗教のあいだ
* * 研究史
 プレシオスの鎖Jがプレアデスを意味することの根拠に、『旧約聖書』ヨブ記三八:三一を引証できる。「汝昴宿の鏈索(くさり)を結び得るや。参宿の繋縄(つなぎ)を解き得るや」。当該箇所は、全体で「プレアデスの星のつながりを人の手で見えなくさせようと思っても、見えなくさせられない。オリオンの綱を解こうと思っても解くことはできない(4)」である。つまり「そのような勝手なことはできないのである。神がお作りになった、天の秩序は堅牢である」ということになる。
異説として鎖を因果連鎖(5)、食物連鎖(6) 、大いなる生命の連鎖と取る論者もいるが、ミスリーディングである。さらにプレシオスを、プレアデス星団とペルセウス星団からの造語と解する古東哲明のそれもある(7)。いずれにせよ鎖は、人の手によって自由にならない「鎖」である。
そして前後の文脈からは、くだんの「プレシオスの鎖を解く」という文言が、「ほんたうの考とうその考」を見分ける実験の結果と「重なる」ことが分かる。例えばネットでは、散開星団のガスの混沌にダブらせて〔解くを「切り分け」と解し〕「混沌としている事実と虚構とをしっかりと切り分けること」http://www. astron.pref.gunma.jp/ inpaku/galexp/ pleiades.html(2020/1/14閲覧・部分後述*)と解釈する者も存在する。
また斎藤文一は、次のように解釈する。
 「あらゆる人のいちばんの幸福を求めて、「プレシオスの鎖を解かなければならない」という言葉が書かれた。プレシオスはプレアデスに他ならない。ではその意味は何か。これは単純に星団の統合力(重力場)からの解放脱出ではない。より普遍的に銀河系全体で、新しい諸天体との連帯を求めて進み出ることを意味するであろう(8)。」プレアデスの鎖を、天体を結びつける「力」=重力に注目して、「さらに正にこの「力」から「解放されねばならぬ」(9)」と解している。人間の連帯の歩みにおいて、「「プレシオスの鎖」から解かれるようにそれ自体の生命力を宇宙的に開花させる」と、連帯が導く「幸福」への途上に位置づけられるわけである(10)。この〈解放連帯説〉解釈では、プレアデス星団の星々が、散開星団の重力による収縮で新しく誕生してきたことを踏まえて、重力場・新しい諸天体と言っているように読めるが、旧約の文脈から離陸しすぎている。むしろ酌みとるべきは、鎖を解くことによって、連帯をはぐくむという点であることは、後に述べるとおりである。
さてこのプレアデス解釈の前梯として、「ほんたうの考とうその考」C(ほんたうのたった一人の神B)が見分けることができるという論点がある。
一、考えられている真理観はいかなるものか、
二、どうして科学と宗教とが一体化するCのかである。
三、そのさい、実験(*サイトの言う検証)Cということがいかに関わるか。
一はおそらく、非相対主義的な真理ということが問題であり、その背後に客観視する視線を彷彿させるとともに、二として近代的な理神論を思い起こさせる。そして三として、実験的経験科学の実証性が関係してくる。
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2020年03月02日

つれづれなるままに

@価値の普遍性とは・・・インデックスを欠いたこと・レファランスのなさ(意識一般)・普遍化可能性・公平性
A価値と評価 ヴェーバーの価値の洞察は浅薄である。価値判断論争は不毛。評価と情動。
Bプリンツの方が偉い? 認知主義の迷路
C価値判断は相対的でない。 可謬的だが、相対性の消尽点を哲学は目指す。死の問題・愛の問題・人生の意味・倫理的問い
D価値判断は評価と区別すべきである。 引用符つきの価値判断
E選好を左右するもの。 独立性。好奇心。非帰結主義。
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2020年02月09日

遡及入力

 書き散らかした部分の改訂を行います。
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再較正・認知主義

 認知は表象を媒介する。そうである以上、たとえ妥当の「かかわり」と言うことがあり、さらに「迎い入れ」のフィルターが効くとしても、結局のところ、内在的表象の操作から、外界の状況をシミュレートして、認知的状況を較正してゆくと言うことになろう。直観的受動-理性的能動の折合わせで営まれるシミュレーションを、認知的感応と把握し直すというイミで、先の情緒的決断主義と非自然主義的認知主義とのバイメタルを、シミュレート感応説と名づけておこう。これに関連して「環境の表象」と「自分の多数の選択肢の表象」とを内在的領域に形成しつつ、シミュレーションを行うところに、ポパー型生物の特徴がある ( 戸田山和久、二〇一四、二六四頁 ) 。それに引きつけて、合理的認知たる当為 ( 妥当の派生態 ) の「迎い入れ」を考えてみたい。加藤泰史の言い方をもじれば ( 加藤泰史、二〇一四、一五二頁 ) 、当為の次元を開示することで規範的次元を切りひらき、――妥当という超感覚的存在 (「かかわり」を呼びかける価値 ) を介して、――第一次的な「相在」からはもとより、第二の自然という「作為」[=Faktum] からも、効力をもたらす規範にしたがうことが、狭義の価値判断 (「道徳判断」・「述定的な価値判断」) ということになる。

 この認知主義的構図が成り立つためには、命題価値が、認識を担う状態と動機づけを担うふたつの状態に働きかけることを要する[1]

 ここでは、いかに価値合理性に見合った再解釈として再較正が成り立つのか、素描しよう。高次認知的情動それぞれに、はたまた認知的信念に、特有の身体的反応が伴いうるか、と問うてみよう。このことに関連して、身体性の反応によっては、認知的構成要素が一義的に精緻化されるわけではない、という論点がある。認知的状況が「再較正」( recalibration )によって、情動・信念の種類が決まってくる、というわけである。較正とは、或る「探知器」に反応する情動について、「或る探知器で測ったらAだったのに別な探知器ではBになる」という外見上の不一致を避けるよう、共通の基盤を探し、それぞれの探知器の追跡を把握することである。例えばネズミは過去の状況によって、餌を得るよう因果的に条件づけられているが、そのために餌の場所まで泳ぐというようには、条件づけられていないとする。後者の認知的条件下では、例えば「餌を得よう」とする情動が、「泳ぎ」を促す情動として修正をこうむる。例えば通常の身体性の「怒り」は、或る種の認知的判断の状況下では、「不貞」に関する判断への反応として生じた「嫉妬」となる。例えば通常の身体性の「快感」は、反省を潜り抜けることによって、「幸福感」として再較正される。このように別の認知的状態のもとでは、別の情動・認知を構成する。判断の例にひきつければ、何度も出した、「金が100gある」という命題価値の認知が、傾向性をつうじて因果的に動機づけられる ( 傾向性経路 ) のに対し、同じ因果的メカニズムとの規約的結びつきによって再較正され、「この金は60万円である」という価値判断の理由となる ( 理由づけ経路 ) 。こうして因果的に獲得された本来の身体性の情動からの逸脱も、さらなる再較正によって――場合の拠っては理由を交え――説明されうる。認知的状態による決定は、再較正を積み重ねて、身体性の評価が帰属する情動・価値判断の種類にまで及ぶ。そうだとすれば、「ドクサ」は、認知をとおして、おのおのの特色をもつことになろう。それによって、過去の経験に拘束されずに、――例えば餌の場所まで泳ごうという具合に、――新奇性に感応した選好をする、というわけである。ここでは詳論しないが、非帰結主義や探索概念といった新しい価値判断形成の要素を考えることができる( F.・ドレツキ、二〇〇五、第六章2 .)。


[1] 詳しい分析は、信原幸弘、二〇一六、三○四-三○五頁に委ねる。認知機能の分化ということは、ヴェーバー的な合理化と並行している。

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